はてなキーワード: 思慮深いとは
日ごとに移り変わる季節の中、ももこさんの元気な声と、時折見せる思慮深い表情に、日々多くのことを感じさせていただいております。あのように天真爛漫で、太陽のような明るさを持つお子さんを育てていらっしゃるご家庭は、どれほど温かく、そして芯の通った場所なのだろうかと、折に触れて想像しております。
特に、ももこさんの日々の持ち物や、ふとした瞬間に語られるご家庭での出来事の端々から、お母様であろう方の、細やかでありながら揺るぎない愛情を感じずにはいられません。遠足のお弁当に込められた彩りや栄養バランスへの配慮、きちんと整えられた衣服、そして時には少しばかりシワの寄った、けれど一生懸命に取り組んだ跡が見えるノート。それら一つひとつが、お子さんを大切に思う深い気持ちと、日々のたゆまぬ努力の証左であると感じています。
ももこさんの、時に大人を驚かせるような突飛な発想や、少しばかりおっちょこちょいな一面も、きっと大らかな心で見守り、受け止め、そして正しい方向へと導いていらっしゃるのでしょう。嵐のようなエネルギーを持つお子さんと向き合う毎日は、決して平坦なことばかりではないはずです。想像するに余りあるご苦労や、忍耐を要する場面も多々おありでしょう。それでも、お子さんがいつも安心して、自分らしくいられるのは、根底に揺るぎない愛情と信頼の絆があるからこそだと、その姿を見るたびに確信いたします。
日々の生活を丁寧に、実直に、そして愛情深く紡いでいくこと。それは、言葉で言うほど簡単なことではありません。目まぐるしい毎日の中で、お子さんの成長のために心を砕き、生活を整え、時には厳しく、そしてそれ以上に深く温かな眼差しを注ぎ続ける。そのお姿には、ただただ頭が下がる思いです。特別な何かをなさるということではなく、日々の当たり前を、これほどの愛情をもって継続なさっていることに、静かな、しかし確かな強さと美しさを感じます。
私が日々接する多くのお子さんたちの背景には、それぞれのご家庭の物語があります。その中でも、ももこさんを通して垣間見えるお母様の存在は、いつも私の心に温かな灯をともしてくれます。お子さんの屈託のない笑顔や、健やかな成長は、お母様の深い愛情と日々の献身があってこそ輝くものなのだと、改めて感じ入っております。
どうぞ、これからも変わらず、その温かな手でお子さんを育んでいかれますよう。そして、ご自身のお体も大切になさってください。陰ながら、いつもそのお姿に敬意と、そして密かな憧憬の念を抱いておりますことを、お伝えしたく筆を執った次第です。
思慮深い人なら、言い方を選んで話せばわかってくれるでしょう。
元増田です。
多分洗脳されてるんでしょうね。それはわかるんだけど、解き方がわかりません。
動物園で父親に肩車してもらった夢、母親と一緒にお菓子を作った夢、みんなで川の字になって笑いながら布団に入った夢、ふらふらになるまで叩かれた夢、裸足で真冬に外に出された夢、責任取れって包丁を差し出された夢。
親の外面が良いと、私は気が強くて親を困らせる娘になってしまうんです。親はそんな娘を案じる心の優しい思慮深い親になるんです。それが心底腹が立ちます。
どれだけ預けられても、泣きながら私達が間違ってました、反省しています、娘を愛してるんです、と熱心に施設に通えば返してもらえます。今はどうなのか知りませんが…。
一度親戚の方が気付いてくれて、私を養子に引き取りたいと申し出てくれましたが、実の両親がこんなに愛して大切にしているのに出来ません!と騒いだみたいで、駄目でした。
悪いこともしてないのに、どうして「親御さんに心配かけちゃ駄目だよ」なんて言われないといけないんでしょうか。
普段は本当に素晴らしい、いい人たちだと私も思います。私を前にすると人が変わるんですよね。
早く目が覚めたい。早く平気になりたいです。
「鬼滅の刃」の好きなところは数えきれないぐらいあるんだけどその一つは
経験がモノを言う点
柱はどいつもこいつも「判断が早い!」が、逆に言えば最適解を即判断できる奴しか生き延びられない世界観
それはそうとして才能がなきゃどうしようもないですよ
才能溢れてて思慮深い努力家でも、チートの前にはどうにもならんですよ
できっちりとどめを刺してくるところ
どれだけ努力を積み、経験を重ねるための下地を築こうとしても、才能がないやつは殺されて終わりなだけのシビアさ
鬼という、人の一生よりはるかに長い時間を「人殺しのために強くなる」に費やせる存在の前にすべてが無に帰す残酷さ
でも才能がないやつでも必死でできることを積み重ねたら、みんなで力を合わせたら大きな望みがかないました
けっこうスピリチュアル要素の強い子もいる
そういうキャラクターたちの個性をそのまま愛していけるオタクたちは偏狭な未熟男性とは対極にいる
サブカル的コンテキストによる単純接触効果のおかげともいえるが、一般にオタクの器は広い
リアルでは嫌われそうな性格(毒舌や極度のコミュ障)のキャラでも絵の力により愛していくことができる
オタクは本来あらゆる属性を受け入れ、理解を示そうとし、おもしろがっていく、多様性を尊ぶ才能を持つものなのだ
キャラ数が非常に多い作品、たとえばアイドルマスターシンデレラガールズやグランブルーファンタジーのような作品を見れば
あらゆる属性が網羅されているのではないかというほど、どのような個性も愛すべきものとして描かれている
オタクという肩書にこだわらずとも、アニメやゲームに限らずとも
普段から物語作品を消費してさまざまな人間の個性に仮想的に触れている人間ほど
そして同時に本当に避けるべき人間として劣る行動というのもわきまえていけるというものだ
大人になれない人間が多い現代、むしろ大人も物語を積極的に消費して、未知のコンテキストを持つ人間や文化への想像力を養っていくべきなのだ
創作と現実を混同するなという言葉もあるが、創作の意義は現実に起こり得る人間模様の予行演習にある
己の寛容さを拡げるような有用な側面については、絵本に学ぶ児童と同じように、いい意味で意図的に混同していくことで、現実はより思慮深い「優しい世界」に近づいていくだろう
むしろ長らく物語に親しむ習慣を失ってしまった自称現実主義、社会派の人間こそ、世界を息苦しくする
単眼的で攻撃的な正義感でもって、創作と現実を悪い意味で混同し脅威と見なしがちな節があり、主義によって派閥を作り争いを生んでいる
オタクの大部分は、いい意味で混同すべきところを混同し、二次元特有の価値観やお約束を現実の人間や社会には求めない分別を持っている
ポリコレを振りかざす正義マンは、文化に対する理解も現実の人間の賢さ柔軟さに対する洞察力も乏しいために、悪く見える部分ばかり過大に取り上げようとする
そういった言説に安易に取り込まれないようにするためにも、継続的な物語消費による、最新の大人へのアップデート作業は生きている限り随時必要となっていくのだ
故人に語りかけるような、独り言のような、そんなとある曲がマジモンの追悼作品と知った。
作者とともに破滅的な青春を送っていた友人が数年前に死んだらしい。
トレインスポッティングやNHKにようこそみてーな世界もある所にはあるんだな。
SNSで遠巻きに見てた高校生が死んだのを思い出した。ぼちぼち一年半くらい経つ。こちらがボーっと生きてる間にも歳の差が開いてく。
数フォロー圏内でこっちから一方的に眺めてただけ。多分向こうはおれを知らない。でも思考回路といい趣味嗜好といい、コイツは別の世界線を生きる自分なんじゃねえかって思ってた。インターネットでたまに巡り合うドッペルゲンガー。
不登校になったり転校したり留年したり、色々あったらしい。一回り上のオタク連中から面白がられてた。見世物感覚とマジの心配の半々。
自分も紙一重でそういう生き方だったのかもしれない。フツーをやれる能力があったのか、重力に抗えなかっただけなのか。結局まあ大学で躓いちゃったけど。
不安に気づかないほど鈍感でもないし、気づかないフリ出来るほど我慢強くもないし、取り除けるほど賢くもない。分不相応に思慮深い、よくいる愚かな人間。
それでも学校行かない分バイトを始めてみたり、絵を描いてみたり、フォロワーのオタクと会ってたり、生きる事に全くの無気力ではなかったらしい。高認の勉強もしてたらしい。オタクと馴れ合いつつ、人生もぼちぼち進めて安心したいって。
そうやって抗ってる中で、楽しい時間が全くない訳じゃない。でももっと底の方の気分は常に晴れない。そんな感じのことをこぼしてた。
おれが同じ立場ならバイトの応募なんて出来なかっただろうな。案外行動力はあったのかもしれない。じゃなきゃ自殺だってしないだろうな。
人身事故なんて滅多にない地域で、10代男性死亡。最後のツイートはその駅のホームの風景。これで別人ならとんだゾディアックだな。
意識的なものじゃなくて、死ぬ時の気持ちっていうのはもっと切迫してんのかな。希死念慮とは長い付き合いだけど、未だに死んだ事はねえから分からん。
これはただの怠けなのか?生理的問題を抱えていて、それは対処が可能なものなのか?有効な対処がないのなら、救いはないのか?
みたいな悩みをずっと口にしてた。
はっきりナントカ障害という訳でもなく煮えきらない診断がおりてからも、「障害」を烙印と思ってかなり気に病んでたっぽい。
おれもそういう時期あったな〜〜
でも結局障害かそうじゃないかっていうゼロ百じゃないんだよな。
性格と障害なんてはっきりと線引きは出来ない。する意味もない。その境界にこだわるより、何ができるのかを考える。ごく当たり前かつ重要な気付き。それは理屈じゃなく、自分の時間と身体を使って納得を得なきゃ辿り着けない。そうでなきゃ、今度は鬱かもしれない。自律神経失調症かもしれない。HSPかもしれない。それさえ病院で治せば……なんて、いくらでも別の「可能性」にすがれちゃうんだよな〜〜
とか思ってる間に死んでしまった。
アニメの世界に行きたいって言ってたな。おれも行きたい。物語があるし。永遠だし。
止まった時間に守られて永遠に老け込むことはなくなったし、現実よりはちょっと近づけたのかな。でもやっぱ死ぬだけじゃ随分と廉価版になってしまうか。異世界転生してアニメの萌え女になれてたらいいよな。全くの虚無じゃ味気ないし。地獄行きがあるなら多分お互いそうだろうな。
おれが死んだらこっちが後輩か。アニメのアイコンしか見てないから姿は分かんねえな。
彼のことは自分を見る鏡のようにばかり思ってたかもしれん。死ぬにも生きるにも振り切れないところに、歳も近く自分みてーな奴が死んだことに光すら感じてたかもしれん。 もうちょっと社交性があったら自分とは違う所も知れたのかもしれんな。楽しく生きるのってそういうのが面倒で嫌なんだよな。
現在、世界で一番続いているドラマが、なんというドラマかご存じでしょうか。
イギリスの"Coronation Street"という名前のドラマです。英語圏で放映されています。
初回の放送が1960年12月9日だから、もう64年近く続いていることになります。
(現在は毎週月曜・水曜・金曜にそれぞれ1話30分の話を2話ずつ放映する方式)
舞台は、ウェザーフィールドという架空のくすんだ街(マンチェスター近郊がモデルらしい)で、
Soap Operaという、日本の昼メロの悪い部分を煮詰めたようなジャンルのドラマ(安っぽいということ)なので、
大体は、痴情、誘惑、浮気、不倫、陰謀、犯罪、不祥事、突然死、失踪、別れ、妊娠、堕胎など、いかにもなテーマのテンプレートをなぞりながら、話はウネウネと続いていきます。
そのドラマの中で50年間、同じ役を務め続けたHelen Worthという女優が、舞台を去ることになったからです。
彼女は50年前に、23歳の時、当時16歳の設定だった”Gail Platt"という端役でドラマに入ってきました。
当初は1か月だけのモブキャラの予定だったようです。
ところが、彼女はその甲高い特徴的なチャーミングな声と、周りとの調和を崩さない演技のクオリティー、
そして賢明で思慮深い性格などから、周りの評判を勝ち取り、いつの間にかモブから準レギュラー格、レギュラー格へと昇格し、
どんどん移り変わっていく周りの登場人物に関係なく、50年間、出演を続けたのです。
Soap Operaは撮影スケジュールが本当に過酷です。他の仕事と兼用が出来ません。ギャラも大したことないようです。
なので、50年続けるというのは正気の沙汰ではありません。
Gailは、ドラマ中で6回結婚し、3人の子供を設け、それぞれの子供に数えきれない問題を抱えながら、
告訴されたり、投獄されたり、旦那に殺されかけたり、Soap Operaのキャラクターが体験しうる一通りの経験をしました。
結局、最後は"Soap Opera”らしく唐突に死んで終わるんじゃないかとファンはドギマギしています。
Helenさんお疲れさまでした。
追伸
彼女が去ってもドラマは続いていきます。英語だけどファンページはこちらから。11000回分のあらすじも載っています。
https://coronationstreet.fandom.com/wiki/Coronation_Street_Wiki
星野智幸氏の『言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル』(ttps://digital.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html)が話題である。その主張の要点は、以下の通りである。
最初これを読んで思ったことは「何を今さら」である。欧米における近年のリベラル派の度を越した正義依存問題は、ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(Social justice warrior)やバラモン左翼といった批判や自省の中で、多かれ少なかれ言及されてきことである。それにも関わらず星野氏が、さも苦悩の末に新しい認識に至ったかのような筆致でリベラル派の正義依存を問題提起していることに、正直驚いた。
しかしさらに驚いたのは、リベラル派からの反応である。星野氏が何を問題視しているのか、全く分かっていないようなのだ。
ttps://x.com/kentarotakahash/status/1828424826039738677
ちなみに、貴方の言う「カルト的に「正義」に依存し個を捨てる」というのは、実際にはどういう行為を指しているんですか? まあ、個人の判断よりカルトの熱狂に飲み込まれるなんてことはよくありますが、それが「正義」と何の関係が?
ttps://x.com/hiranok/status/1828581602613666289
僕は星野さんは友人だと思っていますが、敢えて書きます。星野さん自身の言動はその通りだったとして、だからと言って、「リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ」云々の雑な話をどうして出来るんですか? それがリベラルの大多数ですか? 自分だけは、例外的で思慮深い真のリベラルであるかのように話されていますが、内容は、昨今のリベラル批判の大波にスッポリ呑み込まれて、その尻馬に乗っているだけじゃないですか。リベラルの弱体化が歴史的にも危機的なこの時に。自分の政治的発言が「消費」されていると感じるなら、「消費」されない言葉を工夫すればいいじゃないですか。瀬戸内さんだって林京子さんだって大江さんだって、みんなやってきたことでしょう。自分は、小説があるから、もう政治的発言は止めた、でいいでしょうけど、他の人たちはどうなるんですか? しっかりしてください。
このリベラル派の反応を見て、「何を今さら」という認識を改めた。星野氏がリベラル界隈の空気にどっぷり浸かっている中で、リベラル派の正義依存問題を認識するに至るのは大変な知的苦痛を伴うことであり、それは意義深いことではないか、と。
星野氏の論考には具体例がほとんどないので、リベラル派は問題提起の要点を理解できないのかもしれない。そこで、あくまで自分の理解に基づくものであり星野氏の真意と完全には一致しない可能性はあるが、「リベラル派の正義依存」問題の具体例を補完してみたい。
ネット上の反応をざっと見ると、高橋、平野両氏の先の引用のように、リベラル派の批判は次の二点に集約されるように思われる。
2. 仮に正義依存問題の具体例があるとしてもそれはリベラル派の特定の個人又は集団の問題であり、広くリベラル派一般の問題としていいのか
リベラル派の正義依存問題の最も分かりやすい具体例は、草津町長性犯罪虚偽告発事件(ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E4%BF%A1%E5%BF%A0)において町長を糾弾したフェミニスト達であろう。この事件は、新井祥子町議(当時)が黒岩信忠町長から性犯罪を受けた、という虚偽の告発をした件である。以下、吉峯耕平氏のTogetterまとめを引用しつつ説明する。
ttps://togetter.com/li/1973629
新井氏は2015/1/8に町長室のソファーに座っている時に、黒岩氏に机との間に押し倒された、と証言した。しかし、実際の町長室を見ると机とソファーの間が狭すぎて押し倒すスペースが無い。これに対して新井氏は「当時は机とソファーの配置が全く違った。新井議員が記者会見をやった後、町長が証拠隠滅のために模様替えをやった」と反論したが、実際には模様替えは行われておらず、この反論も虚偽であった。
ttps://togetter.com/li/1973629?page=2
それにも関わらず、例えばフェミニストの北原みのり氏は新井氏の証言を信用した。当初は北原氏も信憑性を疑っていたようだが、三井マリ子氏の「現代の魔女狩りだ」という発言に感化されたようである。最終的に北原氏が証言を信用した理由は、被害者は沈黙せざるを得ず「ミソジニー社会」では女性の言葉は軽視されるという一般論と、新井氏が知的だったという印象論、この二つのみである。
ttps://togetter.com/li/2278947
北原氏の変遷はまさに、「『正義』に依存するために個人であることを捨てて」証言の信憑性を精査しなかった具体例であろう。
北原氏は「町長が性犯罪を実行した」と事実摘示してはいない点に留意する必要はあるが、恣意的な切り取りと印象操作をしている。例えば、2020年12月1日の町議会において、湯本議員は①模様替えが虚言であること、②新井が現場の録音の一部を公開したことを指摘し、新井氏の告発の信憑性が低いことを説明している。
ttps://x.com/kyoshimine/status/1737202101842059771
しかし、新井氏はこのことに触れず、以下のように印象操作を行った。
ttps://x.com/kyoshimine/status/1737210416521220255
ttps://dot.asahi.com/articles/-/13943?page=2
その様子はこのコラムでも記したが、傍聴席には高齢男性たちが並び、新井氏にむかって「うそつき」「(あんな女とは)犬でもしない」など激しい言葉で罵っていた。それは議会というより、新井氏が裁かれる現場のようだった。
その後、新井氏は名誉毀損と虚偽告訴の罪で在宅起訴されたが、この期に及んでも北原氏は次のように言う。
ttps://togetter.com/li/2278947?page=4
ttps://dot.asahi.com/articles/-/13943?page=3
SNSでは、支援者やこの件についての記事を書いた者への謝罪を求めるような声もあがっているが、支援者たちに謝罪を求めるのは間違いだ。支援者は被害者を選ばない。少なくとも私は、フラワーデモを通して、被害者は選ばないと決めた。
「リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある」という星野氏の指摘は、一連の言動をする北原氏の動機を上手く説明しているように思われる。
吉峯耕平氏のTogetterまとめを読むと、北原氏の他にも多くのリベラル派が上記の虚偽告発事件に際して正義依存問題というべき糾弾をしている(ttps://togetter.com/li/2283797)。しかし平野啓一郎氏が疑問視するように、正義依存問題はリベラルの大多数に当てはまるものなのだろうか。確かに上記糾弾に参加していないリベラル派も多い。
自分の理解ではやはり、正義依存問題はリベラル派一般に当てはまる事象だと思う。その根拠は、リベラル派の中で上記の町長糾弾者を批判した人が皆無に近いからである。
日本にリベラル派は何人存在するだろうか。立憲民主党の支持率が5%、有権者総数が1億人程度いるので、500万人が立憲民主党の支持者であり、少なく見積もってもその1割の50万人は意識的なリベラル派であろう。少なく見積もってもリベラル派は50万人もいるのに、件の草津糾弾問題を批判した人は何人いるのか。この内のさらに1割の5万人が糾弾に参加した人を批判していれば大きな話題になっているはずだが、実際にはそうはなっていない。
「『正義』に依存するために個人であることを捨てている」、要するにリベラル派は党派的な動機で、糾弾に加担した同じリベラル派への批判を避けたのではないか、このように疑われる状況なのである。
それでもなお正義依存問題はリベラル派一般には当てはまらないと反論したいのであれば、件の糾弾者達を批判したリベラル派を5万人挙げろとは言わないが、まずは5人程度は挙げる所から始めるべきだろう。
「○○菌が伝るぞー!」の正しい言い換えが「清潔感」ってワードなだけだよ
いじめっ子メンタリティを持ったまま成功体験を積み重ねて大人になる人間の方が圧倒的に多い
直接的には手を下していなくてもそういったノリに特に異を唱えることもなく適当に乗って流した人間の方が圧倒的に多い
大人になるに連れて「生理的になんとなく気に食わない人間を集団の力で排除する」ための正しいやり方を学んでいっただけ
小学校低学年ではいじめっ子でもあるとき突然自身の感情との折り合いをつけて他人を思いやれる思慮深い心優しき人間になるのがどの程度の割合でいると思うんだ?
そういった方法を子供の時分から学ぶことを許して大人になるまで放置した結果としてそういうことをすること自体が正しい社会が作り上げられた
実行の伴わない言葉のみで矯正しようなんてオナニー思想で自分を慰めていたアホな人間のせいでもあるけどこれも仕方ないな
そんな考えに至る時点でそれはいじめっ子メンタリティとは対極のいわばいじめられっ子メンタリティで少数派なんだから耳を貸すのは同じ少数派なだけ
それはともかく、とても素晴らしい人だった。
それだけに高嶺の花感がすさまじく、俺は気圧される一方。
正直、「なんでオメェは俺なんかと見合いしてんだよ!他に優良物件あるだろ!暇つぶしか嫌がらせか?」と卑屈な被害妄想・いいがかりを胸に抱く程だ。
お見合いをする度に思うが、まず俺に必要なのは小手先のテクニックではなく自己肯定感を高めるための自己啓発とかカウンセリングとかであるように思う。
終始アワアワしつつ、定刻を迎えたので解散。
別れ際に何か気の利く言葉をかけようと思っていたのに、やはり何も出てこない。アバババ
と思ったら、先方が今日の会話をいい感じに総括した上で「楽しかった!」みたいなことを宣うではないか。
それ、俺が言いたかったヤーツ!
胸いっぱいの敗北感を抱えて帰路に着く。
一応、また会いたい、と希望を伝えるけど、おそらく無理だ。高嶺の花は高身長の男が摘み取るのであろうな・・・
しかし、心折れてばかりもいられない。
やはり準備が足りんのはダメだな。当たり前だけど。
(追記)
定期的に「からかい上手だと思っているのは高木さんだけで、西片くんは実は本気で嫌がっている」 「高木さんの“いじめ”のせいで西片くんが自殺する」というようなネタを書く人がいるので
この二人は大人になったら結婚することが確定していると聞いたけどそれがフォローにならないくらい読者にとって不快な“からかい”をしているのか?
西片くんに何のメリットもない一方的ないじめのような描写があるのか?ヒロインをいじめ殺人の加害者のように扱う正当性が作中にあるのか?と気になっており、
サンデーのアプリを入れていることを思い出し一巻分が無料だったのでとりあえず読んでみたという次第である
(追記終わり)
ヒロイン高木さんが同じクラスの西片くんにした「からかい」がこちら
・びっくり箱で脅かしてこようとする西片の思惑を読み、先にびっくり箱を仕掛けて驚かせる
・ 「消しゴムに好きな子の名前を書いて使い切ると両想いになれる」というおまじないの話をした後に自分の消しゴムを放置して席を立つ
西片が勝手に消しゴムを見ることを見越してあらかじめ「ろうかみろ」と書いておき、廊下で待機して西片を翻弄させて楽しむ
・プールの時間に生理で休んでいるふりをして、自分を気遣ってあたふたする西片を見て楽しむ
・実は体調不良でもなんでもなくて体に巻いていたタオルを脱ぎスク水になり西片をドキドキさせる、手の怪我で見学していた西片に「怪我が治ったら一緒に泳ごう」と言ってさらにドキドキさせる
・授業中に変顔で笑わせようとしてくる西片にまったく動揺せず、逆に鏡を向けて西片を噴き出させる
・最近筋トレを始めた西片に「たくましくなった」 「かっこよくなった」と本心から言って顔を真っ赤にさせる
・空き缶投げ対決で西片が勝ったらファーストキスをあげると言ってドキドキさせる
・雨の日、傘を忘れたことを理由にひとつの傘を使い一緒に帰る。大きなカエルを手でわしづかみにして近づけてくる西片にまったく怯まず、それどころか相合傘をしていることを強く意識させてドキドキさせる
・授業中に優しく微笑んでドキドキさせる
・耳元で西片が好きだよと言う
これで「いじめがーー!」とか「西片が自殺したらどうするんだーー!!」とか言う奴ら本当になんなの
ただのバカップルのいちゃいちゃ
どこにトラウマ刺激される要素があるんだ?どこがいじめなんだよ
中学や高校の時に女子から「ファーストキスあげるよ」とか言われたことあるの?それがトラウマなの?人生で一度もそんなこと言われたことないくせに?
「からかい」というワードでクラスのいじめっ子から「不細工」 「デブ」 「臭い」 「キモい」と嘲笑されたトラウマがー!!って高木さんそんなこと言ってないのに知らんがなすぎる
「無自覚両想いの可愛い女の子に耳元で好きと言われる」を「仲良くもないしもちろん好きでもない粗暴なヤンキー男に絡まれ、暴言や暴行や窃盗の被害に遭った」に変換しないでもらえるか
「無自覚両想いの可愛い女の子に耳元で好きと言われる漫画」を「仲良くもないしもちろん好きでもない粗暴なヤンキー男に絡まれ、暴言や暴行や窃盗の被害に遭うことをコメディチックに描いて矮小化したり肯定したりいじめを推奨する漫画」に変換しないでもらえるか
ついでに高木さんと西片は結婚して子どもができますっていう続編?おまけ漫画?を作者が描いてるっていう話も漫画好きだったら読んでなくても知ってる人は知ってるだろうし
第一話で高木さんは「ろうかみろ」の裏に「西片」って描いてあるからあっこの子は好きな子にちょっかい出してるんだなって速攻で分かるようになってるし
他の話でも西片が学校にいないとつまらなさそうにしてるとか嘘をつかないとかモノローグでももうほぼ好きって言っちゃってるし
あんな顔真っ赤にしてる西片が何で「本当は自殺するくらい心を病んでいる、嫌がっている」って決めつけるんだろう?
自殺云々の話をする奴は「原作と違い西片くんは照れ顔を見せることなく顔面を蒼白にして嫌がっているif」や「高木さんが西片を好きではなく悪意に満ちた表情で中傷してくるif」の話じゃなくて本編軸でそうかのような言い方をしていることが多いように感じる
障害によっては表情を読むのが苦手な特性があるっていうけどこれは漫画のキャラに対してもそうなんだろうか?「照れている」表現が分からないんだろうか?鬼滅みたいになんでもかんでも台詞で全部説明されないと理解できないんだろうか?
それとも「この絵は高木さんのフィルターを通しているだけで本当はもっと口を歪めたりして醜悪な顔つきで嘲笑しているんだ!」と勝手に思い込んでしまうんだろうか?
西片のことが好きな高木さんがふんわりとした笑顔で「かっこよくなったよ」と言う場面があったよ、という話を挙げてもそのページを実際に見せても
“彼氏持ちの派手な女が同じようなヤンキー女子を引き連れ、怯える西片を取り囲み、「てかさあw西片ってw……プププwかっこよくなったよね……」 「ぎゃはははは!!!!ありえねー!!www」 「あーもうマジ最悪~!www」 「頑張ったねw次の罰ゲーム何にする~?www」って言うだけ言って去っていった”、
西片は西片でいつも高木さんにやり返してやろうと思ってるし、ツレションしながら気さくに喋れる男友達もいる描写があるのに「いじめられっ子でぼっちで不潔で気弱で泣き寝入りするしかない低スぺ男子」だと思い込んでしまうんだろうか
ろくに読みもしないのにタイトル等ほんの一部だけ見て勝手に不安を刺激されて
ありもしない展開に怯え、漫画家を反社会的な人間扱いして糾弾しようとするみたいなの多くない?
(漫画やアニメじゃなくてもあると思う、「学校で行われる健康診断」って聞いて自分が子どもの頃の昭和時代に雑に全裸整列させられてたトラウマを想起したおばさんが心の傷を癒すため、今の色々配慮された健康診断をなくそうとする活動してるとか……)
共感力が高くて思慮深い人間だと思ってそうだけどそれは「認知の歪み」とか「自他境界がない」とかいうやつじゃないんだろうか
どれだけ作者がヘイトコントロールに気を使ってもまともに読んでない奴や病院行った方がいいレベルの精神障害者に描いてもいないことで正義棒で叩かれ筆を折られそうになるなんてたまったものじゃないな