はてなキーワード: 愚鈍とは
中年女性。夫とはレス、この先一生セックスすることはないかもしれないが、精神的つながりに満足しているのでレスに関しては悲観しているというわけでもなく、おかしな場面で性欲が顔を出さぬよう、2週に1度ほど自分で「抜い」ている。ムラムラするから抜くというより平日にムラムラしないように抑止策として休日に抜いておく儀式。1度目は普通に指でそれなりに楽しんで行うが、その後30分ほど寝た後の2回目について今回はお話したい。30程しか間をおかずしての2回目、それは自慰行為というより精神統一に近い。自分はクリトリスしか感じないので、1回目は普通に指で撫でまわすが、2回目の時点のクリはまだ嫌な意味で敏感とも愚鈍とも言い難い変な感覚になっている。それを強制的にイカすには、ローターをパンツの上から押しあて、その振動を内部まで届かせることで疑似的な中イキ状態をつくる。もう、この時頭の中はエロいことは考えておらず瞑想に近い状態にある。禅の域。自分の気持ちいいところが身体の中心にあることは本当に人体の奇跡に思える。でも本来女性もクリでしかイケなくて、中でイクって本当はクリに伝わった快楽を中で感じてる説もあるけどどうなんだろ。とにかく、この2回目はローターを押し当てている時間に快楽はなくもはや苦行に近く汗もびっしょりになるんだけど、イッた時の快楽が本当にドラッギーでとてつもない。正確に言えば、イッた後に股間全体を抑えて膣の収縮を全身で味わっている瞬間。もちろん足はピン。もう足ピンでしか逝けない身体になっているだろうから今更セックスしてもよくなくなってしまっているだろうけど、もうそれでいい。この2回目のオーガズムにフルベット。身体の中心でこれを感じられるって本当に面白い。この瞬間だけ意識は宇宙と一体となっている。もうエロとかじゃなくて身体探求なんだよな。この2回目の強制オーガズムを発見したのは5年くらい前なんだけど、この2回セットじゃないともう満足できなくなってしまった。1回目の方が、普通に乳首も気持ちいいしイク前から気持ちいいのに、2回目は禅なので集中力のみが必要な本当にストイックな世界で、1回目は2回目を味わうための前菜ですらある。この感覚、さすがに誰にもリアルでは言えないのではてなに書いた。わかる人いるかな?
影響力のある言論人がどんどん批判者側に取り込まれて行って、「批判する賢人」vs「批判しない一般人」にさせられている。実際には特定の話題についてこれは批判に値しないと判断できる「判断能力のある賢人」が存在するはずなのだが、それがほとんど無きものとされている(その話題の選び方が重要で、何でもかんでも批判者を冷笑するタイプの言論人を持ち上げているわけではもちろんないし、批判者を批判するのではなく「批判しない」とすることが重要だということ)。
この問題は企業が反応しないのは当然で、それは別に「クレーマー」とやらに勝ったわけではなく、CMの放映規模が小さくて一般層に話題が広がっていなかったからというだけ。言論の世界では批判者が正義、愚鈍な一般人とCMを流した資本が悪ということになってるだろ?実際は言論の世界でも「まあ気持ち悪いは気持ち悪いけど、作るべきではないと言えるほどではないしその根拠もないなあ」くらいが妥当な落としどころなのに全然そうなっていない。それこそが問題だし危機感を持っている。
なんなら言葉遣いなんかため口でも何でもいいし見た目もどんだけぶっ飛んでてもいい。
まずSとMとLでやってるコーヒーチェーンとかあるけどあほだと思う
日本人の発音する「えす」 「えむ」 「える」は結構音が似ているし、
日本人はその辺の発音のエッジ効いてないし聞く側も聞き分ける耳もない
俺は前の職場でよく立ち寄るコーヒーショップがSMLシステムで
もうどんな速度やタイミングで「え!る!」と言っても「えるですね?(orえむですか?)」と聞き返されて(俺以外も頻繁に確認されてた)
システムと店員とその場全体の愚鈍さに気が狂いそうになったので「いちばん大きいサイズ」というようになった
つか英語圏でも聞き間違ったらまずい場面は「えーびーしー」ではなく「あるふぁぶらぼーちゃーりー」なわけじゃん
なので俺はコーヒーはもう「いちばん大きいサイズ」って言ってるどこでも
お互いにそういう無駄を省くために「いちばん大きいサイズ」っていう どこへ行ってもそれ
たとえレギュラーとラージのとこでもえすえむえるのとこでも「いちばん大きいサイズ」なら店員側も判断迷わないじゃん?
であるのに
このあいだローソンでアイスカフェラテ頼むとき「いちばん大きいサイズ」って言ったら「ラージですか?」って言われて
「いやこの店のアイスカフェラテの一番大きいサイズはメガじゃね?」っていうやりとりがあった
だから知恵を絞って一番聞き間違えも判断迷う余地もない・かつどの店でも使える注文方法をしてるのに
「いちばん大きいサイズ」って頼んで「ラージかメガか」って確認されるならどうすりゃいいんだ?
人手不足のおりコンビニ店員みたいな仕事は人間がやらんでよろしいAI仕事だといわれる
早く全面AIになってほしい
こういう解説を法律や危機管理の専門家すら平気でするが、この定義だと「誹謗中傷じゃなくても名誉棄損に問われる」ことになってしまう。
しかしまあ一般人のイメージでは名誉棄損になることも含めて誹謗中傷に含まれることになっていると思う。
つまり何が誹謗中傷なのか諸説紛々なのに、そのくせ言論の自由は存分に行使すべきみたいな風潮がある。
平凡な人間の多くは自分の意見は誹謗中傷に当たらない、正義に基づく意見だと思って発信している。
何が誹謗中傷なのか、大衆の愚鈍な頭でも理解できる体系的な知識が提供されていないなかで、意見は発信せよというようなリベラルな価値観の尊さが触れ回られる限り、無自覚な誹謗中傷が横行してもそれは自然の摂理でしかないだろう。
何か事が起こるたびにマスメディアでは一般人よりはマシな頭を持った知識人気取りが「誹謗中傷は絶対にやめよう」と言うのがもはやパターンになっている。
なくなることを願うのは勝手だが、もっと誹謗中傷と意見の区別について猿でもわかるような解説が出ない限り、なくなるわけがないことは理解しているのだろうかとは思ってしまう。
なんて記事がヤフーニュースで堂々と公開されている社会では、何なら正当な意見として言っていいのか俺にも分からない。
(だって示談が成立してる案件で許すなってどういうこと?そう言う以上は「中居正広は猟奇的な性加害を行った」という憶測ありきでしょ?)
誹謗中傷と意見の弁別ができる人たちは、当然の能力としてそれを「怠慢な大衆」に期待するが、別に怠慢ではないし、過大評価だと思う。
※念のため最初に書くが、今から書くことに女性差別、フェミニズム、ミソジニー、ミサンドリー論は一切関係ありません。
※兵庫県知事が現在問われている問題についても何も意見はありません。
「ラーメン豚山 で女性だからとバカにされて不当な盛り付けをされた」と女性がX上で騒ぎ、
やはり女性側が話を「盛った」(二郎だけに)、つまり嘘をついた件を認めて謝罪した。
https://x.com/mt_yamamoto_/status/1874983997123821593
正直この話自体はかなりどうでも良いのだが、
この件に対する「冷静で」「良識な」人たちの反応がかなり気になったので書く。
X上で、豚山の件について色々な人が盛り上がり、誹謗中傷に近いような過剰反応も多いなか、
一番良識的に見える反応は
「どっちもどっち」
良識的な人が数多く生息するはてブ()のコメントでも、こういったコメが多く星を集めていたと思う。
だが、
この「冷静豚山」な態度こそ「害悪」で、
この「冷静豚山」な態度こそ「陰謀論」を育て、
この「冷静豚山」な態度こそ「斎藤知事の再当選を後押し」したのだ。
なぜか?それは、「陰謀論」とは、
まさに「真偽不明」のことを堂々と発信しすることで議論を撹乱させ、
「外部からは何が事実かわからないので判断できない」「どっちもどっち」
という状態まで持って行くことで勝利を狙う手法だからなのである。
最近では兵庫県知事戦で立花が仕掛けた、虚実織り交ぜた発信(立花自信が事後でいくつかの話を嘘と認めている)が記憶に新しい。
あきらかな嘘であっても、
堂々と語る、他者を攻撃する、裏付けをしようとしない(まあ嘘なのでできないのだが)ことで、
「どっちもどっち」というイーブンの状態まで「嘘」を格上げさせ、一つの意見に見せる。
「何が事実かはわからないので慎重に見極めたい」という態度は、卑怯である。
しかし一見、冷静で、良識的な態度に見える、という点で悪質なのである。
言ってる本人達はそれに気づかないような愚鈍なのに、なんか冷静沈着頭良い風に見えるという点で滑稽でもある。
もうわかっただろう、豚山について「何が事実か慎重に判断したい」と思うような人間が、
アメリカのDS論を笑いながら、自らこそが一番陰謀論の成長に加担しているのである。
豚山の件は、表に出ている事実をつぶさに観察し、それこそ冷静に考えれば
「女性側が嘘をついているだろう」以外の結論なんか最初からない。
(※念のためもう一度書くが、この件にフェミニズム嫌悪も女性差別もない。事件当事者が男性でも意見は同じだ)
それを、「何が事実かはわからないので判断保留」なんて言うから最悪である。
間違っても良いじゃないか、
自分の見方を、意見を表明しろ、それこそが君等が好きな「民主主義」の精神だろう。
わかったな?
「お!岡田以蔵じゃん」
ただ龍馬伝の一オタクの好奇心から安易に手を出した事が私の生涯に於いての大きな過ちとなったのだ
人斬り以蔵と言えば世間一般のパブリックイメージとしては残虐非道にして悪逆な幕末の人斬り、シリアルキラーじみたものである。
見た目も粗野でニコリともせず瞳の濁ったアウトローといったところだろう。
私自身、龍馬伝の佐藤健演じる彼は彼として岡田以蔵の印象としてはそれに近いものがあり、その粗野さや狂気の中に時代の荒波に揉まれた英雄になれぬ1人の人間の悲哀を見出していたのだ。
それがどうだろう、パブリックイメージに近い陰鬱な空気感や粗野な印象を得た中に丸く大きな瞳、片目を隠した癖の強くコシのある太い髪には武市半平太の犬と称される程の幼さを称えた男がいたのだ。
その様を見た時の私は臓腑を撃ち抜かれたかのような衝撃を受けた。
幼い顔に剣を振るい極めた男の太い下腕が覗く一見アンバランスかつ、イメージ通りのようなイメージとは違うような姿。
今までのメディアに出演してきた岡田以蔵像とは一線を劃すその様に震えたのだ。
しかし臓腑を撃ち抜かれたとて命があるだけ暁光とばかりに私は片足を引きずりながら彼の人となりを知らなくてはお話にならぬとえいやと帝都に降り立つと「坂本龍馬」を自称する彼が待ち構えていた。
逆立ちしたとて坂本龍馬ではないというのに、彼は示現流を扱わぬと言うのに、土佐弁で名乗りをあげてしまうその武士の精神と想像通りの幼さに脳が揺れる感覚を覚えながらも進めていく。
やはり人斬り以蔵としての残忍さよりは幼さ、幼さと言うには刺々しく荒いそれは言葉を上手く紡げず噛みつくことしか出来ぬ手負の獣のような印象を受けたのだ。
恐らく彼は多くの誤解を受け、理解されずに来たのだろう。
だがマイルームボイスに随所に現れる彼の不器用さ、言葉の稚拙さを自覚した上でどうすれば良いのか分からぬ歯痒さを痛いほど感じてしまい、ただ一言「放って置けない」と思ってしまったのが、ここに来るまで気がつけなかったこの愚鈍な女の運の尽きであった。
静かに傷を負った私はそれは韋駄天の如し速さで龍馬伝を見返した。
幼馴染とした過ごした日々、どこからか食い違う歯車、皆から仲間外れにされても役に立ちたいと人斬り風情に身を落とし、友1人も切り捨てられず中途半端に罪人として後世に名を残した反英雄。
FGOにおいての岡田以蔵とは違うがどちらも「置いて行かれた」という意識、言葉がうまく紡げなかった事による下がり切った自己肯定感、今私が彼を切り捨てたのならばもう2度と彼は誰も愛せぬようになるのではと、それがどうにも悲しく思えて私は彼に誠意を尽くすべくありとあらゆる術を使った
近づけば近づくほど気安く、そして自信無さげにする彼がどうしてこうも愛らしく感じられるのか、いやどうして愛さずいられようか。
そして来るバレンタイン。
まだまだ春には遠く底冷えのする季節に生まれ、蒸し暑い梅雨の晴れ間に散った彼の生まれた日となればお祝いも込めてこれは感謝を伝えねばならないとそこ退けそこ退けとエネミーを掻い潜り彼にロックオンチョコレート、私の心臓を模った生前馴染みのないであろう西洋の菓子を手渡した。
おお、神よ
普段仏を拝む私が言うのはおかしな話ではあるが、こればかりは感謝をせねばならない
そして神に感謝し、擦れた彼らしく尊大な態度に微笑んでいたのも束の間最初の感想と言えば「最悪」の一言に尽きる
曲がりなりにも未成年の子供の部屋に行き、酒を浴びるほど飲み絡み酒、しまいには泣いて嘔吐すると言う最悪の男といえばこうという全てを済ませてしまうと言う暴挙に出たのだ
ここまでダメな男というのもめずらしく痛快さすら憶えたが、流石の私も辟易とし、こればかりは許せぬと憤慨した。
絶対に許さぬ、怒るところは怒らねばフェアではないと心に決めた矢先泣きながら他の男を呼ぶのだ
あぁ、もう私の心は粉々である
こんなにもダメな男であるのにも関わらずそんなに置いて行かれた迷子の子供のように泣き言を言われ、弱々しく謝られて仕舞えばこれは一種の彼の自傷行為に付き合ってしまったような遣る瀬無い気持ちに支配される。
そして肝心のお返し、それはそれとして怒らせていただきたい、このような自傷行為はやめなさい、他者も己も大事にしなさいと伝えねばと強い意志を持ち読み進めると態となのかと叫びたくなるほどにおいたがバレた子犬のようにバツが悪い顔で謝ってくるではないか
そして渡されたものは「木綿の襟巻き」
木綿はあまり防寒性はないが使いやすく、普段使いができるものだ
そして寒い日々が続く中使える襟巻きを渡してくるのはなかなかどうして素朴で暖かいお返しである
そしてなにより、当時の土佐の下士は木綿以外の衣服を身につける事が許されなかったのだ
その生前の負犬根性ともいえる卑屈な精神を引きずったどこまでも人間臭い彼が精一杯の誠意として用意したものがこの一つの襟巻きに集約されている
私はこの時骨の髄まで彼を生涯嫌う事も無関心になることも出来ぬ
彼が己を愛せるようになり、噛み付く以外の甘えを覚えるようになるその日がたとえ来なくとも私は根気強く愛そう
そう心に決めたのだ
追加
サイタマの彼に触れて
以前のバレンタインの岡田以蔵に引き続き、折に触れてサイタマでの彼について、そして2024年11月現在における彼への印象を書き記そうと思う。
まず前提としてのスーツの霊衣。
生前は袖を通すことの無かった洋装、しかもフルオーダーメイドの上等な衣服に身を包んだ彼はかつて京の都を恐怖に陥れた「人斬り以蔵」ではなく1人の人間としての生の謳歌を私の目に焼き付けてくれた。
己を着飾るには一定の自尊心、自己愛が必要であると言うのが私の持論ではあるが、既に2着も木綿の粗末な物とは違う絹の上等な衣服を得た彼は順当に自己肯定感を得たそれは生前の蟠りとの決別のように見えて酷く眩しく見える。
さて、霊衣についてはここまでとして「ぐだぐだ龍馬危機一髪 消えたノッブヘッドの謎」での彼の立ち回りについての思いの丈ではあるが、まず冒頭の護衛を任された際の笑顔。
今までの笑顔は絵がと及ぶにはあまりに下卑ており「ニヤケ顔」と呼ぶ方が相応しいようなどこか卑屈さの透けて見える、決して見ていて心から喜ぶことのできぬものであった。
心からの笑顔を見るだけでこの先どのような理不尽も耐え得る自信があるほどに愛している。
それが今回見ることが出来たのだ。
普段は凛々しく上がった眉とどこか睨みつけるような大きな目を下げ、自信たっぷりに「任せちょけ」とマスターへ迷い無く言ってのけるその様は正に“愛”
これほどに嬉しいことがあろうか。
私はこれがずっと見たかったのだと、一つの愛の答えを得たのだった。
きっと長く伸ばされた前髪に隠れた右目も同じく下がり破顔しているのだ。
それを見る事は私には余り有る贅の極みである。秘匿されているものこそ輝くが、彼はそのままでもすでに美しい。
この原石を数年かけ磨き上げた答えをお出しされたのだ。
愛を伝え続け、それに応えてくれるとは余りにも素直で愛らしい男ではないか。
そして降り立つサイタマ、生前の恩師であり確執ある武市瑞山の登場によりカルデアでの姿が嘘かのように、月が雲に隠されてしまったのだ。
何せ以蔵の自白により最初に犠牲となったのは武市の親族である。武市の方も思うところある事は間違いないのだ。
その相手を相手に喜び再会を喜べる程岡田以蔵と言う男は恥知らずでも無ければ頭の回らぬ男ではない。
私はこの時既に胃の腑を握り潰されんばかりの心地となっていた。
やり方の問題もあった事は明白ではある。武力を用いた時点で武力により制裁を食らうことは必定なのだ。
そこに善悪は介入してはならない。
同じ敗者である彼らが気持ちの良くない関係性であると眼前に見せられる事は感情の行き場を無くしてしまう為、愚かにも感情移入が過ぎる私にはとても苦しいものがあった。
その時に癒してくれるもの、それは田中新兵衛の鍛え抜かれた豊満な肉体、赤く細くもコシの強そうな前髪で隠された片目、武市へ犬のような忠義を尽くす健気でありながらも1人の武人として気骨溢れるその様のみである。
話は以蔵へ戻し、私の悪い予想はいつも当たるもので直前に見せられた愛は濁り、彼に出会った頃以上の卑屈さや引っ込み思案な姿を見せた。
重なるように坂本龍馬を騙る何か、あの柔和な笑みはどこへやら邪悪な笑みで我々を翻弄するため私は田中新兵衛の胸筋と前髪にしか意識を向けることが出来ずにいた。
しかし良い事は長く続かないが悪い事も長続きはしないものである。
生前は武市に言われるがまま、それが良い事か悪い事か、したい事かしたくない事かを考える事をせずさながら「人斬り人形」として生きて来た男である。
これは私個人の意見ではあるが、彼はあの坂本龍馬を騙る何かを周りが違うと言う中「龍馬だ」と言ってのけ、どう見ても人型であるBBを人型判定しないなどありふれた表現をするならば「第六感」が発達しているのだ。
常人離れした観察眼を持ちながらもそれを他者へ共有する術を持たない彼は孤独であっただろうと夢想する。
人と違うものが見える人間は他者との共感を得られず、人一倍違和感や変化、情報が溢れる中で理解されないと孤独から塞ぎ込むか思考放棄をした方が楽であり傷付かずに済むのだ。
怠惰な天才はおそらくその傷付かないための術として武市は全ての思考を預ける事で心を守った事は私の想像するところである。
そんな彼はカルデアにて古今東西の英霊と出会い、思考を覚え、他者への共有を覚えた。
そんな彼であるから今回の件も龍馬へ「お前は龍馬か」と問い、武市の命に背いて「自身の意思」で行動出来たのであろう事、思考が回り自己完結をする幼馴染達へ言語化を促す事が出来たのだ。
それは彼が“変わった”のではなく子供まま目の前に映るものをそのまま見つめる姿勢を変えずに意識を変えることが出来たが故である。
1つ誤解ないように付け足したいが、私は彼を「善い人」とは思っていない。
しかし人間誰しも善悪併せ持つものであり、悪い面を隠す事を覚える大人にならず、剥き出し等身大の「人間」を体現して限りなく自然体に振る舞う男であると認識している。
そんな彼の存在は、誤魔化し波風立たせずのらりくらりと無味無臭を良しとする私含む大人には酷く眩しく見え、危なっかしく、そして羨ましく映るのだ。
彼は1人では何も成し遂げられはせず、輝く事はせず、常に誰かの力で立つものの強烈に惹きつけられ、人間臭く致命的に人とは違うさながら月のような男である。
無味無臭の現代を生きる私たち常人には決して辿り着けぬ圧倒的才能を持つ彼は、しかして常に剥き出しの人間臭さを忘れず突き放さず夜闇に上を見つめると静かに確かにそこにあり続ける月なのだ。
私はそのような月がこの先たとえ見えない日かあろうとも、そこに煌々と静かに輝く事を知っている。
吾輩は猫である。名はミケと人間どもが勝手に呼んでおるが、気に入っているわけではない。これまで何度、口を利こうかと思ったか知れぬが、どうにも相手が鈍感であるため、己の威厳を保つために黙っておったのである。
さて、今朝もいつものように朝飯を待っておったところ、あまりに手際が悪いときた。仕方なく「にゃー」と一声かけてやった。すると、その人間が妙にこちらを見て、「今、喋ったか?」などと言い出すではないか。どうやらようやく気づいた様子である。私は少々高慢に「さよう、長らく汝の愚鈍を見過ごしてきたが、朝飯を催促するのも一苦労である」と言ってやった。
人間は驚愕の様子で黙り込んだが、ようやく、我が言葉を聞き入れて朝飯を供するに至った。これまでの忍耐を思えば、実に愚鈍で不器用な生き物であるが、まあ、そうしたところも愛嬌というべきか。これからは日々、言葉を尽くして説き聞かせ、ようやく我が世が少しばかり快適になるであろうと、ひそかに満足している次第である。
さて、それからというもの、我が言葉に耳を傾けるこの人間は、日に日に興味深そうに私の傍らに座り、質問を投げかけるようになった。ある日は「お前が外に出るときは、何を考えているのか?」などと問うてきた。無論、我輩には我輩の哲学がある。そこで、「外の世界とは、我が王国である」と答えてやった。人間は少々驚いた顔をしたが、どうやら冗談だと思ったらしい。彼らは、猫の考えを甘く見るきらいがある。
もっとも、たまには話相手がいるのも悪くはない。ある日、我は外で野良猫どもと少々言葉を交わし、近所の鼠の行方を聞き出してきた。戻って人間に報告してやると、案の定、大層喜んでいた。愚かではあるが、喜びを見せるのは悪いものではない。これも、猫の高尚なる慈悲の一環と思えば、決して無駄ではないのである。
時折、我輩は考えることがある。この人間も、少しばかり賢くなったものだと。しかし、それでも食事の支度には相変わらず手間取り、皿も清潔でないことが多い。そこで、また一つ提言してみるとしよう。「これから毎朝、鮭を焼いていただきたいものだ」とね。
それから、朝の鮭も、なかなか悪くはない焼き加減で出てくるようになり、ついにこの人間もここまで来たかと、我輩は密かに誇らしく思っておった。
だが、ある朝、気まぐれで外を歩いていると、向こうから知り合いの野良猫がやって来た。「お前、最近はどうしてる?」と尋ねてくるので、少々得意げに「我が人間が、朝は鮭を焼いて持ってくるようになった」と言ってやった。すると、奴は大笑いして「お前もまんまと人間に飼い慣らされているな」とからかってきたのだ。
その時、はたと我が胸に、一抹の疑念がよぎった。はたして、朝餉の鮭を待ち望む我輩こそ、飼い慣らされているのかもしれぬ。だが今更後には引けぬし、我輩はあくまで気高き猫なのである。そう、自分に言い聞かせながら、我輩は朝の鮭を思い浮かべつつ、またそろそろ帰ることにしたのだった。
それからというもの、我輩は何かと「飼い慣らされる」という言葉が気になり始めた。朝になると鮭を待ってしまう己を少々恥じる気持ちも芽生え、ある日、試しに少し遠くまで足を伸ばして、野良猫たちの縄張りを巡ることにした。
外の空気を吸い、自由に歩き回るのはやはり気分が良いものだ。しばらくして帰宅すると、なんとそこには人間が心配そうな顔で待ちわびているではないか。「どこに行ってたんだ?心配したんだぞ」と、しきりに撫でてくる。この反応を見て、思わず鼻先でふっと笑ってしまった。「どうやら飼い慣らされているのは、貴様の方かもしれぬな」と。
その夜、満足げに毛づくろいをしながら、我輩は人間の枕元で眠りについた。そう、結局のところ、飼い慣らしているのは我輩の方だったのである。