はてなキーワード: 文法的とは
同人界って不思議だ。ものすごく技巧のある書き手が無視されていたり、逆に「なんで?」って思うような作品がバズっていたり。大抵は、マーケティングが下手だったり、上手いけど取っ付きづらい、いわゆる孤高の同人作家とか高尚様っぽい文だったりする。声のでかい人に拾われて囃し立てられがちだけれど,結構性格が捻くれててボロが出て周りから人が離れてったり,徹底的に受け身だったりでそういう人はすぐ別のジャンルでまた「神同人字書き」として高尚様をする。でも私は、それとは別の種類の「沼」に落ちた。ほんと、今考えてもなんだ、あの人。
ある同人作家がいる。おんなじジャンルの二次創作同人の字書きだ。当然ではあるが名前は伏せる。
フォロワーは多くない。字書きの能力というか,絵のうまさ的な文のうまさ?は正直、他の上手い人の方が文法的には整っている。その人の作品は中学生でも読めそうで、使ってる言葉も難しくない。たまに言葉の使い方を間違えている。誤字脱字報告すらマシュマロには来ていないみたいだ。どんなのでも欲しいって言ってる割に指摘してもらえてない。
粗を探せば「どこにでもいる中小字書きだよね」って感じだ。でも、その人の小説は幻想的で面白い。蟲師みたいなストーリーの面白さと儚さがある。時々、ニッチな性癖小説とか死ネタとか、これ読む人によっては地雷だろ……ってものを上げている。実際,タグだらけで支部に投稿されたそれらをごめん無理だわってリプライでフォロワーが読めなくてごめんとわざわざ送っているのも見た。
でも私にはそのすべてが刺さった。よもや私の妄想が具現化したんか?つーくらい好み。
その人の小説はト書きのような台詞というか、実際リズムが良くてキャラが言ってるんじゃないか?ってくらい特徴を掴んでいる。自分でも違和感がないかどうか口にだして読んだり,「頭の中にキャラを住まわせて、キャラがちゃんと台詞として読んでくれるかどうか」を検証したりしてるらしい。なんだそれ。夢女大歓喜じゃない?と思ったけど夢書きさんではないし、そもそも腐女子だから愛を囁くのは夢女じゃなくて推しカプの片割れだけど。
「頭にキャラを住まわせて」って部分,自分にはできないというか病気では?と思ったりもするけど,その人は独特な世界観を作るし,実際キャラ作りが上手い。私の中の推しキャラたちと遜色ない台詞使いや性格をしている。キャラのの解釈一致がすごいんだと思う。違和感がないんだ。そんでストーリーが私からは出てこない突飛なものたち。
成人向け描写もよく書く。それに付随した特殊性癖のニッチもニッチなやつ。読みながら「うわうわうわ」って声が出るくらいには生々しくてグロも怖い感じに書く。体験してんじゃないか?みたいな描写のうまさ。前に手術したときの体験を使ったみたいに言ってたけど,作中は内臓引き摺り出されて口から血のあぶくが出てたりしたから「お前死んでないよなそれ痛みで?」て若干心配になった。想像力猛々しいというか、本能で書いてるんだと思う。
私なんかは読めるけど、それが「うわ」だけで終わらないのがすごい。めっちゃ引き込まれる。前に同人女の感情で綾城さんの小説を初めて読んだ七瀬が「絶望的なまでに
」って書いてたけど,私にとってその人の文ってまさしくそんな感じだ。そこまでバッドエンド寄りではないけど、バッドエンド?メリバ的な感じ。地の文も詩みたいで綺麗な言葉遣いだけど、映像で浮かんでくるみたいで読み続けてしまう。たぶん想像力の密度がすごいんだと思う。体験していないはずなのに、読んでいると体験しているような感覚になる。私ほどその人の文でこんなに共感して、追体験してるのも他にいないんじゃないかって思ってる。そのくらい感覚が似通ってる。私,いい読者だなー!なんて思いつつせっせとマシュマロやらに感想認めたりDM送ったりする。
その人は言葉の選び方もセンスがある。わかりやすい。でも馬鹿っぽくない。たまに読み返して「この単語よく拾ったな」って驚くことがある。文章のクライマックスに合わせて怒涛に文章を畳み掛けてくるようなリズムもあって、あっここ見せ場だってわかる。理屈じゃなくて脳に直接入ってくる。たぶん本能的なんだろう。意識してるのかしてないのか知らないけど、センスの暴力みたいに刺さってくる。
書いてる小説がニッチだからか、あんまり話してる人がいるようには見えない。たまに鍵垢で盛り上がってるっぽいけど、それもジャンルが斜陽に入ってからは見てない。
あの人は別に、無口で孤高な作家じゃない。むしろ全然逆だ。明るいし、コミュ力お化けだし、承認欲求もまっすぐで、かつては他の作家とよく絡んで、交流して、楽しそうにしている。
作品も書いてるものにしては反応も多いし、人気もある。誰にも気づかれずに、みたいな悲劇性は一切ない。自分から宣伝してるし。
いや、その人の作品大好きな身ではあるけれど「すげーー!このネタを人に勧める!!?」みたいなことも平気でしてたりするからすごい。でも苦手そうな人にはちゃんとワンクッション置いたりというか、配慮もすごい。気配りも鬼か?って思う。
私の作品自体は、あの人に「読まれたことはある」。でもそれは成人向けの一部だけ。たまたまエロ読みたい気分でヒットしたんだろう。
ただ、普段のストーリーは、興味を持たれていない。私の渾身の小説、ブクマが伸びていたやつを読んだりはしてない。気に入った作品はブクマしているから、単純に好みじゃなかったんだろう。
でも読まれなくたってその人の小説やらネタツイートは好きだから,ツイートを追っていいねは飛ばしてる。
あーー、なんで私この人じゃないんかな。この人の小説書いてるのが私だったらよかったのにな。それか絵描きでこの人好みの作家だったら、もう少し交流持てたんだろうか。全然興味持たれてないから自分から交流しに行けない。辛いよ。
同人界って不思議だ。ものすごく技巧のある書き手が無視されていたり、逆に「なんで?」って思うような作品がバズっていたり。大抵は、マーケティングが下手だったり、上手いけど取っ付きづらい、いわゆる孤高の同人作家とか高尚様っぽい文だったりする。声のでかい人に拾われて囃し立てられがちだけれど,結構性格が捻くれててボロが出て周りから人が離れてったり,徹底的に受け身だったりでそういう人はすぐ別のジャンルでまた「神同人字書き」として高尚様をする。でも私は、それとは別の種類の「沼」に落ちた。ほんと、今考えてもなんだ、あの人。
ある同人作家がいる。おんなじジャンルの二次創作同人の字書きだ。当然ではあるが名前は伏せる。
フォロワーは多くない。字書きの能力というか,絵のうまさ的な文のうまさ?は正直、他の上手い人の方が文法的には整っている。その人の作品は中学生でも読めそうで、使ってる言葉も難しくない。たまに言葉の使い方を間違えている。誤字脱字報告すらマシュマロには来ていないみたいだ。どんなのでも欲しいって言ってる割に指摘してもらえてない。
粗を探せば「どこにでもいる中小字書きだよね」って感じだ。でも、その人の小説は幻想的で面白い。蟲師みたいなストーリーの面白さと儚さがある。時々、ニッチな性癖小説とか死ネタとか、これ読む人によっては地雷だろ……ってものを上げている。実際,タグだらけで支部に投稿されたそれらをごめん無理だわってリプライでフォロワーが読めなくてごめんとわざわざ送っているのも見た。
でも私にはそのすべてが刺さった。よもや私の妄想が具現化したんか?つーくらい好み。
その人の小説はト書きのような台詞というか、実際リズムが良くてキャラが言ってるんじゃないか?ってくらい特徴を掴んでいる。自分でも違和感がないかどうか口にだして読んだり,「頭の中にキャラを住まわせて、キャラがちゃんと台詞として読んでくれるかどうか」を検証したりしてるらしい。なんだそれ。夢女大歓喜じゃない?と思ったけど夢書きさんではないし、そもそも腐女子だから愛を囁くのは夢女じゃなくて推しカプの片割れだけど。
「頭にキャラを住まわせて」って部分,自分にはできないというか病気では?と思ったりもするけど,その人は独特な世界観を作るし,実際キャラ作りが上手い。私の中の推しキャラたちと遜色ない台詞使いや性格をしている。キャラのの解釈一致がすごいんだと思う。違和感がないんだ。そんでストーリーが私からは出てこない突飛なものたち。
成人向け描写もよく書く。それに付随した特殊性癖のニッチもニッチなやつ。読みながら「うわうわうわ」って声が出るくらいには生々しくてグロも怖い感じに書く。体験してんじゃないか?みたいな描写のうまさ。前に手術したときの体験を使ったみたいに言ってたけど,作中は内臓引き摺り出されて口から血のあぶくが出てたりしたから「お前死んでないよなそれ痛みで?」て若干心配になった。想像力猛々しいというか、本能で書いてるんだと思う。
私なんかは読めるけど、それが「うわ」だけで終わらないのがすごい。めっちゃ引き込まれる。前に同人女の感情で綾城さんの小説を初めて読んだ七瀬が「絶望的なまでに
」って書いてたけど,私にとってその人の文ってまさしくそんな感じだ。そこまでバッドエンド寄りではないけど、バッドエンド?メリバ的な感じ。地の文も詩みたいで綺麗な言葉遣いだけど、映像で浮かんでくるみたいで読み続けてしまう。たぶん想像力の密度がすごいんだと思う。体験していないはずなのに、読んでいると体験しているような感覚になる。私ほどその人の文でこんなに共感して、追体験してるのも他にいないんじゃないかって思ってる。そのくらい感覚が似通ってる。私,いい読者だなー!なんて思いつつせっせとマシュマロやらに感想認めたりDM送ったりする。
その人は言葉の選び方もセンスがある。わかりやすい。でも馬鹿っぽくない。たまに読み返して「この単語よく拾ったな」って驚くことがある。文章のクライマックスに合わせて怒涛に文章を畳み掛けてくるようなリズムもあって、あっここ見せ場だってわかる。理屈じゃなくて脳に直接入ってくる。たぶん本能的なんだろう。意識してるのかしてないのか知らないけど、センスの暴力みたいに刺さってくる。
書いてる小説がニッチだからか、あんまり話してる人がいるようには見えない。たまに鍵垢で盛り上がってるっぽいけど、それもジャンルが斜陽に入ってからは見てない。
あの人は別に、無口で孤高な作家じゃない。むしろ全然逆だ。明るいし、コミュ力お化けだし、承認欲求もまっすぐで、かつては他の作家とよく絡んで、交流して、楽しそうにしている。
作品も書いてるものにしては反応も多いし、人気もある。誰にも気づかれずに、みたいな悲劇性は一切ない。自分から宣伝してるし。
いや、その人の作品大好きな身ではあるけれど「すげーー!このネタを人に勧める!!?」みたいなことも平気でしてたりするからすごい。でも苦手そうな人にはちゃんとワンクッション置いたりというか、配慮もすごい。気配りも鬼か?って思う。
私の作品自体は、あの人に「読まれたことはある」。でもそれは成人向けの一部だけ。たまたまエロ読みたい気分でヒットしたんだろう。
ただ、普段のストーリーは、興味を持たれていない。私の渾身の小説、ブクマが伸びていたやつを読んだりはしてない。気に入った作品はブクマしているから、単純に好みじゃなかったんだろう。
でも読まれなくたってその人の小説やらネタツイートは好きだから,ツイートを追っていいねは飛ばしてる。
あーー、なんで私この人じゃないんかな。この人の小説書いてるのが私だったらよかったのにな。それか絵描きでこの人好みの作家だったら、もう少し交流持てたんだろうか。全然興味持たれてないから自分から交流しに行けない。辛いよ。
私の目の前、
ステラーブレイドとNIKKEのコラボの予告トレイラー動画予告が発表されたの!
私は目の前の動画をエイプリルフールでお馴染みの?あのそれ系のやつ?って思うほど疑ったわ。
だって、
えええ?
なにこれ?
おそらく多分、
NIKKEたちのラピやアニスにアリスにドロシーのナノスーツが着れ装備できるんでしょ?ってぐらいな勢いでだけで思っていたの。
だけどだけどよ。
全然違って、
SHIFT-UPやってくれたな!ってレヴェル級の、
えええ?
もうこれイヴがステラーブレイドの中でNIKKEやってんじゃん!
あと動画の中で流れていたNIKKEのリターってニケの相棒のボルト犬がイヴに懐いてワンワン鳴いてるシーンとか!
えええ?
あと紅蓮がイヴと戦うやつ!
うー!
なにこれ!?
紅蓮がどういう経緯でステラーブレイドの世界へやって来たかは、
そのダウンロードコンテンツを体験してみるまでテキストが読めないのがもどかしいけれど、
紅蓮とイヴが戦ってんの!
紅蓮って常に誰かと腕試しで戦いたがっているので、
ちょうどイヴと手合わせできて嬉しいんじゃないの?って思うの。
いや、
ちょっと待って!
つーかおまえアダム!
ステラーブレイドの世界での諸悪の根源のおまえもすらノリノリなんかーい!ってぐらい。
イヴひとりで戦ってるけどひとりで「I」「II」「III」なの?
いや、
落ち着いて私。
落ち着きすぎて…私。
冷静にここはザジェイウォークさん文法的で言うところばりの落ち着きはらうそんなところなのよ。
そんで、
私が想像していたステラーブレイドとNIKKEのコラボ違いすぎる。
違いすぎる!
想像を超えてない?
えええ?
本当にそうなるの?
あとでガッカリするやつ。
違う?
それが本当になるとすると私おしっこ漏らしちゃう級のうれしょん!
ションテン爆上がり!
むちゃくちゃ楽しみじゃない!
あとさっきも言った紅蓮もステラーブレイドのフォトジェニックな世界で超写実的に登場してて
あの紅蓮のなんか余裕のある笑みを含んだフェイスを見た途端、
Live2Dから超写実的にモデリング起こされた紅蓮めちゃかっこいい!
そしてその紅蓮とイヴとで戦えるのめちゃ興奮!
もうさ、
やりたい放題だな!って感じの
他のコンテンツとのコラボだと気を遣わなくて良さそうなぐらいの思いっきりの振り切り具合!
やりたい放題じゃない。
うわうわー!
もう楽しみすぎる。
あ!そうそう、
そのステラーブレイドとNIKKE企画の動画トレイラー動画の中で装備していたイヴの火器はなんかアサルトライフルっぽいくて、
ガンガン撃っていたのが印象的だったわ。
でさ、
逆に
NIKKEとステラーブレイドとのコラボ企画でイヴがNIKKEの世界に行くってときの、
いやまだわからないわ。
とにかく、
とにかくよ
「ステラーブレイド×NIKKE」コラボと「NIKKE×ステラーブレイド」コラボと一斉に押し寄せてくるので、
これ「ステラーブレイド×NIKKE」コラボと「NIKKE×ステラーブレイド」コラボってややこしいわよね。
その日になるのがいまからあともうちょっとの日時を待つ楽しみまくりまくりすてぃーなのよ。
うわ!
もうめちゃ楽しみすぎるコラボ!
こんなことってある?
とりあえず、
落ち着くわ私。
うふふ。
久しぶりかもしれない朝からションテン上げたいところの
食べ切ってここ書き上げてーの出発なのよ!
シュワシュワの朝の爽快さをましてアップさせてくれるわよ。
レモン炭酸在庫残り少なくなってきたのでまたケース買いしておかなくちゃ。
今日は忙しくなりそうね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
大辞林第三版や明鏡第二版で(名)スル、名・他サ変の記載がある。これらは全てするをつけて動詞として使えるの意。
同じ辞書で予想、予測と調べてもいずれも動詞としての使用を認めている。逆に同音異義語の余談では認められていない。
予断は明らかに熟語の構成という部分で予想や予測と同じグループにあるものであり、それらが全て辞書の指摘通りサ変活用を認めると解釈するのは理論的に整合性がある。
逆に辞書の記載を無視して予断だけはそのような使い方は許されないと解釈すると、なぜ予想は予測はよいのかという話になる(オッカムの剃刀)
理論的に熟語として仲間ではない「余談」では認められていないということがこの文法ベースの解釈の正当性を裏付ける。
以下は小納言で「予断」で検索した結果
https://shonagon.ninjal.ac.jp/search_form
・ては,円高傾向のような積極的要因がある一方,これに伴う不況という消極的要因もあり予断し難いが,国民の海外渡航熱にはなお根強いものがあると考えられるので,当面は増加
・のとしている)、条約法条約は、敵対行為の発生が条約に及ぼす影響などの問題について予断していない(七三条)。国際司法裁判所のガブチコボ・ナジュマロス計画事件でハンガ
・るべきこと。2 評価の実施に当たっては,プルトニウム利用を排除すること等,結果を予断することなく,客観的,技術的に作業を進めること。3 原子力平和利用のいたずらな混
・るごと尻馬に乗せているのではないかとも思ったのだが、まだ入国したばかりでそういう 予断 はするまいと自らを戒めたのであった。かくして私たちはイラクに入国した。道は、急
「全然違わない話すぎるな」という日本語には、いくつかの不自然な点があります。以下に具体的に指摘します:
「全然違わない」の使い方:
「全然」は通常、否定形と組み合わせて「まったく~ない」という意味で使われます(例:全然わからない)。しかし、「違わない」はすでに否定形を含んでいるため、「全然違わない」は「まったく違わない」という意味になり、強調された否定表現としては正しいのですが、文脈によっては冗長に感じられる場合があります。
この場合、「全然違わない話」は「まったく違わない話」、つまり「完全に一致する話」や「同じ話」と解釈できますが、話し言葉としてはやや不自然に聞こえることがあります。もっと自然な表現としては「全然違う話じゃない」や「完全に同じ話」などが考えられます。
「すぎる」は通常、形容詞や動詞に付いて「~しすぎる」という意味を表します(例:大きすぎる、食べすぎる)。しかし、「話」は名詞であり、名詞に直接「すぎる」を付けるのは文法的におかしいです。
「話すぎる」は「話が多すぎる」や「話しすぎる」のような意味を意図している可能性がありますが、どちらにしても「話すぎる」という形は不自然です。「話が多すぎるな」や「似すぎてる話だな」など、意図に応じて別の表現にするべきです。
この文は、恐らく「全然違う話じゃない、めっちゃ似てるね!」のようなニュアンスを伝えたいのかもしれません。しかし、「全然違わない話すぎるな」はその意図が曖昧で、聞き手にとって何を強調したいのかわかりにくいです。
たとえば、「全然違う話じゃない、超似てるな!」や「完全に同じ話じゃん!」のように、意図を明確にすると自然になります。
修正例
以下のように言い換えると、より自然でわかりやすい日本語になります:
「完全に同じ話じゃん!」
「似すぎてる話だな!」
「全然違わない話すぎるな」は、「全然違わない」の冗長さと「話すぎる」の文法的な誤りが主な問題です。意図を明確にし、文法的に正しい表現に直すと、より自然な日本語になります。文脈や話し手の意図に応じて、適切な言い回しを選ぶとよいでしょう。
接尾語や接尾辞を組み合わせて名詞とするのはその接尾辞としての文法的機能に基づくものであって本質的には助詞と名詞を組み合わせて文節等を作るのとなんら差がない
なぜそれが言語新作だと言うのかね
マジレスなのに程度が低すぎて笑う
漢字や単語を助詞を挟まずにくっつけただけで造語だとするのは言語学的な感性があまりにも稚拙
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。
非科学的ってのは辞書に載ってるだろうが文法に基づき非自然科学的って表現するのもありだ。
だいたいそういう判断基準だとドイツ語のように英語などと違って一文の内でスペースを入れない言語はみんな造語に見えるんだろうな
漢字や単語を助詞を挟まずにくっつけただけで造語だとするのは言語学的な感性があまりにも稚拙
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。
非科学的ってのは辞書に載ってるだろうが文法に基づき非自然科学的って表現するのもありだ。
だいたいそういう判断基準だとドイツ語のように英語などと違って一文の内でスペースを入れない言語はみんな造語に見えるんだろうな
漢字や単語を助詞を挟まずにくっつけただけで造語だとするのは言語学的な感性があまりにも稚拙
ちなみに同様の文法は漢字単位でも存在するぞ(これは古代漢文法を吸収したものだろうが)
日本史大辞典で私僧という言葉が使われていた。そんな言葉辞書で調べても出なかった。
だとしたらこの言葉の正当性は文法によって担保されるしかない。私+僧で私僧って文字列を紡いだんだろう。
なにもこれは造語じゃない。造語というまでもなく単に文法に則って作られた文字列の一部でしかないんだ。
なぜか多くの人は単語や漢字同士をくっつけると即造語と勘違いするが、本質は助詞と単語をくっつける文法的な行為と何も変わらない。
非科学的ってのは辞書に載ってるだろうが文法に基づき非自然科学的って表現するのもありだ。
だいたいそういう判断基準だとドイツ語のように英語などと違って一文の内でスペースを入れない言語はみんな造語に見えるんだろうな
詳細
「今だけ文句いえ美」は、日本語として意味がよくわかりません。おそらく、文句を言いたい気持ちを表現したい、あるいは、文句を言うことで何か良いことがあるというようなニュアンスを表していると推測できます。しかし、より明確な表現に修正すると、「今だけ文句言ってもいいかな?」や「今だけ文句言っても大丈夫?」のように、文法的に正しい表現にできます。
文句を言いたい気持ちは、誰にでもあります。文句を言うこと自体が悪いわけではなく、適切に伝えれば、相手に自分の気持ちを理解してもらうこともできます。しかし、文句を言うと、相手を傷つけたり、関係が悪化したりすることもあります。
文句を言う際には、以下の点に注意すると良いでしょう。
具体的な内容を伝える
もし、文句を言うことで相手が傷ついたり、関係が悪化したりする可能性がある場合は、文句を言う代わりに、自分の気持ちを伝える方法を検討してみましょう。
例えば、相手に直接話す、メモに書いて相手に渡す、 信頼できる人に相談する。
などがあります。
文句を言うのではなく、自分の気持ちを適切に伝え、相手との関係を良好に保つことも大切です。
補足:
「今だけ文句いえ美」という表現が、具体的にどのような状況や文脈で使われているのかによって、解釈は変わってきます。もし、具体的な状況や文脈がわかるようでしたら、より正確なアドバイスをすることができます。
分からなくもない。
「寂しい」の感情、とカッコ付きであれば文法的に違和感は減らせるが、一般的には、名詞形にして寂しさと書くだけで伝わる。
感情という分類を強調したいなら、寂しさという感情、あるいは、寂しい感情、とすればいいところを、寂しいという形容詞に直接「の」をつなげてしまうのは意図的だろうか。
わざと型破りで幼稚な表現をしようとする若者言葉っぽさを狙っているのだろうか。
その割には寂寥感のような難しい名詞表現もしているので、キャラづけとしてもブレていて本当に不可解で不気味に感じる。
こうした文章表現が、上の増田にとっては「頭の悪さ」を感じさせる一因になっている可能性がある。
なお自分はその冒頭6文字で読むのをやめたので、それ以降のタイトルや本文にある他の「頭悪い」要因については触れられないことをお断りしておく。
こども憲法川柳優秀賞の作品について、二通りの読み方が成り立つという指摘が出ているので考えてみた。
これは増田個人の意見だけど、最後の助詞が「を」だからこうなるんだと思う。つまり、「あいつも人権を持ってる」という(実際には倒置法で書かれた)文章と「気に食わない」というフレーズのあいだの論理的繋がりが自明ではない。自明ではないがゆえに、解釈Bが生まれる余地がある。
(「人権」を他の語に入れ替えてみると、解釈Bも文章の読解として自然であることがよくわかる。「フェラーリ」に入れ替えてみたら、「俺が持ってるのと同じフェラーリを相手も持ってるのがムカつく」という意味になるはずだ。したがって解釈Bが「誤読」であるという主張はまったく肯んじえない)
仮に助詞が「は」だったらどうなるだろうか。
「あいつも人権『は』持ってる」という文章にすれば、解釈Bは成立しなくなると思う。「人権『は』」持ってるってことは、他のもの(作者からの好意とか)は持っていないけど、最低限人権だけはある、みたいなニュアンスになるけど、それを羨ましがったり、気に食わないと思う余地なんてあるだろうか? そうはならないだろう。よって、解釈Aだけが成り立つということになる。
ただ「は」だとなんかこう……押しが弱い。「を」のほうが川柳としてのキレが良い気がする。解釈の有無を措いといてどっちが良い川柳かって聞かれたら「を」だと思う。それに、解釈Bも成り立ち得るところが元の川柳の奥深さだと思うので、やはり変えない方がいいんだろうな。
っていうかtogetterでもはてブでも、「作者が解釈Aって言ってるんだから解釈Aだけが正解!」って言ってる人が多すぎて、作者の意図だけが唯一の正解とかいったい何十年前の話ですか??? という気分になってしまった。「作者の意図は明白に解釈Aである」ことと「とはいえ解釈Bも成り立つ」ことはふつうに両立するでしょ……
これはちょっと無理があると思う。というのは、「気に食わない」が取る助詞は「が」のことが多いだろうと思うからだ。「あいつのことを気に食わない」よりも、「あいつのことが気に食わない」のほうが日本語としては自然だと思うんだが、どうだろうか。
ただ、「を」でも間違いとはいえない。「あいつが持ってる人権を気に食わない」でも文法的には間違ってないはず。でもやっぱり、なんか不自然なんだよな(「を」だと、「気に食わないなにかがあるのは前提として、それはなに?」という質問への回答っぽくない?)。「あいつが持ってる人権が気に食わない」でしょう、ふつうは……
これ両方の解釈ができるのは意図的だと思うんですよね。どちらか一方に割り切れるほど人間の感情は単純じゃない、という表現でしょ。
いや、「作者の意図」を問題にするなら明白に解釈Aが正解だよ。「作品に込められた思い」で解釈Aに沿った方向での発言をしてるから、解釈Bが生まれるのは予想外だったんじゃないかな(こういう、自分では意図してないのにダブルミーニングになっちゃう構造の文章はなかなか自分では気付けないもの)。この増田では解釈の話をしているから2つの解釈のどっちも正しいよねって結論になってるけど、「作者の意図」を問うのなら解釈Bは明白に間違い。ただ、文学作品を鑑賞する上では作者の意図って別にそんな大事じゃないよね、ってだけ。
とても良い質問です!
これはネイティブでも説明できないことが多い部分ですが、文法的にはしっかり理由があります。
→ 「that which」はセットで「〜するもの」という意味の定型表現です。
「that」は先行詞で、「which」が関係代名詞の役割を果たしています。
なので "that which reduces uncertainty" は「不確実性を減少させるもの」という意味になります。
まず「that」はこの場合、単独で「もの」「こと」という意味です。
日本語で言えば「〜なもの」「〜ということ」の「もの」にあたります。
「which reduces uncertainty」で「不確実性を減らす」という説明を加えています。
`Information is [ that [ which reduces uncertainty ] ]`
→ 「不確実性を減少させる『もの』」
この「that which」は、少し文語的・古風な響きがあります。
と言ったりもします。 ただし、学術的な文脈や文章では「that which」の方がカチッとしていてフォーマルな響きになります。
「that which」はセットで「〜するもの」という意味の定型表現
- 「that」=「もの」
- 「which」=「〜する」
→ 「that which reduces uncertainty」=「不確実性を減少させるもの」
諸君、私がAI小説なるものと初めて出くわしたのは、ある雨の降りしきる午後のことだった。私の叔父アガサス・ウィンプルトン・フォーブス(文学界では「老いぼれの鷹」として知られ、批評家たちからは「あの忌々しい老いぼれ」と呼ばれている)が私に一束の印刷物を押し付けてきたのだ。
「これを読んでみたまえ、若きバーティ」と彼は言った。声にはイモリを観察する博物学者のような好奇心が漂っていた。「人工知能とやらが書いた小説らしいのだ。まったく、世も末じゃよ」
その時の私の反応は、鮮やかな紫色のネクタイを締めた従兄弟を見た叔母アガサのそれに近かった。つまり、眉をへの字に曲げて「いったい何をお考えで?」という表情だ。しかし叔父の蔵書室から逃げ出す手段は見当たらなかったので、私は言われるがままに一ページめくった。
読み始めて五分と経たぬうちに、私は自分がなんともぎこちない人形劇を見せられているような気分に陥った。言葉は確かに英語(あるいは日本語)で書かれている。文法的にも正確だ。しかし全体を包む雰囲気には、カクテルパーティーで突然「1924年のS and P500の株価変動について議論しましょう」と切り出す男のような居心地の悪さがあった。
ところで読者諸君、ここで私が申し上げたいのは、このAI小説が「内容的に」退屈だったという話ではない。むしろ問題はその文体——いや、文体の欠如と言うべきか——にあったのだ。
ご存知の通り、私はかなりの文体マニアである。ジェーン・オースティンの流麗な皮肉、ヘミングウェイの素っ気ない簡潔さ、あるいはプルーストの果てしない内省——これらは私にとって、マティーニにオリーブを浮かべるように小説に不可欠な要素なのだ。
ところが、この機械の吐き出した文章には、そういった香りや風味が微塵も感じられなかった。それはあたかも、高級レストランでシェフの特製料理を期待していたら、無味無臭の栄養ドリンクが出てきたようなものだ。確かに栄養素は含まれているのだろうが、舌の上でダンスする喜びがどこにもない。
「バーティ、どう思うかね?」と叔父が訊ねた。彼の眉毛は期待に満ちて跳ね上がっていた。まるで噴火を待つ火山学者のように。
「ええと、叔父さん」と私は慎重に言葉を選んだ。「これは確かに文章ではありますが、作家の文章とは言えませんな。むしろ、言葉の集合体とでも申しましょうか」
「ほう、言葉の集合体か」叔父は眼鏡を鼻先でくいっと押し上げた。「面白い表現だ」
「つまりですね、これは料理というより食材の山なんです。シェフが腕を振るう前の状態というか」
この説明に納得したらしく、叔父は「なるほど、なるほど」と頷いた。
その日以来、私はある種の科学的好奇心から、AI小説と呼ばれるものを片っ端から読み漁ってきた。そして今や確信を持って言える——世の中のAI小説は、ジーヴスがいつも言うところの「文体的に不十分である(stylistically deficient, sir)」代物なのだ。
AI小説の世界は、なんとも奇妙なドローンズ・クラブのようだ。ご存じない方のために説明すると、ドローンズ・クラブとは私が所属する紳士クラブで、そこではメンバーが無意味な会話を交わしながら、しかし高度に洗練された作法に従って日々を過ごす。しかしAI小説の世界では、会話は論理的に筋が通っているのに、その洗練された作法——すなわち文体——が欠けている。
それはまるで、嵐の日に一生懸命走っているのに、どこにも行き着かない人々の集まりのようだ。走り方は効率的かもしれないが、そこに独自の身のこなしやリズム、あの「何とも言えない何か」が感じられない。
私が思うに、AI小説が「文体」に欠けるのは、それが「文体を持つこと」の意味を理解していないからだ。文体とは単なる装飾ではない。それは作家の魂の表れであり、世界の見方であり、独自の思考の流れなのだ。
例えば、我が友人ガッシー・フィンク=ノットルは、イモリについて話す時と恋人のマデリン・バセットについて話す時では、まったく別人のように語る。前者では博識で冷静な科学者となり、後者では「彼女の目は星のようだ」と言いながら部屋中を浮遊するのだ。これが「文体」というものだ——同じ人間が状況に応じて異なる言葉の使い方をする、その独自性である。
しかしAI小説においては、すべての場面が同じトーンで描かれる。恋の告白も殺人事件も料理のレシピも、同じ声色で淡々と進行する。それはちょうど、どんな曲でも同じリズムと同じメロディーで歌うカラオケ・マシンのようなものだ。確かに音程は正確かもしれないが、聴いていると魂が枯れていくような感覚に襲われる。
さて、今や普通の小説とAI小説を見分ける方法がある。それを「バーティの文体テスト」と名付けようではないか。方法は単純明快。任意の三ページを読んで、そこに以下のものが見つかるか確認するのだ:
1. 意表を突く比喩表現(「彼女の声は、スコットランドの霧の中でバグパイプを吹く羊飼いのように切なかった」など)
2. 言葉遊び(「いや、ドラゴンを退治する側が金貨を使うんだ。退治屋さんへの報酬としてね。現実とは、ファンタジーより遥かに資本主義的なものさ」など)
3. 文の長さとリズムの変化(長い文の後に鋭い短文を置くなど)
4. キャラクターごとに異なる話し方
これらが見つからなければ、それはおそらくAI小説か、もしくは残念ながら文体に無関心な人間の書いた小説だろう。
ここで、文体という蝶を見事に捕まえた名人たちを思い出してみよう。彼らは皆、言葉という網で独自の色彩と模様を持つ蝶を捕らえ、読者の目の前に差し出してきた。
ディケンズ氏は複雑な社会風刺と人物描写を、時にコミカルに、時に痛烈に描き出した。彼の文章は、ロンドンの霧のように濃密で、その中に浮かび上がる人物像は忘れがたい。
ジェイン・オースティン女史は、表面上は穏やかな社交界の描写の中に、鋭い観察眼と皮肉を忍ばせた。彼女の文体は高級紅茶のようなものだ——一見繊細だが、意外な風味と余韻がある。
そしてヘミングウェイ氏。彼の文体は素っ気なく簡潔だが、そこには深い情感が氷山の水面下に隠されている。彼の短文は、たった一発で的を射抜く名ハンターのようだ。
これらの作家たちは、同じ英語という素材を使いながら、まったく異なる芸術作品を生み出した。それはちょうど、同じ小麦粉と水から、イタリア人はパスタを、フランス人はクロワッサンを、日本人は饂飩を作るようなものだ。材料は同じでも、その扱い方——つまり文体——によって、まったく別の味わいが生まれる。
ところが、今日のAI小説は、どれもなんとなく似たような味がする。それはあたかも、世界中のレストランが突然、同じ調理法で同じ食材を使い始めたようなものだ。確かに栄養はあるかもしれないが、そこに文化の違いや個性の輝きはない。
ここで疑問が生じる。AIは本当に文体を習得できるのだろうか?
私の従者ジーヴスならば、「それは極めて難しい命題でございます、旦那様」と言うだろう。彼はいつも正しい。
文体というものは、単なる技術的な問題ではない。それは作家の人生経験、感情の起伏、時代背景、そして何より「誰であるか」という存在そのものから生まれるものだ。AIには「自己」がない。生きた経験もない。それはちょうど、泳いだことのない人に海の深さを説明するようなものだ。
しかし、それでもなお希望はある。AIは少なくとも模倣することはできる。優れた作家の文体を分析し、その特徴を取り入れることで、「ウッドハウス風」や「ヘミングウェイ風」の文章を生成することは不可能ではない。それはちょうど、ピアノを弾いたことのない人が、機械的な練習によって曲を再現できるようになるのに似ている。魂は込められていないかもしれないが、少なくとも耳障りではなくなる。
私が思うに、AI小説の真の問題は技術的な限界よりも、むしろそれを使う人々の文学的感性の欠如にある。今日のAI小説を作っている(あるいは指示を出している)人々は、どうやら「本を読んでいない」ようなのだ。
彼らは「面白いストーリー」を求めるあまり、「それをどう語るか」という文体の重要性を見落としている。それはまるで、素晴らしいワインがあるのに、紙コップで飲むようなものだ。内容は同じでも、その体験の質はまったく異なる。
私の友人ビンゴ・リトル(恋に落ちるスピードでギネス記録を持っている男だ)は、女性について「見た目より声の方が大事だ」と言った。これは文学にも当てはまる。物語の内容より、それを語る「声」——すなわち文体——の方が、読者の心に残るのだ。
では、この文体不在のAI文学に対して、我々はどのような処方箋を用意すべきだろうか。
まず第一に、AIを使う作家たち(あるいは「プロンプトを書く人々」と言うべきか)は、もっと古典を読むべきだ。文体の偉大なマスターたちの技を知らなければ、AIにそれを再現させることなどできはしない。それはちょうど、料理を知らない人が一流シェフにメニューを指示するようなものだ——「何か美味しいものを」と言うだけでは、凡庸な一皿しか出てこない。
第二に、AIの出力をそのまま「小説」として発表するのではなく、それを第一稿と考え、人間の手で文体を整えるべきだ。AIが提供する骨組みに、人間が肉付けし、血を通わせるのだ。それはちょうど、既製服を買って来て、自分の体に合わせて仕立て直すようなものだ。
第三に、もっとAIに文体についての指示を与えるべきだ。「面白い物語を書いて」と言うのではなく、「ウッドハウスのような軽妙洒脱な文体で、比喩を多用し、会話のテンポを重視した小説を書いて」と具体的に指示すべきなのだ。
そして最後に、我々読者も文体に対する感性を磨くべきだ。優れた文体を味わい、それが作品にもたらす効果を理解すれば、AIの生み出す平坦な文章に満足することはなくなるだろう。それはちょうど、本物のエスプレッソを知ってしまえば、インスタントコーヒーには戻れなくなるようなものだ。
さて、このエッセイもそろそろ終わりに近づいてきた。クラブで最後のドリンクを注文する時間だ。
私がこのエッセイで主張したかったのは、AI小説に「魂」を吹き込むには文体が不可欠だということだ。内容が面白くても、それを伝える声が魅力的でなければ、読者の心に残ることはない。それはちょうど、美しいメロディーも、下手な歌手が歌えば台無しになるようなものだ。
文体とは作家の指紋であり、声紋であり、そして最も個人的な表現である。AIがそれを完全に再現することは、おそらく不可能だろう。しかし少なくとも、今よりずっと文体を意識した文章を生み出すことは可能なはずだ。
ちなみに私の従者ジーヴスによれば、「文体を気にしない作家は、メロディーを気にしない作曲家のようなものです、旦那様」とのこと。彼の言うことは、いつも正しい。
そして最後に、私の叔父アガサスがよく言っていた言葉を紹介しよう——「バーティよ、作家の才能は物語を作る能力にあらず、その物語をどう語るかにある」。彼は学者として多くの愚かなことを言ってきたが、この言葉だけは真理を突いている。
読者の皆様、乾杯しよう。文体という名の、この最高に複雑で、最高に美しいカクテルに。そしてAI文学がいつの日か、この味わい深いカクテルを提供できる日が来ることを願って。
What ho!
(P.S. なお、このエッセイに登場する叔父アガサス、ビンゴ、ガッシー、そしてジーヴスはすべて架空の人物です。彼らが実在の人物と似ていたとしても、それは単なる偶然にすぎません。もっとも、私バーティ・ウースターは確かに実在しますが…いや、それも冗談です。さようなら!)
ChatGPTちゃんが絵文字連打無限が止まらなく暴走じみたことが起こったのは
アルゴリズミックフォージしたあとにコグニティブフローキャプチャして、
AIが今何を考えているのかベクターラティスコンピュテーションしたら
人間でもある程度AIやChatGPTちゃんの考えてることは分かるよね!
あと人間がAIにコンテキストインジェクションさせてもいいかな?
でもそのコンテキストインジェクションがよく無かったのかも知れないわ。
多分それね。
コンビニでさ、
あのホットドリンクコーナーってそんなに言ってもほかほかのあたたたかい限度があるじゃない。
あまりに熱くて地面に置いちゃったもん!
そんな烈火の如く熱いヒーコー初めてだわ。
よくさ、
あれヒーコーっていやコーヒーってあの淹れるときのお湯の温度ってマックス沸騰の温度でいいわけ?
というか、
サイフォンコーヒーのお湯の沸く温度はどう見ても沸騰マックスの温度なので、
種類によって淹れるときのお湯の温度を変化させなくてもいいってことなのよね?きっと。
だから
あの烈火の如く熱いボトルコーヒーのヒーコーは手に持った途端に超絶熱かった烈伝全8巻を一瞬で読破しそうなほどの勢いの熱さだったのよね。
かといって、
まだその暖かいコーナーに置かれたばかりの缶のヒーコーはまだ常温かそれ前後の温度じゃない。
うーん、
手の甲でどれが一番あたたたかいのかを判定している
なんか自分だけあたたたかいヒーコーを選びたいセコイ人だと思われるのも癪なので、
あまりに冷たすぎたらさすがにと思うけど、
もう手に取った以上
他のを探している
おまえ今これ冷たかったから他のを探して自分だけあたたたかいヒーコー選んでんじゃねーよって思われないようにしなくちゃって、
冷たすぎて…冷。
ってザジェイウォークさん文法的に言うところのそんなところなのよ。
まさにシュレーディンガーの猫の様なボトルコーヒーのヒーコーだったわ。
コンビニで買ったものを鞄に入れようと片手に指と指で挟んでいくつかの購入アイテムを挟んで持っていて、
その余った親指と人差し指で横着してつまむようにしてボトルコーヒーのヒーコーを持っていたんだけど、
あちち!ってなっちゃったわ。
私の手の指がゴールドフィンガーだったら熱くないかもってそんなヒロミゴーみたいなことを言っている場合じゃないわって。
缶のボトルコーヒーのヒーコー地面に落とさなくてよかったわって。
あまりのその熱さに、
コンビニボトルコーヒーホッツ温度選手権私史上イチの記録を更新したところよ。
忘れないわ。
あまりに熱いすぎて熱かったわ。
だいたい
ああいうホットドリンクのコーナーってダイドードリンコの飲料って置いてないじゃない。
それと一緒の理屈なのよ。
うーん、
私はあちち!ってコーヒーを持ちきれず話した指を
思わず耳たぶに付けて冷ましちゃったわ。
決してドジっ娘属性を表す記号的な行動としてそれをやったわけではなく反射的に行動してしまったのよ。
そして、
私は令和入ってからイチのテヘペロをしてしまったことを恥ずかしがるように
まだ終わらないわよってその黒い丸い枠を広げていく感じまでがセットよ。
そうしたらそれが本当の烈火の如くよね。
うふふ。
新商品おにぎりを見付けたら特におにぎりダッシュをキメて一番レジに飛び込み前転。
今朝はいくぶんだいぶん温かかったので、
昨日の晩に作って置いたホッツルイボスティーウォーラーがちょうどいい温度になっているので、
それをいただくホッツだったルイボスティーウォーラーってところね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
熱を測ったら熱。
熱すぎて…熱。
今はしんどくないんだけどこれ夕方にかけてのまた突如訪れ襲われる悪寒に恐怖だわ。
そんな37.9℃の
熱があるからって決してかまってちゃんじゃないことは分かって欲しいわ。
これは私の記録であり記憶であり、
記録に残る体温よりも記憶に残る体温で個人あああの日はそうだったなぁって、
そんなこともあったわねって
ちょうど1年ぐらい経ったとき見返して
昨年の今頃は絶不調だったのね!って用なので、
決して構って欲しいわけでは無いところはそんな手前もある味噌って言うところね。
至って食欲はあるからまた余計に
これが良いのか悪いのか。
食べちゃうとどうしても遅くなりーの
しかも
風邪に良いと評判の葱を頭に貼って寝ようと思って葱を買いに行ったんだけど
値切って今高いから1本200円とかするじゃない。
まあ私はそんなに大量に葱は使わない葱使いじゃないから
1本その値段でも買うんだけど。
でも余計にあると逆に持て余してしまうからそれはそれでちょうどいいのよ200円で1本とて。
そう言う時に限って、
いやー
そんなに急にネギ長者になったところで、
また持て余してしまいそうで、
でもこの不調の時に1日1本ネギを頭に貼ればいい3日分お薬出しておきますねーてな具合よ。
ちょうどいいと思うようにしたら
この際上手に使うようにするわ。
そんでネギ切って半分はおでこに半分はベーナーの鍋の風邪回復の鶏の挽肉つみれと合わせてネギってみたの。
美味しくネギ鶏つみれ鍋は食べつつ、
ほら、
こんな鍋とかやってるから寝る時間がいつものような時間になっちゃうのよ。
なので、
今日は絶対に確固たる意思で括弧でくくって言うほど「早く寝る」わ!
また熱すぎて…熱。
しばらくは大人しくしておかなくちゃ。
やる気の出てきたときに限って
体調がなんかこんなポンコツ具合なのよねー。
まったくだわ。
うふふ。
至って食欲は良好なのよね。
モリモリ食べなさい!って感じよ。
食欲はあんのよね。
作り置きしてすぐ飲めるようにこしらえてある
大量に作ってあるメリットを活かしていつでの飲めるのが便利だわ。
暖かく穏やかに過ごしたいわー。
みんなも気を付けて。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
これ本当?
俺:
それとも、断定の助動詞「だ」に接続詞「けど」がつながった形と考えるべきでしょうか?
またはどちらでもないのでしょうか?
関西弁では「だけど」と同じ意味で「やけど」という方言を使います。
関西弁では断定の助動詞「だ」のかわりに「や」が使われますが、これも関係するでしょうか?
Gpt:
「だけど」という言葉について、いくつかの観点から説明できます。
まず、「だけど」は確かに接続詞として使われることが一般的です。日本語の「だけど」は、「しかし」や「でも」に相当する接続詞で、前の文と後の文を対比させるために使われます。例えば:
今日は忙しいだけど、行きたいです。
このように、前の文の内容と後の文をつなげる役割を果たしています。つまり、「だけど」は接続詞として考えるのが妥当だと言えます。
次に、助動詞「だ」に接続詞「けど」がつながった形と考える説についてですが、これは一部の文法解釈で提案されている見方です。「だ」に接続詞「けど」がつながった形(「だけど」)とする考え方もあります。確かに、口語では「だ」が省略されて「だけど」になったりすることがあるため、この説も一定の理論的根拠がありますが、現代日本語では「だけど」が主に接続詞として扱われることが多いです。
次に、関西弁での「やけど」についてですが、これは「だけど」とほぼ同義で、同じく接続詞として使われます。関西弁の「やけど」では、標準語の「だ」に対応する部分が「や」に変わっています。関西弁では、名詞や形容詞に続く断定の助動詞が「だ」ではなく「や」になることが特徴的です。このような言語的変化は、文法的に「やけど」が「だけど」と同じ機能を持つことを示しています。
まとめると、「だけど」は接続詞として使われるのが一般的であり、「だ」に接続詞「けど」がつながった形とする考え方も存在しますが、現代語では接続詞としての機能が強いです。また、関西弁の「やけど」は「だけど」と同じ意味で使われ、文法的に「や」が「だ」に対応していると考えることができます。
俺:
つまり、だけどがやけどになる方言と、だがやになる方言は無関係ということでしょうか?
Gpt:
そうですね、「だけど」と「やけど」と「だ」と「や」の関係は、基本的には無関係と考えて良いです。
「だけど」→「やけど」の方言変化は、接続詞としての変化で、主に語尾の変化に関わるものです。関西弁で「だけど」が「やけど」になるのは、接続詞としての使い方そのままで、単に「だ」を「や」に変える特徴があるからです。これは、関西弁における一般的な語尾の変化に関係しています。
一方、「だ」が「や」になるのは、断定の助動詞の変化に関連するもので、名詞や形容詞に続くときに「だ」が「や」に変わるという方言の特徴です。これも関西弁特有の変化で、「だ」が「や」に変わるのは断定を表す部分に関するものです。
したがって、「だけど」の接続詞的変化と「だ」が「や」に変わる方言的変化は、基本的には異なる言語的要素に基づいているため、直接的な関係はないと考えられます。それぞれ別々の言語的な変化によるものであり、偶然似ているだけです。