はてなキーワード: 愕然とは
子供も「新しい家に引っ越すのが楽しみ!」って目を輝かせてた。
家族と一緒に家具を選んだり、部屋をどう使うか考えたりした時間は、本当に幸せだった。
なのに……引っ越し当日に、全てがぶち壊された。
慌てて新居に駆けつけると、信じられない光景が目の前に広がっていた。
一本道に軽トラや車がズラッと駐車されてて、トラックが通れない。
道を塞いでる家の主(A家)は不在で、引っ越し業者も「どうにもならない」と謝るばかり。
そのうち他の家族も集まり、道はどんどん渋滞し、業者も混乱してあちこちに電話していた。
不動産屋経由でA家にやっと連絡がついたかと思ったら、「そこはうちの私道。何しようが自由」と一蹴された。
この住宅地、袋小路で車が通れる道はA家の私道一本だけ。もうどうしようも無かった。
昼過ぎ、A家の人間がやっと帰宅したが「迷惑だから溜まるな。警察呼んだ」と高圧的バタ宇治。
「親戚の車で、酒飲んでるから動かせない。ウチの敷地に駐車して何が悪いんだ?いい加減にしろよ、警察呼ぶぞ」と怒鳴り返された。
言い争いの中、警察が来て「通行の邪魔だから解散しろ」と逆に注意された。
A家はのらりくらりの対応で「無理に通ったら訴える」と挑発してくるし、まるで話にならなかった。
結局、引っ越し作業は中止となり、業者に謝って荷物を貸倉庫に預けた。
A家の言い分はこうだ。
「昔から住む私らに挨拶が足りなかった。工事の音も迷惑だった。」
「腹が立ったから私道は使わせない事にした。筋を通せ。権利も道理もこちらにある」
不動産屋は「挨拶はした。業者の不手際はあるかもしれないが、責任は取れない。」
「法的にはA家の言い分が強い。住めなくても補償はできない。直接A家と話せ」と無責任な対応しかしなかった。
ホテル暮らしをいつまでも続ける訳にもいかず、急遽アパートに引っ越した。
職場や学校、駐車場(車2台持ち)の条件をギリギリ満たす物件。
最低限の家具を買い直し、引っ越し代、ホテル代、駐車場代、敷金礼金で、
この時点で既に200万円近くの出費が発生していた。
A家との交渉は全くの徒労に終わった。
「不動産屋が礼儀不足なのが悪い。あんたらが住めなくてもウチには一切関係ないし困らない」
しまいには「住みたいなら私道部分を◯千万で買えば?何家族もいるんだから共同で買えばポンと出せるでしょ?」と挑発してくる始末。
不動産屋も「私道の説明はした。契約は完了済み。後はA家と話せ」と逃げ腰で、その内、連絡すらロクに取れなくなった。
弁護士にも相談したが、「勝ち目は五分五分。裁判でも年単位の時間がかかり、必ずしも望む判決が出るとは限らない。」と言われ、愕然とした。
他の家族も同じ状況で
ある家の旦那は「妻と喧嘩が増えた。家を買ったことを後悔してる」と憔悴してた。
うちも同じだった。
「誰があの家を選んだ」と責任を押し付けそうになるからと、お互い話もロクに出来ない。
今のアパートは古くて暑く寒く、虫も出る。
子供も元気がない。
新しい家に住める筈が、住んでいたマンションよりも数段古いボロアパート住まいなのだから当然だ。
競売物件トラブルで事件を起こした人の気持ちが、今なら痛いほどわかる。
事を起こす気はないけど、こんな悪意をぶつけてくる人間がいるなんて、想像もしてなかった。
家を売ることも考えた。
住んでも無いのにここまで下がるのかと言った所
「だってあの状態ですからねぇ…価値は非常に下がってしまうので…」
などと小馬鹿にした様子で言われ、思わず怒鳴り返しそうになってしまった。
他の業者も似たような回答だった。
住めない家のローンを抱えて負債を背負うか。
交渉を続けて一縷の望みに賭けるか。
既に事件から何ヶ月も経っている。家の雰囲気は暗く、毎日が息苦しい。
近い内に、どちらかを選ばなきゃいけない。
住めない家に金だけ払い続けるか、住めなかった家の為に大金をドブに捨てるか。
きっと家を買った事を一生後悔するんだろうな。
この前スマホ落とした。
落としたあとが非常に手間だったので書いていく。
家中をどれだけ捜索してもスマホがなかったので落としたのだと思い至った。心当たりがあったのだ。
そしてスマホ落としたことに気付いて一番最初に思ったのが悪用。2段階認証を突破されかねないと思った。
その後悪用はまあパスワードかかってるし基本的には大丈夫だろうと思い直し、家のMacからFind my iphoneで紛失モードにした。電源が切れていたのでどこにあるかは不明だった。
Macで公衆電話の場所を探し、最寄り駅にあったので公衆電話まで行く。
そしてここで痛恨のミス。
警察署の番号を調べてくるのを忘れる。
スマホで電話番号を調べようと思い、スマホを取り出そうとしてスマホが無いことに気付き、家に帰ることに。
家に帰って、あ!そうだ!ネットから紛失届を出せばいいんだ!なんでこんなことに気づかなかったんだ!と思う。
しかし遺失物発見時の連絡先が電話番号になっていたので、意味ねえなと思いながら登録。
スマホなくしたのに、スマホに「スマホ届いてましたよ」って電話されても困るわけで。
仕方ないので警察署の電話番号を調べて紙にメモし、公衆電話までまた行くことに。メモ帳とペンも忘れず持参した。
銀行なども2段階認証を入れていたので解除できないものがあり、キャッシュカードで利用していた口座の残高が2000円ほどしかなく本当に焦った。
公衆電話からダメもとで警察署に電話をかけ、スマホの特徴を言うとそれらしきものが届いているという話でかなり安堵した。
そこで自宅の最寄り駅から警察署に向かうことになったのだが、ここでまた、今度は警察署の場所がわからない。いや、警察署の大まかな場所はわかるが、どこをどう行けばわからず困った。
また家に帰ることに。
ここで、Macから流れるようにAirDropでGoogle Mapのキャプチャを送ろうとして「なんで俺のiPhone表示されないんだ?」と少し戸惑うなどしていた。
すぐに「スマホがねえんだよバカか俺は」と思い直し、メモ帳に手書きで書いていた。
目印はここ、ここを曲がるみたいな。
今思えばMacに画像を保存してMacごと持っていけばよかったなと。焦りすぎていた。
駅につき改札を通ろうとする。
ここで俺は気付く。うわ切符買わないとだめじゃんと。
そうか、紙の切符が本当はメインなんだ、ICカードはあくまでサブなんだ……ということを思い知った。現金があるのに通れない改札なんてあってはいけないものなと。
電車に乗り、暇を潰す。みな当たり前のようにスマホを使っている。暇つぶし用に持ってきた本を読みながら警察署付近の駅まで揺れる。
警察署の近くの駅につく。
だが駅から出れない。
何番出口から出ればいいのかメモするのを忘れた。どこから出ればいいんだ???と迷っていた。
駅員に聞こうと思ったが、適当に歩いたので改札がどこにあるかもわからずパニックに。
めちゃくちゃに歩いてなんとか改札を発見し、警察署に行きたい旨を伝えると、「ここじゃないですね」と言われ別の改札を案内される。その後なんとか改札を出た。
途中また迷うが、道路の標示や太陽の方角などを手がかりにしたり、途中たまたまあった交番で警察署の場所を聞くなどした。
これだ!!!!と確信したが、パスワードを教えてくれと言われた。
パスワードを教えると署内であけて中を見て本人かどうか確認してから渡すという話。
見られたくなかったので断ると、結構キレ気味にじゃあSIMカードの製造コードを教えてくださいと言われた。それがないと渡せないと。そして窓口がもう閉まるから明日来てくれとも言われた。
そのまま何もできず家に帰り、家の中を片っ端から漁り、製造コードを見つけ、それをメモ帳に書いた。
翌日、警察署が開くタイミングで昨日と同じように切符を買い、メモ帳を持って警察署へ向かった。
やった!!!文明の利器だ!!!社会に戻れた!!!という気持ち。
ちゃんとモバイル充電器も持っていったので、刺して復活したあと連絡不能だった人々に連絡をしまくった。
そしてうおおおおICカード使える!と思って改札にかざしたが、動かず右往左往することに(1度紛失モードになるとロックがかかるらしく、運営会社に問い合わせして解除してもらわなければならなかった)
仕方ないので帰りも切符を買って帰った。
家に帰り即銀行振り込みを決行。いろいろな引き落としが間に合う。
スマホがないと何にもできないんだなと思った2日間だった。
なぁ、聞いてくれよ
その時は、ASD(いわゆる昔でいうアスペルガー症候群)って診断されたんだ
テストも受けて、親のヒアリングもして、ちゃんとした先生に診断してもらったんだよ
「あなたの特徴はADHD(注意欠如・多動症)もあるかもしれないね」と言われた
どんな特徴かというと、注意力が散漫、ケアレスミスや忘れ物が多いってこと
でもこれって、前の診断の時は分からなかったのか?
なんでその時はADHDって診断されなかったの?
今の先生に聞くと、『昔はADHDとASDを同時に診断しない』ことがあったらしい
なんだよそれ…
必死だよ!
足に障がいをもってるのに、走ってるようなもんだから…
こんなこと考えてたら、涙出てきた
自分には「同時に複数のことができない」という特性もあるんだけど、それもADHDなんだって
次回の診察までに回答するようにって
俺、どう見ても、ADHDじゃん…
この10年間、返してくれよ…
誤診とは言わないけど、スルーしてたってことでしょ?
そりゃ障がい特性持ちながらその不得手なことやってたら、メンタルも病むよ…
陰ながら国民民主を応援してきた。8月に行われる参院選での躍進を想像して一人で盛り上がっていた。
玉木代表の不倫疑惑にはガッカリさせられたが、相手女性の写真を見てちょっと納得した。
が、昨日発表された参院選・全国比例の候補者一覧を見て愕然とした。
薬師寺氏は問題ない。足立氏はまあ良い。須藤氏は良く判らない。
この動画を見てほしい。あまり上品な内容とは思わないが、菅野志桜里氏の不倫について詳しく解説されいる。
No.582 山尾志桜里 国民民主から出馬?犯した不倫の罪(元文春記者チャンネル)
https://youtu.be/Vjoc3EVWQxw?si=REgxiHkpSZeStMcC
菅野志桜里氏は、当初不倫を認めず相手を政策顧問として起用し続けた。
病気療養中だった相手の元妻は、家庭を破壊され子供まで取り上げられて、
しかも、動画では「菅野志桜里氏は何も認めることも謝罪することも無く、うやむやにしている。」と、説明されている。
産経新聞で、菅野志桜里氏は「正も負も背負っていきたい」と語ったそうだが、彼女の不倫の結果、
家庭を破壊され子供にも合わせてもらえず自死した、今は配偶者となった相手の元妻の墓前で謝罪するのが、
人として先だろうと思う。
正直、テレビやネットで菅野志桜里氏の顔を見ると、気分が悪くなる。
3話までのマチュは「普通」を見下して、自分だけの特別な才能にも開花して、運命の少年ともマヴになってとイキり散らかしてたわけだが、
4話で人妻の出現と死によって所詮自分は普通の家庭の中二病だと思い知らされてシュウジまでの距離に愕然とするわけだ
で、さらに5話では気弱で行動力も無くて自分が守ってやってるつもりだったニャアンの方がよほどシュウジに近い世界に住んでいて、
「本当は3人の中で自分だけが普通」というアイデンティティ崩壊の危機を迎えている
ゲルググやら黒い二連星やらは視聴者サービスだがテーマは分かりやすいくらい分かりやすく示されているよな
X見てると、現代の小説家、特にホラー作家ってマジで倫理観なくて愕然とする。
だって社会がそうなってるんだから仕方ないじゃないですか(笑)みたいなことばっか言ってんのね、こいつら。
ホラーって逆に、少なくとも作家本人は人の生き死にについて冷笑的でなく、人間が死ぬというのは重大なことであるという価値観を持ってるという信用がないと、まともに読めなくないですか?
女には人権がなくて男にはレイプの自由があると本気で信じてるマンガ家の鬼畜凌辱エロマンガでオナニーできるのか?って話。
とりあえず、SNSに適応したこの手のホラー作家が死に絶えるまでは、私はホラーというジャンル全体を読書対象から除外します。自分の払った金がこういう人間を喜ばせることに耐えられないので。
サービスの根幹に当たる部分を、複数のありものフレームワークの比較評価ドキュメントをWeb記事から作り出して、どれを使うか決めるとか普通にやってて、「ここ、DDDを採用している現場だよね?(-_-)」って愕然としている。
DDDを実践してきた身としては、とても違和感があるんだが、今時の「イケてるエンジニア」ってそんなもんなんかな?
「Java書けます」っていう場合、ライブラリの使い方知ってます、とほぼ同義と聞いたことが、ないことはない。
ということは「イケてるエンジニア」ってのは、フレームワークの評価とか選択ができます、ってのと同義ってことなのか?
あり物の組み合わせは他の誰でもやれるから、固有のサービスとしての武器にはならんのだが、早く動いて市場占拠しさえすれば勝てる、って考えなのかなぁ?
「ドメインコンセプト」の概念がなければ、中心的なドメインコンセプトの抽出もできないから、何を内製しなきゃいけないかの判断もできない。
あるいはあれか?
そういうフレームワーク的なモノを作る技術力がないだけなのか?
どちらにしろ、エンジニア名乗るの、いかがなものかと思うが……。
恥ずかしくないのかねぇ?
こんにちは。今年31歳になる平成生まれの会社員です。先日、久しぶりに会った大学時代の友人に「お前って平成生まれなのに昭和を生きてるよな」と笑われました。最初は何を言っているのかピンときませんでしたが、家に帰って自分の生活を見直してみると、確かに時代に取り残されている部分が多すぎて愕然としました。
友人たちがPayPayやau PAYなどのキャッシュレス決済で会計を済ませる中、私だけが財布からお札や小銭を取り出して支払う「おじさん」状態。先日は1万円札しかなくて、後ろの行列から「すみません、電子マネーとかないんですか?」と店員さんに聞かれて恥ずかしい思いをしました。
QRコード決済なんて怪しい、クレジットカードは使いすぎる、ポイントシステムが複雑でよくわからない...と拒否してきましたが、どうやら今の20代はほとんど現金を持ち歩かないとか。マジですか?
仕事のToDo、買い物リスト、読んだ本の内容、年間スケジュール...全て紙のノートに手書きです。同僚たちはEvernoteやNotionなどのアプリでサクサク管理していますが、私は5年前から使っている同じノートに鉛筆で書き込んでいます。
「デジタル管理したほうが検索も効率的だし、クラウドで同期もできるよ」と何度も勧められていますが、「紙のノートの方が思考が整理される」と頑なに拒否。でも先日、大事なノートを電車に忘れて一日分の予定と連絡先を全て失ったときは本当に後悔しました...。
LINEですら「なんでメールじゃダメなの?」と思っていた私。InstagramやTikTokなんて「若い子がやる意味不明な遊び」くらいに思っていました。何かと理由をつけて新しいものから逃げ続けてきた結果、気づけば友人や同僚との会話についていけなくなっていました。
「あのミームみた?」「このインフルエンサーの動画ヤバくない?」という会話に「え?何それ?」と聞き返す私。若いはずなのに、新入社員からもデジタルに疎い「おじさん社員」として扱われるようになりました。これが平成生まれの末路か...。
飲食店の予約は絶対に電話。ホットペッパーやTableCheckなどのアプリ予約は「なんか信用できない」と避けてきました。美容院も病院も、全て電話予約。「電話恐怖症の若者が増えている」というニュースを見て「なんで電話くらいできないんだ」と思っていた自分が、実は時代遅れだったとは。
先日、友人との飲み会で「お前が予約してよ」と言われ、私が「了解、電話しとくわ」と答えたら「は?普通にネットでいいじゃん、電話とか面倒くさすぎ」と全員から白い目で見られました。そんなに電話って嫌われてるの?
「個人情報を晒すなんてあり得ない」「SNSなんて時間の無駄」と思い込み、Facebook、Twitter(X)、Instagram、全てやってきませんでした。その結果、クラス会のお知らせが来ず、大切な友人の結婚式に呼ばれなかったことも。
就活のときも「SNSでの発信や人脈が評価されます」と言われて焦りましたが、今更始めるのも恥ずかしくて放置。転職活動で「あなたのSNSを拝見してもいいですか?」と聞かれて冷や汗をかいたときは本当に後悔しました。
なぜ私はこんなにも時代遅れになってしまったのか。真面目に考えてみると、以下の理由があると思います。
1. 親の影響が強すぎた: 実家暮らしが長く、現金主義で「ネットは危険」という親の価値観をそのまま引き継いでしまった。
2. 変化への恐怖: 新しいものを取り入れるたびに「使いこなせなかったらどうしよう」「失敗したら恥ずかしい」という不安が先に立っていた。
3. 過度な慎重さ: 「個人情報流出」「詐欺」などのニュースを見るたびに「やっぱり従来の方法が安全」と思い込んでいた。
4. 同調圧力の欠如: 周りが皆スマホを見ている中で、あえて「俺は違う」と思いたい気持ちがあった(今思えば逆の同調圧力?)。
友人からの「昭和を生きている」という指摘から1週間、少しずつ変化を試みています。
この1週間で気づいたのは、自分が「面倒くさい」「危険かも」と思っていたことの多くが、実は単なる「慣れ」の問題だったということ。新しいものを拒絶する理由を並べていましたが、一歩踏み出してみれば意外と簡単に適応できるものなんですね。
「昭和」と「平成」と「令和」、どの時代の良さも取り入れながら生きていきたいと思います。
みなさんは自分が「時代遅れかも」と感じることはありますか?それとも常に新しいものを取り入れる方ですか?気づいたきっかけや克服方法があれば教えてください。
山田優生(仮名)は、20代。精神科の診察室に座っていた。これまで自分が他人と同じように生きていないこと、周囲とどこか違うと感じ続けてきたことは、もう誰にも説明できないほどの負担となっていた。やっとの思いで精神科を訪れ、知能検査を受け、軽度知的障害の診断を受けた瞬間、優生は一瞬の静けさを感じた。診断結果を受け入れるまでに少しの時間が必要だったが、次第に納得が湧いてきた。「なるほど、私はずっとこうだったんだ」と、自分の中で何かがつながったような感覚に包まれた。その瞬間、ふとした希望も感じた。「これで療育手帳が取れたら、障害者雇用やいろんな福祉支援サービスが受けられるかもしれない」と、わずかながらの期待が胸に湧き上がった。自分が今まで経験してきた苦しみや不安が、少しでも軽くなるかもしれない、そんな思いが彼を包んだ。
しかし、その期待はすぐに打ち砕かれることになる。
優生は療育手帳の申請を行い、知的障害者更生所で再度知能検査を受けた。その結果、精神科での診断と同様に軽度知的障害とされる数値が出た。しかし、それでも結果は「非該当」となった。理由は「18歳以下で知的障害の状態だったことを証明する資料が不足している」というものだった。優生はその理由に愕然とし、困惑した。過去の自分を証明する手段がほとんどなく、結果的にそれが障害者としての支援を受けるための唯一の鍵だと思っていたのに、最初の申請は却下されてしまった。
過去の知能検査結果について、病院に行ったことはないため学校に問い合わせると知能検査は行われていたが5年で廃棄処分していると言われ、入手することはできなかった。他には、テストの結果や成績表、担任の証言書を集め、再度申請することを決意した。これでなんとかなる、そう信じていた。
再申請が受理され、知的障害者更生所で再度話し合いが開かれた。支援者も同行し、優生は自分の過去を証明するために、何度も何度も訴えた。
「私は、子供の頃に診断を受けなかっただけで、今でも支援が必要だと感じているんです。過去の成績や担任の証言で、私がどれほど苦しんでいたか分かってほしいんです」
優生は何度も言葉にしようとしたが、結局うまく伝えることができなかった。コミュニケーションが苦手で、他人に自分の気持ちをどう伝えるべきかが分からない。彼が言葉を選び、伝えようとするその過程は、いつも思うようにいかない。判定職員には、彼の苦しみがどれだけ深いものであるか、どれだけ長い間その苦しみに耐えてきたのかは、うまく伝わらなかった。それが悔しく、情けなくて、彼は言葉を詰まらせてしまう。そして、周囲が優生の気持ちを理解できない現実が、ますます心に深く刺さる。
支援者は、優生がこれまでどれだけ真剣に証拠を集め、過去の困難に立ち向かってきたのかを理解し、判定職員にそれを伝えようと尽力した。しかし、何度も話し合いをしても、その答えは変わらなかった。
「証明が足りません」「18歳以下の証明がありません」「過去の成績や担任の証言だけでは、認定することはできません」
その言葉が、再び優生の心を冷たく締め付けた。必死に集めた証拠や証言が、すべて無駄に終わった。再申請しても、結果は同じだった。優生はその現実に愕然とし、次第に、自分がどれだけ過去を証明しようとしても、全てが無駄なことだと感じ始めた。証拠が足りないという一言で、過去のすべてが無視され、再び壁にぶつかっているような気がした。
優生は、この世界において自分の声が何も届かないと感じていた。過去を証明する手段が限られていて、いくら努力しても結果に繋がらない現実、どんなに訴えても理解されないという事実に直面し、深い絶望に陥った。自分の気持ちを他人にうまく伝えることができない。これまでの人生でずっとそうだった。学校でも、職場でも、自分の思いをうまく言葉にできず、苦しんできた。支援者にさえ、心の奥底にある本当の苦しみや切実な願いを伝えることができなかった。たとえうまく伝わったとしても、その後何も変わらなければ意味がない。優生の中で、無力感が膨れ上がっていった。
「どうして、こんなにも分かってもらえないんだろう…」
過去を証明する手段が限られていて、結局それが自分を助けるための唯一の鍵だと思っていたのに、それすらも認めてもらえない現実に、優生は深く絶望していた。自分が子供の頃、助けを求めても、誰も相手にしてくれなかった。その時の自分の苦しみが、今もなお無視され続けることに、耐えられなくなった。
話し合いが終わり、再び優生と支援者は帰路についた。途中、優生は無言で歩いていた。支援者が少し間を置いて、静かに口を開いた。
「優生さん、もうこれ以上頑張っても、無駄だってこと、分かってるでしょ?」
優生はうつむきながら歩き続けた。支援者は少し間を置いて、さらに言った。
「いくら証拠集めて頑張ったって、あっち側の決まりがあるんだから、どうにもならないんだよ。この現実を受け入れるしかない。あなたがどうしたって、この社会は理不尽だらけでできている。このことを受け入れなきゃ、あなたはこれから働くことも、生きていくこともできない。」
優生はその言葉を耳にしながら、心の中で反発していた。どうしても受け入れたくなかった。けれど、支援者の言葉が、どこか冷たく現実を突きつけてくるのを感じていた。
納得するしかない。唯一の味方だと信じるしかなかった支援者から何度も繰り返される説得に、次第に身体が重くなっていくのを感じる。
「受け入れるしかない…」
その言葉が、優生の頭の中で何度も響く。これまでの人生を振り返ると、どれだけ努力してきても、結局は何も変わらなかった。学校も職場も、適応できなかった。自分が他の人と同じように生活することなんて、どうしてもできなかった。
「療育手帳があれば…」
福祉支援を受けられれば、少しでも楽になれると思っていた。けれど、その希望も絶たれた。自分がどれだけ証拠を集め、努力しても、結局は非該当のままだ。どうしてこんなに頑張ったのに、何も変わらないのだろう。
歩きながら、優生は心の中で叫んでいた。自分の声がどこかに届いてほしい。誰かに理解してほしい。でも、どんなに叫んでも、届くはずもないということを、もう彼は知っていた。
やがて自分の家が見えてくる。家に帰るたびに感じる、親の無理解が、彼の心に重くのしかかる。
実家に着くと、家の中からは両親の話し声が聞こえてくる。けれど、その声は優生にはまるで届かないようだった。
優生が部屋に入った瞬間、静寂が広がる。その瞬間の空気の重さ。
障害があることを認めたくないような父親の態度、母親の冷たい視線。それらがいつも優生の心に突き刺さる。
自分が何を言っても、何をしても、親は理解してくれない。障害のことを話すたびに、顔色を変えて避けるような態度をとる。どんなに傷ついても、親にはその気持ちを伝えることすらできなかった。自分の苦しみを、どこにもぶつけられない。
昔の担任教師は、当時の私の様子から親に特別支援を勧めたと言っていた。しかし、優生はそのことを親から聞いたことはなかった。長年隠されて、なかったことにされていたのだ。知的障害者更生所の職員は「特別支援を勧められた程度では療育手帳を取得できる根拠にはならない」と話していた。嘱託医は「子供の頃に検査してるか、養護学校に行ってないとダメだよ」と主張する。
「どうして…」
優生は床に座り込み、ただぼんやりと天井を見つめていた。支援者が言っていた「受け入れるしかない」という言葉が、どんどん優生を圧しつける。受け入れることなんてできるはずがない。受け入れて生きることなんて、考えられない。
「このまま、ずっとこんな人生が続くんだろうか。」
心の中でその問いが繰り返される。周囲と適応できず、苦しみながら生きてきた自分を、誰も理解してくれなかった。過去は変わらない。障害があることも変わらない。療育手帳を取って、少しでも支援を受けることで、この人生が変わることを期待したけれど、その望みすら叶わない。もしこれがすべてだとしたら、今後の自分には一体何が待っているのだろう。
優生はその道のりを、自分の人生そのものとして感じていた。どれだけ頑張っても報われることはない。過去の出せる資料は限られているし、結局は認められないという現実。彼はもう諦めていた。
そして、優生はその夜、自分の中でひとつの決断を下した。絶えることのない無力感、療育手帳を手に入れることができなかった希望に対する苦しみが、彼を追い詰めていった。
給与明細を見てみると、残業代の時間単価は東大生の家庭教師みたいな数字になっていて、
ようやくここまで稼げるようになったのか、
税金が引かれるとはいえ、今の自分の手取り率が70%くらいなので、この時給の7割はもらえるのか、
と何となく思っていたんだけど、よく考えなくてもそんなはずはない。
残業代分には所得控除みたいなオフセットが一切乗らず、総額に税率のパーセントが直接掛けられることになるので、
これで大体45%。残業が長時間に及んで食費が増えようものならそれは残業に不可避に伴う費用と言って良く、そしたらあっという間に50%ですよ。初めてちゃんと計算して、愕然としているのが今。
東大生家庭教師の半分か、と思うと、自由な時間をイライラに変えて運動時間を減らして健康リスクを上げて、それに見合うかね、と考えざるを得ず、数百円どころか数十円を切り詰めることを趣味みたいにしていた頃から比べると、遠いところに来たものだと思う
子供の頃から、好きでも嫌いでも財布は持っていた。小学生から数十年も持ち続けていることになる。
思い出深い財布を列挙してみる。
※※下書きを間違えて投稿してしまった。マルチポストじゃないです。失礼。
初めて親から渡された青い財布。6歳から中学を出るまで使っていた。札入れとカード何枚か、小銭入れがあった。カード入れにはテレホンカードと図書館のカード(今でも図書館カードは使っている)、スイミングスクールの会員証などを入れていた。財布を持って歩くと大人だなと感じた。
・露店で買った合皮の黒い二つ折り財布(2000円)
高校になるにあたり、色々と物入りだった。私服の高校だったので、2万円を親からもらって、サンシャインの安い洋服屋で着るものを揃えた。
その後同級生が皆割と高そうな財布を持っていて少しへこんだ。何でプラダやらヴィトンを持ってるんだ。中身も大してないペラペラの合皮の財布は買い替えるタイミングが無く、高卒まで使う。ボロボロになって捨てた。高校生の自分にとってはまだ財布に対して特に重要ではなかった。
・巨大な茶色の長財布(中身なし)
基本的に財布はワゴンセールで買っていた。4月の池袋の丸井はワゴンセールがアツい。大学3年生で当時付き合っていた彼女に買ってもらった。5000円のベネトンの巨大な長財布。カード20枚、あれば札束が入る。使わない診察券やポイントカード、たまる一方のレシートを見て愕然とした。
持て余すサイズで、その人と別れてから、しれっと使うのをやめた。彼女も持て余した。綺麗な人だったけど。
・3カ月で買い替え続ける紙財布
7,8年くらい前、義理の姉に「財布は新しくないと運気が下がる」と言われ、何故か紙財布に目覚めてしまった。物を減らすのには財布が小さい方がいいのでは?とエセなミニマリズム精神が優勢になる。
1000-1500円の紙財布をAmazonで季節ごとに買っては捨てを2年繰り返し(所詮紙なのでやわい)、妻に「いい加減普通の財布使えば」と言われ目が覚めた。6000円の革の2つ折り財布をAmazonのセールで買って長い事使う(池袋丸井が潰れたので)。運動やキャンプなどで紙財布は今も年に数回使っている。結構便利。
・長財布への回帰
小銭入れと財布とをずっと分けていたが、カバンの中から小銭入れが見つからない悩みがずっとあった。リュックだと特に。Amazonで再び長財布を探す。カード7,8枚、小銭入れありの薄めの長財布を7000円くらいで見つけた。通勤用リュックを買っても良かったのか、何となくモヤモヤしている。
フジテレビの第三者委員会の報告書、読まれましたでしょうか?ワタクシは読んでいません。長すぎます。ですので切り抜きや抜粋の記事を読んでの話になるのですが、なかなかに酷いもののようです。特にセクハラ調査の部分。まさに女性は権力者や有力者に提供される賄賂のように扱われていることに愕然といたしました。
申し遅れました。ワタクシは自称弱者男性のNと申します。生まれて35年、女性とお付き合いしたことはなく今月のクレカの支払いが口座残高を上回っておりひーこら言っている身でございます。そんな私も定職にはついております。場末のIT企業です。そこそこ女性はいまして、まあ男7女3くらいの割合でございましょうか。いわゆる性上納をする場面もされる場面も見たことはありません。男も女も普通に仕事をしています。女性をモノ扱いするってどこのファンタジーのお話しだろう?あっても一部の例外であって、殆どの組織では良識が支配する。そのように考えておりました。
いやしかし、今回は芸能界という特殊な領域でのお話と思っていましたが、広告代理店、スポンサー、政府関係者など多くの「上級」の奴らのセクハラが明示されました。あれ?もしかして上級の、上流の、金と権力を握ってる奴らってマジで女をモノ扱いしてるの?そういう衝撃を覚えたのでございます。
ワタクシ、フェミニストの皆さまのことが好きでも嫌いでもなく、ただ頭おかしいなと思っていました。ワタクシは宇崎ちゃんが好きでしたので、かの献血ポスターを炎上事件時は宇崎ちゃんの生まれやキャラクター、性格が差別されたと義憤を感じ、創作物へのリスペクトのなさや現実と虚構を混同する常識のなさに呆れました。特に、ミサンドリストと呼ばれる過激派。男性差別を憚らず、日本を最悪の国と罵り、ひたすらに男を悪む、地獄道に落ちたとしから思えない集団。これは隣国の事例ですが、男児を中絶したと誇らしげにネット上で吹聴するなど見てなんなんだこいつらは、と恐れをいだきました。
ですが、しかし、ワタクシと彼女らでは見てるものがまるで違ったのではないかと、そうこの事件を通して感じたのです。ワタクシのような弱男はマッチングアプリにも登録せず、女性を食事に誘いもせず、ただ毎日普通に仕事をして家でエロ漫画読んでオナニーするくらいの存在です。ですが彼女らは普通の仕事をしようとしたら飲み会に呼ばれ、上納されてきたのではないでしょうか?見てるものが違うのですから、考えが違うのも当然であります。ワタクシは飲みといえば同性同士の少人数でたまにやるくらいです。被上納女性からしたら、信じられないでしょう。男は必ず女を呼ぼうとするもの、目上のものにプレゼント扱いするものと学んできたに違いないのですから。見てきた世界、生きている世界が違うのです。
フェミニストさまの「この国は最悪だ」は一面真実を言い当てているのだ、と思いました。ワタクシはその世界に生きていないのでピンときませんが、強きものどもの間ではいまだに悪習が蔓延っているのでしょう。女性の役員率が低いことが問題視されるのも、今なら実感として分かります。権力の近いところに女性を置かなければ強きものどもの悪習を食い止めることはできないのです。
いやしかし、女性を加害しない、というかその力のない我々弱者男性はなんと倫理的な存在でしょうか。取るに足らない弱男は、悪に堕ちたとしても悪いことを5しかできません。でも力ある者達は、中庸のものでも良いことを100やり、悪いことを100できるのです。なんと力の恐ろしいことか。
フェミニストさまが弱男を迫害したくなるのも分かります。八つ当たりです。本当に倒したいのは強きものですが、それは難しい。そこで性別という属性だけ同じである弱男がちょうどいいサンドバッグになるのでしょう。弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩くのです。しかも複雑なことに、強きものの支配する構造の中では女性もまた利益を得ているのです。それは金銭であり権力でもあります。実益を保存したいが、しかし被った被害の怨みを晴らしたい。そこに弱男はちょうど良いのでしょう。弱きもの達は本当は手を取り合うべきなのに。
SNSは問題点が多く指摘されます。制御不能だからです。ろくなエビデンスも検証もない風聞で人を破滅させる白痴の王。しかし制御可能なものは、強きものの支配下に置かれます。SNSは弱きものが強きものを破滅させる稀有な暴走する力となりました。これは革命です。誰から構わず破滅させるから、強きものも殺せるのです。弱男はひっそりと、昏い喜びに浸ります。ああ、今日も強い奴らが破滅している。成功した奴らが「下」に行った、と。この娯楽は悪ですが5の悪でしょう。実際、成功した人間が性欲ごときでスキャンダルを起こしボロボロになるのはスカッとします。弱男は失敗してますが(というより勝負してませんが)、成功したところで結局行き着く先は女かよ、射精かよ、と嗤えます。意味のないキャリアだよ。意味のない成功だよ。意味のない人生だよ。じゃ、ワタクシと同じかそれ以下ですな。この娯楽は金がかからないのもGOODです。みなさん本当にバカで、オナニーを知らないのかな?と疑問に思います。抜けばそれで済むのに。抜けば助かるのに。
ネットの都合のいい情報だけを集めて1日2食、昼間は千切りキャベツとキムチ、夜はリンゴとぶどう5、6粒程度
スーパーやコンビニで美味しそうなもの見つけて迷うくらいなら食べなくていい、食費代も夫と子供に回せるからラッキーと勘違い
子供のお弁当作る時にも発狂しそうで家事も何も手につかず、夫や義父母に心配されるも私をブクブク太らせようとしてると思い込んで結局発狂
病院も勧められたが、病人にさせられたら絶対に太らせられると思い込んでまた発狂
今までは岡崎○絵のようなスタイルだと思っていたし、鏡越しにそう見えてた
でも実際は痩せに痩せこけた女版堀○輔のような姿
目はギョロギョロしてて、クマも酷く、髪もパサパサ、とても実年齢より若くは見えなかった
ハッキリ言ってお化けみたいだった
(堀○輔はまだ身体ガッチリしてて一応生活も充実してるらしいので)もっと分かりやすく言えば、はるか昔にネットで「モモチャレンジ」とかいう動画に怖い女の人(検索は自己責任で)がサムネに出てくるという噂があったが、あの女に近いと思う
その日のうちに元の食事に戻した
白米を1口食べた瞬間に体が軽くなり、世界が明るく見えたのは忘れられない
今までは体力はある方だと自負していたが10m軽く走っただけでも息が切れてしまう
だから今の若い子が糖尿病治療薬使って痩せようとするなんて信じられないし、やめてほしい
アイドルやモデルは特殊な訓練を受けているって考えた方がいいし、インスタの美男美女は虚構
数年前の話になるけど、恋人に浮気されていた。1度発覚し大喧嘩、その後間を置いて2度目(しかも同じ相手と!)も発覚した。
私は感情があんまり波立たない方ではあるのだが、その時は本気で怒ったし、悲しくもあった。
もう浮気相手と連絡はしない、会わない、そう誓わせたけど、どうもまだうっすら浮気相手と続いているようだと私は見ている。
(そのことに、もう何も感じなくなってしまった。)
2回目で気づいていたが、結局彼の再三の謝罪はその場しのぎの嘘だったというわけだ。私がバカなのだが、本当に愕然とする。
ただ、(勝手にそう思っていただけなのかもしれないが)本当に私たちは良い関係の恋人同士だったのだ。
浮気が発覚してからは一筋縄ではいかなくなったが、今でもお互いに深く信頼しているところがあると私は思っている。
しかし今回のことで身に染みて分かったが、そういう関係値の相手にも平気で「うわべの謝罪」が使える人間がいるんだよね。
私にも「全然悪いと思えないけど、とりあえずうわべだけでも謝っておくか」ということはある。
けど、私は大切な友人や家族を傷つけてしまったら、普通に反省するし、心から謝罪するけどな。
そこに損得感情がないなんて綺麗事は言わない。けどこの人には誠実でありたいっていう心情はある。
それは良心から出たものとしか言いようがない。そして人間関係って、そういうものがあるんだって信じること以外にないと私は思ってきた。
しかし私は彼と出会って初めて、良心がない人っているんだな、と実感した。
いや、「良心よりその場しのぎの感情が勝ってしまう人」か?それとも、「すべて勢いまかせで、良心や倫理観の概念がない人」か。
つーか、要するに自分が大切だと思われてないってことか?私もそう思いました。
でも、じゃあ付き合わなきゃいいじゃん。謝罪とかせず別れればよかったじゃん。
今日はとても天気が良くて気持ちが良い日でしたね。桜もかなり咲き始め、種類によっては満開。とても良い気分です。
そして今日、1年ぶり2回目に長女を大学の一人暮らしのアパートに送り出してきました。
本当に良かったです。増田にしか書けない話なのでここに記録しておきます。
長女は1年前に元気に大学生活を始めたものの、半年ほどでかなりメンタルを病み、頻繁に泣きながら電話がかかってくるようになりました。
私からすると何も不安に思うようなことは無いのに、自分に自信がなく、不安が強く。
何も楽しいことが無いし、ずっとやっていた音楽ももうやりたくないし、くだらないYotubeを何時間もずっと見続けてしまうし、お風呂に入る気力もなくて、ご飯を食べるのがやっとくらいの状況。
部屋まで迎えに行っても、何時間も外に出てこられなくて。やっと出てきたと思ってもずっと泣いていて。もう夢も希望もなくて。
小さいころから私が「将来の夢を持ち、目標を定めてそこに向けてコツコツ努力をし続けなさい」ということを強く言い過ぎたのかもしれません。
長女は小さいころからくそ真面目に勉強と部活を頑張り、中高自体は学校で1番くらいの成績を取り、吹奏楽でも結果を残しました。それでも「自分にはやりたいことが無い」「周りのみんなは凄い」「自分はダメだ」と。
あまりにも不安定なので実家に帰ってこさせ、駅まで毎日送り迎えをして家から学校に通う生活にして、家族や兄弟と過ごす中で少し元気になってきたと思っていたのですが
ある日LINEで「ごめんお父さん、死のうとしてた」と連絡が。ロープを買って首をくくって死ぬ場所を探していたそうです。
急いで車で1時間強かけて迎えに行き。そこからは毎日、ほとんど目を離さずに過ごす生活となりました。これが去年の10月の終わり。
メンタルクリニックに一緒に行き、「娘さんはとても真面目だから、本当に自殺をしてしまう可能性がある。本当によく見ていてあげてください。」と言われました。
大学も休めばよかったのに、それだけは嫌だと言い張るので、毎日車で送り迎えをし、広い大学なので授業の場所まで授業毎に送り届けるようにしました。
今思えば私も精神的にかなり参っていたのだと思います。ほんの少しでも目を離したら本当に長女が自殺してしまうのではないかと思って不安で。
長女にお願いして、お互いの位置情報がわかるスマホのアプリを入れて、本当に授業に出ているだろうか、きちんと車の場所まで戻ってこられるだろうかと車のなかで仕事をしながらスマホの位置情報アプリの画面を気にし続ける生活が続きました。
毎日車で授業の移動まで含めて送り迎えし続けつつ仕事もリモートでこなすのは本当に大変でした。もちろんメンタルを病んでいる長女は毎日10回くらい泣いてるし、そのたびに話を聞いて、サポートして。
精神的にも体力的にも、かなりつらかったです。
さらに、妻はそんな死にそうな想いをしている長女につらく当たるんです。怒ってしまう。周りの家族にも相当ストレスがかかる状態なので仕方がない面はあると思いますが、それにしても酷いと思うくらいの状況でした。
もともと妻の虐待的な態度が長女の今の状態にもかなり影響を与えているのではないか、と、私は思ってしまうくらいに。
ちなみに、下記は私の日記です。
https://anond.hatelabo.jp/20091013222011
https://anond.hatelabo.jp/20161111232040
https://anond.hatelabo.jp/20180321003723
https://anond.hatelabo.jp/20180407204720
そこで、妻が怒っちゃうのもあるし、毎日の3時間強の運転が体力的に辛すぎるので、大学の近くに新しいアパートを借りて自宅とアパートの2拠点生活に。
そして、徐々に元気になっていたと思っていたところで、長女が「目覚めた」のはクリスマスの夜。急にいろんな感覚が全然違うものになってしまったらしく深夜に大声を出して叫びまくる状況となりました。
そして、私に今すぐ出ていけと言ったり、逆に手をつないでくれと言ったり。結局丸2日くらいまともに寝ずに超ハイテンションとなり、私も寝させてもらえずふらふらに。
友人にも電話しまくって誇大妄想を喋りまくっていました。「自分は悟りを開いた!」とか「私は人類を救う!」とか明らかに変なことをあちこちの人に言いふらしていました。
ずっと通っているメンタルクリニックが当日は休みだったので次の日に見てもらって、そこで別の薬を出してもらって、それを飲んでやっと落ち着いて寝てくれました。
この2日間くらいはあまりにも様子が急に変わりすぎてしまって、私も相当不安でした。
そのあとは精神年齢も体力もぐっと下がってしまって、まるで3歳児くらいの言葉遣いとなり、歩くのもよちよち歩きになりました。
それから少しづつ、もう一度子供時代からやり直すように、少しづつ、少しづつ、成長を感じられるようになりました。
公園に行くだけで冒険で、一人でトイレに行くだけで大冒険で。ピクニックシートに座って、日向ぼっこをぼーっと何時間もしてみたり。
そんな生活が2ケ月くらい続きました。
そして、悪い時に悪いことは重なるもので、コロナにも感染しました。もちろん長女も私も、他の家族も。精神的に不安定なうえに体調も悪くなり、私ももう精神的にも体力的にも限界で、長女を殺して自分も自殺してしまえば楽になるんじゃないかと本気で考えて、長女の首を少し締めるところまでやってしまいました。
これはまずいと思って自殺したいときに電話する電話番号に電話しましたが(※こういう窓口があるから本当にどうしようもなくなったら電話しなさいと学校のカウンセラーに人に教えてもらっていた)、同じような人が多いんでしょうね。複数窓口に電話しましたが電話はつながりませんでした。つながりませんでしたが、電話しながら冷静になれてよかったです。
私もこの時が精神的に一番弱っていて、本当に頼れる人のところに助けを求めに行って、いいおっさんのくせにボロボロ涙をこぼして1時間くらい泣きました。それでずいぶんメンタル的に復活しました。
そこを乗り越えてからは、すこしずつ元気になり、また音楽を楽しむようになったり、本を読んだり、ゲームをしたり。楽しむことができるようになってきました。
すっかり元気になってから1ヶ月程度たったし、ちょっと負荷のかかるイベントに参加しても大丈夫だったので、4月からの2年生に向けて今日から再度一人暮らしスタートです。
本当に良かったです。
今回の事は、もう何もできないくらいの状況からでも半年程度あればメンタル復活できるんだな、という学びになりました。
一方、私はもっと早くに外部に助けを求めるべきだったなと思います。メンタルクリニックや学校のカウンセラーには相談していましたが、自分の両親とかにも助けを求めておくべきだったなと思います。
一人じゃなくて妻と一緒に家族みんなで協力し合えたら良かったのですが、それができない妻なので本当に妻と結婚したことを改めて後悔しました。
でも、きっと、そうやって私と妻の仲が悪いのも長女にとても大きな悪影響を与えていたんだろうなと思います。申し訳なく思います。
でも、仕方がない。とにかく、もっとずっと悪いことになっている可能性だって大いにあったのです。それを回避して、今日また笑顔で送り出せたのですから、よかった、と思うしかありません。
コロナあたりの最悪の状況からどうやって回復したのかがほぼ何も書いてなくてとても気になる。功を奏したのはカウンセリング?薬?時間?良い医師がいた?そこら辺の詳細も是非書いていただけるとありがたいです。
ちょっと書き方的に良くなかったかなと思います。自宅で生活するようになってからずっと回復はしていたんです。上下に揺れ動きながら少しづつ全体的に回復してました。継続的に。
それが、当初ちょっと元気になったところで自殺未遂があり、もっと元気になったところで元気になりすぎちゃって「目覚め」ちゃって一気に精神的に退行して。
それでも少しずつ継続的な回復はしていたと思います。正比例のグラフをピーっとひいて、途中で大きな波(自殺未遂、目覚め)があって上下に激しく波打ってる感じでしょうか。
画像とか使わないとよくわからないと思いますけど、匿名で画像を投稿できる場所を知らなくて、わかりにくくてすいません。
で、何が良かったのか?という観点で下記に書いておきますね。あくまでも私の意見ですが。
基本的に独自の判断はせず専門家にどうしたらいいのかを相談しましたし、言うとおりにしました。素人考えは良くないと思ってました。
専門家のYotuberの人の話もかなりの量見ました。あと、書籍に関してもあれこれとかって読み漁りました。本人が読んで対応できるか?というと難しいところがあると思いますが、周りの支援者が知識をつけるのはとても良いと思います。また、支援者向けの本もいくつか読み、自分の事がかかれているなーと思って一人で涙を流したりしました。
状況に合わせて最低でも1錠、MAXでも1日に4錠、そのなかでコントロールするように、という指示があり、薬を飲むタイミングは客観的に状況を見て、私が指示していました。長女は状況に合わせてコントロールするのが嫌だから、毎日決まった時間に飲みたいとか、飲みすぎは良くないんじゃないかとか、先生の指示に従いたくないということを何度も言っていました。先生にも「毎日同じ時間に同じように飲んだらダメなんですか?」とちょっと切れ気味の時がありました。先生の回答は「毎日同じ状況なら同じように飲んでいいよ。」でしたが。
私からも、何度も「素人の判断でやるんじゃなくて、専門家の意見を信用してその通りにしよう」という話をしました。特に長女は自分では精神的な揺れみたいなものが自覚できていない時が多くあり(特に「目覚めた」すぐあとの元気すぎた期間)、私からの薬を飲むように、という指示に納得がいかないことが多かったようですが、結局しぶしぶ私の言うことに従っていました。結果的にやはりそれが良かったと思います。
安定してからは毎日朝と夜とか、決まった時間に飲むようになりました。
先生に対してもきちんと状況を客観的に伝えられない…というか最初のころはそもそも会話もまともにできないこともありました。自殺未遂までしたくせにそのことを全く言わない時もあったし、泣いちゃって声が出せない時もあったし、元気すぎて意味不明なことを言ってるときもあったし。私が様子をずっと見ていて、メモもきちんとつけておいて、様子をきちんと伝えて、先生の話、判断もきちんと把握するようにしておきました。
先生が特別に良かったのか、普通だったのか…は正直他の人を知らないのでわかりません。ただ、メンタルクリニックなんて受信しようと思っても予約できるのは数カ月先が当たり前でカウンセリングは凄く高くて、すぐにそういうところにアクセスできたこと自体が本当に幸運でした。カウンセリングは大学のもので無償で親身になってくれたのもよかったです。
どちらも、患者さんでいつもあふれてますし、本当に大変なお仕事だなと思います…。感謝しかないです。
毎日日記をつけました。それは長女自身もそうだし、私も。特にどんな発言をして、何時に薬を飲んで、飲んだ後どうなったかとか。薬が効きすぎて寝込んでしまうこともあれば、薬が足りなくて深夜に目覚めて寝ないことがあったりとか。薬を飲むのを長女が嫌がったりとか。そういうときには一緒に記録を見て、状況と薬の量と、その結果を見ながら、「これまでこうだったんだから、今度はこうしてみよう」「これまではこうだったけど、こうなってきているから、薬の飲み方をこう変えてみよう」という話をしました。
長女は精神的に正常じゃないので記憶もあいまいになっていたらしく、「そっか、そうだったね。思い出してきた。それならそうしよう。」ということが多かったです。
そして、本人にとっても、私にとっても、本当にひどかった時に比べたら、今はずいぶんましになった、ということを記録を元に振り替えることが心の支えになりました。人間の感覚はあまりあてにならないので、記録を付けるのは本当に大事だと思います。
長女は泣きまくってました。それはもう毎日何回も。何回も。わかると思いますが、泣かれると周りは心配するし、心が揺さぶられます。時には「泣くな!」って怒っちゃいそうにもなります。
でも、泣くことで人間はリラックスするらしいですね。私もずっとすごく精神的に辛かったのですが、Youtubeで専門家の先生が泣くことは悪いことじゃない、むしろ良いことだ、と言ってるのを聞いて、「泣くのはいいことなんだ」と思うようにしました。それでもつらかったですが、「泣かないで。大丈夫だよ。」って言うよりも。「泣きたいときは泣いたっていいよ。泣いたらすっきりするよ。」って言ってあげて、自分もそう思ってあげた方が私の精神的に良かったです。
長女は大変な状況でも夜寝ることは本当に元気になりすぎたときを除いてはきちんとできてました。それは本当に助かりました。良く寝て、朝起きたら、朝ごはんを食べて、一緒にお散歩をする。これを毎日の日課としてずっとやってました。これは本当に良い影響をもたらしたと思います。日光を浴びるとなにやら化学物質が出るらしいですしね。
長女はおいしいものが好きで、どんなに辛くて泣いてて、精神的に弱っているときでも、おいしいもの、特にデザートを目の前にするとにっこりと笑顔になる事が出来ました。これを比較的早い段階で見つけられたので、ええ、それはもう毎日あっちこっちのお店に行って、おいしいものを食べまくりました。おかげですっかり私は太りましたが、精神的にとても良かったと思います。長女にも、私にも。その時はいろんなことを忘れて「おいしいね~」って。
でも、長女は全然太った感じが無くて、これが年齢の差かと、愕然とします。私はこの半年で8kgくらい太ってしまい、現在ダイエット中…。
きちんと「こういうことをするとよい」ということが科学的にわかっているので、それを生活習慣も、薬の飲み方も含めて、きちんとやれば、ゆっくりと回復していくことが多いのだと思います。当たり前の話と言えば当たり前の話。でも、その当たり前を当たり前に継続するのが難しいんだよな、とも思います。
ストレスのかかる仕事を生活のためにしなくてはいけなかったり、孤独だったりして、「こうしたらいい」がわかっていてもできない状況だとそれは回復は難しいだろうと思います。
長女の場合は私がほとんど仕事もまともにせず(いちおうやってることになってましたけどやっぱりパフォーマンスは相当下がっていたのは否定できない…)につきっきりで支援してあげられたのが大きかったと思います。私が仕事の心配やお金の心配をしなくてもよい状況に恵まれていたのもよかったです。コロナが無くてリモートワークが当たり前じゃなかったら、タイミングがずれていてお金に余裕が無かったら、無理だったよなと思います。
本当はこういう支援が状況に限らず社会的に受けられる仕組みがもっと整っているとよいんでしょうね。それは間違いないです。でも、色々と難しいのが現実で…。どうしたらいいんでしょうね。
会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?
Yahooニュースを見ていると、タイトルからして大変困惑する記事があった。
タイトル以外にも投稿日など色々とこまかく記録しているから、少し見にくいかもしれないが、勘弁してほしい。
「生活保護の外国人の方が裕福…」必死に働く母が漏らす本音。揺れる生活保護の今【専門家解説】
どうして困惑したかと言うと、最近話題になっているネタを大変おかしな方法でとりあげているからだ。
記事は、外国人生活保護の問題が争点になっていると取り上げた後に、唐突に生活保護の不正受給の話に移る。
違和感をいだいた理由について、もう少し説明してみるために少し引用してみよう。
(1) 「在留外国人が増え続ける中で、このあたりは明確にしておかなければ、後々問題になりかねません。そもそも70年以上前と今では環境もまるで違います。適切な給付のためには一刻も早く議論されるべきだと感じています」
(2)生活保護に関しては不正受給にまつわる話題もたびたび持ち上がる。
(3)「例えば、2021年の厚生労働省の報告によると不正受給の件数は27,891件。金額にすると11,045,045円。一見多いように見えますが生活保護負担金がおよそ3.8兆円と考えるとおよそ0.3%ほどです。しかしこれがリアルな数字なのかはわかりません。不正がまかり通っている可能性も否定はできない。本当に必要な人に行き渡るはずのお金がそうでないところに渡っているとしたら?国民として怒りを持って当然です」
(2)で話題が変わり、
(3)不正受給の話について、「専門家」の発言が続く。ここでの話題は外国人ではなく、生活保護全体の話である。
それにもかかわらず(4)になると困窮/悠々自適、労働者/生活保護受給者、日本人家庭/外国人家庭というわかりやすく憎悪をあおりやすい二項対立に戻している。
あれ、話題変わったんじゃなかったの? どうして、混ぜるの? アテンションエコノミーでヘイトがんばっちゃう系?
ちなみに、野田はづき氏が「取材したケース」は次の記事である。
専門家というからには、このように記事に名前が出てくるからには、それなりの活動実績があり、それは今の御時世、ネット上で名前が出てくるはずだが、この記事以外に名前が出てくることはない。
執筆者の野田はづき氏は、専門家を探すのが大変お上手なようである。
長年日本の教育環境の取材を重ねている。自身も子を育てた経験からPTA問題などにも詳しい。
「モンペとギャングが溢れかえる公立小学校…」 先生をバカにする子どもたちと躾けない親が増える令和の教育現場という地獄【専門家警笛】
という「ジャーナリストの花山真衣」氏も
という「小嶋真子」氏も
他にも名前は上げていないが、活動実績が謎に包まれた専門家たちのオンパレードだ。
唯一、「危機管理コンサルタントの平塚俊樹氏」だけは同名でコンサルタントをやっている方を目にすることができた。
ただ、多産DVや親から子への性暴力というのは、危機管理コンサルタントの専門範囲なのだろうか。
検索結果を見る限り、クレーム対応が守備範囲のようにみえるがどうなのだろうか。
危機管理コンサルタントはありとあらゆる危機に対応するものだ常在戦場とか言われたら、申し訳ございませんとしか謝るしかないが、私の認識の中では専門家というのは、専門的な教育や訓練を一定期間経たものである。物理学者は精神分析の専門家ではないだろうし、英文学者が食事療法について本を出していても、私はそれを専門家の著作とは認識できない。
FORZA STYLEなるウェブサイトの#社会問題をクリックしてみると、いろいろと面白いことがわかる。
それなのに、同じような形式で記事を書くライターからまるでバトンタッチするかのように受け継いで、突如としてあらわれている。
念の為、検索演算子を使って下記の様なキーワードで検索をかけてみた。
3月9日あたりからあらわれて、ほぼ毎日、2週間弱で20ほどの記事を投稿している。
これだけ様々な記事、それも、その時々で耳目を集めそうなものばかりを専門家に取材し、現地で取材をし、次から次に出せるというのは、ものすごい新星あらわると嫉妬まじりで憧れてしまう。
ちなみにどういうわけか、頭がどんどん痛くなってきてしっかりと調べきれていない――野田はづき氏の爪の垢でも煎じて飲むべきかもしれない――が、このような新星は、野田氏の前にもたくさんいたようだ。
専門家に取材した記事を短期間で量産し、消えていく新進気鋭のライターたち。
文学作品や良質なルポ(そういえば、講談社ノンフィクション賞とかあったね)、講談社現代新書、みんながお世話になっているだろう良質な本を出す出版社だ。
ここで働いている方々は大変頭が良いと勝手に思っているし、勝手に尊敬もしている。
手に持っているのがかまぼこ板でないならば、そっこうで調べられるようなこと、すなわち「専門家」問題とかすぐにわかるだろう。
それをやっていないということが示すのは、能力的にできなかったのではなく、わかっていてやらなかったということととられても仕方がない。
もちろん、調べた私が馬鹿なだけで、なんの問題もない記事なのかもしれない。それはそれで新進気鋭のライターを次から次に使い潰しているといわれても仕方がないだろう。
あれ、もしかして、講談社を騙る詐欺サイトだったりするのかしら?
そうであれば、やっぱり、はやめに対処したほうが良い。
あと、FORZA STYLE「ユーモアは紳士のたしなみ」と書いているが、humorじゃなくてrumorの誤植?かもしれない。
もし、ノーチェックでなんでも載せているというのならば、今度、このポエムも載せてください。
むかしむかし、桃から生まれた男の子、桃太郎がいました。彼はその力強さと優しさで村人たちに愛され、成長しました。しかし、鬼ヶ島に住む鬼たちは、村を何度も襲い、村人たちを困らせていました。桃太郎はそんな鬼たちを討つ決意を固め、犬、サル、キジを仲間にして、鬼ヶ島へと旅立ちます。
鬼ヶ島で、桃太郎と仲間たちは鬼たちと戦い、ついに鬼の首領を倒すことに成功しました。だが、勝利の後、帰り道で桃太郎は不安を感じるようになります。おばあさんがどうしてもどこか冷たく、そして急に不自然なほど元気がないからです。
「おかえり、桃太郎。よくやったわ。」おばあさんの笑顔はどこかひきつっていて、桃太郎はその異常さに気づきませんでした。
だが、すぐにその真相が明らかになります。鬼たちが突然現れ、桃太郎を囲みました。そして、おばあさんは冷酷な言葉を口にしました。
「桃太郎、もう用済みよ。あなたが持ち帰った宝物は私のもの。鬼たちと共に、これからはこの村を支配するのよ。」
その瞬間、鬼たちに捕まった桃太郎は、もう後戻りできない運命に引き込まれました。
桃太郎と仲間たちは鬼たちに捕まり、鬼ヶ島へ連れ戻されました。サルはいつも通りにポジティブな言葉をかけ続けました。
「桃太郎さん、絶対に大丈夫っすよ!だって、桃太郎さんならどんな困難でも乗り越えられるっすから!」
だが、桃太郎はもう力を失いかけていました。仲間の犬も、キジも、そして桃太郎自身も、戦い疲れ、心身ともに衰弱していました。食事もろくに与えられず、寝床も悪条件の中、精神的にも追い詰められていきます。
サルはその中でも、変わらずポジティブな言葉を発し続けました。「すっごいっす!桃太郎さん、きっとこの苦境を乗り越えられるっすよ!次こそ絶対に勝つっすから!」
しかし、桃太郎はその言葉に答えることなく、ただ目を閉じ、静かに息を吐きました。犬もキジも力なくうなだれ、サルだけがその場に残り、ひとりで明るく言い続けました。「大丈夫っすよ!桃太郎さん、絶対にできるっすから!」
その日々が続くうちに、桃太郎たちはますます衰弱していきました。おばあさんは、もはやその存在すら気にせず、鬼たちとの支配体制を固めていきました。桃太郎はもはや動けなくなり、鬼たちに用意された牢屋の中でひたすらじっとしていました。
最期の時
最終的に、桃太郎の体力は尽き果て、息が細くなっていきました。サルはそれでも、いつものように明るく言いました。
「すっごいっすね!桃太郎さん、最後まで最高っすよ!絶対にきっと、良いことがあるっす!」
だが、桃太郎はその言葉に反応することなく、ただ目を閉じて静かに息を引き取りました。サルはその場で立ち尽くし、ポジティブな言葉を繰り返しながら、涙をこらえていました。
「桃太郎さん、すごいっすね…本当にすごかったっす…」
だが、その言葉はもはや誰の耳にも届くことはなかった。サルのポジティブな励ましは、空虚に響き渡るだけで、誰にも届かないまま時が過ぎていきました。
桃太郎の死後、鬼たちとおばあさんは村を支配し、村人たちはもはや反抗する力もなく、ただ静かに従うしかありませんでした。サルは今もなお、桃太郎が生きていた頃のように、ポジティブな言葉をかけ続けますが、その言葉がどれほど空しく響くか、誰もが理解していました。
そして、サルはひとり、あの言葉を繰り返しながら、日々を過ごしていきました。「桃太郎さん、きっとどんな状況でも、最強っすよ…」
その言葉は、もはや誰の耳にも届かず、ただ風に消えていった。