はてなキーワード: 地動説とは
ガリレオが地動説を唱え、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害されたと考えられてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないかと指摘されている[39]。
本当に創造的な人間は、社会の空気や常識に無批判に従うことをしない。
むしろその空気に対して一定の距離を保ち、必要であれば逆らうことすら厭わない。
それは反抗心ではなく、より高い原理に従って行動しているからである。
その原理とは「倫理」である。倫理とは、時代や文化に依存しない普遍的な規範であり、人間として守るべき本質的な価値基準だ。
創造的な人は、この倫理に照らして物事を判断し、行動を選択する。
一方で、「空気を読む」という行為は、集団における同調圧力に屈することと紙一重である。
空気はしばしば、その場の和を乱さないために理性や正義を犠牲にすることを求める。
しかし、創造とは常に「いまここにないものを形にする」行為であり、現状維持や既存の枠組みからの逸脱を伴う。つまり、創造性と空気読みは本質的に相容れない。
例えば、ガリレオは当時の教会の「空気」を読まず、地動説を主張した。
エリザベス・ブラックウェルは、女性が医学を学ぶことがタブーとされた時代に、その空気を無視して医学の道を切り開いた。
これらの人物は、倫理的に誠実であろうとしつつ、空気に従うことを拒んだことで歴史を動かした。彼らが空気を読んでいたら、その先の世界は閉ざされたままだっただろう。
重要なのは、彼らが「わがまま」だったのではないということだ。彼らは私的な欲望ではなく、公益、真理、正義といった倫理的価値を軸に行動していた。
つまり、空気を読まないからといって社会不適合者ではない。むしろ、倫理を最上位に置いているからこそ、空気を超えて行動できるのである。
現代社会においても、イノベーションを起こす人々は、時に「変人」扱いされる。しかし、その行動には一貫した倫理が通底している。
目先の評価や常識への迎合ではなく、人間として正しいことを貫こうとする強い意志がある。その軸があるからこそ、空気に飲まれずに独自の発想を貫き、結果として社会に新たな価値をもたらすのだ。
真にクリエイティブな人間は、倫理を重んじながら空気に従わない。それは、内面に強固なコンパスを持ち、集団心理や空気の圧力に流されることなく、自らの思考と信念に基づいて世界を再構築しようとする姿勢に他ならない。
Xで九月という人が炎上していた。
内容はめろいとしこいは同じような意味だけどめろいのほうが言いやすいよな、という内容から始まり、めろいにも性欲を込めた意味が含まれているだろう、というような議論に発展し、主に女性と思われるアカウントから大量に「めろいに性欲はない」というような意見が寄せられていた。
これに関して、割と思うところがあったので、思うところを書くだけ書き散らそうと思う。
先ず、この議論においてよろしくないな、と思っているのは、九月側の主張が「それは性欲であるが、お前らはそれを認識していないだけだ」というスタンスであること。
これは主張があっているあっていないのはなしではなく、「お前らはそうであることに気づいていないのでそう思っていないだけ」という理論が「無敵である」ことがよろしくない。
最近チ。を読んだので若干地動説に似ているなと思ったが、この理論はどんな答えのない主張も通すことができてしまうし、その主張の該当者からすればたまったもんではない。
それこそ「アニメを見ている人は根底で現実で満たされない自分を主人公などに絶対投影しているが、本人に自覚がない」みたいな主張に対して「そんなことはない」みたいな反論をしても、「いや、こうだからこうだ、お前には自覚がないだけ」と返すだけでよくなってしまう。(こうだからこう、の部分にはそれらしい理屈をつければよい)
これじゃあ双方の理解は得られないだろう。議論に落としどころがなく、該当する者の怒りを買って当然である。
じゃあどのようにすればよいか、というと、性欲の発露の形について、1から話す必要があると思われる。
生物として、男性と女性はまったくもって違う部分がある。それは生殖における身体的負担だ。(もちろん、それ以外の違いもあるが、ここでとりわけ取り上げる必要がないので上げていないだけなのでご了承願う。)
男性は、正直に言えばだれでもいい、というのがある程度事実としてある。
なぜなら、子供を産む際に自分の体に対して負担が一切かからないからだ。
何なら、むしろ多くの女性と生殖することが自分の子孫を残すうえで有利だし、優秀な女と優秀な子を産む確率も上がるだろう。
それに対して女性は、一度孕むと身体にかかる負担が甚大である。
そのうえ、一年間は確実に拘束される。つまるところ生殖相手を間違えた場合、女性は男性と違い大きなリスクを持つことになる。
つまるところ男性の性欲は直接的かつ性交に結びつくような形で発露するが、女性の性欲はむしろ選別に近しい形で発露する。
この男は優秀か?という見定めのようなものが、女性における性欲の形といえるだろう。
だれかれ構わず交尾するような性欲を基本持ち合わせていないのは当然である。なぜならそんなことをすれば優秀でない男の子を孕み身体に負担がかかってしまう可能性が高くなるからだ。
出産の安全性が上がったのは生物としての進化でなく医療技術の向上によるものなので(以前負担はかかるし安全でないが)この部分に関しては昔から変化がないだろう。
これを前提としたうえで、なぜこんなに性欲に関して男女で意見が分かれているかというと、女性のほうが異性からの直接的な性欲をぶつけられる機会が多いからだろう。
男性は正直言えばある一定以上でないと、女性から性的な加害を受けることがないし、加害のレベルも基本的には低い(九月さんは女性からストーカー被害を受けたりしているが、たぶんこのレベルの加害を受けたことのある男性はまれだろう)
例えばラインが意味の分からないくらい送られてくるとか、求めてもないのにボディタッチが激しいとか、そのレベルなら増田にも経験はあるが、まあ本当にそのレベルに収まる。
一方で女性は加害に合う回数が多い。また、増田は男なので具体的事例については詳細を語れるレベルではないが、女性の知り合いから聞くだけでも辟易するような内容だ。
そのうえで、一部特徴的な加害の遭遇の仕方として、自分に一切その気がなかったにもかかわらずそれを好意と捉えられたことによって起きた加害、のような被害の会い方だ。
しかもこれが相当数あるらしく、SNSなどでも散見されるし、知人にもそういう体験があった人間を知っている。増田も学生時代はあの子俺に気があるんじゃね!?で玉砕した経験があるので笑いごとでもないが、
これが今回の議論において相当足を引っ張っていると推察する。
今回の「お前らのそれは性欲だろう?」という意見が、この被害と形が似すぎているのだ。
もちろん、この主張が必ずしも間違っているとは思わないが、この形が該当者の怒りを買いやすく、炎上につながったのだと思う。
増田としてはこの男性はめろい、や、性欲抜きで人を好きになる、というような女性側の認識は男性の性欲を自分は持っていない、という意味であれば成立していると思うが、同時に女性に男性と同じ性欲はなく、女性には女性の形の性欲があることに関して認識が薄いな、と思う。
一方で男性側は女性がどういう理由でこの議論に対して怒りを抱いているのか、その形を正しく認識しないことには、主張の正当性を叫ぶだけでは届かないだろう、と思う。
あのな、「素人だから正しい見解は分からない」って言い出した時点で、思考放棄宣言なんだよ。
それを「誰を信用するかに委ねる」って、経済議論じゃなくて宗教の話にすり替えてんの。信じる信じないの問題にした時点で、もうお前の頭の中には論証って言葉は存在しないってことだ。
学者同士で見解が違う?当たり前だよ。科学なんだから仮説と検証があって、常にアップデートされていくもんだ。でもな、それと「何でもかんでも等価に扱っていい」ってのはまるっきり別の話だ。
たとえば、リカードの比較優位理論に反論してる学者もいれば、地動説に反対してる人間もいた。
でもそれが両論併記されるか?されねぇだろ。学問ってのは、エビデンスと理論の整合性で淘汰されていくゲームなんだよ。
で、その中でどれがより現実と整合してるかを素人でも判断できるように、学者はモデルや統計や事例を使って説明してる。
「信用できる人を選ぶ」ってんなら、少なくともその人が何を根拠に主張してるのかを理解しようとしろって話だ。
そこをすっ飛ばして、「どっちが信頼できそうか」とか「口調が穏やか」とかで決めるなら、それは学問じゃなくてテレビのコメンテーター選びだ。
お前が素人だからといって、無知のままでいる免罪符にはならねぇ。少なくとも、議論に首を突っ込むなら「分からない」で開き直るのは最低の態度だ。
理解しようとした結果「分からない」ならいい。でも「最初から分かるわけない」と言ってるやつが、「見解の相違」だの「主流派は」だのと、もっともらしい言葉使って話してんじゃねぇよ。
だよね。元増田が言ってることは、かなり大袈裟に言えば量子力学が誕生したあとに古典物理学は宗教でした!って言ってるようなもの。あるいは現代の数理論理学から見てアリストテレスの論理学が宗教だと言ってるようなもの。天動説は当時の知見の最先端で、実際にそこそこ上手く機能していた。新しい事実が判明してそれが地動説に上書きされただけ。
そもそも科学は紀元前からあるから2000年どころの歴史じゃないし。元増田レベルで無理解で無教養な人って低学歴か不勉強でIQ自体が低い、もしくは注目されたくて釣りしてんのかなぁと思った。
「多数派であれば正しい」という思想にはいくつかの問題点があります。以下にその主な理由を挙げます:
これらの理由から、「多数派=正しい」という考え方には注意が必要です。むしろ、多様な意見を尊重し、批判的に考えることが重要だと言えます。
コミックスの表紙、それまではキャラクターだったのに最終巻は真っ黒で(購入する前は画像が粗くて暗く潰れた様に見えた)謎だな〜って思ってた。
ちゃんと表紙見て、夜空になってるのを見てなるほどと思った。
これまで各キャラクターたちはみな夜空を見上げていて、最終巻で夜空を見ているのは我々読者…という構図。
作中で地動説の研究が受け継がれているけど、それは私たちまで続いている、ってことなんですね。
なんともおしゃれ。
恐る恐る見上げているヨレンタさん、空を見上げながらも背を向けているピャスト伯、パンを齧りながらチラ見する浮浪者…など、各キャラクターが地動説とどう向き合っているかも描かれている。
体は正面を向いているけどそっぽを向いているシュミット隊長、金を手に見上げるドゥラカ。それぞれ地動説を自分の目的の手段としているのは同じだけど、シュミット隊長はあくまでC教への攻撃が重要で地動説がどうとかはあんまり興味なかったのかな…と思ったりしました。
たまに、当方(Yatatsukai:やたてつ氏のスピード違反助長となっていた動画を追及する会)の活動に関し やたてつ 氏への名誉毀損となるのでは? との声を頂くため、検討をしてみました。
やたてつ氏の動画( https://www.youtube.com/watch?v=cD1Kr5a9vjc )の0分16秒地点(以下、本件地点)について、一般の閲覧者の普通の注意と閲覧のやり方を基準とすれば、
道路上の黒塗りつぶしの丸看板(電灯不点灯かつ縁取りがあるもの)は「法定速度で走っていい」のサインである
と読み取られる。
誤情報である可能性が極めて高い情報が、他の情報によって、打ち消しがされることが一般論としてはある。ただ、打消情報との距離が近いとか、普通の閲覧者が目を通す可能性が高いことが必要である。今回の誤情報について、タイトルや概要欄で打ち消しを仮に試みているとしても、動画の映像表示部分はタイトルや概要欄とは一定の距離があること、全画面表示モードならばなおさらタイトルや概要欄が閲覧者にとって目にはいる可能性は低いということを踏まえると、その試みの効果は不十分であり、打ち消しとはならない。
やたてつ氏がどの人物(団体などの非自然人を含む。)であるのかについて、わかるのだろうか。やたてつ氏は氏名・名称、顔の映像(写真などの静止映像を含む。)等を公開しているわけではない可能性が高く、そうだとすれば、一般の閲覧者は、わからない
(※ここで示したのは、同定可能性といわれることのある枠組みと関係の強い事柄)。
(1)この動画地点について、「動画ページのその他の部分をあわせて確認する閲覧者を除いて」との主旨の限定条件のようなものをつけたうえで、「誤情報だ」と摘示すること
意見・論評の域をでない。
いわゆる真実性の要件について。「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」という総理府・建設省令において、現在、
『「最高速度」、「特定の種類の車両の最高速度」及び「最低速度」を表示するものについては、これを灯火により表示する場合』との節が登場し(別表第2 →「備考」 → 「一」(いち) → [(三)色彩」→ 「3 規制標識」→ (1) )
「最高速度」の標識が登場し ((別表第1 → 規制標識 → 323)及び(別表第2 → 規制標識 → 323))
「終わり」の標識が登場する ((別表第1 → 補助標識 → 507)及び(別表第2 → 補助標識 → 507))
にもかかわらず、
『道路上の黒塗りつぶしの丸看板(電灯不点灯かつ縁取りがあるもの)は「法定速度で走っていい」のサインである』という規定が同総理府・建設省令には存在していない以上、『道路上の黒塗りつぶしの丸看板(電灯不点灯かつ縁取りがあるもの)は「法定速度で走っていい」のサインである』という規定が法令において存在する可能性は極めて低い。
したがって、『道路上の黒塗りつぶしの丸看板(電灯不点灯かつ縁取りがあるもの)は「法定速度で走っていい」のサインである』というのは誤情報である可能性が極めて高い。
(※法令に書いていないことの主張という意味では、例えば「青ヘビの絵が看板で示されていたら、最高180km/hで走れる」というような主張と、変わらない。)。
以上から、いわゆる真実性の要件が満たされている可能性が極めて高い。
何かの主張について、誤情報だと指摘することは、言論の自由(憲法第21条)の文脈で言う、言論、その言論の基礎をなす行動の一つである
(地動説を批判する天動説派の批判行為(地動説への理論的批判の部分に限る)は、過去に実際にあったが、少なくとも現代の見地からは、名誉毀損にはならないことは明らかである。)。
公益性がある(この動画部分をみて、一般の閲覧者のする読み取り方(※上「★動画の0分16秒地点をみて一般の閲覧者が読み取るのは何か」参照)をし、さらにそれを正しいものと信じるものが現れる可能性が十分にあるところ、それへの注意喚起を、この態様によりすることは公益目的にかなっている。)。
「納得できないことはやりたくない」
「なんとなく共感できる話が一番信頼できる」
こんな風に思ったこと、ありませんか?
それは当然のこと。誰だって、よく分からないまま、言われるがままに動くのは嫌ですよね。
「なるほど!」と思えることに心が動くのは、人間として自然な反応です。
特に今の時代、SNSで「分かりやすく説明してくれる人」や「共感できる意見を言ってくれる人」を見つけるのは簡単です。
「この人の言うことなら納得できる!」という人を見つけると、すんなり頭に入るし安心しますよね。
実は「納得感」だけを頼りにしていると、知らないうちに自分の思考を狭めてしまうことがあります。
例えば、
SNSの世界では、長い説明よりも短くてわかりやすい説明が人気です。
「3分で分かる〇〇の真実」みたいなタイトル、よく見ますよね。でも世の中の大体のことって、3分で理解できる単純なものばかりかって聞かれると、そうではないですよね。
「この説明、納得できる!」と思った時こそ要注意かもしれません。それは本当の理解なのか、それとも単に「聞きたかった答え」を聞けた満足感なのか…。
今では常識になっていることの中にも、最初は「納得できない!」と多くの人に否定されたものがたくさんあります。
これらはどれも、当時の人々の「納得感」を大きく損なうものでした。でも結局、正しかったですよね。
つまり、「納得できないから間違っている」「納得できるから正しい」というのは、実はかなり危ない判断基準かもしれないんです。
じゃあ、納得感は意味がないのか?納得できなくてもやるべきか?そんなことはありません。(そういう判断が必要な時もあるかもしれませんが)
大切なのは、「表面的な納得感」と「深い理解に基づく納得感」を区別することです。
表面的な納得感
深い理解に基づく納得感
本当の納得感は、時に違和感や疑問と向き合うことから生まれます。「わからない」と認めることが、本当の理解への第一歩になることも多いんです。
では、どうすれば「表面的な納得感」の罠にはまらずに、本当の理解に到達できるのでしょうか?
「この人の言ってること何となくムカつくわ」「自分と考え方が合わんわ」と思う相手の話でも、「どうしてそう考えるんだろう?」と想像してみましょう。自分と反対の意見こそ、新しい発見があるかもしれません。
全部わかった気になるよりも、「ここがわからない」と正直に認められる人の方が、実は賢いんです。
わからないことがわからない…という人ほど、こうした納得感の罠に陥りやすいです。できないこと・わからないこと探しを、恐れずにしてみましょう。
「なるほど!」と思った時こそ「でも、なぜ?」と自問してみる。一度の説明で納得せず、もう一歩掘り下げる習慣をつけましょう。
※なぜなぜ理論が通用しないケース:理由の存在しないもの、主観的観点(メタ認知能力や、言語化スキル等別の能力が必要)、偶発的な事象(推測が不可能な事等)、複数の事象が複雑に絡み合っている事象等
実は「納得感」を大切にする姿勢は、とても素晴らしいものです。
でも、それは「心地よい説明を求める」ということではなく、「本質を理解したい」という探究心の表れであるべきなんです。
本当の納得感は、時に不快な真実と向き合い、自分の思い込みを乗り越え、対話を通じて少しずつ深まっていくもの。
それは簡単な道のりではありませんが、その先にこそ、「ああ、本当にわかった」という深い満足感があります。
SNSで流れてくる「わかりやすい説明」に満足するのではなく、「本当にそうなの?」「でも、こういう場合は?」と考える習慣をつけていきましょう。
納得感を大切にするからこそ、表面的な理解で満足せず、本質を見抜く力を育てていきたいですね。
それこそが、「納得感」の本当の価値なのかもしれません。
コロナを機に陰謀論に目覚めた知り合いが「チ。-地球の運動について-」にハマったらしい。
案の定、地動説を唱えて迫害される主人公に自分を重ねて、アニメの名場面をiPhoneで録画したものに文字をつけてせっせとインスタに投稿している。
そこまではまあよくある話しだが、極めつけは、「本当の作者はトランプ大統領ではないか?」と言い出していることだ。
根拠として、作者の「魚豊」について、「魚」はキリスト教で「イエス・キリスト」を表すシンボルで、「イエス・キリスト」は英語で「Jesus Christ」であり頭文字は「J」であること、「豊」はローマ字で「Toyo」であり頭文字は「T」であることから、Jはトランプ大統領のミドルネームの「ジョン」、Tは「トランプ」を表しているらしい。
上の根拠から、トランプ大統領が日本にいる同志を勇気づけるために描いたのが「チ。-地球の運動について-」だと本気で主張している。