はてなキーワード: 明治政府とは
最初から致命的なところを出してしまったが、オタクは全般歴史に疎い
ググれば正しそうな情報に当たりやすい科学的な知識などと違って、人文学系の知識はググるとトンでもの宝庫である
匿名掲示板のオタクは本を読んでシコシコ調べるなんて能力はなく、ググって胡散臭くなさそうなサイトであれば真実だと思い込む連中ばかりである
弥助騒動で弥助の部分だけを否定しようと思っても、周辺知識が間違いまくっているオタクしかおらず、説得力がない
歴史系の書籍の本棚を見ると露骨だが、アマチュアや素人は右翼っぽい本を書いていてプロであるほど中立から左翼的な視点で本を書いている
王政復古のために神仏分離を行なって数多の文献を寺から燃やした明治政府を好意的に解釈している歴史学者などほぼほぼいないが、アマチュアの歴史本書きは明治維新の周辺人物のことをみんな大好きである
弥助騒動は左派をまったく巻き込めていないので、真っ当なアカデミックのムーブメントとして偽史を非難するという流れになれないのである
オタクたちは英語ができないのでchatGPTで翻訳させたバカみたいな英語でリプや宣伝活動をしているが、バカがAIに作らせた英文だと一目瞭然である
日本人もAIっぽい文章が分かるように、ネイティブが見たらネイティブっぽい文章かそうでないかはなんとなく分かる
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うまく、説明できないのだけど、東大がトップであって欲しいと思う自分がいる。
東大に入れるような優秀なアタマではなかったし、学業以外でも東大とはゆかりはない。
それでも、なぜか愛着や憧れに近い感情があり、受験偏差値でも研究でも、あらゆるヒエラルキーで東大がヒエラルキーのトップであって欲しいと思う自分がいる。
心のどこかで、教育は国家が行うべきで、国家を代表する国立大学が看板を背負うべきと思ってる気がする。
東大が優秀な若者を集め、研究をリードし、卒業生は官庁や国営企業に就職して国家のために尽くす、みたいなのを無意識に理想にしてしまってる。
しかし、俺は東大生でも卒業生でも教員でもないけど、彼らの国家への帰属意識だってそれほどでもないように思う。学術会議がいうように、学術界は国家のためではなく、独立して人類のために存在してるわけだし。
口ではそう言っても、ちゃんと卒業後は官僚やJTCが人気、っていうわけでもなく、就職は外資系コンサルや商社が人気らしい。
それでも、やっぱり、日本のトップは国立大学に背負ってもらいたいと思うのだけど、例えばアメリカを見ると、トップは私立大学ばかりで、だからといって、学術界においてアメリカの存在感がないかと言ったらそんなことはないし、東大の座を早稲田慶應が奪っても誰も困らないような気はする。
つまり、心情としては東大は狭き門で無償、代わりに卒業生は国に尽くして欲しいと思ってる。
潤沢に血税を突っ込んであげたい。
一方で、理屈で考えると、学問は国家が介入しないのが理想で、東大、というか全ての国立大学、国の助成金も不要。
また、自らの幸福追求のために外資や商社に勤める就職予備校に国費を投入する理由もない。
米国の名門私大みたいに寄付とバカ高い授業料で運営すればいいし、高い授業料でももとがとれるって思う人がくればいい。
国は、福祉としての教育に注力するべきで、ボーダーフリー(いわゆるFラン)で掛け算九九を教えたりするほうが、国立大学の果たすべき役目にちかい
と、思ってる。
ところで、東大だって最初の最初は蘭方医の共同出資の種痘所、つまり私立の組織が幕府直轄、明治政府直轄になっていったんだし、考えようによっちゃ元々は私立大学なんだよな。
京都大学は元々の元々は長崎療生所で最初から幕府直轄だったけど。
アメリカなんかは大学どころか初等教育まで、国家に支配されないように頑張ってるみたいで、だから検定教科書もないし、創造論を教える学校も容認されてるらしい。
個人的には大問題だと思うけど、じゃあその反対は中国のような思想の監視で、日本くらいがちょうど良いように思う。
と考えると、高校までは公立が主体、大学は私立が主体でもいいような気がする。
一部のエリートに教育予算を注ぎ込むより、こういう子らの学びたいと思ったら、学べる機会を与えるのが国の役割なんじゃないだろうか。
国公立大学はブランドであって欲しいけれど、俺の良心は、貧乏だから門前払いをしないは当然、学力が低いから門前払いもしない、それが国公立の役割なんじゃないかと思ったりしてる。
明治維新期に突如として出現した「瞬時伝達器」と呼ばれるマイクロブログ端末は、
出生時に人体に埋め込まれる生体統合型デバイスとして全国民に普及した。
この技術革新が明治5年(1872年)の学制発布以前に実現したことにより、
福澤諭吉が『西洋事情』で予言した「言論の電気的伝播」が現実化し、
明治政府の中央集権化政策と民間の自由民権運動が複雑に絡み合いながら、
森鴎外の『舞姫』(1890年)に描かれたベルリン留学中の懊悩がリアルタイムで共有され、
夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)の連載が「写生文運動」として全国規模の文学革命を引き起こすなど、
薩長同盟が瞬時伝達器を活用した情報操作が決定的役割を果たした。
西郷隆盛の「錦旗偽造疑惑」が全国民のタイムラインで炎上する中、
岩倉具視側近の情報工作班が作成した「討幕の大義」映像コンテンツが300万回再生され、
戊辰戦争では会津藩の白虎隊が自陣の不利をリアルタイムで発信、
森有礼文相が推進した「教育勅語デジタル配信計画」(1890年)では、
森鴎外が陸軍軍医時代に投稿した「戦場医学実況」(日清戦争)は、
作中人物の心理描写をリアルタイム修正する実験的創作を試みた。
夏目漱石は『こゝろ』(1914年)の連載時に「先生の遺書」展開を読者投票で決定、
芥川龍之介が東京帝国大学在学中に投稿した掌編小説が瞬時伝達器経由で漱石の目に留まり、
谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)の挿絵を読者からの画像投稿で構成する「コラボレーティブ・アート」を実践、
永井荷風の『腕くらべ』(1916年)では吉原の遊女たちが匿名アカウントで作中の描写に反論するメタフィクション的試みがなされた。
明治10年(1877年)の西南戦争では、西郷隆軍が瞬時伝達器を活用したゲリラ的情報戦を展開。
政府側はAI分析による「感情予測アルゴリズム」で反乱軍の士気低下を計画的に誘導、
立憲自由党が政策動画配信と仮想演説会を組み合わせた「デジタル遊説」を実施、
明治30年代に隆盛を極めた「活動写真」は、瞬時伝達器との連動でインタラクティブ映画として進化。
日露戦争記録映像『旅順要塞総攻撃』(1904年)では視聴者が攻撃ルートを投票決定できる「参加型戦争体験」が提供された。
落語家の三遊亭円朝は端末向け音声コンテンツ「怪談電送話」を配信、
陸奥宗光外相が瞬時伝達器の暗号化機能を駆使した「デジタル砲艦外交」を展開。
一方で、端末の生体統合特性を逆用した「思考盗聴」の危険性が問題化、
国家形成のプロセス自体を根本から変質させる触媒作用を発揮したと考えられる。
従来の歴史区分を超越した「加速された近代化」の様相を呈していただろう。
大正期のメディア・アート運動や昭和初期の全体主義的傾向に新たな様相を付与し、
現代のSNS社会が抱える課題を半世紀早く先取りするパラドックスを生み出していた可能性が高い。
田中増太郎さんが562年の生涯を閉じました。文字通り時代を超えて活躍した伝説の人物として、多くの逸話を残しています。
田中さんが生まれたのは室町時代とも、それ以前とも言われています。本人曰く、「気づいたらこの世にいた」とのこと。幼少期から歴史の重要人物たちと交流を持ち、織田信長には「お前は生きすぎだ」とツッコまれ、坂本龍馬には「いつの時代の人なんですか?」と真顔で聞かれたとか。
戦国時代には「戦わずして勝つ」戦略を編み出し、大喜利で敵将を笑い倒す戦法を確立。江戸時代には落語の原型を作ったと言われ、幕府の公式エンターテイナーとして活動。しかし、あまりに長生きしすぎて、明治政府には「そろそろ引退しては?」と打診されるも、「時代が俺を求めている」と拒否。
大正時代には映画界に進出し、無声映画なのにアドリブでしゃべりまくるスタイルが物議を醸す。昭和に入るとテレビに興味を持ち、「そろそろ俺もレギュラー番組を持つべき」と言い出したが、放送局側が「500歳の新人はさすがに…」と断る。平成のバラエティ番組には「レジェンド枠」として出演し、令和ではVTuberデビューも検討していたらしい。
生涯で数え切れないほどの名言を残した田中さんだが、最後の言葉は「また来世で」。次に生まれ変わるのは何年後か、歴史はまた新たな伝説を待つことになる。
我逞兵皆な君に小田原に従ひ微兵を以て対抗する最も難しと為す如ず
主君が不在のあいだに城を攻められ、留守居役の武将が「我らの精兵は主君に従って小田原にいる、残ったわずかな兵で対抗するのは難しいだろう」と言っているようだ。
「東北の藩のわずかな兵をもって明治政府の軍とよく戦ったのには理由があることを知るべきである」といった感じだろうか。ちゃんと「びへい」とふりがながあるので「微兵」であることに間違いない。
「あの大軍に私がわずかな兵をもって立ち向かっても利益はないだろう」といった感じ。
縦令信長請に応せすとも我今軍を出さすんは貞昌か死亡眼前に在り是を救はすして豈弓矢の本意ならんや然れとも微兵を以て大軍に当ること容易に非らす
徳川家康が「たとえ信長が援軍に応じないとしても、私がいま軍を出さなければ(奥平)貞昌の死は目前であり、これを救わなければ武士として失格だが、とはいえ、わずかな兵で大軍に当たるのは容易ではない」と言っている場面。
家康の使者として秀吉に謁見した本多忠勝を、「特に去年の長久手の戦いで、(忠勝は)龍泉寺でわずかな兵を率いて、私の三万八千の大軍を相手に活躍していたときは、すぐに討ち取れと言ったものだが、今はもう講和を結んだので、家康の家臣は私の家臣も同じだ」と秀吉が称えている場面のようだ。
今従兵僅か七八騎に過ぎず。此微兵を以て大敵に向ひ、横死して何の益かあらんや。
桶狭間戦記と似たような文章。四戦紀聞の成立は1705年らしい。
姉川の戦いの場面か。「家康の家臣たちは味方の兵が少なくても朝倉の軍に立ち向かうことをまったく恐れなかった」みたいな感じか。
中国視点で「あまつさえ秀吉は、日本が小国で、兵がわずかであっても大人しくせず、朝鮮を侵略した」みたいな感じか。朝鮮征伐記は1665年の成立だが、だいぶ怪しい史料ではあるらしい。
此度大坂陣長重手エ得ル首級都合十四、是僅ナリト雖モ、長重討死ニ決シ、微兵ヲ以テ粉骨ヲ尽シタル戦功ハ、具ニ上聞ニ達シ公籍ニ載ラレ、且諸侯伯知之所也
「大坂の陣で丹羽長重はそれほど首級を挙げることはなかったが、長重が討ち死にの覚悟を決めてわずかな兵で頑張ったことは、みんなが知っているので安心してください」といった話か。丹羽歴代年譜っていつ成立したんだろ。
大正7年『泗川新寨戦捷之偉蹟』
忠恒公ハ本丸ヘ入此合戦味方纔ノ一千有余ノ微兵ヲ以テ敵ノ百倍ノ猛勢ニ接シ衆寡ノ勢天地懸隔ストイヘドモ其戦略図ニ中リテ一挙ニ大敵ヲ鏖殺ス
朝鮮出兵で「島津忠恒が一千あまりのわずかな兵で百倍の敵を皆殺しにした」という話。
「朝廷に訴えて幕府を残せないかとわずかな兵を挙げて同志を伴って甲州黒駒まで至ったが田安中納言(徳川慶頼)に諭された」でいいのかな。一夢林翁というのは林忠崇という人物のことらしい。
昭和以降は略。
今回は「微兵を」で検索しただけなので「微兵の」とか「微兵たる」とか「微兵にて」とか他にも用例はあろうと思う。
文語調の古めかしい文章には多く登場している一方で、口語としてはまず見かけず、昭和以降ともなるとほぼ古文書の引用とかでしか出てこない、という印象。
ともあれ「徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」という言葉がかつて存在していたことは確実で、「OCRの読み取りミスによる存在しない言葉である」と切り捨てるには惜しいのではないかと思った次第。
2つの俗説が定説としてまことしやかに語られ広められているが、どちらも事実とは異なる
1つ目
・江戸時代、右側通行だと腰の左に大小を帯びた武士同士がすれ違う際、刀が接触してケンカになることがあったから自然と左側通行がルールになった
→ウソ!江戸時代はみな、道路の左右どっちかを意識せず歩いていた。
農民や町民しかいないような集落も多いのに「武士のマナーを適用」は無理がある
ただしこの説は100年以上前の政府筋の人間すら「こういう説がある」と広めていたりする。面白くはある。みんな武士がだいすき。
・明治時代、近代化を進めた明治政府がイギリスの制度に範をとったためとする説
→ウソ!
https://web.archive.org/web/20190512033912/https://bestcarweb.jp/feature/column/44359
実は左側を選んだ本人である松井茂が「なんとなく左側に決めた☆」と語っており、
イギリスが世界でも珍しいほうである左側通行であったのは単なる偶然の一致
地方公務員として勤め始めて30年以上になる。きっかけは、高校を卒業して1年ほどプー太郎をしていたところ、祖父の紹介で関東地方にある市役所を受験することになった。
まだ19才の頃である。バイクを乗り回したり、タバコを吸ったり、酒も飲んだし、新宿のクラブで不良と群れたり、その他やんちゃをしていた。
祖父が「このままだと孫の将来が危ない」と心配してくれたのだと信じているし、今でも感謝している。毎年墓参りに行っている。
あまり勉強しなかったが、筆記試験+集団面接試験はスルッと通って、最終面接でも面接官とウマが合った。会話は終始スムーズに進んだ。
祖父が私を売り込んでくれたのか、今にして知る術はない。しかし、そうなのだと思う。今でも、東京都内の市区町村役場では、試験実施前の時点で合格が決まっている(※特に高卒枠)ような子が存在する。
地元が大好きであるとか、地元の名士のご子息とか、中高生時代に役場のトップから認められるような成果を出した子達である。ここまで行くと、堂々と高校推薦で採用すればいいのに――と思う子が多い。
私はそんなレベルじゃなかったが、当時は公務員は人気がなかった。地元から推薦があった子を採用するというのは、どこの地方役場でもそうだったと思う。あと数年遅かったら採用されなかった可能性が高い。
実は、不安がある。年齢を重ねる度に膨らんでいく。若い頃はこんな感情はなかった。本当にいい時代だった。
実際、地方公務員になって更生を果たすことができた。やんちゃな自分から卒業できた。甘っちょろい自分に、社会人としての振る舞いやマナーを叩き込んでくれた。こんな私でもちゃんと教育してくれた。
この組織は『上』からの命令が絶対である。公序良俗、法令、常識や慣習に関係なく、命令には従わねばならない。法令順守の場面が圧倒的に多いのだが、人間の屑にならねばならないこともある。
何十年も前の話だと、画材屋で買った油紙を擦って擦って擦って、いわゆる市長・副市長の印鑑(個人名の決裁印)を偽造して、過去の事務ミスを修正せねばならないことがあった。その時の上司は、やり方だけを私に説明して、具体的な指示はしなかった。
若かりし頃の私は、実際にそれらをやり通した。起案行為が漏れていた件で決裁文書を事後作成したり、国庫補助金事業に係る請負契約書を後付けで作ったりした。組織のためだと信じていた。こうしなければ、国や都庁にお金を返還せねばならなくなる。ならば仕方がない。組織を守るためだ。
税の更生処分のことで裁判沙汰に発展した時には、法廷で事実と違うことを言ったりもした。いわゆる偽証だが、自分だけじゃなくほかの職員も同じことをしていた。組織を守るためなら、これくらいの罪は許されると考えていた。
この時代、国や都庁の職員だって偽証をやっていたのだから、全国どこでもこれくらいはやっている。裁判官だってわかっている、あの人達も組織に雇われて裁判を執行しているのだから。俺達と同じサラリーマンである。そんなことを、若い頃の自分は思っていた。
後悔がない。と言えば嘘になる。今は罪悪感がある。過去に戻れるなら――あんなことをしなければよかった。
さて。上の言う事に従っていれば結果が悪くても大丈夫。下の者は責任を取らなくていい。それが公務員組織の原則である。
そのうえで、公務を正常に行っていくために、予算や人員にも常に余裕があって、いざという時に即時対応できるようになっている。
さらに、リスクを取らざるを得なかった職員を守るために、身分保障という大事なルールもある。この原則は今後何百年経とうが消えないだろう。
そして、厳しい現場や、難しい調整は多々あるものの、長年頑張った職員には、一番ヒラの職員でも退職金は二千数百万円が支給される……。
そんな時代がずっと続くと思っていた、そういう時期が自分にもあった。若気、いや中年の至りである。ここ数年まで、差し迫る危機に気が付かなかった。わが国の公務組織はずっと安泰だと思っていた。少なくとも私の時代はセーフだと。
地方公務員は将来性はやばい?今後公務員の未来は明るいのか解説
https://job-q.me/articles/15320
流れが変わりつつある。
変化の要点は、3つある。法令、予算、人員である。今、私が特にヤバイと感じているのは「人員」だ。最初の2つは手短かに説明する。
地方公務員というのは、正直サラリーマンに毛が生えた存在である(特別権力関係の否定)。民間勤めのサラリーマンと同じである。実際、労働基準法の大半が適用される。
だが、国家公務員はそうはいかない。あの人達は、国単位で責任をしょっている。特にキャリア官僚がそうだ。社会の変化に対して迅速に対応しつつ、法律・政令・通達を作り、地方に対して【指示・指導・命令・助言】を行う必要が常にある。
近年話題の分野だと、少子高齢化・自然災害リスク・社会全体のデジタル化・感染症対策・犯罪の高度化、まあこんなところか。数年前だと、新型プリウスが流行った頃に、国民1人あたり10万円の給付が決定した。あれも内閣府によるスピード決定だったが、給付の実務をやることになった市町村役場は阿鼻叫喚の地獄と化した……。
経験が少ない業務で混乱しがちだったのは致し方ない。が、国の事務要領が推奨する手続きに従って実務を行ったところ、給付ミスが相次いだのは記憶に新しい。キチンと組織レベルで熟考をした地方自治体だと、「うん、アナログの方が絶対にいい!!」という正しい結論に達することができた。が、国の意見を鵜呑みにした自治体はデジタル関係の不具合・ヒューマンエラー・デザインミスで阿鼻叫喚となった。
日本というのは元々、分権の社会である。江戸時代までは、いわゆる封建制(※中世の封建制とは違うみたいだが)スタイルで、幕府あるいはその時の最強組織が国を統治していた。
明治政府になって、ヨーロッパ列強を見習って中央集権でいこうとなったものの、それが失敗であることが判明し、現在のような封建制に近いやり方――国の法律に従いつつ、地方政府が国防・警察以外の統治を行うという手法が確立している。
だが、それは大昔の話である。今のようにテクノロジーが進歩すると……議論を経ずとも正しい知識・手法が即座にわかるとか、連絡通信の物理的・技術的なハードルが下がると、中央集権スタイルでも国家運営が可能になる。
今がまさにそうだ。どんな行政分野でも、国が施策・事業のやり方のパッケージをあっという間に作ってしまい、メール一本で地方に通知通達する仕組みになっている。正面から逆らうのは難しい。地方政府は連邦制国家ではないし、国に運営上の財布を握られている。身動きが取れない。
具体的には、○○分野の行政プランを作るとか、イントラを行政間で統一するとか、人員配置を市民100人当たり○人にするとか、税金その他をクレカ・QR決済に対応しろとか、現場仕事は民間に委託しろとか、現業職を採用するなとか、やりたい放題で指示や指導が飛んでくる。
※地方分権が進んでいる!という異論はあろうが、あれは国や県にとって旨味のない業務を市区町村に押し付けている面が大きい(※特に維持管理系が多い)。天下りや既得権が関係する業務は委譲してくれない。それでいて、市町村合併・協定や、実入りの薄い許認可事務など、自分達が得するものは瞬足で押し付けてくる。
新規事業は財政部門がほぼ落とすし、新しい公共施設の建築はトップ命令でないと不可能に近い。公共の設備を修繕するための予算がないから、業者に無理を言わねばならない。消耗品費の予算がゼロになる部署が増えている。事務用品は自腹で買うか、昭和後期の先輩方のモノを使う必要がある。
正直、金がないとどうにもならない。業者に発注した支払分とか、市民への生活補助のサービスが実施できない。以前は、予算上・契約上のテクニックによりカバーできていた。今は不可能に近い。
数十年前に比べて、いわゆる問題のある職員が増えている。激増ではないものの、確実に増えている。
ざっと数年分を思い返すだけでも、こんなところだ。
・同僚から信用がないことを告げられても、「どうでもいいです。人生の優先順位が低いです」
・勤務中に罵詈雑言(「ぶっ殺すぞ」「なんだお前はっ!!」「駆除するぞ」など)
・業者や市民に平気で嘘をつく。自分の仕事を押しつけて減らすため
・市主催の美術展への作品提出に来た障がい者が帰った後、様子をマネして周りのウケを取る
思い出そうとすれば、あの10コ以上は余裕である。関東圏内の役場でこうなのだから、もっと田舎の方にいくと、さらに忌まわしい事態になっているだろう。
こういう職員が跋扈することで、まともな職員の退職に繋がっていく。今は転職市場が発達しているから、30代でスキルを身に付けた職員が毎年十人くらいは職場を去っていく……退職理由の中に、問題のある人間に対して甘すぎるという意見が確実にある。
正直、そういう職員が飲酒運転とか、暴行障害とか、そういう事案を起こしてくれるとありがたい。良心の呵責なく免職処分を発することができる。
実際、上記のような言動をする職員に対して有効な手立ては……2024年現在、「ない」と言っていい。更生を待つしかない。更生率は2割に満たない。
こうした対処のしようがない問題職員が増加している。その中で、どうしても救いようのない職員に対してのみ相当厳しい措置が取られる。【後述】
※どうしても見切れるため一旦切って投稿する。私の環境だと5000~6000文字が限界のようだ。
(続きです)
この前、京都で開催されていたるろうに剣心の原画展を女装して見に行った。
るろうに剣心は90年代の週刊少年ジャンプの暗黒期(当時週刊少年マガジンに売上を追い抜かれていたと記憶している)を支える看板作品として、当時リアルタイムで読んでいた。
今回の原画展は、明治政府に対して反旗を翻そう等する志々雄真実と対峙しながら、主人公である緋村剣心の過去にもスポットライトを当てる京都編を中心に構成されており、当時の原画も多数展示されていた。
その原画は一枚一枚が緻密かつ丁寧に作成されており、アナログ作画時代のほぼ最後の時期に差し掛かっており、超絶技巧が施された原稿は、さながら芸術作品としての価値があるのではと思わせる出来であり、満足度が極めて高かった。
作画がアナログからデジタルに移り変わると、アナログならではの立体的な墨やホワイトの跡といった要素もオーパーツとなってしまうのはいささか残念という気持ちになってしまうものである。
この説明について、主要な点を検証していきましょう。 「姓」「氏」「名字」の区別について: 正しいです。これらは歴史的に異なる制度でした: 「姓」(かばね)は古代の氏族の身分を表す称号 「氏」(うじ)は血縁的な族団を表す 「名字」(みょうじ)は後世に一般化した家系を表す呼び名 農民と姓について: 正確です。「姓」は朝廷から与えられる身分標識で、一般農民には与えられませんでした。 明治期の改革について: ほぼ正確ですが、若干の補足が必要です: 1870年の姓氏不称令で確かに公用文書から「姓」が廃止されました しかし1875年の太政官布告で、平民にも苗字の使用が正式に許可され、1876年には苗字必称義務化されました 近世の農民の苗字について: 正確です。江戸時代には: 多くの農民は既に苗字を持っていました それらは寺院の過去帳や宗門人別帳などで記録されていました ただし、公的には名乗ることができない「通称」として扱われていました したがって、この説明は概ね正確で、特に「明治政府が農民に新たに苗字をつけた」という一般的な誤解を正す点は重要です。ただし、明治期の改革については、姓氏不称令だけでなく、その後の苗字必称令まで含めて理解する必要があります。
1. **「姓」と「氏」と「名字」の違いについて**
確かに「姓」(かばね)、「氏」(うじ)、そして「名字」(苗字)は異なるものですが、その関係性や成り立ちは複雑で、簡単に整理できるものではありません。姓は古代の天皇家や貴族における血統や地位を示すために与えられ、氏も同様に氏族を示す役割がありましたが、時代を経る中で意味合いや使われ方が変わっていきました。名字や苗字は武士階級を中心に広まったもので、農民が持っていなかったわけではありません。
2. **農民が持っていなかったのは「姓」という主張**
この点も間違いです。農民が「姓」だけを持っていなかったという単純な説明では歴史の複雑さを捉えられません。農民や庶民がどのように名前を名乗り、どのような役割を果たしていたかは時代や地域によって異なり、一概に「姓」だけを持っていなかったという説明は不正確です。
「明治政府は農民に苗字をつけた」というのは一般的に正しい理解です。明治時代以前には農民が苗字を持っていなかった場合も多く、名乗ることが禁止されていたケースもありました。明治政府は国民に統一的な制度として苗字を与える政策を進めました。よって、「明治政府が農民に苗字を与えた」という認識は基本的には正しく、この投稿は誤解を招く表現となっています。
4. **「姓尸不称令」について**
「姓尸不称令」は「公用文書に姓を用いない」という布告であり、これは「姓」の廃止を意味するものではありません。また、当時の日本社会における氏名制度の変遷は多岐にわたるものであり、単純に「廃止した」と表現するのは誤解を招くものです。
なのよ。
https://anond.hatelabo.jp/20241018154926
今の横浜駅の場所も関内駅の場所も水の底。M字ハゲだった頃の舛添要一みたいな地形で、野毛山や戸部の辺りが半島で突き出していて、その隣に二つの湾が剃り込みが入ったみたいにあったのだ。
みなとみらいや高島の辺りは近年の埋め立てで高くなっているが無視して欲しい。
というか、東京湾内の神奈川県は多摩川河口の三角州以外ほぼ全域が、崖がストンと海に落ちる地形だった。これはリアス海岸のような沈降海岸の特徴でもある。
さて、そんな中に山下公園に接した、地下鉄の元町中華街駅~日本大通り駅がある一帯が棒状に少し高くなっていて水に沈んで居ない事に気が付くだろう。更にその根元は外人墓地がある山手の丘の方から生えるようになっている。
これは砂州なんである。南の方から沿岸流が漂砂を持ってきて、湾状になっているので山手の崖海岸を延長するように砂州が伸びて来ていた。天橋立とかサロマ湖と同じだ。
この横浜砂州があるのでその内側はラグーンになっていて貝とかが獲れる。また周囲は崖海岸ばかりで船を係留するのに便利なのは横浜砂州しかない。
さてこの湾はラグーンで全域水深が浅いし、横浜が入口を塞いでいる。この横浜って締切堤防に最適じゃね?
って事で江戸幕府は江戸の商人の吉田さんにここの干拓事業の承認を出す。横浜を延長してガッツリ閉鎖、土砂で埋め立てた。この辺はタウンニュースが書いてるので興味のある人はタウンニュースへ。
https://www.townnews.co.jp/0113/2017/01/01/363616.html
リンク先大まかな地図もあって、「横浜」も見える。横浜の先端付近が馬車道駅の辺りだ。
ペリーの黒船がやってきて幕府に門戸開放を迫ったわけだ。幕府はイヤだったが大砲とデカい動力軍艦で脅かされては何も言えない。
そこで江戸に近すぎると困るので距離が随分と離れて交通も不便だが不便すぎないという場所を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが横浜ってわけ。
今の大桟橋の途中にある「象の鼻」はこの幕府が作った横浜港の防波堤だったものだ。
横浜の名の由縁はこれで終わりだが、横浜駅と横浜村が大きくずれてる説明が必要だ。だからもうちょい書く。
幕府は倒れ明治政府は汐留と横浜の間に鉄道を敷くことになった。
さてここで問題になるのが、野毛山を挟んでもう一方の剃り込みだ。
話は前後するが、高島町駅から浅間神社を結ぶ、県道13号より南側は幕末にすでに干拓されていた。
https://maps.app.goo.gl/nuiDnwfHNRUhaT2cA
平沼さんが3代に亘って工事をやった平沼新田、岡野さんが2代でやった岡野新田などがあり地名として残っている。
すると陸地を通ると神奈川宿(京急神奈川駅付近)→浅間神社→高島町という迂回ルートになってしまう。
そこで、神奈川宿から高島町に掛けて海の中に土手を通してそこに線路を敷くという思い切ったコースにした。
こうして嘗ての寒村だった横浜村には鉄道が来て倉庫街や歓楽街、官庁街、商社街や異人街が出来て異人さんが闊歩するハイカラな街となったのでありました。
さて官製鉄道は神戸まで延長される事になったのだが、ここで厄介なのは横浜駅(現桜木町)の存在だ。横浜駅から延長すると遠回りになるし港南区の丘陵地帯を突っ切る必要が出てトンネル必須になってしまう。
だから本線は神奈川駅から保土谷に直行して、横浜駅は盲腸線扱いにした。でも大事な駅なので通過はできず、一度横浜に行ってから機関車を付け替えて神奈川に戻り、再度機関車付け替えで神戸へ、という運転をしていた。
クソめんどくせえ。
客もめんどくさいが貨物は更に、で運転系統がややこしいので横浜駅に貨物が溜まりまくってしまい、神戸から送った荷物や郵便の汐留着が1ヶ月以上先、とかがザラになってしまった。
これに陸軍はぶちギレ。鉄道省に文句を言ったが改善しない。しかも当時の役人は元武家ばかりなのでメンツに拘り軍といえども罵倒なんてしたらエライことになる。
なので陸軍の持ち出しで保土谷→高島→横浜という線路を敷いて軍の貨物は優先で動かせるようにした。
鉄道省も横浜駅の扱いの厄介さと滞貨には頭が痛かったので、盲腸線方式を辞める事にした。最初の線路の東側に線路を新設し、陸軍が敷いた線路に繋げる。で、その繋げた辺りに横浜駅を移転、元の横浜駅は桜木町と改称した。
しかし見れば判るが港にも繁華街、ビジネス街からも遠くて不便で、かなりの不評だった。
そこで三度目の正直で、どうせ不便なら分岐点の方がいいだろという事で、今の場所に横浜駅を移転したのだった。2代目の駅は基礎だけが残っていて、マンションの公開空地として公開されている。
https://maps.app.goo.gl/ZCBUxiAJ9RwfSxvw5
3代目駅はもう最近まで海の上だったところで、全く何もないとんでもない場所で今で言う秘境駅だったが、今までと違うのは、帝都の震災復興と開発計画が付随していた事だ。
市電が来て新しく開通する東横線、京浜急行と東海道線が立体交差する様に建設されていた。ただ、駅の西側に残っていた水面の埋立地は戦後米軍に摂取されてしまった。
しかし高度経済成長期に摂取解除されると商業ビルが一気に立ち並び、それで横浜=現横浜駅付近と認識されるようになったのであった。
因みに駅西側に残った水面は平沼と呼ばれていた。平沼という地名が近くにあるので誤認されたものだ。元は平沼さん埋め立てしたところが平沼なので間違いなのだが、国が発行する地図にも平沼と書かれていた。
と、こういう経緯。
横向きの砂州の横浜→埋立てで砂州は消滅→横浜開港→鉄道→横浜駅の場所が邪魔→素寒貧な海辺に移転→駅前が米軍接収解除で繁栄→今はそこが横浜という流れ。
明治維新(めいじいしん)は、1868年から始まった日本の大きな変革のことや。
江戸時代が終わって、武士の時代から近代国家へと移り変わる大改革やったんや。
まず、江戸時代は長いこと続いたけど、外国が日本に「開国せぇへんか?」って迫ってきたんや。
特にアメリカのペリーさんが「ドン!」って黒船でやってきたんが大きなきっかけやな。
その後、薩摩藩や長州藩を中心に「このままじゃアカン!新しい政府を作ろう!」ってなって、徳川幕府を倒す動きが強まっていったんや。
それで、天皇を中心にした新しい政府ができて、これを「王政復古」言うんや。
明治維新では、封建制度が廃止されて、武士の特権もなくなったんや。
さらには、学校も作って、外国の技術や文化をどんどん取り入れていったんやで。
簡単に言うたら、江戸時代の古いシステムを壊して、新しい時代を作ったんが明治維新やな。
これで、日本は急速に近代化していって、世界の仲間入りを果たしたんや。
戊辰戦争は1868年から1869年にかけて起こった戦いやねん。
徳川幕府を倒して新しい政府を作ろうとする側(薩摩藩や長州藩が中心やった)と、幕府側の勢力がぶつかり合ったんや。
この戦いは京都の鳥羽・伏見から始まって、東北地方まで広がったんやで。
特に会津戦争や函館戦争が有名やな。会津藩は幕府側を支援して戦ったんやけど、最終的には負けてしまったんや。
また、函館では旧幕府軍の榎本武揚(えのもとたけあき)が五稜郭(ごりょうかく)で最後の抵抗をしたけど、こちらも新政府軍に敗れてしまったんや。
この内乱は、ただの権力争いだけやなくて、日本全体が新しい時代に進むための大きな痛みとも言えるんや。
結果的に、天皇を中心にした新政府が勝利して、日本は中央集権化と近代化に向かって進んでいったんやな。
(その時西郷隆盛は何してたの?)
西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新の中心人物のひとりで、戊辰戦争の間もめちゃくちゃ大きな役割を果たしてたんや。
まず、西郷は薩摩藩のリーダーとして、新政府を作ろうとする側に立ってたんや。
鳥羽・伏見の戦いでは、幕府側と戦って新政府軍を勝利に導いたんや。
彼は戦術にも長けてたし、部下たちにも慕われてたから、戦争の勝利に大きく貢献したんやな。
戊辰戦争が進む中でも、西郷は東北地方や函館方面に派遣される新政府軍の指揮を取ったり、旧幕府側との和平交渉にも関わってたんや。
特に江戸城無血開城(江戸城を戦わずに明け渡すこと)では、西郷と勝海舟(かつかいしゅう)が話し合って、江戸を戦火から守ることができたんや。
これは西郷の人間的な魅力や度量があったからこそ、実現できたもんやね。
ところが、明治維新が進んで新しい政府ができたあと、西郷は新政府の方針と対立するようになってくんや。
特に西郷は、急速な近代化や中央集権化の進み方に対して反感を抱いてたんや。
そして、最終的には西南戦争(1877年)で政府に反旗を翻すことになったんや。
この時、西郷は薩摩の士族たちを率いて、武士の伝統や誇りを守ろうとして立ち上がったんやけど、結果的には政府軍に敗れてしまい、自ら命を絶つことになったんや。
簡単に言うと、西郷隆盛は維新の立役者でありながら、最終的にはその維新の流れに反発して戦った、というめっちゃドラマチックな人生やったんやな。
(あと伊藤博文についても解説して。なんか悪いイメージもあるよね)
伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣や憲法の制定に深く関わった人物やけど、確かに彼に対する批判的なイメージもあるんや。
まず、伊藤博文は明治政府の中で「近代化」を進めた立役者やけど、その一環として朝鮮半島への介入や植民地政策に深く関わってたんや。
特に、伊藤が朝鮮に対して行った政策や、朝鮮を日本の保護国にしたことで、彼は後の日本の植民地支配の基盤を作ったと言われてるんや。
伊藤は、1905年に日本が韓国を保護国化した際、初代韓国統監(かんこくとうかん)に就任したんや。
この統監府は、事実上日本が韓国を支配するための機関で、伊藤はそのトップとして韓国の内政に強く介入したんや。
この時期に韓国の独立や自主権が大きく損なわれたことが、彼に対する批判の大きな要因や。
その結果、1909年に伊藤博文は韓国のハルビン駅で、独立運動家の安重根(あんじゅうこん)に暗殺されてしまったんや。
安重根は伊藤を、韓国を侵略し独立を奪った人物として憎んでおり、この暗殺は日本と韓国の歴史に深く影響を与えたんや。
また、国内でも彼が明治政府の中枢で権力を握ってたことから、一部の人々からは「藩閥政治」を進めたと見られ、権力を一部の有力者たちで固めたことに対する批判もあったんや。
つまり、政治が一部の人たちの手で動いていて、庶民の声が届きにくいっていう不満があったんや。
総合的に言うと、伊藤博文は日本の近代化に大きく貢献した一方で、朝鮮や韓国との関係、そして国内外での権力集中に対する批判があるから、マイナスのイメージが残ってるんやな。
(女癖も悪かったと聞いてるけど)
ああ、そういう話もあるな!伊藤博文は「女癖が悪い」って噂がよく出る人物でもあるんや。
彼は若いころからかなり遊び好きで、特に女性関係にはだいぶ自由奔放やったらしいで。
彼は明治時代の政治家の中でも、遊び人として知られとったんや。例えば、若い頃から遊郭に出入りしてたし、いろんな女性と関係を持ってたっていうエピソードも多いねん。
噂によると、50歳を超えてからも若い女性に夢中になってたとか、何度も結婚と離婚を繰り返したりして、結構な数の女性と浮名を流してたんや。
特に彼の「芸者好き」は有名やったんや。政治家としての公の顔とは別に、夜はよく芸者遊びをしてたというエピソードがたくさん残ってるんや。
これが「女癖が悪い」という評判の元になってるんやろな。
さらに、晩年でもそうした生活を続けとったみたいやから、一部の人々からは「品がない」とか「節度がない」とか批判されることもあったんや。
ただ、そういう奔放な生活があっても、政治家としては一流やったんやけど、そのプライベートの部分があまり良いイメージを持たれてないってことやろな。
だから、伊藤博文には偉大な政治家としての側面と、ちょっとだらしない私生活の一面があって、それが「女癖が悪い」という評価に繋がってるんやろうな。
もともと会津藩は領民から嫌われていた。親藩で家格が高いため石高以上の出費があり領民に重税を課していた上、最後の藩主松平容保が京都守護職に任じられるとその負担でさらに年貢が上昇、会津戦争でも農民は新政府軍側について会津藩士と戦ったぐらいだった。
明治維新後も会津藩士に対する反発からヤーヤー一揆という大農民一揆が起きた。明治政府は会津藩士に会津に留まるか、青森県の下北半島に新たに藩を作って移住するかを選択させたが、地元で嫌われていた会津藩士たちは下北半島への移住を選択、斗南藩が新設され会津藩士は斗南藩士として下北半島に移住した。
会津地方の一般人が会津藩士と自己同一化して薩長に恨みを持つようになったのは、戦後会津若松市が戊辰戦争の史跡を観光資源化しようとして会津藩の悲劇を郷土史として広めたのと、司馬遼太郎の小説が原因。
最初から致命的なところを出してしまったが、オタクは全般歴史に疎い
ググれば正しそうな情報に当たりやすい科学的な知識などと違って、人文学系の知識はググるとトンでもの宝庫である
匿名掲示板のオタクは本を読んでシコシコ調べるなんて能力はなく、ググって胡散臭くなさそうなサイトであれば真実だと思い込む連中ばかりである
弥助騒動で弥助の部分だけを否定しようと思っても、周辺知識が間違いまくっているオタクしかおらず、説得力がない
歴史系の書籍の本棚を見ると露骨だが、アマチュアや素人は右翼っぽい本を書いていてプロであるほど中立から左翼的な視点で本を書いている
王政復古のために神仏分離を行なって数多の文献を寺から燃やした明治政府を好意的に解釈している歴史学者などほぼほぼいないが、アマチュアの歴史本書きは明治維新の周辺人物のことをみんな大好きである
弥助騒動は左派をまったく巻き込めていないので、真っ当なアカデミックのムーブメントとして偽史を非難するという流れになれないのである
オタクたちは英語ができないのでchatGPTで翻訳させたバカみたいな英語でリプや宣伝活動をしているが、バカがAIに作らせた英文だと一目瞭然である
日本人もAIっぽい文章が分かるように、ネイティブが見たらネイティブっぽい文章かそうでないかはなんとなく分かる
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