はてなキーワード: 差別意識とは
なんかテロリズムを肯定するのか、とか共産主義者か?と言われると腹立たしいんだよな。
俺たちが望む国家転覆、アナーキズムってのはそういう状態じゃないんだよ。
要はハイチよりも乱れて欲しい。国家なんて無くなって、法律もなくて、畑もなくて、貨幣もない。そういう素晴らしい状態を望むわけじゃん。
想像してごらんよ。
お前のおばあちゃんやおじいちゃんが家でのうのうと暮らしてたら、俺たちが家に行ってお前をまずボコボコにする。
そんで言うわけよ。「ババアを殺したら助けてやる」って。
そんで、可能な限り自分の家族の悪口を言わせながら、互いを罵り合わせて殺し合わせたいわけじゃん。
お前らが集めたなけなしの食料を、そういうのを観ながら食うと多分美味いじゃん?
で、どうやったらそういう状態に持っていけるか、それが大事なわけよ。
それはまあ端的に言うと地方と東京の差別意識を煽りに煽るしかないと思っている。
国家転覆論者はすぐに元自衛官による転覆を期待するが、おそらくそれは不可能だ。弾薬が足りなすぎる。つまり長期支配の継戦能力が足りない。
あと、武力による転覆だとクーデター起こした側が結局、新しい臨時政府のようになってしまうから、真の無秩序を愛する俺たちとしてはやはり、あまり望めないところもあると思う。
そこで地方と東京の内戦状態の輔弼をしていくことが大事になる。
つまりは「東京が地方を見捨てる状態」を加速させればいい。やんわりと、もうそれはみんなやってるから、感情的にも理解しやすいはずだ。
南海トラフとかで、地方は多分見捨てられる。その時、いかに東京と中央政府を悪玉に仕立てられるかが重要だ。
地方が内部で外患誘致したりしつつ、もう東京のやつらを殺すしかない、と戦いを挑む、結果共倒れになる。
これが理想。
どうその状態に持っていくか、というのを今のうちに準備しないといけない。
あとは外国勢力だよね。中国とアメリカ、ロシアあたりには滅んでいてもらわないといけない。
それをどうするかはみんな悩んでると思う。
そういうことだよ。
男性性、女性性のような「性別に与えられた役割」があると考えている人間の割合は、都会より田舎の方が多い、というのは確かに正しいだろう。東京で生きていくにあたって、2人の男女のどちらかが働き、どちらかが家を守るというのは、金銭面においては相当難しい。
ただ、男尊女卑の風潮を「さす九」のように一地方特有のものと言ってしまうのは、正直相当違和感がある。ぶっちゃけ田舎ならどこでも一緒だろ。人が入れ替わり立ち替わり移動することで価値観のアップデートがしやすい都会と違って、田舎は入ってくる人がそもそも少ないわけで、価値観をアップデートする必要に駆られていない。
で、別に都会だって価値観が変わったのここ十数年でしょ。2007年に『働きマン』『ハケンの品格』みたいなドラマが出た、ってことは「働く女性」がドラマのモチーフになるくらいまだまだ当たり前じゃなかったわけで。なのでそもそも都会は田舎に比べて進歩的である、とは正直言い難い。これを前提にして聞いてほしい。
増田は「さす九」と言う人間が、差別意識丸出し、だけど自分は批判されたくないっていう相当卑怯な人間によって生み出された言葉だと考えている。
田舎の因習に囚われている人間やその地方のことを「さすが田舎」と言ったっていいわけでしょ。なんなら「さすが東北」とか言ったっていい。正直九州民の価値観と東北民の価値観で言えば、肌感覚にはなるがそこまで開きがあるようには思えない。
でも、今東北の人間を揶揄すると、自分にしっぺ返しが起きる可能性がある。もちろん東北は今も被害の渦中にあるわけで、その地域について因習を辱めるということは、自分が批判の矢面に立たされてしまう。
だから、おそらくは都会に住んでいて、それだけで自分を進歩していると勘違いしている、かつ他人を常に見下さないと生きていけないような自己肯定感の低い人間が田舎をバカにしようとした。でも田舎で一括りにすると自分が文句を言われそうだから、わざわざ九州の人しかバカにしてませんよ、って予防線を張った結果が「さす九」という言葉なんだろう。
この速さなら言える!
D&Dやソードワールド・ウィザードリィと連綿と続く古典RPG的コンテンツ、大元を辿ればトールキンに行き着くようなそれらの「剣と魔法の冒険譚」が持つ世界観に対して、現実主義的な観点からある種のスノビズムが如きメスの入れ方をかましては「どうだ!俺の完璧な考察!参ったか!」と踊り狂う輩が昔から嫌いだった。
それがあくまで悪ノリの一種でしかないので作者も真面目に考えているというほどではないという前提を崩すことがないなら受け入れることも出来るが、真面目くさった顔をして「科学的思考により考察すれば生態系がああしてこうして栄養やエネルギーの流れはどうたらこうたら」と抜かすような連中はどうにも虫酸が走るのだ(別の作家の名前を挙げれば、天原はセーフだけどKAKERUはNGって感じかな)
そもそもファンタジーはあくまでファンタジーでありそれ以上でも以下でもないということは誰もが遊びの大前提として捉えるものだと俺は思っている。
「人型ロボットとか馬鹿馬鹿しいよな」「いいやミノフスキー粒子散布下での宇宙戦争は有視界での接近戦を前提としているのでAMBACの効果を得られる人型こそが……」といった論争は、そういった議論ごっこが好きな奴らが誰の目にもつかない場末の掲示板でやるならまだしも、出版社を通して出すような本では慎んでいくべきなのではないかということである。
今しがたのべた「であるべきなのではないか?」というのはあくまで自分の個人的な趣味嗜好の一種でしかないことは理解している。
人類全体が受け入れるべき絶対的イデオロギーだとは思っていない。
単に俺自身がこういったものがどうにも好きになれないというだけの話だ。
ダンジョン飯のような作品がやりがたる「ゴーレムというものは……」「魔法というものは……」「ダンジョンとは……」といった考察なんてものは出口と入口が反転していることにも気づかない連中がポストモダニズムごっこを繰り返す超無秩序ソーカル事件状態でしかないのに、何故それをあんなに真面目くさった顔を真っ赤にしながらやれるのだろうか本当に気持ち悪いな……という感情論でしかないのだ。
ダンジョンなんてものは風化した古代遺跡へ盗掘に行った連中がそこに住み着いた野犬の群れに襲われたのを「我々は冒険者なのだが、モンスターとの戦いから辛うじて逃げ延びてきた。これはダンジョンにあった宝箱から取ってきた財宝でござる(単に昔の偉い人が普通に保管してたのを盗んできただけ)」と言い換えただけであり、それをベースに作られた数々の冒険譚が積み重なって作られた集合意識的な「ダンジョン」という概念に対して後付けでそれっぽい補正をつけるという行為のどこに科学的な考察があるのかと、俺はずっとずっと思ってきたのだ。
概念の成立をその歴史から紐解いていくこともせずに全く別の所から引っ張ってきた理論を持ち出して「逆算したふり」をかまして見せる行為は、その文化が成立していった背景を踏みにじるようなものだと思えてならないのだ。
つまり、魔法というものの成立について紐解きたいなら学びを得るべきは金枝篇であって熱力学ではないということだ!
否定される謂れもない。
あるので、言えるタイミングがあるうちに言っておくということだ。
今だけ文句いえ美って奴だな←?
death6coin いいぞ増田で吐き出せ
ありがとう。「ウンチはトイレでするもの」みたいな肌感覚はこれからも大事にして生きていきたい。
wdnsdy 面白ければ目線が上だろうが下だろうがお約束展開だろうが逆張りだろうが何でもいい。面白くないやつだけが悪
kori3110 なるほど。好みのとして理解はできる。魔法は科学的に説明出来たら魔法やないやろ問題みたいな。ただ、上から目線の正体は作者や作品というより「それが商業的成功により絶対正義扱いされること」のような気も
情報の洪水に脳が殺られ自分の中での「面白いから正義」が全人類にとっての善悪なのかを切り分けきれてない人が増えてきたように感じる。俺は最初から最後まで「俺の個人的な感想だけど、俺は嫌いですね」しか言ってないのに、それ以上の何かを見出されているようなコメントが多いように思った。
魔法陣グルグル
あれはお巫山戯だと自覚したうえでのお巫山戯を貫いていると思っているので個人的にはあり。まあ本文読んでからのコメントなのか、タイトルだけ見ての条件反射なのか、そんなのどうでもいいから俺の好きな作品の話がしてーんだよなのかは読み取れないんだけど。
cider_kondo どうでもいいけどウィザードリィって3番目に強い武器がカシナートとかそういうノリのゲームやぞ(巨頭の片割れたるウルティマも平然と宇宙行ったりラスボスがコンピューターだったりする(ネタバレ(そこ気にする所か?
そもそもラスボスの名前が……なんて話は今関係ないよね。俺が言ってるのは古典的ファンタジーの世界観を踏襲した作品群についてのことであって、それぞれの中で個別にお巫山戯要素があるかってマジで今関係ないよね?
nnnmmmlll D&D自体が「古典ファンタジーのお約束的世界観に対して上から目線でゲームシステム化、数値化しようとする作品」なんですが
altar 予想通りウィザードリィが入っている出オチ、だと思いつつ増田の思想を読み進めていくと大元として自分で挙げたトールキンを否定している二段オチだった。
nowa_s 民間伝承を体系化して己の世界を作ったトールキン、トールキンの作った世界を数値化・システム化したD&Dその他のPPGには嫌悪感ないのかな。/「趣味趣向」じゃなく「趣味嗜好」と書いてるとこは好感持てる(上から目線)
ぐぅ……いい意見だ。話をちゃんと聞いてもらえていると感じる。俺の中に「トールキンはそれまで散り散りだった伝承を集約して世界観を構築したから凄いのでセーフ」「ガイギャックス達がやった試みは挑戦的だからセーフ」という実力主義的な差別意識があったことを指摘されている。「いっちょ噛みはアウトだけどガチの構築ならセーフっていうならダンジョン飯もギリセーフでは?」みたいな話だよね。結論だけショートカットして語れば、俺の個人的な感想の線引きは俺が決めていいはずだ!でもその権利は君にもあるよね!みたいな所に落ち着きそう。人間って勝手だよなあ。
FutureIsWhatWeAre 空想科学読本より「すごい科学で守ります」路線のほうが好き という話なら多少は賛同する
petronius7 同類として私は柳田理科雄が嫌い、科学的な目線でメスを入れるフリはしても、合理的に考えたら絶対そうは成らんやろといういい加減な話が多く、技術者として読んでて怒りを覚える。
いやマジで柳田理科雄はこれ系の総本山だと思うよ。「俺は科学という最強の権威を使って今からお前らの好きなものをぶん殴るが、お前ら如きが科学様に楯突こうとは絶対に考えないことだ」みたいな虎の威を借るオルタナティブスノビズムが極まりすぎて痺れるもの。センス・オブ・ワンダーがあるならまだ「考察」になってるけど、美学や世界観もなくただ「他所の分野からツッコミのための武器を用意した」だけだったら、そんなのただの「いじり」じゃんねえ。
hiruhikoando あの世界アラブもモンゴルもプロテスタントもないので。悪役令嬢系のファンタジーハーレクインは大元の設定ガバガバなところをいじり倒して楽しむ。
この辺はモヤモヤするよね。作者が細かく突っ込んだ所は丁寧に「考察」されているのに、そうじゃない部分はそのまま使い回されてるから世界観の粒度や深度に凄くバラツキがある感じ。俺がいまいち好きになれんのはその辺に舌触りの悪さを覚えるからなのかなあ。本当の本当にひたすらメシの話だけしてれば、「まあメシには関係ある部分限定でって感じなんだよな」でスルーしやすかったのかな—。
shields-pikes 増田は一度創作活動をしてみよう。そうすると独自のファンタジー世界観の設定の重要さがわかるから。そもそもオレ理論は、既存の創作物に対する「考察」じゃなくて、オリジナリティを生むための「解釈」なんだよ。
凄いな。いきなり「お前は創作をしたことがないだろ。だからお前の意見は浅いんだよ」でマウントぶっぱして終わりかよ。「どうせ無産者だろ?無産者如きの感想は聞くに耐えないね?」ってレッテル貼りでしかなくて呆れる。そのロジックの組立は「黒人訛り酷すぎだろお前らクロンボが小さい脳みそで考えた意見とか聞いてね—から」みたいなもんだぞ?アホが1人で喚いてるならともかく、これにスター集まってるのはヤバイと思う。
私は転勤族だったので、幼少期は日本全国津々浦々、さまざまな地方に住んだことがある。出身地といえる場所はない。そしてフェミニストでもない、先に断りを入れておく。
話を戻そう。恋人が九州出身ということを話すとそれだけでイメージが刷り込まれるのか、
恋人の話になるとことあるごとに、哀れみの視線とともに「だって匿名ちゃんの恋人は九州の人だもんね」とか「さすが九州男児って感じがするね」と言われるのだ。
なんなら別日には、「だって匿名ちゃんの恋人は九州の人だもんね」と言った友人の配偶者や恋人ver.で、先日私が話した恋人とのエピソードと似たような話を聞くことだってある。お察しの通りその配偶者や恋人は九州以外の出身だ。
九州出身者なら男尊女卑エピソード、それ以外の出身者なら惚気になるってなにごと?
これって九州出身の恋人や配偶者がいる方は経験したことがあるんじゃないかなと思う。
そして私は、そう言われるたびに納得がいかない気持ちになる。こと恋人関係や夫婦関係、家族関係の中での行動や発言は、出身地というバイアスがかかって評価されるのかと。
そして近頃「さす九」という言葉をちらほらと目にするようになった。
たしかにXで流れてくるポスト内容はどぎついものもあったりするのだが、九州だけではなく、違う地域でも似たような話があるのではないかと思ったりする。
もちろん、そのポスト主の経験を否定するつもりも、実際にあった男尊女卑的、家父長制的な行動や発言を擁護するつもりもまったくない。SNSが発達して、いままで人にあまり知られることのなかったことが顕在化することはいいことだと思っている。
ただ性別年齢問わず、九州に限らず全国各地に、男尊女卑・家父長制的思考のもとに生活している人は少なからずいると思う。
「さす九」という言葉で九州が晒しあげられることによって九州を差別するだけではなく、九州だけではなく日本全国にいまだに残るそういった思考が不可視化されようとしている気がする。九州をスケープゴートにして。
九州だけじゃないことなんてみんなわかってるよ、わかった上で特に目立つから「さす九」と揶揄されるんじゃない?という意見もあるかもしれない。
でも、私が「さす九」という言葉を知ってから、「結婚するなら九州の男性だけはやめておけと言われた」「◯◯(九州以外の地域)の男性と結婚できて幸せ」などの投稿も見かけた。
相手の性格で結婚を決めるのではなく、属性で判断する発言に恐怖を覚えた。別にどこの出身だったら必ず優しい恋人、配偶者、家族になるなんてことはないのに。
もしかするとこれは「さす九」論争にのっかった釣り投稿なのかもしれない。
ただ、この投稿を信じてしまう人、先入観を持ってしまう人は出てくるだろうと想像できる。
人は知らず知らずのうちに他人の発言に影響を受けるものだと私は思っている。だって「さす九」という言葉が出てくる前から、冒頭の友人との話のように、(おそらく)「九州男児」という言葉に影響を受けた出身地バイアスがかかった状態で話が進むことが多かったから。
「さす九」という言葉は私たちの考えを気づかないうちに侵食しているような気がしてならない。九州への差別意識の芽生えにとどまらない。私たちが考えなくてはいけない本質的な部分は「さす九」か「それ以外か」ではないのに。
https://www.bookbang.jp/review/article/763764
8月末、Xで「#ペドフィリア(小児性愛)差別に反対します」なるハッシュタグがトレンド入りした。
何事かと思っていたら、小出版社「ころから」が、「ペドフィリアを含むあらゆる内心の自由について、いかなる制限もなく保障されるべきだと考えております」との告知を掲げた。目を疑うべき事態である。
あらましはこうだ。昨年8月、ころからは『イン・クィア・タイム』というアジア系クィア作家アンソロジーを翻訳出版し、作家の王谷晶に帯文を依頼した。ところが、王谷がペドフィリア差別発言をしていると本書訳者の村上さつきとその連帯者が指摘し、帯文の撤回を要求したのである。王谷の「『LGBTQのQにペドフィリアが含まれる』はデマだ」というツイートが糾弾されたようだ。
王谷には、トランス差別を指摘されて長文の反省文を書き、熱心なアライ(支援者)に転じた過去があった。王谷は今回も自らの差別意識を自覚反省し、ペドフィリア差別反対を一旦は表明したものの、自分は実は小児性犯罪被害者だと告白した後、混乱を理由に表明を取り下げた。だが糾弾は止まず、王谷はXのアカウントを削除した。村上さつきや連帯者たちも次々に凍結されてしまった。
「Q+」にペドフィリアが含まれるか否かについて、LGBT運動側でも意見が真っ二つに割れた。強硬に排除せんとする弁護士やジャーナリストがいた反面、すべての性的マイノリティの包摂を理念とするクィア理論に従えば当然含まれるとする声も多かった。