はてなキーワード: 未来は今とは
3月7日、石破総理のもとで提唱された高額療養費負担上限の改正案は取り下げになりました。
この改正は低所得者の負担上限が殆ど上がらない反面、高所得者の負担が大きく増加するため不公平であるとの反対がありました。
また、高所得者といっても年収1000万円程度で月の負担額が25万円ほどになると治療を諦めてしまう恐れが強いとの反発も多くあがりました。
さらに、高額療養費負担上限は70歳以上と未満で別れており、また収入によっても細かく分類され複雑な制度となっています。この分類のなかで負担額を大きく増やされるのは現役世代であり、医療費の大部分を占める高齢者の負担額を増やさなければ医療財政の根本的な改革に繋がらないとの指摘もありました。
ただ一方で、現行制度のままでは行き詰るのは明白である医療制度を現実的に改革していく動きとして肯定する意見もありました。
公平性が一つのテーマでした。近年の急速に進む円安やインフレを危惧する向きから財政規律を重視する人たちは増えています。しかしそのような人たちの間でさえ、この改正には反対する意見が多かったように見受けられました。それにはこの改正が、高齢者ばかりが優遇されているように見える"現役いじめ"として受け止められた側面がありました。
しかし、公平性とは一体何でしょうか?それはおそらく人によって異なります。医療に頼らなければ生存を脅かされる状態にある人にとって負担上限を大きく引き上げられることはほぼ死を意味します。そしてそういう状況の人は明らかに高齢者ほうが多いでしょう。(もちろん高齢者に対する無意味な医療は山程あります。しかしテーマでないためここでは一旦脇に置いて下さい。)彼らからしたって、金が無いから命を諦めろと言われても簡単には受け入れられないのもわかります。
なぜ自分が死ななければならないのか?そんなの不公平だ。そう感じるのはとても自然なことです。
たとえ医療制度の持続性を高めることが結果的により多くの人を救うことがわかっていたとしても、目の前の命を諦めることは簡単ではありません。
また、完全に公平な制度を作ることは現実的に不可能です。民主主義は数の力で決まります。高齢者が多数を占める日本で高齢者に優遇された制度になってしまうことをある程度受け入れなければ、実現しない目標をただ追い求める空虚な理想家になってしまうでしょう。そういう人、多いですよね。
今回の改正が取り下げられたことが良かったのかどうかは判断の分かれるところです。
ところで今回の高額療養費負担上限の改正は、半世紀近く続く医療財政の立て直しの一環でした。
1973年、田中角榮内閣は70歳以上の高齢者の医療費を無料にしました。1960年岩手県沢内村で老人医療費無料化が日本で初めて実施され、その後1969年には東京都でも無料化されるなど全国的な老人医療費無償化の流れを受けてのものでした。
しかし1973年から1978年の5年間で医療の受診率は1.8倍、医療費は約4倍に跳ね上がり、過剰受診が問題になりました。財政負担は深刻化し、見直しの機運が高まりました。
1982年自民党の鈴木善幸内閣において老人保健法が制定され83年から高齢者の自己負担が再開しました。それは外来で月400円、入院は月300円という少額のものでしたが、その後84年には健保加入者は1割負担となりました。
そこから長く停滞して、17年後の2001年小泉内閣では原則1割負担に、2008年麻生内閣では後期高齢者医療制度が始まり75歳以上は独立した医療制度になり現役並みの所得がある人は3割負担となりました。
更に14年ほどして2022年岸田内閣で、200万円程度の収入のある人は2割負担へと変化していきました。
これらの改革が全て自民党政権時に行われていることは興味深く感じますね。
このように、医療財政の逼迫に対して蝸牛の歩みで対応してきた歴史があります。なぜこれほどまでの長期間が必要だったのでしょう。
いきなりですが、TVアニメ機動戦士ガンダムの有名なオープニングをご存知でしょうか?
ガンタムではまず、「人類は増えすぎた人口を宇宙へ移民するようになった」というナレーションから始まります。
機動戦士ガンダムが放送された1979年から1980年、人々の関心の中には少子高齢化など微塵もありませんでした。代わりにあったのが人口爆発。人が増えすぎて食料不足になると危惧されていたのです。
しかし、1970年代には既に合計特殊出生率は低下してきており、1974年には人口の維持に必要な2.0を切っていました。
この統計データは当時から普通に公開されていましたが、将来の少子高齢化を予測していたのはごく少数でした。我が国の厚生省、人口問題研究所は優秀なことに1974年には人口長期予測のなかで21世紀初頭の少子高齢化を予言していましたが、その言葉が一般化するのは1990年代を待たなければなりませんでした。
統計データが少子高齢化を正しく予測しても、その事実が広まるまで15年以上かかったことを考えると、高齢者偏重の医療制度の改革が40年以上かかっていることもおかしな話ではないように見えます。
ところで1974年は今現在2025年の51年前です。現首相石破総理は68歳。当時は17歳でした。ちなみにアメリカのドナルド・トランプ大統領は78歳で石破総理の10歳年上です。
トランプ大統領は貿易赤字解消を掲げ、関税や多国間協定を行おうとしていますが、これは当時経済大国として台頭してきた日本を押さえつけた80年代のプラザ合意の感覚です。
高齢の政治家のなかには自身が活躍していた時代の感覚がいつまでも抜けず、時代錯誤を起こしている場合がありますが、トランプ大統領はその好例(高齢だけに)のように思えます。
それは政治家だけでなく有権者も同じでしょう。現在の高齢者のなかに少子高齢化を知らない人間は居ないと思いますが、感覚として重大なものと感じている割合は若者に比べて少ないはずです。それを変えていくことはなかなかに難しいだろうなぁとトランプ大統領の頑なな態度を見ても思います。
私は政治家の若返りは医療制度の持続性を高める上で、解決策になるとまでは言わないまでもベターなことだと思っています。
高齢者偏重の医療制度がなかなか改革できない原因はその数の力にあり、シルバー民主主義と呼ばれています。
これを少しでも正そうとするならば若者の投票率を上げるか、高齢者の投票率を下げるかの2つしかありません。
若い政治家の言葉のほうが若い有権者に届きやすいのは自明です。同じ時代に似たような感覚で生きてきた人のほうが、自分たちの境遇をより理解していると期待できるからです。
逆に高齢者は若い政治家の言葉などに耳を傾けることは少ないかもしれません。若い政治家が活躍するようになると高齢者の投票率は下がるのではないかと思います。
若い政治家が増えたほうがシルバー民主主義が緩和する可能性が高いと言えるのではないでしょうか。
最近の国民民主党やれいわ新選組支持率の伸長をみると、SNSの活用で多くの高齢政治家よりも若い(玉木雄一郎は55歳、山本太郎は50歳)政治家の躍進が目立ちます。彼らの政策には現実味のかける部分が多く混乱(財務省解体デモなど)の原因あるいは遠因となっている面がありますが、投票率の低い若年層を投票に促している点では有意義と言えるでしょう。
前述の通り、高齢者の医療負担増加を実行してきたのは自民党です(老人医療費を無償化したのも自民党ですが)。
それが支持率低下を招くことは百も承知でしょうが、それでもなんとか通してきました。
もしも今よりも若者の投票率が高ければ、ここまでの改革に40年もかかっていなかったかもしれません。
先の衆院選から自民党の凋落が止まりませんが、自民党が存在感を完全に失うほど弱体化する未来は今のところ見通せません。であるならば自民党自体に変わってもらうことは日本のシルバー民主主義を食い止めるために有効であると言えるでしょう。
SNSの普及にあわせて公職選挙法を改正していくこと。そして政治家がSNSを上手く使いこなすようになること。これが出来れば若手の政治家が増えていくのではないかと思っています。
SNSの扇動に踊らされて財務省解体デモに繰り出す人たちを境界知能と呼ぶのはその通りなのかもしれないけれど、そもそも知能は正規分布するものであり、知能の高い集団もいれば低い集団もいるものです。
先程年齢の近い政治家の言葉のほうが届きやすいと言いましたが、おそらく知能においても同じでしょう。
高い知能集団に属する一部の人の考えを、低い知能の集団に伝播するために必要なのは、大多数を占める知能が高くも低くもない普通の人たち(自分もここに属すると思っています)かもしれません。
とかく相手を罵倒しがちなSNSで分断を融和に変えることはひょっとしたら不可能なのかもしれませんが、だからといってこのまま分断していくに任せるというのも違うと思います。
罵倒や嘲笑を自制する道徳のようなものも必要なのでしょう(自戒)。
地球全体で見たら、合理的で多角的な視点を含んだ考えを上から下まで国中に速やかに伝達していく競争が始まっているのかもしれません。
この点では恐らくどの国も横並びでしょうから、"日本人は礼儀正しい"と自認している我々がその本来の国民性を発揮していくことを期待します。
と演説したギレンは惨敗しました。この過激なセリフは多くの視聴者の記憶に残り、今でも時たまネットスラングで利用されるほどです。一方彼の父親はギレンほどの名言を残しませんでしたが、あのとき連邦と和平できていればララァも死なずに済んだわけです。
ギレン型の言説で目立つことばかりが持て囃されるSNSに対し、疲れている人も多いはずです。
穏健でつまらない話を欠伸しながら語り合うほうが、実は平和で良いのです。
多くの普通の人たち、とくにSNSで沢山フォロワーを抱えたりしていない人たちはぜひそのままでいるべきです。なんだか世の中には他人のフォロワーが少ないことを馬鹿にするひともいますが、私はそのままで良いと思います。
ただ、もしSNS上で愚かな言動をしている人をみかけても罵倒や嘲笑をせず、どうしても目障りならミュートやブロックをして関わらないようにするだけでもいいと思います。
仮に鋭い罵倒や皮肉で多少耳目を集めることが出来たとしても、砂浜に描いた落書きのようにすぐネットの海のなかに消えていくだけです。
相互理解や変化に繋がっていくことは無いでしょう。
と、つまらない話しかできずネット上で目立つこともないことへの自己弁護をしてこの長々とした話の結びと致します。
もし読んでくれる人がいたとしたら、ありがとうございました。
心が弱くて占いをみてしまうyoiIT 心が弱いのではなく、頭が弱いのです。過去を悔やみ、未来を悲観する人は今を生きていない。過去は変えられない、未来は今の積み重ねで作られる。だから過去や未来について考えている暇があったら今を生きるのです。2025/01/25 08:00
容姿、地位、才能などに恵まれ、子孫を残す幸福な人たちをそれらに欠ける独身者が支えるグロテスクな政策が子育て支援。
子育ては大変かもしれないが、幸福度の観点で言うと、低い人から搾取して高い人へ配分する逆進性が非常に強い。
「将来、今の子供が自分たちを支えてくれる」と言うが、人口比的にもはや不可能に近い。
年金は支給開始が70歳とか80歳になるだろうし、介護制度も崩壊するだろう。火葬くらいはしてくれるだろうか。
人手不足も、無くても問題無い中小企業と奴隷労働が殆どで、近い将来に淘汰されるのが早まってるだけ。
「未来の日本のために!」と言うほど愛国者でも無いし、未来は今の子供たちの物だから受益者負担で子供(の親)が背負うべきだろう。
SNSももちろん。TwitterもFacebookもアカウント持ったことがない。
むかーしmixiは仕事のつながりで仕方なく始めたがすぐ触らなくなった。
俺は50前だしジジイと言われてもそうだなと思うけど、
お前みたいな勝手に相手を決めつけて恬然としてる奴なんて昔からどこにでもいたのに、
そんなクソはまるで世界に存在しないかのように頭お花畑の奴らが
「WEB2.0! 未来は今! 人間が、社会が変わる!」とか騒いでたんだよ。
俺以外にもそういうのを見て「アホだなこいつら」と思ったやつは相当数いたはずだ。
私は女だ。
その女である私に親戚の女は言った。
「結婚はいいものだよ、ひとりじゃないし。私も子供が嫌いだったけど産んだら可愛い。夫のお金も自由に使える。」
またその夫である男は言った。
「結婚しないでどうすんの、孤独死するの?老後ひとりで死ぬの?孫の顔を見せるのは親孝行だよ」
彼らには勿論守るべき家庭がある。子供がいる。
彼らの意見は私の人生を決定する上での一意見として聞いたものだ。これらの意見を踏まえ、また社会を観察するにおいてもやはり、私は結婚も出産もしたくないと思う。そして彼らの意見はあまりの価値観の違いに衝撃を受けるものだった。何故、何処が違うのかを記す。
ひとりじゃない。それにメリットはあるのだろうか?何時でも人がいる空間は、とてもつらい。気を遣う。一人で集中したいものと向き合うことが出来ない。別に私は人が嫌いなわけではないし、友人のことは大好きだ。だが、大好きだからっていつでも一緒にいたいか?と言えばそれは違う。互いの都合の良い気が向いたときベストなコンディションで楽しみたい。
②子供が嫌い
私は子供は好きだ。親戚の子供でも可愛いし、道行く子供たちも可愛らしいなと感じる。だが、自分の子供はどうだろうかと考えるととてもおぞましくなる。何故かはわかっている。私が、私自身と私の父と母のことを気持ち悪いと思っているからだ。仔細は省くが、両親は離婚している。父は浮気をした。母は私を殴り蹴り飛ばした。予定調和だ。崩壊する家庭なんてものもなかった。母は私のことを「私(母)の遺伝子を分けた人間」と言った。その通りだ。私は汚い父と汚い母の遺伝子のふたつたけで形成されている汚い人間だ。時たま人間でいられているのか不安になる。
こんな屈折した人間から産まれてくる子供は、かわいそうだ。きっとうまく愛せないのだ。そして幸せにしてやれないのだ。そう思う。何故両親は私を生み出す前に幸せにしてやれるのか考えられなかったのだろう。そして世の中にはそんな人々が多すぎる。子供は親の為に産まれてくるのではない。子供は子供の人生を生きる為に産まれてくるのだ。そう思いたい。彼らは幸せになる権利をもって産まれてくるのに。
生命の安全。虐待で亡くなる子供たちは、後を絶えない。私は子供を産んだことがないから、子供がいる孤独に苛まれる親達の気持ちは一生わからない。殴られた子供の視点でしかものを言えない。でも、本当に。命を産む前に、命を産むということを考えてほしいのだ。一人が誕生するということを考えてほしい。無理だと思ったら早々に投げ捨ててもいいと思う。だって、産まれるということは苦しい。楽しいこともあるけど、それでも悲しい。そして私は多分一生このままだ。親の影は消えない。こんな風になってしまう。子供はいつか大人になる。傷ついてひしゃげた大人になった子供にも責任がとれるのか考えてほしい。
教育。それはこの国で最も身近な未来への投資だろう。学さえあれば多くのことが出来る。しかしその学は金で買うものだ。そしてその多くが国民自身が賄わなくてはいけない。日本は教育に関する国の関心が低い。学費はいつまで経っても高いままで、勉強がしたくても親にお金が無ければ出来ない。いくら賢くても。だから親達は金を稼ぐ。子供の為に。私にはそれが呪いにしか感じられない。自分に使いたいお金を使えず、学費が馬鹿みたいに高い癖に学歴社会のこの国でそこそこの人生を歩むには学費を馬鹿みたいに払わなくちゃならない。少子化だのなんだのと騒いでいるが、結局子供を産むメリットを国が提示できていないのが原因ではないのか。教育はこの国の未来だ。だってこの国の未来は今産まれる生命が生きていくものなのだから。高齢化社会だなんだと高々5年10年先の問題ばかり見て、肝心の50年先100年先の国のことが見えてないのではないか。100年もすれば私だって死んでいる。でも、その頃に生きている子供たちがこんなくだらない、勉強を金で買わせられるなんて本当に馬鹿馬鹿しいことに苦しめられないでいてくれればいいと思う。
これに関しては気持ち悪いとしか言い様がなかった。私だったら自分の金を人に管理されるなんて真っ平御免だ。
④孤独死、老後
孤独死上等だよ。何なら身辺整理済ませて迷惑のかからないところで死んでやるわ。老後の世話だと全部それ家族にやらせる気なのか?どれだけ大変なことか…甘ったれているのか…。そもそもそれは子供を老後の労働力としてしか見なしていないから出てきた発言なのだろうか?私には理解できない。
まあともかくとしてだ。私の理想とする自分の老後の生活としては、トモダチコレクションがある。島の真ん中に、大きなマンションがあって、そこに友人や親しい人それぞれが一人で住んでいる。あれが一番いいなと思う。友人に会えるし、一人の時間はあるし。理想は老人ホームに世話になる前にさっぱりと死ぬことだが。安楽死を導入してほしいな。
⑤親孝行
私がまともな人間でまともに親に感謝していたら理解できたのかなあとも思うが全くわからない。申し訳ない。そもそも親孝行の為に産まれてくる子供が可愛そうだ。本当に子供のことを想って子供を産むことができた人たちはどれほどいるのだろう?数十年前は結婚しない女は気違い扱いされていたが。もちろん出産も含め。
長々と連ねた。彼らの意見を聞いたのは高々数秒だったが、それだけのことにこれだけ論ずることができるのは中々におかしなことだな、と思う。結局、結婚も出産もしたくはない。自分の為に生きて、家族の為だけに限定された生き方ではなく、もっと多くの誰かの為に生きたいのだと考えた。
もう誰からも相手にされてないような気がするけど続けるよ!
自分がダイエットに挫けそうになった時、勇気づけてくれた言葉を書いていくよ!
どちらも幸福感を伴うから、頭がそれを再び欲しがろうとするよ。
逆を返せば、この中毒症状から抜け出すことができればダイエットは簡単ってことだよ。
ただ幸福感を我慢することは辛いよ!
だったら、ダイエットに効果的な幸福感の中毒症状になるのがいいよ!
満腹にならなかったときの幸福感は、主に食後の胃の軽さ。眠りの深さ、翌朝の目覚めの良さ。当然食べてしまったことの罪悪感のなさ、達成感もあるよ!
食べたものを消化するエネルギーを、人は食べて補おうとするよ。
つまり食べ過ぎは次の食べ過ぎの原因になるってことだよ。
1度の食べ過ぎによる影響は、1度ではすまないってことなんだ。
こわいね!食べ過ぎ!
ダイエットをする上での朝ごはんは、その日の活力につながる1番大切な食事だよ。
つまり1番しっかり食べていい食事ってことだよ!
それはきっと今までに味わったことのないドキドキだよ!
食べて感じられる幸せを失うことが恐いというのは、単なるまやかしでしかないよ。
それよりも、なりたい自分になれたときのほうが沢山の幸せがあるのはわかりきったことだよね!
人間は変化を恐れるように作られているだけなんだ。
逆を返せば、変わってしまえば今度はそこからの変化を恐れるってことでもあるのだから、もう変わるしかないね!
意識が低いから、低いなりにできることを探してきただけなんだ。
全く辛くないといえば嘘だけど、すごく頑張って辛いことを乗り越えた記憶もないよ!
ひとつ上と同じことだね。僕も沢山休んだよ。
でも達成するまで続けたよ。
それを続けられたのは、辛いことをしなかったからだよ。
頑張りはゴールしたらやめちゃうけど、変化にはゴールがないんだ。
つまりそういうことだよ!
痩せる薬もドリンクもないってこの前は書いたけど、本当はあるかも知れないね。
でも、それを使って痩せても、環境や習慣が変わってなければまた元に戻ってしまうってことなんだ。
そこからまた痩せるには、結局その裏ワザに頼り続けなくてはいけないよね。
裏ワザはあるかもしれない。でもそれで得たものには意味が無いかもしれないね!
ゴールってなんだろう。何のために痩せたいんだろう。
目的を満たしたらまた太ってもいいのかな。
痩せること、もしくは痩せることで得たいものがゴールだと、そこで終わってしまってまたもとに戻ってしまうかもしれないね。
しいて言えば、変わることこそがゴールだよね!
ただ、一つ言えることは、環境が悪いとわかっているのに環境を変えようとしないことは悪だ。
そこに気づくことができたのだから、あとは立ち上がるだけだよね!
人に何を言われても関係ないんだ。
自分しか自分を変えることはできないし、自分の頑張りを1番知っているのも自分だよね!
だから人のことなんて気にしないで、自分が頑張ったら自分がほめてあげればいいんだ。
それこそが長続きする秘訣だよね!
僕がいつも思うのは、人はいつもベストを尽くしているってことなんだ。
さぼったりうまくやる気を発揮できなかったりするときもあるよね。
何がいいたいのかというと、みんないつも最大限がんばっているということ。
それともう一つ、もうそれ以上頑張ることはできないということ。
それならそれ以上の結果を得るにはどうしたらいいと思う?
簡単だね!やり方を変えればいいだけだね!
今を悔やんでも何も変わらないよ。
自分より幸せな人間と比べたって、自分が不幸になるだけだよね。
それから成功した後に得られる幸せをしっかりとイメージするんだ。
なぜなら、人は与えられたものでは幸せになることがとてもむずかしいからなんだ。
きっと、今これを読んでダイエットしたいと思っている人は、自分の意思で太ってしまったわけではないと思うんだ。
なぜなら自分の意思で太ったのであれば、太ることが幸福でありダイエットしたいなんて思わないはずだからね。
ブサメンのゴールは、『性欲の衰える40歳までに性犯罪を起こさず、素人童貞を貫く』ことだと思う。
よく、中年の居ない歴が馬鹿にされているが、俺にとってはアレは「勝ち」だ。
コスプレイヤーのカメコの50代、60代のおっさんがいるが、あの人達は、「到達した」人だと思う。
そこに使ったお金が、18~40歳までで、150万(月1万くらい)までなら、大勝だと思う。
これがいかに適切で、難易度も適切に高いゴール設定かと考える。
たとえば、いま40歳の中年童貞は、20年前の1990年代に、何を得られたか。
当然、ブサメン設定だぞ。
彼女はいなかっただろう。AVもイマイチ。パソコンもまだまだ微妙で、セイゼイにちゃんねるで暴れるくらいか。
が、2000年代から、そいつらは急に楽になる。AVも質が上がった、エロゲーもいい感じ、同人誌もクオリティーがあがる、オナホールはマンコを超えた。
ドンドン、楽になり、ゲームなんかにかけるお金も減り、ネットのおかげで暇つぶしも楽勝になった。
つまり、耐えれば耐えるほど、エロに関してはブサメン有利になっていく。
今目の前の恋愛だの、彼女だの、愛人契約だのに飛びつくのはやめよう。それらは、もっと上位互換になって次の時代に安価に手に入るかもしれないし、そもそもブサメンには背伸びしすぎなわけだ。
今でも童貞サポートは結構あるが、マダマダ風俗に行ったりということもあるだろう。
風俗は高い。ソープなら15kくらいか。高いと30kとかだ。ヘルスなら10k、ピンサロなら5kか。とてもじゃないが、18~40までの12年を150万では抑えられないだろう。
これらの誘惑を拒否しきるのはマダマダ難しい。
エロゲーやxvideosの使い方も工夫しなければ完全に性欲を自己完結させるのは難しいだろう。
まずもって、ツイッターやブログ、匿名系のsnsは必須だと思う。人寂しさを晴らす場所が絶対的にブサメンには必要。じゃないと頭おかしくなる。
次に、オナホール、エロゲー、同人、エロ漫画、xvideosは必須。これらをうまくまわす技術で、「普段のオナニー」のレベルが決まる、普段のオナニーが充実しなければ風俗に金が流れてしまう。
これらを見につけたその上での話しだが。
最初は、風俗で月2万くらいならいいと思う。オナホールとローションで5k、エロゲーで10kくらいは仕方ないと思う。学生ならバイトしよう。
あるいはガールズバーなどに行ってアンマリ解消できないとか、JKカフェみたいな危ない場所に行ったり、あるいは出会いカフェなんかで3万とか痛い目をみたりするだろう。
これらは、金持ちのオッサンや頭の足りないサラリーマンが行く場所であって、ましてやブサメンが行く場所ではないw素直に、ピンサロやソープに行け。
こういう失敗を繰り返して、エロゲーやオナホール、xvideosを安定させていくってのが、20代の課題だと思う。
まだおれ自身が20代なので言い切れないが、知り合いのアラフォーのモテ無いおっさん友達(競艇や麻雀、将棋で知り合いになったやつら)を見ると、ど~も30代で散財しだす。
使えるだけ金を使ってしまうパターンが多い。それも、クッソくだらないんだけど、出会い系とか、ガールズバーとかだよ。そんなやれもしないものに、なけなしの金使うってビックリするんだけど。
東大卒とか、慶応卒とか、高学歴のおっさんでもそんな感じ。貧すれば鈍するってやつか?
俺は、このパターンが怖い。無理に性欲ってか、性愛っていうのかな、人とのつながりを拒否するってのは、多分人間的におかしい。
おかしいものを成立させようとすると、このパターンが相当来るんだろう。
あるいは、エロゲーに飽きるとか、あるいは、オナホールでいけないとかか??
だからこそ、アラフォーの素人童貞がうらやましいと思うんだよ。
30代の戦略はできないが、ミスしないように、「こうなるぞ」っていうパターンを知っておくのが大切だと思う。
未来は、今よりよくなる。
ラブドール、3Dメガネ、あるいは激安の移民風俗、3Dプリンター、整形技術の進歩と安価化(美人の価値が落ちる)、性欲を抑える薬。
こいつらに俺は期待してる。
現在は、オナホールは毎月毎月新しい商品、アイディアがでてすばらしい。
40歳まで性欲を自己完結させるメソッドの研究グループ、作れないかな。
そういうSNS作ったら、人集まるかなあ。
5回観ているうちに考えがまとまってきたので、自分なりにこの映画が描いたことや「M@STERPIECE」とは何だったのかってのをまとめてみたいと思います。
あ、でもネタバレ全開なので観ていない人は今すぐ閉じて下さい。
まず、この映画は「M@STERPIECE」で全てが収束されるように作られています。
春香さんの葛藤も、可奈の後悔も志保との衝突も、あらゆる「今」が最後には「M@STERPIECE」という曲へ繋がるようになっています。
ところで「M@STERPIECE」とはどんな意味でしょうか。
MASTERとPIECEに分けて直訳すると「主な部品」とかになってしまうのですが、
「M@STERPIECE」の場合は「必要不可欠な部品」といった感じの意味で使われているように思います。
では「何が」必要不可欠なんでしょうか。
何が「M@STERPIECE」なんでしょうか。
その最初のヒントというか伏線は「輝きの向こう側へ」というタイトルから始まっています。
プロデューサーがハリウッドへ行くことを皆に明かした後、春香さんとプロデューサーの2人の会話で、プロデューサーが春香へ言います。
「未来は今の延長だ。
だからこそ、今を大切に。悔いの無いように」
このプロデューサーの言葉は春香さんの心へ深く刺さったらしく、
この言葉が初めてリーダーを務めることになった春香さんの大きな心の支えとなります。
まずプロデューサーがハイウッドへ行くことになり、みんなが落ち込んでいる中、プロデューサーの言葉を思い出して春香さんはみんなを立ち直します
「プロデューサーさんが安心してハリウッドへ行けるように、絶対ライブを成功させよう!」
しかし、春香さんの思いとは裏腹に本当にライブが成功できるのかどうか暗雲が立ち込めます。
合宿後のミニライブでバックダンサーを務める7人がミスを連発。週刊誌にまで叩かれてしまう。
それが原因でバックダンサーは志保と可奈を中心にギスギスしてしまい、可奈に至ってはそれを堺にレッスンへ来なくなってしまいます。
リーダーの春香さんは可奈が戻ってくる可能性を信じて待ち続けますが、現実問題として時間はどんどん無くなっていきます。
「待つっていつまで待てばいいんですか!?」
「結論なんてほぼ出てるじゃないですか!」
志保からすればリーダーとしてあまりにも仕事をしない春香さんに怒りをぶつけます。
確かに春香さん、ここまであまりリーダーらしいことをしていません。
待つだけではなく、今度は可奈へ電話でコンタクトを取ろうとメールを送ります(メール自体は既に何度か送っているみたいだけど「電話下さい」ってのはたぶん初めて)。
そして可奈から電話がかかってきます。春香さんは一生懸命可奈を説得します。
この説得シーンは春香さんの懸命振りはもちろん、映画的にも尺をたっぷり取っているということもあり「これでダメならもうダメだろう」ってくらい説得します。
でも失敗します。
おそらく、このシーンが一番「雨音」が大きかったように思います。
説得に失敗して春香さんが相当落ち込んでいるだろうということは想像に難しくないですが、
雨音が大きくなりながら春香さんはプロデューサーの言葉を思い出します。
「今を、大切に…」
このシーンではセリフはそこで終わっていますが「悔いのないように」と続いていたことでしょう。
次の日、春香さんは可奈と直接会って話すことを決意します。それをみんなに話し協力を仰ぎます。
今を大切に、悔いのないようにするためには可奈の気持ちを絶対に確かめないといけない、そう決意したんでしょう。
その結果、可奈を見付けることに成功し、可奈の気持ちを確かめるためにみんなで準備中のアリーナへ向かいます。
「一番後ろの人も、ちゃーんと見えてるからねー」
ところが、春香さんは可奈の気持ちを確かめるよりも前に、準備中のガラガラのアリーナのステージ上でそう言い、
どんなステージでも一番後ろのお客さんまで意識しているということ。
でも本当は不安や恐怖を抱えてステージに立っているということ。
そんな自分を支えているのはみんなのお陰だということ。
みんなが居なければこの場所には立つことは出来なかっただろうということ。
「みんな」の名前を1人ずつ言い、そして可奈もその1人だということ。
誰か一人でも欠けていたらそれは叶わなかっただろうということ。
「私は『今』って、これまでの全部で出来ていると思うんだ」
これまでの出会いがあったからこそ今、春香さんはこの場所に立つことができているんです。
つまり、春香さんにとって必要不可欠なもの、それは『出会い』であるというわけです。
『出会い』こそが春香さんにとってのM@STERPIECEだったわけです。
そんな春香さんの覚悟に圧倒され可奈も本当の気持ちを曝け出し一件落着。志保も春香さんの覚悟に圧倒されてしまいます。
その後の土手のシーンでは、土手から見える景色をライブに例え、「向こう側には何が見えるだろうね…」とこれまた未来を暗示するようなシーンが挟まれます。
いよいよライブかーってね。
この「M@STERPIECE」、5分33秒と少々長めなのですがそれをフルサイズで動画にしているというだけあって気合十分の出来栄えでそれだけ泣けてくるのですが、
作詞を担当したyuraさんも映画の内容を汲みとった上で作詞されたというので、流石の一言です。
ずっと一日ずつ繋げよう
夢は自分を叶えるために
生まれた証だから
きっとこの心で
私のM@STERPIECE
明日は追いかけるモノじゃなく
今へと変えていくモノ
それが自分になる
私がM@STERPIECE
春香さんの場合は「出会い」がM@STERPIECEだったわけですが、「考え方は人それぞれでいいと思う」という春香さんの言葉の通り、
みんなそれぞれに「M@STERPIECE」があるんじゃないでしょうか。
それぞれの「M@STERPIECE」が今を作り、今が未来となっていく。
少し前に悲しいことがあって、まあ他の人には「たかがそれぐらいで」と思われることなんだけど、当の本人としては自殺を考えるぐらい辛かった。
とはいえまあこうして(増田だけど)適当に文章書いている時点でそれはなくて、ってのも生命の危機に立たされたからなのかはわからないけど色々自己啓発的な情報に触れてみた。大体は共通した事柄だったなあと思う。多分その道の認識しとしては途中段階で中途半端かもしれないけど思ったことをなんとなく留めておく。まとまってはいないチラ裏程度なので悪しからず。
1つ目はまあ分かる人はわかると思うけど引き寄せの法則的な本を読んで、理にかなっている?と思った。実体験から言えば確かに悪いことを想像しているとその通りとなってしまったってのがそう。最初の文の「悲しいこと」ってのはまさにそれなんだけど、きっかけがあってこの事を知れて良くも悪くも良かったと思う。
2つ目はまあ引き寄せの法則と付随してってのもあるけど、潜在意識がどうたらこうたら。これは潜在意識ってのを知る前からなんとなく感じてたけど、最初に思ったことが大体うまく行く感じはあるし、ちょっと迷ったとしても結局最初に考えた結論・行動になってるなーと思った。ドラクエの作戦はマジでこれ。ないけど。
3つ目は、そんなこんなでいろいろと端折るけど、まあいま話題の「じゃあいつやるか、今でしょ!?」ってやつ。CMで流れる前に本とか読んで感じたけどそうだなーと思った。ネタっぽいけど本人としてはもちろん本気だと思うし、今思った行動ってのは未来で思った時の行動ってことなんだなあと。何を言ってるかわからねーと思うが、個人的には自分はジョジョが好きなんだけど「明日って今さ!」と「ブッ殺すと思ったのなら!その時「スデ」に行動は終わっているんだッ!」ってのがまさにそのとおりだと思う。わかりにくい。すみません。
4つ目は完全に持論だけど、これぐらいでいいや、って思ったポイントより過ぎた位置のほうがうまくいくなーと思うことが多い。状況(程度)にもよるけど、例を挙げると人に何かを伝える場合、そこまで必要かな・・・って思うぐらいじゃないと案外伝わらない。とはいえこれは結構難しいし、多分自分もなかなかできてないと思う。
ちょうど3年前、私が23歳だった時、その考え方から脱した。22歳の時、まさにそんな風に閉塞感を感じていた。
自分が女であることをひどく不利に感じ、男はずるいとしゃにむになって無理をして体を壊して、でも意地を張ってそのくせ恋人に結婚をにおわされれば結婚のことを考えていた。そして自由じゃない、何もできない、手足がもがれたようだとわめいていた。そういう時期も必要なんだと思う。
でも、遠い未来のことを考えていても選択肢が多い分女の人生というのは不確定だ。見れば見るほどわからなくなる。考えれば考えるほど定まらなくなる。そしてそれは本当に考える価値のあることなのだろうか?私はそう思った。考えていて、それで何か変わるだろうか、と。とにかく今できることもせずに遠い未来のことを考えて、あれもできないこれもできない、といって何も積み上げていない自分は何なのだろうかと自分を見つめなおして恥ずかしくなった。私には何もなかった。何かできると胸を張って言えることが何一つとしてあげられなかった。遠い未来は今、自分がやらなくてはならないことをやらないいいわけだったと自分で認めるしかなかった。認めることができた。
実際のところ、見るのは三年先でいい。あなたは経営者ではないのだから、自分の人生を考える上では三年先を見ていればいい。今日のことだけ考えているのではやっぱり頼りないけれど、5年、10年先を考えるのは経営者の仕事だ。私たちはそうではない。いずれそうなるにしてもまだ20代なのだから、今はきっちりと足元を固め、3年先の目に見える範囲で希望を持って考えられる範囲で、将来を考えていればいい。私は三年前にそう思って、そして閉塞感を見ないようにしてやるべきことをやってきた。そして今、ようやくたどり着いた場所であの閉塞感はなんだったんだろうという気持ちになっている。
子どもを産んでも、一年休暇を取っても、元の職場に戻ってきて同じように仕事をしている人はいる。家事はちょっと苦手とか言いながら、でも理解のある旦那さんと家庭を営んでいる人がいる。以前と同じかそれ以上の業績をあげるひとがいる。周りの人も育児に関して非協力的ではなく、子供が風邪をひいたと聞いたら心配してくれるひとがいて、早く帰れと言う上司がいる。子供が生まれたと聞いたらどんなに忙しくても仕事を調整して早く帰らせたりする。それが男女かかわりなく行われている。そういう職場に出会うことができた。私がやったのはただ、自分のできることをやって専門知識を一つ一つ確実なものにしていっただけなのに、そういう世界があった。私は三年先のことしか考えてなかったのに、いつの間にかそういう世界を選んでいた。
電車は混んでいるかもしれない。ホームからなかなか電車には乗れないかもしれない。一度降りたら最後尾かもしれない。でも、ただ黙って並んでいることだけが人生ではない。並んでいなくてもそこにいる人たちに弁当を配れば先にのせてくれる人がいるかもしれない。ただ黙って看板を張り替えていれば、次の駅でもやってくれと言われて電車に乗せてもらえるかもしれない(その代り次の駅で降ろされるけれども、でもやることはある)。死にそうな顔をしてうずくまっていれば代わりにのせてくれる人もいるかもしれない。いや、そもそも満員電車の中で、みんな同じ顔をして思いつめて吊革につかまっているだろうか。立っている人の中には誰かからのメールに微笑んでいる人もいるかもしれないし、途中駅で降りるためにそわそわしている人もいるかもしれないし、本を読んで涙ぐんでいる人もいるかもしれない。誰もが終着駅まで行きたがっているわけではない。誰もが終着駅のことを考えているわけではない。
あなたがすべきことは、今自分がやるべきことはないかを考えて、できる限りの最善を尽くして、そうやって一生懸命生きていくことだ。それが三年後につながる。さらにその三年後はまた道に迷っているかもしれない。寒いホームに佇んでいるかもしれない。あるいは特急列車に乗り換えて悠々ともっと先まで行っているかもしれない。それは誰にもわからない。でも、そんなに怖いことではない。
三年前の自分を見ているようでつい書いてしまった。余計なおせっかいだったらバカもいるもんだと笑ってください。あなたが毎日が楽しいと言えるように祈っています。