はてなキーワード: 家庭裁判所とは
残されたのは私と姉。母はとっくに死んでいる。
精神疾患持ちの姉の代わりに、私が父の死に関する手続きのすべてをやって、役所に授業で聞きかじった遺族年金のことも聞いた。
しかし、受給期限は18歳になった年度の3月31日までだったので、私は父の遺族年金はもらえなかった。完。
すいません、ちょっと待ってもらっていいですか?
「高校卒業したってことは、来月から新社会人だね!給料もらえるね!むしろ自分で社会保険料払うんだから遺族年金なんかいらないね!」
え、もしかして新社会人やったことないですか?私は社宅があったからまだましだったけど、スーツやら生活用品やら食費やらでお金かかるって知ってました?
A.予測できない将来へ備えるためには、社会全体で支える仕組みが必要なんだよ
A.国民の「安心」や生活の「安定」を支えるセーフティネットなんだよ。子どもから子育て世代、お年寄りまで、すべての人々の生活を生涯にわたって支えるものなんだよ
ちなみに厚生労働省のホームページから引っ張ってきました。吐いた唾飲み込むんじゃねえぞ。
何が社会全体で支える仕組みだよ。あなた方が考えたセーフティネットをすり抜けた子どもがここにいます。バグかもしれませんね。
え、じゃあ父の今まで支払った年金はどうなるんですか?
「あなたはもらえなかったかもしれないけど、あなたのお父さんが払った年金は他の人を支えているんだよ」
まず私を支えてもらっていいですか????
「ちゃんとお金残しとかないのが悪い!」たしかにそれはそう。その意見はわかります。帰ってください。
残念ながら、この世界には親の責任を子どもに押し付ける状況がまだまだあるようです。
親が貧乏だと、子どもが苦労するのってふつうにおかしくない?なんで子どもに苦労させるの?そこを国が救ってくれよ。
※決して親が悪いわけじゃない(パチンカスとかを除く)のは強く主張します。親はまじで頑張ってる。社会人になってまじで痛感しました。親に感謝。
※だからといってすべての親に感謝するわけではないので、親に感謝するかはあなたが決めてください。
だからこそすべての人に言いたい。お前はエンディングノートを買え、そして書け。
できれば「自筆証書遺言書保管制度」を利用できればパーフェクトです。素晴らしい。
「縁起でもない」とか言ってる場合じゃありません。残された子ども、親、兄弟姉妹を考えるならまじでやろう。
母が死んだときも、父が死んだときも揉めたり悩んだ私から言えるアドバイスです。
泣きながらご飯食べたことのある人と、泣きながら役所と家庭裁判所(相続放棄の資料もらいに行った)をハシゴした人は生きていけます。私がそうです。
だけど残念なことに、いろんな書類に何回も書いたはずの父と母の命日がいつだったか覚えることが一切できない呪いにかかって生きていくことにはなりますが。
urlで書かれている例について、
別姓で解決できるわけじゃないじゃんと思うのだけど。
現状では、姓の変更は家庭裁判所の許可が必要なわけであります。
婚姻届を出す時に同性でだしたら、別姓にする時には家庭裁判所の許可が必要だと思われますが。
弁護士が、こんなに問題あるとは思わなかったというほどの内容に対して、
事前に一般人が正確にリスクを理解することは難しいと思われます。
旦那さんも嫁さんの旧姓にするということで家庭裁判所に届けを出せば
許可はおりるんじゃないですかね。
二人揃ってというか家族全員で姓を変更するっていうこと。
パスポートの件は、これは外務省がどういう基準でどういうパスポートを発行するのか問題なので、
旧姓併記じゃなく、旧姓で発行すればいいだけの話ではなかろうかと。
それを外務省がやればいいだけの話。
まー個人的にはどっちでもいいと思っているのだけども、
ただまぁなんていうか
こういうのって、実際に恩恵をうける少数の人以上に、別姓を選んで後悔する人が多いタイプのやつなんだよねって思うと、
好きにしたら?(呆れ)って感じ。
だったらその少数の人に家庭裁判所の特別な判断で、旧姓でのパスポートの発行を許可したりとか、
まぁ現状を捻じ曲げたほうが、
まぁそうだね、
強強キャリアウーマンよりも、
遺書と聞くと「まだそんな歳じゃないから」「たいした資産もないし」といってお前は“そのこと”から目をそらすだろう。私もそうだった。
でも、もしお前に小さいこどもがいるなら、すぐにでもおまえは遺書を書きべきだ。
こどもが未成年なら、遺書がないと相続は“めちゃくちゃ大変”になる。
なぜこどもができたタイミングでなのか?
未成年のこどもがいる場合の相続手続きが圧倒的に面倒になるからだ。
たとえば、こんな状況を想像してほしい。
おまえは死ぬ。残された妻or夫と、未成年のこども(例:5歳)がいる。
このとき、たとえ財産が「預金数十万だけ」だったとしても、相続手続きを進めるには、相続人全員の同意が原則。
つまり、未成年のこどもも「相続に同意」しなければ、何も手続きが進まないのだ。
じゃあどうするか?
家庭裁判所に「特別代理人」を選んでもらって、その人を通じて手続きを進める必要が出てくる。
時間も手間もかかる。しかも、家庭裁判所が「これは不公平だ」と判断すれば、話は一発でストップ。
結果として、配偶者はおまえの預金を引き出すこともできなくなる。
おまえの名義で預金があると分かっていても使えない。毎月生活費が足りなくなる。苦労は目に見えている。
これに対して、「遺言書」があれば話はまったく違う。
たとえば、遺言書(自筆証書遺言書保管)に「全財産を妻に相続させる」と一言書いてあれば、家庭裁判所の手続きを飛ばして、配偶者だけで相続手続きを進めることができる。
つまり、遺言書があるだけで、残された家族は、悲しみと生活苦のダブルパンチから、少なくとも片方は免除される。
「まだそんな歳じゃない」とおまえは言うだろう。あした交通事故で死ぬことも知らず。
するとおまえは「そんなに相続なんてほど金もってないし」というだろう。
これはよくある誤解で、「相続手続き」と「相続税」を混ぜてしまっている。
しかし、相続「手続き」は1円でも財産があれば全員に関係する。
そしてその手続きが、未成年の子がいると“とんでもなく”面倒になるのは上述の通り。
法律的には、「自筆証書遺言」という形で、紙に手書きで内容を書いて、日付と署名をすれば立派な遺言書になる。
保管(自筆証書遺言書保管)も数年前から始まり、そこらの法務局でできるようになっている。
ちなみに、ちゃんと自筆証書遺言書保管しないと家庭裁判所のチェックをスキップできない。
遺言書はなんどでも書き直せる。入園、入学、卒業、などのタイミングで書き直せばいい。
繰り返すが、こどもができたら遺書を書け。
ちなみに、こどもができなくても遺書を書け。
エピソード9では障害を持つ弟との向き合い方に悩む冨永さんの話しが少し入ってた。
自分の境遇と似てるなぁと思いつつあと何十年かすると親が高齢になったり他界していなくなり、障害者の弟の後見人になるんだよなと俯瞰して思ったりね。
私が小学二年生のとき弟がうまれた。先天性の障害があり、家庭が弟中心になった。
家族で障害児のケアをしなければ…みたいな事になり自立が早かった気がする。
両親2人で世話ができるようになってからは家を出てやっと平穏になった。
けど、母が末期癌で倒れたときは、迷わず弟が生涯暮らせる施設をなりふり構わず周りを頼って探し回って入居させた。
父が倒れた時も行政にいくら頼っても私1人では介護出来ないし、介護離職だけは避けたかったので実家の不動産を売却して介護施設の入居費を作った。
父が他界したあと、施設で寂しかったかもなと多少は思ったけど良い施設で贅沢出来たのではないかと思う。
介護そのものはしなかったけど、よく通ったし元気だった時は外食や買い物へも連れ出すなど、かなり時間を割いた。いつ急変するかわからないと思うと旅行にも行かなくなった。
実家を売却した資金だけでは心許なかったのでわたし自身もたくさん拠出した。
そんな生活が6年続いて、数年前に父も他界して自分の役割は終わった。
でも弟の成年後見人をしている。時々施設に同意書の書類を送ったり、年に一度は家庭裁判所に資産の報告書を提出している。
会ったとしても「久しぶり」とか「元気?」などいう会話ももしかしたら感情もないので必要とも思えない。
御上先生がいってた「弟さんが応えてくれるとは限らない」はほんとにそう。
成年後見人として、戸籍上の姉としてするべきことはするけど、姉と弟という関係は築けなかったせいか「家族」とか「弟」に向ける愛情はほとんどない気がする。
「わたしの家族である両親」と「弟の家族」と分かれていて隣の家庭の人というイメージなのだ。
最上あいさん(佐藤愛里さん)の4歳のお子さんが相続放棄の手続きをすることは、法的には可能ですが、代理人が必要になります。
未成年者は法律行為を単独で行えないため、法定代理人(親権者や未成年後見人)が代わりに相続放棄の手続きを行う必要があります。
② ただし、今回のケースでの問題点
通常は親権者が相続放棄の手続きをしますが、今回は最上あいさんが亡くなっているため、子供には親権者がいない状態です。
この場合、家庭裁判所が「未成年後見人」を選任する必要があります。
未成年後見人が選ばれた後、その後見人が子供の代理として家庭裁判所に相続放棄の申述を行うことになります。
相続放棄の期限
ただし、未成年者の場合は「法定代理人が選ばれてから3か月以内」に申請することが認められるケースがあります。
何も手続きをしないと、子供は自動的に相続人になってしまいます。
もし最上あいさんに負債(借金など)があれば、子供がその負債を背負う可能性があります。
そのため、未成年後見人が早めに相続放棄を検討する必要があります。
最上あいさんの4歳のお子さんが相続放棄をするには、家庭裁判所が未成年後見人を選び、その後見人が手続きを行う必要があります。未成年後見人の選任が遅れると、相続放棄の期限が問題になる可能性があるため、早めの対応が必要です。
結論として、国外にいるなら、親の介護や扶養の義務を果たせないのは当然と判断されるため、法的責任を問われる可能性はほぼゼロです。
親が生活できなくなった場合、日本の行政(市役所・福祉課)は通常、**「扶養照会」**を行い、子どもに支援できるか確認します。しかし、国外にいる場合、扶養照会を拒否しやすくなる。
✅ 長年連絡を取っておらず、親の状況を知らない
「現在海外に住んでおり、親の扶養はできません」と伝えれば、扶養義務が強制されることはほぼない。
特に、海外在住者は生活基盤が日本にないため、行政が扶養を強制することは現実的に難しい。
2. 親が死亡した場合
国外にいる間に親が亡くなったとしても、日本国内の相続・扶養義務と同じルールが適用される。
罪に問われる可能性はある?
✅ 「親の死亡を知りながら放置した」場合 → 遺体遺棄罪に問われる可能性
基本的には、日本にいない以上、親の死亡を知る手段がないため、罪に問われることはほぼない。
日本の行政や警察が国外にいる子どもに連絡を取ることは難しいですが、もし親が死亡した場合、親族として連絡が来る可能性はあります。
• 「日本に帰国できない」と伝え、扶養拒否の意思を明確にする
✅ 行政は生活保護や介護施設の対応を進めるため、強制的に扶養させられることはない
ケース②:親の死亡に関する連絡
• 必要なら「相続放棄」の手続きを進める(親に借金がある場合)
✅ 日本に財産があるなら、放棄するかどうか判断する必要がある
もし親に財産がある場合、相続放棄をしないと借金も相続されることに注意。
• 親の死亡を知ったら3ヶ月以内に家庭裁判所へ「相続放棄」の申請をする
✅ 「親の借金を引き継ぎたくないなら、相続放棄をするのがベスト」
5. まとめ
✔ 国外にいるなら、親の扶養義務を果たせないのは当然 → 強制されることはない
✔ 生活困窮した親に対しても、日本の行政が対応するため、子が負担する必要なし
結論として、親の状況を知らなければ、基本的に法的責任を問われることはないです。
1. 親の死亡や生活困窮を知らなかった場合、罪に問われるか?
• 「保護責任者遺棄罪」は、親が明らかに困窮していると知りながら放置した場合に成立。
▶ ポイント
• **「最後に連絡を取った時点で親が健在だった」**なら、その後のことを知らないのは当然。
• 親が生活に困っていたとしても、子がそれを知らなければ責任を問われない。
親が死亡していたとしても、「知らなかった」なら罪には問われない。
• 遺体遺棄罪は、「遺体の存在を認識しながら放置した場合」に適用される。
• 絶縁していた場合、親が亡くなったことを知らなければ罪に問われることはない。
▶ 注意点
• もし行政や警察から「親が亡くなった」と連絡が来た場合、適切に対応すれば問題なし。
• 「連絡が来たけど無視した」「遺体があると知りながら放置した」場合は罪になる可能性あり。
日本の民法877条では、親子には扶養義務があるとされているが、以下のような場合は扶養を拒否できる。
• 「〇年前から連絡を取っておらず、現在の状況は一切知らない」
親と絶縁していた場合でも、親が生活保護を申請したり、死亡したりすると行政から連絡が来ることがある。
• 「連絡を絶っており、状況は知らない」と伝える
• 経済的な事情を理由に拒否する(「自分の生活で精一杯」など)
• 「何年も連絡を取っておらず、状況を知らなかった」と伝える
• 葬儀や遺品整理をする義務はないが、放置すると役所が対応せざるを得なくなる
▶ 相続放棄すべき?
• 「相続放棄」をすれば、親の財産も借金も引き継がなくて済む
• 相続放棄は「親の死亡を知ってから3ヶ月以内」に家庭裁判所で手続きする必要がある
4. まとめ
✔ 親と絶縁していて、その後の状況を知らなければ法的責任を問われることはない
✔ 親が死亡しても、知らなかったなら遺体遺棄罪には問われない
✔ 行政から連絡が来たら、「関係がない」「扶養できない」と伝えればOK
結論:連絡を絶っていたなら、法的な責任を問われる可能性はほぼない。行政の対応を利用し、無理に関わらない方法を選ぶのがベスト。
コピペで引用なのここまで明確に示してるのになんで内容の不満が俺に向けられてんだよ
1964年「うず潮」
1966年「おはなはん」
林謙一「おはなはん」
1977年「いちばん星」
1978年「おていちゃん」
1979年「マー姉ちゃん」
1981年「本日も晴天なり」
1984年「心はいつもラムネ色」
1986年「はね駒」
1987年「チョッちゃん」
1990年「凛凛と」
1994年「春よ、来い」
最愛の夫を見送るまでが描かれている。
1997年「あぐり」
2000年「オードリー」
DVD未発売。
2003年「てるてる家族」
2006年「芋たこなんきん」
ソフト化されていない。
2010年「ゲゲゲの女房」
2011年「カーネーション」
ファッションデザイナー「コシノ三姉妹」の母、
2014年「花子とアン」
2014年「マッサン」
2015年「あさが来た」
2016年「とと姉ちゃん」
2016年「べっぴんさん」
2017年「わろてんか」
2018年「まんぷく」
2019年「なつぞら」
「漫画映画漂流記 おしどりアニメーター奥山玲子と小田部羊一」
2019年「スカーレット」
2020年「エール」
古関著書「鐘よ鳴り響け」
2020年「おちょやん」
2023年「らんまん」
2024年「ブギウギ」
2024年「虎に翼」
三淵嘉子関連書籍
2025年「あんぱん」
2025年「ばけばけ」
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
特例法は手術の可否にはまったく関係ない。そもそも手術時点では改名以外で裁判所と関わることがない。手術に関わり得るのはジェンダークリニックの専門医から成る判定会議くらい。従来の運用では、特例法は手術を受けた後に家庭裁判所に申請して使うものだった。
そのもともとの趣旨はすでに性別移行をしている人の戸籍の記載情報と実生活のズレによる生活上の不便を解消するためで、従来はその適用の条件に手術が入っていたけど、そうするとすでに移行しているけれど手術をしていない人が困難な状況に置かれ続けたり、特例法を使うには恒久的な不妊化が必要ということになり身体への過度な介入になったりで、問題が意識されるようになった。
音信不通の親が孤独死した時、どのようなことが起こるのかについて記録する。
昨年、父が死んだ。
父とは30年近く会っていない。母は離婚後も父と連絡を取っていたようだが、父に私の連絡先を決して伝えないようにとお願いしていた。
5月頃、母のところに、父の知り合いから父が死んだようだとの連絡があった。
その人も遺体は見ておらず、父の住まいを尋ねたら大家さんから死んだと伝えられたとのこと。
私はそれを聞き、一番最初に思ったのは、相続放棄の手続きを一刻も早く終えたいとのことだった。
市の無料法律相談に行き、相続放棄の手続きの仕方や困ったことが生じるおそれがないか等を確認した。相続放棄の手続きは、家庭裁判所によって若干違うので、事前に確認してから行く方がよいとアドバイスを受けた。
孤独死した人間の特定をしなければならないので、DNA検査をするとのこと。
これは兄が対応してくれた。
父の死はまだ確定していない。
DNA検査をする費用が出ないため、兄の顔を見て特定することにしたと連絡。
父が孤独死した場所と母の家は新幹線で1時間ほど離れているため、出張のついでに寄るので少し先になるとのこと。
兄が取った唾液はなんだったんだ。そんなことを市民にお願いする前に、予算があるかどうかの確認はできるだろうに。警察っていい加減なところなんだなあ、という印象を持つ。
11月 兄から戸籍抄本にて父の死亡が確認できたと連絡をもらう。父はおそらく5月に亡くなっているのに、書類上の死亡は11月になっている。
12月 有給を使って家庭裁判所に行き、相続放棄の手続きをする。郵送でも手続きできるが、不備があると嫌だったので、窓口で手続きした。窓口の人は手慣れた様子で、相続放棄したい理由の書き方等を教えてくれた。
12月末 手続き完了の封書が届いた。この半年間の気持ちの重りが取れて、ほっとした。
まとめ
・事件性が薄い孤独死に対して、警察は費用を割かない。そのため、最寄りがない人間が孤独死すると、死が確定するまでに時間がかかる。
この文章を書こうと思ったきっかけは、下記の文章を読んだからである。
https://inukawatama.com/father/
読んでまず、うらやましいと思った。
私は父が死んだことに対しては、特に何の感慨もない。
馬鹿な生き方しかできなくてかわいそう、まともに生きていれば子どもや孫の成長を見ることもできたのに、という一般的なことを思うだけである。
父との思い出は記憶のどこかにあるのだろうが、思い出したくないことばかりであり、考えるのを停止するようにしている。
相続放棄の手続きを一刻も早く終わらせて、父と無関係になりたいという思いは、母を呆れさせ、くだらない喧嘩に発展した。
大人になって、母に感情的に声を荒げたのは初めてで、お互いにダメージを受けた。
母に対してはいろいろと思うことがある。
父に対する思いの欠如は、私の人間としての欠如なんだろうと思う。
私は、父と自分を切り離さないと、「普通」の枠の中で生きていくことができなかった。
毎回、どうしてこの人たちは、「毒親」と縁を切らないのだろう?と思う。
結局のところ、この人たちは「毒親」と詰りながらも、親のことを愛しているんだろう。
暇空の弁護士の松永成高さんは「暇空は確かにデマを書いてしまったが、colaboは報道陣集めてデマだって報道させたんだからもう名誉回復してますよね。むしろあの会見で暇空さんの方が傷ついてるんですけど?暇空さんを晒し者にしたあなたたちはひどい」と裁判で激おこして、colabo弁護士の神原元さんも激おこして喧嘩になって裁判官にシャラップされる一幕があった
実際には名誉回復してないよね
増田の中にも「裁判で負けようが、colaboに風評被害流せたんだから暇空の勝ち」といまだに言うやつはいるし
松永さんは中高生の頃に荒れて事件を起こして複数回捕まり、そのことを論文にした家庭裁判所調査官を訴えて最高裁で負けたことがある
https://www.asahi.com/articles/ASNB95WRDNB9UTIL02S.html
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/757/089757_hanrei.pdf
事件自体は事実だけど、その時々にどういう心情であったかは著者が勝手に推測したもので本当は違う、デマだと松永さんは主張していた
反論してあれは間違いだって言えば名誉回復できるロジックなら、松永さんも記者会見すりゃいいじゃん
僕は本当はこんな気持でしたって記者の前で主張すればいい