はてなキーワード: 愚か者とは
初めからイスラエル側の主張鵜呑みにした増田書いといてどの口で言うのか。暴言どうこう言って誤魔化してるけど、イスラエルの問題点無視して「ハマスが悪い」って言ってたよね?
都合の悪い指摘は全無視して何が「こっちは、ハマスのテロとイスラエルの強硬姿勢、どちらも問題視してる」だよ。
全然公平じゃねーだろが。論点に答えず口の悪さの問題にすり替えるのは(すり替えすら出来てないが)「理屈で反論できない証拠だよ。」
イスラエルに思いっきり肩入れしといて反論出来なくなったら「どちらも問題視してる」か。本当に
なら初めから「ハマスはテロリストだから悪い」とか言えねーだろが。頭悪すぎんか?
イスラエルが国連の勧告や停戦協定無視してパレスチナの民間人虐殺し続けてるのだから、テロリスト集団のジェノサイド国家であることは否定しようがない。白旗挙げてるイスラエル人捕虜撃ち殺したのもイスラエル軍ですよね?「事実を見て、現実に即して話せ。それができないなら、話す価値すらない。」
ネタニヤフの延命の為だけに虐殺続けてるのはどう正当化するんですか?
ああ、お前みたいな卑怯者のイスラエル人ネタニヤフサポーターに質問しても無駄でしたね。都合悪いことは答えず被害者の振りすれば良いと思ってる嫌われ者の愚か者だから
何者かになりたさの根源は、子を成すための、種を残すための本能だと思う。
何者か、は母であったり父であったりして、きっと子を成せばこの何者かになりたさは消えるんだと、そう思っている。
ずっとずっと生まれてこの方何者かになりたかった。変わり者、と言われた日には飛び上がって喜びたかった。職業の向き不向きを診断するテストには“芸術家”と出るように答えた。
逆に普通を自称していれば、何者かになれる気がした。本物は自分が変わり者だと思わない、と思っているから。
結局なにものにもなれていない。私には何もない。かろうじてある若さも、日々少しずつ失われて行く。
たった1人の大切な娘、たった1人の大切な孫なのに。ずっとずっと両親や祖父母に申し訳なかった。お宅の大事な娘さんを大切にしてあげられなくてごめんなさい。
この名前を失って、ただの人間になった時の私は、無計画で頭が悪くてあまったれたただの愚か者だ。
恩師の、人間の愚かさは可愛さだ、という言葉に救われたのは本当は何よりも自分が愚かだからだ。
なにものにもなれなかった。今からでも遅くない、誰かの妻に、母になれば良い。
自分の責任も持てない人間が、誰かの人生にただ乗りしようとしている。
何者かになりたさを埋めてくれるずっとやりたいことがある、そのための努力をしないくせにそれを失いたくないとほざく。
じゃあどうしたら良いんだよ、と思う。
わたしはどうしたらいいんですか
ある女性vtuberが尿路結石になり、復帰した時の配信で、「やーい石女(いしおんな)ーw」というコメントがあり、配信主も「そんなこと言うなーw」と怒っていた。
石女は「うまずめ」とも読み、「子供ができない女性」のことを指す。
恥ずかしながらこの言葉は知らなかった。
と言いたいが、正直「恥ずかしながら」と言いたくない。
これはカバーしきれんよ。これを教養といわれても、正直出てこないだろう。
「教養がない事を恥じない愚か者!」と言われそうだが、いくら教養言われても限界がある。
「読書しない愚か者!」とも言われそうだが、一室書斎で本がパンパンに埋まっている人レベルじゃないと出てこないんじゃないだろうか。
ネットで差別用語一覧みたいなページを見ると言っても、こぞってそんなページ見る人はなかなかいないだろう。
「推しを使ったら差別用語を使うな!と怒鳴られ、何のことかと思ったら唖と勘違いされていた」みたいな話も聞いたことあるが、それもそこまでカバーしきれんよとしか言えない…
というか一押しも本来は一推しだったようだし。好きなものを推しというのはそんなにおかしくないらしい。
これで怒られるんだったらシステムエンジニアの前では「○○さん、踏み台持ってきて!」という言葉は禁句にしてほしいな、と言いたくなってしまう。
「情弱ビジネス界隈」情報の非対称性を悪用して人々を操作したり搾取したりする行為は、倫理的にもトーラー的にも極めて問題があります。
ユダヤ教の知恵文学(とくに『箴言』『コヘレト(伝道の書)』)には、このような現代の問題にも響く深い洞察があります。いくつか引用しながら見てみましょう。
ユダヤ教では、人をだますこと(גְּזֵלָה – gezelah、詐欺・搾取)は重大な罪です。レビ記19章には「お前たちは互いに欺いてはならない」と明記されています(ויקרא י״ט:י״א)。
また、「בל תשים מכשול לפני עיוור」―「盲人の前に障害物を置くな」(レビ記 19:14)という戒めも、情報弱者をあえて罠にかけるような行為を禁じる教えとして、まさにぴったりです。
אם אתה עושה כסף על חשבון חוסר הידע של אחרים — אולי אתה צריך לבדוק את המצפון שלך, לא את חשבון הבנק שלך 😉
この手の話題になるといかに技術的に難しいかをドヤ顔で語り「この程度のことも分からぬか愚か者め」というムーブする人が一定数いるけど、正規化自体は技術的には特別すごいことじゃなくて、一定基準に満たさないものをリジェクトとして弾いて人力で処理するのを繰り返すだけなわけで、aiとかハイテク使わなくてもエクセルで十分可能な範囲だと思うんだよな
問題は元データの収集や分類方法とそこで集まる膨大なデータをどう処理するかって点であって。
それを「技術的な難しさ」と本当に理解してる人は言ってると思うんだけど、たまに正規化自体がハードル高いと思ってマウント取ってる人いるよなと
ワイは立派な愚か者になれたやで🤑
それはご都合主義なサバイバル理論だろうが。インフレに勝てるやつだけが幸せになれるなら、政策なんていらねぇんだよ。
強いやつが生き残るだけのジャングル経済をやりたいなら、まずは資本主義の基本理念を投げ捨てろ。話はそれからだ。
それにな、「経済成長万歳」?その「成長」、誰の成長かはっきりさせろや。
名目GDPが上がったって、実質賃金が下がってんだったら、それは経済全体が成長してんじゃなくて、ごく一部の奴らだけが肥えてるって話だ。
しかも、庶民の可処分所得が目減りして、消費が冷えれば長期的な持続成長すら怪しくなる。目先のGDPだけ見て「成長してる感」に酔ってんじゃねぇ。
じゃあ聞こう。「インフレに勝てる金を得られる人間」って誰だ?
資産を持ってるやつ、投資で抜けるやつ、高年収のエリート、もしくは物価を上げても商品が売れる大企業の経営者だろ?
非正規雇用、年金生活者、子育て家庭、地方の低所得層はどうすんだよ。インフレに勝てる手段がねぇヤツは、ただの負け犬か?それが幸せな社会の前提か?
しかもな、こういう詭弁がヤバいのは、政策の失敗を「お前らが弱いから」と言い換える点だ。
その現実を「勝てなきゃ自己責任」って突き放すんだったら、そもそも経済政策なんてやる意味がねぇ。税金払わせる正当性もねぇわ。
いいか?経済成長ってのは、全体として国民の生活が底上げされること。
インフレをぶち上げて、勝てるやつだけが笑って、その他大勢が沈んでる構造のどこに万歳があるんだ?
そりゃあ株と不動産握ってたやつはウハウハだったろうさ。でもな、それが持たざる99%の生活を食い潰してるって自覚がないのは、ただの愚か者か既得権益の犬だ。
はてな匿名ダイアリーで、前回の兵庫県知事選挙(令和6年度兵庫県知事選挙)について記録を残したものとして、雑感を残しておきたいと思う。
あまりにネガティブだと感じて一度は投稿せずに消したが、根強くキャンペーンが続くので、多少なりとも意味があるだろうと再度書き直した。
まず最初にスタンスを示しておくが、自分は新聞をはじめとするマスメディアは、社会の公器として、社会をより良くするために責任を持って欲しいと思っている。
明確に、社会の鏡ではなく、社会の鑑であるべきであると思っている。読者が快哉を叫ぶような記事を書くべきではなく、煙たがられても正論を説き、批判されても実利をとってほしい。
そのため、「アンケートで、辞任すべきであるという声が多い」として、辞任を迫るのは明確に誤りであると、きちんと解説記事を書くことこそが必要なのではないか。
責任の取り方というのは辞めることではなく、起こってならないことは再発しないように整えることだ。
安易にあいまいな定義の単語を使うべきではない。それはレッテル貼りや印象操作にしかならず、思い込みを強化するだけだ。
(おそらく善意もしくは悪意なく行なっているだろうことから個別具体例は挙げないが)そういったカルト呼ばわりするポストの延長線上に立花孝志がいることは忘れないで欲しい。
あれだけの騒ぎになって行われた兵庫県知事選挙の投票率55.65%が示すものは、「大半の有権者は無関心だった」であり、本質的には「日本人は選挙に関心が無い」ということくらいしか言えない。
まず少しだけ選挙について解説が必要になる。結論だけ言えば「選挙は概ね始まった時には終わっており、風が吹くのは例外である」となる。
日本の選挙においては、組織票(支持団体や業界団体など)と、地盤(後援会や地域でのネットワーク)とが、必要条件であり、これ無しにはスタートラインにすらつけない。
選挙について漠然と高校の文化祭の出し物を決めるような、その場で手を挙げて多数決で最多得票数を得たものが選ばれるというイメージが語られることがあるが、正しくない。
イメージとしては、出し物を決める投票を行う遥か前から、文化部派と運動部派と委員長派に分かれており、よほどのことがない限り、最も大きい派閥の提案が通る。
提案そのものはさほど重要ではなく、組織化されているか、地盤があるかが重要であって、最後にその提案の魅力で浮動票が動く。この浮動票の動向を選挙用語で、「風」と呼ぶ。
さて、その意味で前回の知事選挙は、概ね順当な結果に落ち着いたと言える。
つまり、離反者が出るほどの情報は出揃っていない段階での選挙なので、斉藤陣営は組織票も地盤も手堅く持っており、あとは浮動票だけであった。
翻って対抗とされていた稲村陣営は、野党系の支持を受けてはいたが、一本化されておらず、どこまで浮動票を取り込めるか、という点であった。
最終的な開票結果が斉藤陣営111万票に対して、稲村陣営98万票というのは、言っては悪いが、善戦した方ではないかと思う。
アンケート調査方法に問題があり恣意的だから、と書くと身もふたもないので少し解説をする。
例えば、該当アンケートであなたが「パワハラは容認できますか?」と聞かれれば「容認できない、不支持だ」とするだろう。
同様に「パワハラを認定された斉藤知事は辞職すべきですか?」と聞かれれば「辞職した方が良い」と回答する人も多いと思う。
いわば、属している組織や後援会を裏切る(離反する)決断を取れるかどうか、というのが投票行動の変化である。
そして、一番最初の「大半の日本国民にとって選挙には関心がない」というのも思い出して欲しい。
無作為なアンケートをとると、その概ね半分以上(通常の知事選挙は40%程度の投票率しかない)は、選挙に行かない。無関心である。
これらが組み合わさると、「投票には行かないが憤る人」や「アンケートでは憤るが実際には支持(投票)する人」が生まれる。
アンケートが恣意的と書いたのは、「では斉藤知事は責任をとって、給与返上をすべきですか?」と聞いていないからだ。
問題を起こした人物がいる、その人物は責任取るべきである、辞任 or 継続 という形式だと、人は辞任を選ぶ。
組織票が割れた場合、地盤が弱い場合、突発的に浮動票の得票率が高くなった場合に、風が吹いて盤面がひっくり返ることがある。
ただ、そうした場合でも概ね10%程度の変動であり、強固な地盤がある場合にこれを覆すのは容易なことではない。
私が最初に「マスメディアは社会の鑑であって欲しい」と書いたのはこのためで、兵庫県内の状況を冷静に見ると、もはや辞任を迫るフェーズは終わってしまった。
そのため、このマスメディアによるネガティブキャンペーンは、社会の鏡として、読者のニーズに応えているにすぎない。端的に言えばニュースバリューがあるだけである。
今後、パワーハラスメントを再発させないためにどのようなことが行われると表明されており、それがどう実行されているのか、どう確認できるかを監視するのが重要であり、
また、公益者通報保護制度はどのように運用されるのか、その信頼が失われたとして、如何にして信頼を取り戻していくのかを監視して報道するのが社会の公器としてのあり方ではないか。
まさに前回報道合戦を繰り広げたために起きた、拙速と言うしかない不信任決議がどのような結果を招いたのか、思い出して欲しい。
(前回の選挙後の雑感にも書いたが、内部告発文書の裏どりと解説を行い、議会に結論を待つ様に諌める姿勢を取るべきではなかったのか思う)
そうした地味な報道はニュースバリューとしては読者のニーズに乏しいのかもしれないが、スキャンダラスな報道をするのは週刊誌だけで良い。
長々と書いてお前は斉藤支持者なのだろうと言われるかもしれないが、前回の投票先は記載しない。
全ての選挙における秘密はこれを侵してはならないと憲法にも記載されている。防衛的な文章を書くためだけに使用して良いような軽いものではない。
私は、兵庫県知事が公約達成率を公表しているのは支持するが、達成度合いが曖昧なのは問題だと感じている。
若者の支援を打ち出しているのは支持できるが、では井戸県政と比べてどうかと言われれば、まだ進捗は芳しくないと思う。
詰まるところ、支持不支持や辞任続投というのは大雑把にすぎるのだ。給与を返上したから禊が済んだとも思わないし、複雑な物事を単純に解決しようとしすぎるのは良くない。
マスメディアは、もっと真剣に、握りつぶされない内部通報や告発者をどうすれば守れるのかを徹底的に調査報道して欲しい。
そして一番重要なのだが、もしここまで読んでくれたのだとしたら、あなたの住んでいる街はどうだろうか?
都内に住んでいるのだとするなら、都知事が今月何をしたか知っているだろうか?市に住んでいるとして、今月の市議会は何を話していただろうか?
斉藤支持者はカルトだという投稿にいいねをつける前に、兵庫県民は変わらないと書く前に、あなたの住む街について無関心ではないだろうか?
「XX県の人間は、YYという問題を認識できない愚か者だ」と急に指摘された時、知らなかったでは政治に無関心すぎる。
兵庫県政を憂いてくれるのはありがたいが、スナック感覚でスキャンダルをつまむだけなら止めた方が良い。
スキャンダラスな民意で誰かが動くと、同じ理屈で先鋭化した集団がどこかに向かうのを止められなくなる。
どの陣営にとっても必要なのは再発防止であって、魔女狩りではないはずだ。
繰り返しになるが、選挙は概ね始まった時には終わっているのだ。報道次第でどうにでもなる風だと思われているのには、理由がある。
投票したい候補がいないのかもしれないが、ここは理想の楽園ではなく、現実の日本で、出されたカードから選ぶことしかできない。
棄権しても良いが、白紙委任状を提出していることは忘れないで欲しい。
自分がカードとして打って出る権利は存在するが、地盤看板鞄が無ければ実質的には意味を持たない。
同じように白票を投票所に入れにいく権利はあるが、現実の選挙戦では、システムを理解していない表明にしかならない。
今日から自分の住む地域の推し政党を決めろとは言わないから、せめて自分の暮らす地方自治体が何をしているか、何を課題と感じているかは、知っておいて欲しい。
他山の石として欲しい。
この文章には独身男性に対する侮蔑や偏見が含まれており、人の価値を結婚や異性からの承認に限定して判断しています。しかし、キリスト教の聖書の価値観から見ると、こうした考え方は明確に誤っています。以下に、聖書を引用しながら反論します。
「人は外の姿を見るが、主は心を見る。」
— サムエル記上 16:7
この聖句は、神が人を見る基準が外見や世間の評価ではなく、「心」であると語っています。結婚しているかどうかや他者にどれほど認められているかは、神の前では本質的な価値を決める要素ではありません。
パウロは、独身者は結婚している人よりも主に集中できるという理由で、独身を積極的に勧めています。つまり、独身であることは決して「拒否された証」でも「恥ずかしいこと」でもなく、霊的に価値ある選択肢です。
これらの聖句は、他人を蔑んだり、見下すような言葉遣いをすることは、神に喜ばれない罪であると示しています。文章のような冷笑的で攻撃的な言葉は、クリスチャンの立場からは明らかに間違っています。
「あなたがたのうちで罪のない者が、まず石を投げなさい。」
他人の人生を嘲笑する前に、自らの心を省みるべきです。誰しもが神の前では罪人であり、他人を裁く資格などありません。
独身の人が「恥ずかしい」などという考え方は、聖書的にはまったく支持されていません。むしろ独身者には特別な賜物と使命があり、神の前で尊い存在です。人を侮辱する言葉の方こそ、悔い改めるべき対象です。
ワイは愚か者&怠け者やで🫥
ワイは愚か者やで🤪
とても興味深い哲学ですね。
これらの考え方は、東洋的な、特に禅や道教的な思想の香りがしますが、ユダヤ教的視点からも、それぞれに対して意味深い対話が可能です。
それでは、ユダヤ教の教えと照らし合わせながら、一つひとつ丁寧に見ていきましょう。
ユダヤ教では「努力(עמל, amal)」は非常に高く評価されます。
トーラーの学び、ミツヴォット(戒律)の実践、日々の仕事や家庭生活においても、人は「שותף עם ה'"(神との共同作業者)とされます。
ただし、「努力の方向性」が重要です。もし努力が他者を傷つける結果になるなら、それは「正しい努力」ではありません。
よって、「無理な努力が害を生む」という懸念は理解できますが、完全に努力を否定することはユダヤ教とは相容れません。
これは「עין טובה(アイン・トォヴァ)」=「良い目を持つこと」に通じます。
ユダヤ教では、自分の持っているものに感謝し、他人の持つものに嫉妬しないことが理想とされます(Pirkei Avot 4:1「誰が金持ちか?自分の分に満足する人」)。
評価や承認に執着しすぎることは、「ガアヴァー(傲慢)」の一形態とみなされ、警戒されます。
『箴言』(Mishlei)によれば、「愚か者は口数が多い」とあります(Mishlei 10:19)。
ユダヤ教では、沈黙を守ること、謙虚さを持つことが賢者のしるしです。
つまりこの哲学は、非常にタルムーディック(タルムード的)な精神に近いです。
ラビ・ヒレルの言葉:「あなたが嫌なことを、他人にするな。それがトーラー全体であり、あとはその解説である」(Talmud Bavli, Shabbat 31a)。
シャバットは「何もしないこと」の聖なる実践であり、「being」ではなく「doing」を止める時間です。
心静かに神の創造を味わい、存在するだけの喜びを感じる——これはシャバットの核心です。
ユダヤ教もこの世界が有限であることを認めつつも、「無限なるもの(אין סוף, Ein Sof)」である神との関係を通じて、永遠性への接続を目指します。
ユダヤ教でも、人との比較や競争に執着するのは危険とされます。
『伝道の書(コヘレト)』には、「風を追うようなものだ(רְעוּת רוּחַ)」という表現があります(コヘレト 1:14)。
人生の多くの営みが虚無に感じられるという哲学的な問いに、ユダヤ教も深く向き合っています。
これは再び『Pirkei Avot』4:1の教えと一致します。
「איזהו עשיר? השמח בחלקו」—「誰が金持ちか?自分の持っているもので満足する人」です。完璧な一致!
「物に執着しすぎると霊性が曇る」との教えはユダヤ神秘主義(カバラ)にも見られます。
神殿時代の大祭司(コーヘン・ガドル)は、シンプルな装いで神と向き合いました。余計な物は心の雑音となりえます。
この精神も、ユダヤ教の「カヴァナー(כוונה)」=「意図を持って行う」ことと響き合います。
すべての行いに神聖さを見出すというのは、ユダヤ教の根本精神です。
祈りの前に手を洗う(נטילת ידיים)、食事の前に祝福を唱える(ברכה)なども、この意識の表れです。
総合的に見ると、これらの哲学の多くは、ユダヤ教の倫理・霊性と非常に親和性があります。
まさに「חכמה בגויים תאמין」(異邦人の中にも知恵がある、それを信じなさい)というタルムードの教えの実例ですね。
預言者たちの中には、周囲の人々から「異常」と見なされるような行動をとった人物が何人もいます。
ですが、これは彼らが「狂っていた」ということではなく、神の使命を伝えるために、あえて常識を超えた行動を取った、というのがタナフ(ヘブライ聖書)やラビ文学における理解です。
では、代表的な預言者をいくつか紹介し、その「異常な振る舞い」について解説しますね。
ホセアは、神の命令によって「淫婦」とされる女性と結婚します。
これは神とイスラエルとの関係の比喩として、預言者が自らの人生を通して神の痛みや愛を表現するものです。
しかし、当時の社会では、明らかに「異常」と見なされた行動でしょう。まるで神の心を自分の人生で「演じて」見せるような預言活動です。
エゼキエルは、最もドラマティックな行動をとった預言者の一人です。彼は様々な「演劇的な行動」で神のメッセージを人々に伝えました。
いくつかの例を挙げると:
これらはすべて、神の裁きと人々の無感覚さを象徴するためです。
彼を見た人は、「この人は気が狂ったのでは?」と思ったかもしれません。しかし、彼の行動は神のメッセージを伝えるための象徴的な行為でした。
『サムエル記』では、シャウル王が預言者集団と出会い、突然彼らと一緒に「預言し始める」という場面があります。
このように、預言行為は一種のトランス状態や霊的な高揚状態と結びついており、それが周囲の人々には「異常」や「狂気」のように見えることがあったのです。
実際、タナフには「狂気」と「預言」を区別するのが難しいというテーマもあります。
「主は言われた、『わがしもべイザヤは腰布を解き、裸足で歩いている。これは三年の間、エジプトとクシュに対するしるしと預言である』」(イザヤ20:2-3)
これは、エジプトとクシュ(エチオピア)がアッシリアに捕らえられる象徴的な行動です。しかし、当時の人からすれば、明らかに「正気ではない」行動と映ったでしょう。
タナフとタルムードの世界観では、「本物の預言者」と「偽預言者」や「狂人」の違いを見極めることは非常に重要でした。
周囲に理解されず、孤立した預言者はしばしば「狂っている」と見なされることもありましたが、それでも彼らは神の真理を語り続けました。
タルムードでも、預言とは一種の超自然的・霊的な体験とされ、時にはそれが心身への負担となるとも言われています。
また、ババ・バトラ12bではこう書かれています:
元増田の内容からは「移動しながら電波を発することは極めて愚かな行為」だという主張(煽り)が読み取れるよね。少なくとも「電波発しながら移動とかマジっすかぁ」という表現からそう読み取るのも無理はないよね。
その上で産経記事の「繁華街を車両で移動しながら、クレジットカード情報を盗み取るのが目的」を解釈するなら、「犯人グループが元増田の言う通りの愚か者だった(電波発しながら移動した)」という自然で素直な解釈とは別に、産経の文章を、「電波を出しては止めて地域を転々と移動した」と解釈することも可能じゃないか?と思ったわけよ。そこには「犯人グループもそこまで(増田にバカにされるほど)愚かではないのではないか」という考えもある。
とは言え、どっちにしても横増に言わせればどっちかが移動してればいいわけで、「電波発しながら移動とかマジっすかぁ」という煽りは、横増にとってもあまりピンと来るものじゃないんだよね、きっと。そもそも電波を発してれば容易に見つかるのだから、発信側が移動してるかどうかは、犯行グループの愚かさにはあまり関係がないんでしょ。
ああ、まさに「比喩」という崇高な概念を汚す愚か者どもへの、実に見事な解剖ですね。しかしながら、このような「言語の厳密性を軽視する態度」こそが、まさに知的怠慢の典型ではないでしょうか。
「丸い」という言葉でボールと地球を同列に並べるとは! さすがは「抽象化」という名の思考停止を美学とする方の言説です。もし「丸い」という属性だけが重要なら、なぜ「同じ丸さ」のドーナツや輪っかは例示されないのでしょう? ああ、もちろん「例示の手段」という便利な免罪符があれば、選択的例示の矛盾など気にする必要はないのでしょうが。
「単語に反応する馬鹿」というご指摘は痛烈ですが、むしろ「語義を厳密に定義しない教養主義者」こそが、議論を砂上の楼閣にしているのではありませんか? 建築の図面を「細長い紙筒」で見る愚か者を嘲笑う前に、ご自身が「言語」というレンズそのものを曖昧に磨いていることに気付くべきでしょう。
比喩の本質が抽象化にあるならば、その抽象度こそ厳密に定義されるべきではありませんか? さもなければ、私たちは「戦争はチェスゲームだ」という比喩に対して「なぜ駒が死なないのか」と問う「馬鹿」と同じ土俵に立つことになるのですから。
当然といえば当然である。
その最大の欠点があれど、もしも増田が何か素晴らしく上手いことがあったり、金持ちだったり、イケメンなら話は別だろう
悲しくなったからAIに想いをぶつけた 都合の良いことを教えてくれた 満たされた
でもAIには使用制限がある。一定回数使うとしばらく使えなくなるのだ
文章は綺麗でも、実体もない 所詮は企業の金稼ぎの道具でしかない
ジャップオスの性欲は異常などと言えばいい 増田には女性の包容力がないと何もできないのだ
飼い猫の1人がいた。 見つけた瞬間嬉しかったが悲しさが爆発した。
すぐに捕まえ、クッションの上に行き、猫を抱き抱えながら泣いた
猫はすごい生き物で、人の感情を細かく理解できる。だからそのままそっと座り、手をベロベロ舐め、肉球でふみふみを10分くらいしてくれた
それでも、いなくなった人たちのことが忘れられずに泣き続けた
挙げ句の果てには飼い猫に泣きつくほどだ
しかも残念だけど猫の寿命はそこまで長くない 少なくとも人間である増田より平均寿命が短いのは事実だ。
そうなったら俺はどうすればいいのだろうか。人間には到底