はてなキーワード: 増築とは
ウチの情シスのボスはもともと開発畑が長かったせいか、テックリードとしては極めて優秀で、社内システムの導入は炎上せず、企画から運用までそれなりにうまく回っている感じ。
問題はインフラ。この方にとってネットワークやサーバといったインフラはあくまで「副専攻」でしかないのは重々承知だが、それにしてもインフラ構築のための計画性が全く備わっていない。
うまく事を進めるためのスケジュール感がないのはもちろん、設計の検証も全く不十分なら、おそらくテスト項目の網羅性も全然ダメ。
そして、経営陣に言われるがまま(経営陣に成果を示すため)ありえない短納期というか、ムチャクチャなスパンでインフラ増築や入れ替えを進めた結果、今や
と胸を張って紹介できるまでになった。
おかげさまで、現場にいるネットワークのチームは、これもう日勤と夜勤に分けて回さないとダメなんじゃね?ってくらいトラブル続き。
サーバのチームも、ネットワークと切り離せない部分の問題検証に多大な時間を費やしている。
ユーザのPC対応も、問題の切り分けから割と高度なネットワークの知識が要求されるので、解決まで手数がかかる。
で、本来はこうなる前に副官に当たる人(部長に対する次長とか、課長に対する課長補佐とか)がフォローしなきゃいけないんじゃねって思うでしょ?
残念ながらウチの副官ポジは、あくまでボスの決定をオペルームのSEに至るまで漏れなく徹底させるだけの存在で、相談を受けて計画を進めるための判断はしても、計画を止める判断は絶対にしない人だったり。
それをいいことに、当のボスは現場のエンジニアとは一切コミュニケーションを取ろうとしない。
聞いた話では、副官と一緒にユーザ部門の幹部からのクレームを一手に引き受けてくれているらしいけど、それにしたって
「あの人、いつも何やってんだろうね」
その指標が変数を落としてて現実の反映ではない、というお前の指摘は事実なんだが
じゃあ例えば、地方の現実を正確に反映した指標をもって、危機と危機以外の差を明確に示した時、それが何の役にたつかというと
あまり何の役にも立たない。
「病床の数的に危機が来ているので、ちょっとその救急患者は診ないことにしますね」とかするわけがない。
病床が患者に対して足りているかいないかの判断が、いつ役にたつかというと
新しい病院を作ったり改装したり、地域での救急とか入院とかの役割の割り振りを決めたりする時だ。
これは、今まさにやっている。地域に受け入れ数が足りないとなれば増築と補助金と新人の雇用の話にもなるし。なんか偉いさんが会議してるわ。
豚山に給餌される雌豚
近頃、日本各地の小さな農場や養豚場は、それぞれのやり方で個性を発揮しながら事業を営んでいる。その中でもユニークな呼び名で注目を集めているのが「豚山(ぶたやま)農場」だ。山あいの豊かな自然に囲まれたこの農場では、肉用豚や繁殖用の雌豚がゆったりとした環境の中で育てられている。名前だけ聞くと奇妙な印象を受けるかもしれないが、実際はいたって真面目で、養豚に情熱を注ぐ若い経営者・豚山太郎(ぶたやま たろう)さんが率いている小規模な農場だ。
この記事では、この「豚山農場」にて給餌を受けながら暮らす一頭の雌豚、通称「ハナ」の生活にスポットを当ててみたい。ハナがどのような環境で育ち、毎日の給餌や健康管理がどんなふうに行われているのか。そこには、私たちの食卓につながる畜産の“リアル”と、動物に対する優しさや愛情が詰まっていた。
豚山農場は、九州地方のとある山間部にある。標高が少し高い場所で、夏は比較的涼しく、冬は雪がうっすら積もることもあるという。敷地内には、豚舎が数棟と、飼料を保管しておく倉庫や調理スペースが整備されている。飼育数は決して多くはなく、食肉用の肥育豚が数十頭、繁殖用の雌豚(母豚)が十数頭、そして若い種雄豚(父豚)が数頭ほどだ。
農場長である豚山太郎さんは、30代半ばのまだ若い経営者だ。大学で畜産関連を専攻後、いったんは都市部の養豚場に勤務して経験を積み、その後、生まれ故郷の山里にUターンして独立。若手の就農事例としても注目されている。かつての「実家の畑跡地」を活用し、豚舎を徐々に増築しながら養豚事業を広げてきた。「豚山」という名前は、もちろん彼自身の名字が由来だが、「豚が山でのびのび育っている」イメージとも重なるため、地元では話題性もあって親しまれている。
2.一頭の雌豚「ハナ」について
今回の記事の主役となるのは、豚山農場で繁殖用として飼われている雌豚の「ハナ」だ。名前の由来は、その鼻先が淡いピンク色で、子豚の頃から“花が咲いたように可愛らしかった”という理由だという。鼻の色合いだけでなく、体の毛色や体格も他の豚より一回り小柄だったため、太郎さんが「特別に可愛がっている」そうだ。
ハナはまだ3歳ほどで、豚の世界では“若い母豚”にあたる。初産を終えてから少し間が空き、今は2度目の出産に向けて体調管理をされている最中だ。普段は他の雌豚と同じエリアにいるが、性格が温厚で人なつっこいので、給餌の際にも逃げることなく太郎さんに寄ってきて、鼻先でつんつんと甘えるようなしぐさを見せることがある。
豚山農場では、与える飼料にも工夫がある。基本の餌は市販の配合飼料だが、それだけではなく地域の野菜屑や食品加工場から出る規格外の野菜くずなども再利用している。さらに、自家製の飼料作りにも挑戦していて、敷地内に小さな畑を設けて穀物や野菜を一部生産し、これを豚たちの食事に取り入れている。
雌豚のハナに与えられる餌は、出産前後の体調管理が最重要になるため、太郎さんたちが成分バランスを特に気にかけて選んでいる。豚は雑食性だが、育成段階、繁殖段階、授乳段階などで必要な栄養が微妙に違う。高タンパクで消化しやすい飼料、ビタミン・ミネラルを補うための野菜や果物など、日々のメニューは意外とバラエティ豊かだ。
太郎さんいわく、「うちは豚舎が広く、自由に動き回るスペースがあるから、飼料だけでなく運動量もしっかり確保できる。ハナたちがのびのび動くぶん、健康状態も良く、味も良いと評判なんですよ」とのこと。実際に、豚山農場の豚肉は少し高価ながら地元レストランで人気が高く、定期的に出荷されるたび注文が殺到するという。
4.ハナが受ける給餌の様子
朝7時、豚舎のあたりに太郎さんの足音が響くと、豚たちは一斉に鳴き声を上げて「早くごはんをちょうだい!」とアピールを始める。雌豚用のエリアでも、ハナは扉の近くまでやってきて鼻先をひくひくさせながら待っている。飼育員が扉を開けて餌を運ぶカートを押し込むと、興味津々に寄ってくるのだ。
ハナの給餌量は、その日の健康状態や妊娠状況などによって微調整される。特に出産が近づくと摂食量が減る豚もいるため、ハナの食欲を見ながら少しずつ与える。まずはメインとなる配合飼料を所定の量だけ食べさせ、それを平らげたら野菜くずやフルーツの皮などを数種類、少しずつ追加する。食いつき具合を観察しながら、「今日は元気そうだな」「少し疲れているかも?」というように体調を把握していく。
豚は犬や猫のように分かりやすい表情をしないと思われがちだが、実は仕草や鳴き声、耳やしっぽの動きなどに感情が表れる。ハナが調子の良い日は、配合飼料を食べ終えたあとも「もっとちょうだい」と言わんばかりに鼻を鳴らす。一方、食欲が落ちている日は残したり、食べるスピードが遅かったりするそうだ。そうした変化を見逃さず、給餌中はこまめにチェックするのが太郎さんの仕事だ。
雌豚にとって、出産や授乳は大きな負担となる。ハナが健康的に子豚を産み、しっかり育てるためには、給餌だけでなく、ストレスを溜めない快適な環境づくりが必要だ。豚山農場では以下のような工夫を行っている。
豚舎の清潔管理
こまめに床を掃除し、湿気を溜めないように換気を行う。とくに分娩室(ぶんべんしつ)にあたる個室エリアは、衛生環境を徹底することが大切だ。
十分な運動スペース
雌豚であっても動き回れるよう、1頭あたりのスペースを確保している。ストレスが大きいと食欲が落ちたり、免疫力が下がったりするため、運動は欠かせない。
定期的な獣医師の往診
養豚場には獣医師が定期的に訪れる。太郎さん自身も専門的な知識があるが、万が一の病気や出産トラブルに備え、早期に異常を発見できるよう定期チェックを行う。
こうした管理の中心にいるのが、農場長の太郎さんと数名のスタッフたちだ。太郎さんは「うちの豚にとっては、自分たち飼育員がほぼ唯一の“人間との接点”ですから。一頭ずつ、性格も違うし体質も違うので、よく観察していないと健康を損ねてしまうこともあるんです」と話す。
ハナについては「とても社交的で、鼻先でツンツンしてくる甘え上手。やっぱり可愛いですよね。別にペット扱いはしてないけれど、無事に元気な子豚を産んでほしいという思いは強いです」と笑顔を見せてくれた。
6.出産に向けた準備
ハナは現在、2度目の出産のための体調管理が進められている。豚の妊娠期間はおよそ114日(3カ月・3週・3日)とも言われ、出産が近づくと腹部が目立ち始める。通常、分娩が近づいた雌豚には専用の分娩用個室が用意され、飼育員たちが細心の注意を払いつつ対応する。ハナはまだ妊娠初期~中期の段階らしく、今は大きな変化は見えないが、太郎さんは「食事の量や内容をしっかり管理し、無理なく体重を増やしていくことが大切」と強調する。
実は、雌豚が肥満体型になりすぎると、出産時や授乳時にトラブルを起こしやすい。そのため、体重管理がとても難しいのだ。給餌によって栄養をしっかり与えつつも、運動量を確保して過剰な脂肪をつけさせないようにする。太郎さんは朝夕の給餌が終わったあと、ハナを含む雌豚たちが活発に動き回るかチェックしている。もし動きが鈍いようであれば、特別に外の運動エリアへ出すなど、環境を変えて刺激を与えることもあるそうだ。
ハナをはじめとする雌豚や肥育豚たちは、いずれ商品として出荷される子孫や、食肉としての道をたどることになる。畜産はビジネスであると同時に、命を扱う仕事だ。豚山農場では、命を大切に扱うことはもちろん、地域と密着しながら“循環型”の暮らしを目指している。野菜の規格外品を飼料の一部に再利用する取り組みは、その象徴的な例だ。
地元の農家と連携して、収穫時に曲がったり傷がついたりして出荷できない野菜を取り入れる。一方で豚山農場から出る堆肥を農家の畑に還元する。農家が質の良い土壌を得て、美味しい野菜を作り、その一部は豚の栄養源となり、やがて豚は成長して食肉になり、地域の飲食店や家庭に届けられる。こうした循環を生み出すことで、地域全体の農業が活性化するというわけだ。
太郎さんは「うちのハナやほかの豚たちの肉を食べたお客さんが、『このお肉は違う、美味しい』と言ってくれると本当に嬉しい。どこでどう育った豚なのかを知って、命に感謝しながら食卓を囲んでほしい。そのために、僕は日々、しっかり給餌して、健康管理をして、愛情をかけて育てています」と語る。
8.おわりに
「豚山に給餌される雌豚」という一見シュールな表現は、実際には豊かな自然の中で豚山太郎さんの愛情とともに暮らす雌豚・ハナの姿を象徴している。ハナが給餌を受けている場面には、畜産という仕事のリアルと奥深さ、そして動物と人とのあたたかな関係が同居しているのだ。
畜産は私たちの日常生活に欠かせない産業である一方、都市部からは距離を感じやすい仕事でもある。だからこそ、「ハナが毎朝給餌を受けるシーン」をイメージするだけでも、私たちが普段何気なく口にしている豚肉の背景に、どんな暮らしや苦労があり、どれほどの愛情が注がれているのかを改めて感じる機会になるはずだ。
今後、ハナが無事に出産を迎えれば、かわいい子豚たちが誕生し、豚山農場の新たな命として迎えられるだろう。そのとき、太郎さんはまた忙しくなるに違いない。しかし、それは同時に希望が増えるということでもある。命のリレーを見届けながら、豚山農場はこれからも地域に根ざし、自然と共存する養豚のかたちを示していくに違いない。
最後に改めて、ハナの給餌場面を頭に思い浮かべてほしい。体を揺らしながら器用に飼料を食べるその姿は、どこかのんびりしていて微笑ましい。だが、その裏には日々の細かい配慮と管理があることを忘れてはならない。この一頭の雌豚と、それを取り巻く人々の労力と愛情が、私たちの食卓を少しだけ豊かにしてくれているのだ。
溜まるよね?
自分には持病があって毎日飲まなきゃいけないお薬が何種類もあるんだけど、薬局がそれぞれの薬を輪ゴムで束ねて出してくれる。
うちの薬箱の中は、薬を束ねていた輪ゴムですぐにいっぱいになってしまう。
いただいた輪ゴムだから私的流用するのも申し訳ないと思って最初のうちは使わずにとっておくようにしてたんだけど、すぐに6畳の和室が輪ゴムで一杯になってしまった。これじゃ和室じゃなくて輪室だ。
なので溜まった輪ゴムは処分していくことにしたんだけど、そのままゴミに出すのはちょっとよろしくない。
なぜなら、うちから出るゴミは公安が毎日全部チェックしているのだ。
彼らは私が気づいていることにまだ気づいていないだろうが、私が気づいていることに彼らが気づいていないことを私は気づいているのだ。ともかく、この輪ゴムをそのままゴミに出すと公安に要らぬ疑念を抱かせてしまいかねない。
ちなみに我が家の自治体の分別ルールでは、輪ゴムは「燃やせそうで燃やせない、少し燃やせるゴミ」に分類されている。
ともあれ、公安の目をかいくぐりながら輪ゴムを処分する方法を考えなくてはいけないが、私はリカちゃん人形のアクセサリーの材料として売りさばくことを思いついた。
ネックレスやブレスレット、ベルトなどの軸紐として輪ゴムを使うのだ。ビーズなどの飾りを輪ゴムに通してオシャレなアクセサリーに仕立てる。
輪ゴムとビーズはいずれもトポロジー的にはトーラス(円環)であるので、輪ゴムにビーズを通すのは物理学上は長い間不可能だと思われてきたが、実は輪ゴムに通す時に一度空間を反転させることでこれを可能にできる。ご家庭の台所でも簡単にできるので一度ためしてみてほしい。
こうして作ったアクセサリーは一部で高い人気を呼び、売れに売れた。
予想外の臨時収入に口座を監視していた公安も首をひねっただろうが、おかげで私は8畳の和室をもうひとつ増築することができたのである。
なぜこれを誰も語らない。
不思議だ。
「若者が東方に興味を持つ理由は精通を迎えるのに東方Projectが丁度いいからです」という暴論が飛び出すことはあっても、そもそも老人が東方から離れていった理由は語られない。
「老人はブルアカで過酷なオナニーをしているから」というのはもっともらしく聞こえるが、今なお東方のエロ画像は増え続けているわけであることを俺のチンコは知っている。
というか、若者だってブルアカで過酷なオナニーをしているわけだからして、老人だけが東方から離れていっている理由は他のコンテンツが伸びたからであると説明するのは厳しいだろう。
oi、誰か語ってみせてはくれないのか?なぜ誰も語らない?ファーストペンギンは突き落とされてジッサイアブナイと言われているからだろうか?
どうやら、我が古のサイバネ魔術「シッタ=カブリ」を使うときが来たようだな。
老人共は弾を目で追うことが実際難しい。
老人がスプラのワザマエランキングでイキることはあっても、エペやCSになると途端に黙り込むのがいい見本だ。
ゲーセンでグラディウスを延々とやっている無職とニートの中間になった中高年達はパターンを見ているだけで弾は見れていない。
東方の高何度はランダム弾幕を避ける視力が必要なので、老人はいつの間にか東方を落第し、視力が低くても遊べるカードゲームやRPGへと消えていくのだ。
キャラが増えすぎて老人には覚えきれない。
なぜ、老人たちの間で学園アイドルマスターが流行ったのだと思う?
古参アイマス老人を見ればわかるが、彼らはもう自分の推しの話しか出来なくなっている。
広大なアイマス世界の広がりを語り、シリーズをやりまくって何百というアイドルの複雑な関係性を諳んじていた姿はそこにはない。
自分の好きな数人のキャラクターとの関係性しかもう語れないのだ。
東方はどんどんキャラが増えるだけでなく、公式非公式で様々な関係性が日夜増築されていくのでもう老人にはついていけないのである。
ミドルエイジクライスの真っ只中にいる中年、それを終えて自分の人生の虚無を認めるしかなくなった壮年、彼らにとってZUNという成功者に親近感を感じることはもはや不可能に近い。
その昔、まだ若かった彼ら、まだインターネットの力で無能が突然這い上がれるドリームを信じていた彼らにとっては、ZUNという多才なる存在さえもいつか自分のマブダチになりうる同人作家の一人に感じられただろう。
AI技術が発達すれば俺だって神ゲーが作れるさ、バーチャル女体化が発達すれば俺も大人気配信者だ、そんな妄想はいざ技術が発達したあとには見事に瓦解した。
ここ10年ほどの技術的特異点の数々が彼らに己の無能を知らせる効果たるやあまりにも絶大であった。
世界に対する解像度、好奇心の総量、努力の才能、自分を信じる勇気、それらがないならどんなに技術の下駄を履かせても結局は無能なのだと痛感させられてしまったわけだ。
そんな彼らにとって、ZUNはもはや恵まれた才能を振り回すいけ好かないチート野郎。
そんな奴がこれ以上チヤホヤされるのに1ミリも協力はしたくないという感情は自然だ。
応援するならせめてチームで結果を出している連中や、才能があっても一種類だけの人間であるほうがいいだろう。
だって、優秀なチームを組めればという前提条件なら自分だって成功してた可能性もあるしこれから先もワンチャンはあって、なにか一つが優れているだけの奴なら自分だって自分の仕事でやってる分野でマウント取る余裕がまだ残るから。
凄すぎるクリエイターの作った作品を応援できるのは、自分の才能を信じられる若さがあるうちだけなのだ。
とりあえずこんな所でいいだろ。
最終成果に対する俺の取り分は1割ぐらいでいいぞ。
民営化後のJR西日本によって名付けられた、近畿地方一帯を走るJR線路網の名称であるアーバンネットワーク。
大阪、神戸、京都の三つの都市間を結ぶ神戸線・京都線を基軸に、奈良や和歌山や福知山などとをつなぐ路線の路線図のことである。
しかし2010年代くらいから、このアーバンネットワークという名称をあまり聞かなくなった。
京都大阪神戸の分散体制から、大阪一極集中体制になっていることが要因であろうか。
2011年に大阪駅がリニューアルし、2012年に阪急百貨店の梅田本店が建て替えられたあたりからアーバンネットワークの愛称が消えたと思う。
それ以来、JR西日本は大阪(というより梅田)にすべての経営資源を集中させているフシがある。
これに触発されて、阪急百貨店本店と阪神百貨店本店は全館建て替えを行い、ヨドバシカメラ梅田も増床・増築した。
今年2024年は、梅田貨物ヤード跡地の再開発であるグラングリーンも完成する。
北側に2階までの高さぐらいの擁壁(直角)がある
家と壁の間は3m弱
全く日が当たらず、冷たい空気が溜まるので1階はめちゃくちゃ寒い。夏は涼しい。
家中隙間だらけ。
日本家屋で部屋と部屋の仕切りは基本襖。襖の上には20cmぐらいの欄間があり通気性は抜群
50年前のサッシとガラスで断熱効果に期待できないうえに、色々歪んでいるので掃き出し窓など閉まりきらず、ひどいところは5cmぐらいの隙間が空きっぱなし
6畳の部屋だからと6畳用のエアコンをつけるがよく考えたら7~8畳ぐらいある(さらに床の間のこと忘れたり)
無駄に広いベランダがあり、コンクリなので多分熱をめっちゃ吸う
西日が当たりまくる(増田の部屋のみ)
冬でも晴れた日の夕方は裸で過ごせるほどになる(秋はサウナ状態)
とにかく柱が太い
ひいじいちゃんだかひいひいじいちゃんだかがこだわったらしく、
すごく太い柱と梁で柱の少ない空間を作ったらしい
20畳? ぐらいのが二部屋つながったとことかがある(普段は、なんか微妙に幅の広い襖4枚で隔てられてる)
昔は4世帯とか住んでたし子沢山だった
改築や増築を繰り返していた
今は半分壊れた離れとキッチンやユニットバス、トイレを外付けして凸凹(凹はしてない)した母屋が渡り廊下で繋がっている状態
(最盛期には台所3、風呂3、トイレ5ぐらいあった。一番でかいトイレは男子小便器が2つ並んでる)
3回ほど増築したっぽい倉もある
10年ほど前までは、物置小屋だったり、工房だったり、鳩小屋だったりがあってカオス
もちろん駅やその他もろもろが後から来たのだが、まあまあ便利な駅まで徒歩15分。使いづらくさびれた駅が徒歩6分。
家以外にも結構なお土地をお持ちになっており、家賃等で安泰だったが、ひいじいちゃんもひいひいじいちゃんも税理士さんと折り合いが悪いのか、
節税なんて知らん、けち臭いことを言うなっていう男気を無駄に発揮してきたようで、相続のたびに縮小してる
今は母と兄が色々悩んでる
虐待されていた
今でこそ5人に話せば5人全員が驚いた顔で「それは大変でしたね」と言ってくれるような生活ぶりだったものの、
虐待されている最中にはそれを説明する言葉を持たなかったので、周りの人には信じてもらえず、
虐待内容そのものよりも、周りの人から「被害妄想の強い子だ」と思われているのを察するのが辛かった
特にいい人が「困った子だなぁ」という苦笑を浮かべ、やんわりと離れていくのが悲しかった
今ではもっともな対応であり、私がまともな人だと思った人はやっぱりまともな感性を持っていると再確認する一方で、
やはりそのまともの輪に自分は入ることができなかったのが心に暗い影を落としている
子供なりの精一杯の考えと努力も、家庭環境という重く暗い渦から逃れる術にはなり得なかった
足掻けば足掻くほど沈み、努力も工夫も系譜という鎖の延長線から外れることのないことを知り、
現実と地続きに存在したかつての絶望は、それが遠い過去になった今も、時々現実の些細な出来事をきっかけに眼前に現れる
引きずり込まれ、呑み込まれ、全てが無価値になる絶望だけの生に塗りつぶされる
人々の日常の平穏さの延長線上、たとえば薄い集合住宅のドア一枚を挟んだところに、
どれほど人の尊厳を無意味にする支配と暴力が巧妙に隠されているかを知っていて、
それが忘れられない。生きているすべての瞬間に、自分を無価値だと感じる瞬間への暗示がかかっている
それらは誰にも届かないし、誰にも価値を認めてもらえない
だから人の価値観に身を委ね、人が好きだと言ったものだけを私の判断基準に据える
私には得るものがあっても、私が見せることのできる新しい世界はどこにもない
私の本当の、暗い世界は人には見せられない
他の人が溌剌とした生を謳歌する時間を、ひたすらに生きるための忍従に費やした
城は私が動揺するたびに音もなく崩れる
崩れる前、どんな形をしていたかも覚えていない
人は人格というものを確かめ合うためにこの城の形を確かめるものだから、
慌てて急ごしらえの城を建て、それらは一時的に人の目に留まり、
次に会う時には全く異なる城ができている
大きさはさほど変わらず、形は既に原型を留めない
城は本来、人生と共に増築されて大きく、深くなるものだけれども
私は変化し続ける奥行きのない城を建てては壊している
思い出話の中で、ふと他の人が私について話してくれることがあり、
記憶の茫漠の彼方の、私にとっては他人事のようなそのエピソードを聞くと、
私より他の人の中に私の影が残っていることを知る
私の中に私はいない
私はいないし、私以外の誰もいない
それを証明できる私がいない
それでも生きている
生きながら死んでいて、死んでいるのに消費している
今日もまた窓の外が明るい
むかしむかしある東の島に、立派なピカピカの家が建ちました。
はたけをたがやしたり、さかなをとったり、器用なものは便利な道具を作ったり商売をはじめたりしました。
時が経ち、大きくなった子供達は自分の部屋を作ることになりました。
立派な元の家は建て替えるのが大変なので、それぞれが自分の都合に合わせて部屋を増築することにしました。
立派な元の家にくっついた、たくさんの部屋ができました。
部屋はあまりにたくさんだったので、どこへ行くにもまるで迷路のようにあちこち迷わないといけませんでした。
それでも子どもたちはそれぞれ自分の部屋の増築をつづけました。しだいに子供たちは、はたけやさかなとりや道具作りや商売よりも、増築に夢中になっていきました。
さらに時が経ち、立派な元の家は少しずつ傷んできました。雨漏りしたり、ネズミが穴を開けたり、窓が割られたりしました。
子供たちは屋根をなおしたり、穴を塞いだり、窓を直したりしましたが、元の家を建て替えることはできませんでした。
それでも子供たちは自分の部屋の増築を続けました。もう迷路どころかもつれた毛糸玉のように複雑になった家では、子どもたちがお互いの部屋を行き来することさえ難しくなりました。
もっと時が経ち、子供たちは老人になりました。老人になった子供たちは、これまでずっと増築ばかりしていたので、自分たちの子供は少ししかいませんでした。
元の家はあいかわらず雨漏りしたりネズミが穴を空けたり窓が割られたりしていますが、老人になった子どもたちはもうそれを直すことはできませんでした。
増築した部屋で育った少しの若い子供たちは、もつれた毛糸玉のようにこんがらがった家の中を歩き回ることは怖くてできません。
元の家が傷んでいても、どこへ行って何を直せばいいかもわかりませんでした。
もっと時が経ち、今度は増築した部屋が傷みはじめました。老人になった子供たちは、病気になって立てなくなりました。
少しの若い子供たちは、家を直したり、老人になった子供たちの看病をしてばかりいるので、自分たちの子供は少ししかいませんでした。
自分は地方の出身(岐阜)で、地元を離れて30年弱で、親も私が育った家を引き払って別のところに住んでいるので、もう20年ぐらい帰っていない。
ふと思い立って、自分が生まれ育った町をストリートビューで見てみた。私の育った家は他人のものになっているが、建て替えてはいないようだった。外壁に汚れが目立っているが、私の家そのものだった。私が小学校の時にリフォームして増築した離れの部分もそのままだった。家からバス停まで向かう道は、昔は両側まで藪が迫った湿った路地だったが、所々住宅が新たに建てられていて、少し見通しが良くなったようだった。バス停は昔のままだった。バス停の近くにある、母の友人の家もそのままだったが、外壁にかなり傷みがあり、おしゃれな外車に乗っていたのが、小型の国産車に代わっていたのが少し残念だった。バス停の先にある私の通った幼稚園は、閉園したようで、建物はそのままで園庭が駐車場で貸し出されているようだった。小学校から高校まで8年間通った学習塾はそのままだった。何もかもそのままで、少しずつ黒ずんでくたびれたような感じになっていた。