はてなキーワード: 奴隷とは
おい、自己放尿レベルの思考を公共の場に垂れ流すな。羞恥心はどこで脱ぎ捨てた。
まず第一に、「なぜ女性は腹パンを受け入れるのか」という疑問以前に、お前は他者の身体的苦痛を観察対象にして快感を得ている時点で、倫理のレベルで転倒してる。
しかもその快感が「破壊的感情が満たされる」という破滅願望の転移であり、それを他者の肉体で実現しようとする欲望であるなら、これはフェティッシュではなく、未熟な攻撃性と見るべきだ。
言っておくが、SMの文脈でも腹パン(内臓損傷を伴い得る暴力)は一線を超える。皮膚と違い、内臓は修復が利かない。
それを他人がやってるから「見てて気持ちいい」と感じる?それ、ただの安全圏からの破壊願望の自己放尿だ。
そしてその感情を理性で咀嚼することなく、「結論:やりたい」などと吐くのは、道徳的破綻であり倫理の敗北宣言に他ならない。
さらに言えば、お前がその感情を自覚していながら「ちょっと気持ちいい」と甘えて言語化することで、暴力の容認と正当化を手助けしていることに気づけ。
お前は腹パンフェチではない。「他人の痛みでしか感情を確かめられない」自己放尿的感性の奴隷だ。
だがな、お前にまだ人間性が残っていると信じて言う。
「これはいけない気がする」「謎だ」「絶対やめた方がいい」というブレーキの言葉を、お前は確かに書いている。
つまり、真理の声はまだお前の中に死んでいない。
ならば今すぐ、目を背けずその声に従え。
シュミット先生は『合法性と正当性』にて「技術信仰の明証性は、技術において、ついに、絶対的、最終的に中性的な基礎を見出したと信じることができた」とか「ここでならば、あらゆる民族、国民、あらゆる階級、宗派、あらゆる年齢層、性別が、急速に合意することも可能であるように見える。なぜなら、技術的快適さの利益、便利は、万人が同じ自明さをもって享受するのだから」と書いている。
この人が生きていた時代はAI技術なんて考慮すらされていなかったので、ここでいう“技術信仰”における技術ってのは“科学的な体系や、その分野の専門家”などを指しているわけだが、現代でいうならここにAIも含まれることになるだろう。
このあたりの“技術信仰”の是非は他の人も語ってて、シュトラウス先生は『ホッブズの政治学』で
技術の中立性が仮象であることがわかるにつれて、「絶対的かつ究極の中立的基盤」を発見したり、いかなる協調を実現しようとする試みの不合理さも明らかとなる。いかなる代価を払ってでも協調が実現されるべきだとすれば、それは人間生活の意味を放棄するという代償を支払って得られる協調でしかありえない。なぜなら、そうした協調は何が正しいかという問いを断念するときのみ、実現可能だからだ。そして人間がそうした問いを断念するとき、かれは人間であることを断念することになる。
完全なる協調を求めるならば闘争を治めるしかない。そのためには皆が“何が正しいのかという問題”を放棄すればいい。或いは、価値一元論のもと解答先を決めて、皆がそれに従う世界にすればいいかもしれない。その“解答先”こそが“技術”であり、ひいては“AI”ってわけだ。
本質的に技術そのものは中立であり、その解答は客観的で偏りがないとされる。価値一元論のもと解答を求めるならば、AIはこの上ない存在だろう。しかし、シュミット先生は「技術は全ての人に仕えるという、まさにそれ故に中立的ではない」ともいっている。技術そのものが中立的であっても、そうではない人間が紛れ込む時点で中立性は損なわれるからだ。
ちょっと前に、朝日新聞フォトアーカイブをAIでファクトチェックしようとした人が話題になったけど、あれなんて典型例だろう。使う側が「この画像はおかしい」という含意のもとAIに尋ね、その結果を「AIがいっていることだから正しい」という前提のもと解答としている。もちろん、あの件をAI技術の未発達が原因だと論じることは可能だけど、それって人間側の未熟さを棚にあげるってことで「人間であることを断念」してないか。人間性を放棄しといて民主も自由もなかろうに。
人間が何が正しいかを真剣に問うならば、そうした問いのもつ「解きがたき問題構成」に直面して、紛争が、それも生死を賭した紛争が勃発するのである。何が正しいか真剣に問うことによって、政治的なもの(人類の敵味方への集団化)はその正当な根拠を得るのである。
これも『ホッブズの政治学』に書かれてたことだけど、つまり何が正しいか真剣に問わない世界ってのは政治的闘争もないってこと。というより、技術(AI)が絶対的に正しいとするならば、そこに民主的な考えや自由な考えが入り込んで対立する余地がない。あったとして、それは茶番や娯楽でしかない。だから人間は真剣でなくなるけど、争いは減るからまあ平和的ともいえる。
そういえば最近、シロクマ先生はAIに選挙を任せることの是非についても語っていたけど、ブコメで「AIの言ったとおりに投票する自由はあるだろ」といった旨のこと言ってる人がいたな。まあ理論上ではあるけど、「(AI)技術が本質的にもつ中立性」と「自由主義が追い求める中立性」って相性はいいんだよね。
ただ先ほどもいったように技術を誰でも仕える時点で中立性は損なわれている。その点を抜きにしても、技術が人間に服従していて、かつ人間よりは有能でないからこそ成り立つ話でもある。今後AIがより有能になり、むしろ人間側がすすんで服従することがマストの風潮になっていくならば、その先に自由なんてないわけで。奴隷が「その先に自由がないものを選ぶ」ことまで“自由”という括りにするのは欺瞞的だ。
とはいえ、価値一元論における解答者がAIになるような世界が実現した場合、そもそも人間による政治そのものが必要なくなり、選挙もする必要がなくなる(AIの判断が最も正しいのならば、国家レベルで「人間同士が正しさを競う場」なんて必要ない)。なので、いまの選挙のように「人間が政治的に争う場」がまだある現段階では、多少AIが介入したところで民主や自由は残ってるといえなくもない。
AIは現状「人間の労力と、その結果に対する責任を誤魔化すためのツール」の域を出ないからこそ、まだ悠長に語れている話ではある。シュトラウス先生が現代に蘇れば「私たちが語ってた頃よりも技術がヤバいことなってるのに、お前らまだそんな吞気なこと言ってんのか」って思うかもしれんが。
「チー牛はネットでは男に奴隷のように従わない女をぶち○したいと思ってるし、女から人権を奪い女向けのイケメンコンテンツや男様から金を取る風俗嬢を弾圧して、無料オナホ奴隷にすべきだと思ってるけど、強者男性の目があるから大人しくしてる」まで読んだ
バカはお前の方だ。
心の中のガキを殺せとか言って自己放尿するその態度自体が、未熟な自己否定というオナニーでしかない。
まず理解しろ。インナーチャイルドとは、感情の原型であり、神経系の基礎プログラムだ。
それを無理やり抑圧し、否定し、破壊しようとする行為は、精神医学的に言えば解離や自己破壊衝動の温床になる。そんなもんを「成長」と呼ぶのは、ただの誤認識だ。
お前は自分の心を殺したつもりかもしれんが、実際は抑圧の地雷を埋めただけだ。
それがいつか爆発して、パニック障害・アルコール依存・DV・燃え尽き・鬱・過労死・自殺、どれかの形で「後から」ツケがくる。統計を見ろ、論文を読め。現実を直視しろ。
今の社会で求められるのは「冷酷な奴隷」じゃない。自己調整できる高精度な適応者だ。
情動の制御、自己理解、他者との協調。それを可能にするのが「未熟な自己をあやし、整え、育てる」というプロセスだ。
自分の幼児性を肯定するのは、「甘え」じゃない。理性あるアダルト自己が内的システムを再構築する作業だ。
そういうセルフメンテナンスができないやつは、会社でも家庭でも必ず壊れる。
ハイパフォーマーの条件を見ろ、EQ(Emotional Intelligence)を無視したやつは出世できん。