はてなキーワード: 吟味とは
で、ここが地獄の分かれ道だ。
生産する奴には、どこかしら狂気が必要になる。まともな精神状態で毎日クソみたいな動画を垂れ流せるわけがない。
俺には無理だし、やるつもりもない。
毎朝目覚めて、「今日はどんな不快感を世界に放流してやろうか」と意気揚々と編集ソフトを立ち上げられるようなタイプじゃない。
そもそもな、自分の考えを価値あるものだと誤認して発信できるその鋼メンタル、いやむしろ鈍感力には敬意すら覚える。
とはいえ、侮っちゃいけない。彼らは社会の裏インフラを形成してる。
脳を溶かし、思考力を吸い取り、無数のお客様をデジタル蟻地獄に誘導するプロフェッショナルだ。
こっちが内容と整合性を吟味して慎重に言葉を選んでる間に、あっちはとっくに100本目のクソをアップしてる。
そしてそのクソがバズる。
おかしいだろ?いや、正しいんだよ。現代社会は情報の質じゃなく投下頻度で殴り合う時代だ。
質がどうとか、論理がどうとか言ってる時点で、もう敗北が確定してる。
俺にはできない。毎日己の脳みそをミキサーにかけて、意味のあるようで意味のない、語感だけの言葉を吐き出すなんて芸当は。
俺はもっと冷たい場所が好きだ。数式とエラー、仕様書とリファレンスの中に生きてる方がまだマシだ。でなきゃ発狂する。
そして今日もまた、誰かがスマホ越しにぬるま湯の自己承認を浴びながら、クソを世界に投下する。しかも価値ある行動として。
恐ろしい時代になったもんだ。
自分は小学2年生~小学5年生の時に、ピアノ教室で通ってピアノを習っていた。
ピアノ教室は、週1で水曜日の30分のレッスンだったはずで、月に何回か忘れたが毎週か隔週に通っていたと思う。
個人宅の一戸建ての1部屋をピアノ教室にしたような所で、自分と歳が近そうな息子がいる主婦な女性の先生だった。
ピアノ教室に通って1~2年間は、1回のレッスンで1曲をクリアしていくペースだった。教材がまだ簡単だったせいか、家であんまり練習しなくても6割程度を通しで弾けたと思う。
しかし、通って3年目頃から弾く曲がちょっとずつ難しくなるとつまづく事が多くなり、達成感も無くなり、モチベーションが下がっていった。なんで弾きたいかもよく分からなくなっていたと思う。
惰性でピアノ教室を通うようになっていって、ちょっとずつピアノ教室が楽しくなくなっていった。
小2からピアノ教室を始めたが、自宅にピアノとかまともな楽器が無かったので(お下がりの鍵盤ハーモニカやリコーダーや、あっても父親が昔の若い頃に使っていた置物状態の錆びかけたクラシックギターしかない)、小3の頃に父親からもらったお年玉で1~2万円程度のCASIOの電子キーボードを買ってもらった。(関係ない余談だが、ゲーム音楽を弾いてる芸人の「こまつ」が2000年代頃に所持していた電子キーボードとほぼ同じ種類の電子キーボードだった。)
しかしその電子キーボードは、5オクターブ(61鍵とか)程度しかないキーボードで、それでピアノの練習をするという、何だか今思うとおかしいというかケチった初期投資や環境だった。
電子キーボード購入当時はお金を気にしてか、なぜか電子ピアノを購入する発想にならなかった。自分も親も電子キーボードでピアノの代用ができると薄っすら思っていたようだった。
近場の家電量販店で電子キーボードを選んで購入時には気付かなかったが、使っていく内に弾き押した感覚がピアノと全く違う事に気付いた(鍵盤を押した重さやピアノの音色や響きや音質など、電子キーボードでは差がありすぎた)。とにかく漠然と「コレジャナイ」というのが頭のどこかの隅にありながら練習をしていた。「ピアノの感覚で弾きたいのに…」と地味に不満に思ってて、モチベーションが下がっていった地味に要因の一つだったと思う。
しかも自分が知らない間に、父親が何となくリビングに電子キーボードを設置してくれたが、自分はリビングで弾くのが恥ずかしかった(自分が弾いてる姿も)。どちらかというと自室とかにこもって独りで弾きたかった。恥ずかしさや迷惑さで親にも相談できなかった。そんな事もあってリビングに誰もいない時を狙って隠れて弾くため練習頻度が下がった。
友達にも「ピアノ教室に通ってるけど、何の曲を弾いてるの?」と聞かれたが、弾いてる曲も子供向けの曲(曲名も無名な曲)で恥ずかしくて、濁すしかなかった。
小5の頃には、練習をかなりサボるようになったりして先生の前で弾けなかったり、ピアノ教室に行く事をグズったり遅刻したりしていて、次男から「辞めろよピアノ教室」と軽蔑気味に言われて(※自分は末っ子)、ピアノ教室の日が来る度に内心苦しく困ったままで通って、妥協しながらやり過ごしていた。
先生から特にサボってる程の練習量について何も言われなかった。自分の動機とか音楽の好みとか自宅の練習環境とか理解されてなかったと思う。先生とも音楽の好みが合わなかったと思う。
小5の頃には、先生も教え方が余所余所しくなり、「躓いてるけど、自分で反復練習するものだから」と素っ気なくなっていた。
(自分は人見知りな事もあって、先生と打ち解けた事はほぼ無くて、レッスン中に「先生がトイレに行ってるから何か弾いててもいい」と言われたが、恥ずかしくて自分は何も弾けずに無音状態で待っていたら、トイレから戻った先生から「また静かだった」と言われて戸惑った程に人見知り。)
小5の頃からなぜか自分は勘繰りが起こるようになり「先生の教え方が手抜きになってないか?」「手抜きなのに親に月謝を払ってもらっている、つまり自分は鴨になっているのではないか?」と疑心が生まれて「どうせ自分へのレッスンは金蔓なんだろうな」という偏見や感情が芽生えていた。
元々自分は幼稚園生の頃からゲーム音楽が好きでDDRとかbeatmania(5鍵)やギタドラ初期などの音ゲーとかにも興味があって「楽譜を読めるようになりたい」とかで漠然なまま「音楽を習ってみるか」となってたが、レッスンを受けると訳分からない童謡みたいな子供向けの曲を弾かされて、演奏する曲の殆どがそもそも自分の好みの曲ではなかったし、好みでない曲はフラストレーションの要因でしかなかった。
当時は自覚していなかったが、どちらかというと自分は座学がやりたかった。座学はあったが30分のレッスン時間の内の10分間程度の座学で、座学だけをやるような選択はなく、座学には重点が置かれていなかった(「座学と実践」の割合は、3:7ぐらいだったと思う)。今ならコード進行とか学びたかった。
(一応、学習指導向けのピアノテキスト教本で、それに沿って演奏して実技が身に付くような教え方はされた。他には「バーナムピアノテクニック」の教本に沿って実技をしていた記憶がある。)
レッスンを受ける意義も分からなくなり、自分が好きな曲を弾きたいという動機は薄っすら残っていて、小5の時に「ゲーム音楽を弾きたい」とようやく相談して、自分が小4の頃に器楽クラブの顧問から運良く頂けた「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を、ピアノ教室の先生に見せたら何故かスルーされて、先生が所持してる楽譜の中から弾けるゲーム音楽を選ぶ事になった。
しかし今よりゲーム音楽は有名でないせいか、選べるゲーム音楽の楽譜が少なく、ドラクエ序曲のマーチアレンジ(子供向けな編曲)やFF10の「ザナルカンドにて (終末的な悲しい曲)」のピアノ楽譜があって自分としてはどちらかというと本望ではないが、それらをレッスンで弾く曲に選ばせてもらって弾いたが、なぜか楽しくなかった。どちらかというと恥ずかしさとか気まずさが強く、弾いてて感情移入してる感じがしなかった。
小5の時に同級生が、近所におじさんが教えてるパソコン教室があって、そこに通っている事を知った、それを母親に相談して自分もパソコン教室にも通わせてくれる頃に、自分はピアノ教室を辞めたいような意思になって辞める方向になった。
これまで送り迎えだけだった母と一緒にピアノ教室の部屋に入り、母親が先生に受講を辞める相談をしていってる最中に自分は、なぜか目から涙が流れてしまい止まらず、かなり気まずい雰囲気になってしまった。惨めや悔しさの涙だったと思う。
そもそもピアノ教室に通うようになった経緯は、「楽譜の読み方が知りたかった」とか「ピアノのドの鍵盤ってどこ?」というような素朴な疑問が動機で、それを母親に話したら適当なピアノ教室を勧められて、どういうピアノ教室か分からず吟味せずに何となくでピアノ教室を選んでしまっていた。
(ピアノ教室受講した後に知ったが、近所にも似たようなピアノ教室があったのに、なぜか近所から少し離れた町のそのピアノ教室が選ばれてしまって、親による送迎の負担が増えただけだった。まだ機会費用的に近所のピアノ教室の方が良かったのになんで?と思う。)
今思うと「インターネットで楽譜の読み方を知る」というのが「顧客が本当に必要だったもの」だったように思えた。(当時、親はIT関連に疎くPC購入やネット開通もかなり消極的だった。)
実は「ドラムがやりたかった」「まだピアノよりドラムの方がまだ才能が伸びていたのではないか?」という懐疑がある。
あとは「もしピアノ教室の先生がゲーム音楽や電子音楽に興味があったらまだ変わっていたのではないか?」と思う。もし当時の小学生時代にKraftwerkとかYMOとか勧められて知っていたら多分今より音楽の知識が身に付いていたと思う。(YMOが自分に刺さったきっかけは中2の頃に見たYouTubeのMV動画だったと思う。ちなみにJ-POPとか邦楽の流行歌には興味がない。)
(ちなみに器楽クラブの顧問も女性の教師で、たまたま「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を教師が偶然に持っていただけで、ゲーム音楽や電子音楽には興味無いようだった。)
当時から言語化できないような無自覚的なフラストレーションや水面下な問題が溜まってたばかりで、今でも地続きで機会損失が大きくなってると思うと、今は後悔でしかない。黒歴史。
小4の時に小学校のクラブ活動で、グループに分かれて合奏をするような器楽クラブに入ったが、自分だけが落ちこぼれでクラブは女子しかいなくて女子と打ち解けれないし助けを求められず割と浮いてて孤独で、上級生だけでなく同学年の女子も普通に楽譜通りスラスラ楽器が弾ける人ばかりだった。
自分はピアノを習っていて楽譜が読めていたと思っていたはずが、弾きながらも楽譜が読めない・まず大体を暗譜しないと読めない状況で(オーケストラ用の楽譜で見慣れない程に楽譜も小さくどこのパートの楽譜か迷子になったり、ヘ音記号の楽譜なのにト音記号の楽譜であると思い違いして読み間違えにしばらく気付かなかったり)、
その弱点に気付かず能力の無さに内心焦りながら、自分の雰囲気だけは皆と演奏してやってるという感じを醸したクラブ活動をしていて、クラブ活動も尻込みになった。
学校でそういうさり気ない悩みがあっても、器楽クラブに入ってる事をピアノ教室の先生に言えてない、親も自分が器楽クラブに入ってる事を知っていないと思う。
(ちなみに小5からは科学部(科学クラブ)に入った。ほぼ遊びみたいで楽しかった。小6になって別のクラブに入ったけど。あと、その頃に受講を始めたパソコン教室は最終的には円満的に通い切った。) (中学生時代の部活はほぼ3年間は帰宅部。器楽クラブの影響で、地味に部活動というのがトラウマや無力感になってると思う。)
「才能が無い自分のせい」と言われればそれまでだが、マッチング的に「自分の嗜好や動機などを理解されず能力のようなものを引き出せられなかった周囲も残念な環境だったのでは」と思う。巡り合わせの問題とか。
自分は歳を重ねるに連れて自分が好きだった音楽を耳にする度に「絶対音感の能力があれば…」ぐらいの無念さ劣等感が大きくなってくる。「絶対音感があれば、好きな音楽の耳コピとか分析が高精度で確実にできて、人生が変わっていただろうな」と。好きなはずなのに馬の耳に念仏で溜息しか出ない。山月記みたいになりそう。
自分は本当に音楽が好きなんだろうか…。単純接触効果的な大きな勘違いでなければいいが…。
余談だが、音ゲーについての自分の腕前は、家庭用IIDX HAPPY SKYの段位認定10段をアナコンでクリアしたのが限界で、高1がピークだったと思う。高2の頃からほとんど音ゲーには触ってない。自分は音ゲーやゲームも才能が無いと強く気付き始めていったのはその頃だった。
自分は音ゲーの楽曲についての話をピアノ教室やクラブ活動などでも話す機会は一切無く、幼小から自分が好きだった音楽は誰にも繋がらず糧にもならなかったのであった。
ヒューチャーという大手ITグループ企業(以下F社)が新卒年収600万円以上にするというニュースがあった。
一見JTCには難しい高給条件だが、実態はどうか同社の採用サイトの記載や転職サイトの口コミなどを見て検証してみたら、昨今の新卒待遇アップの典型例と言える内容だったのでここに置いておく。
なお、増田は別にF社とは何の関わりも恨みもないことを付記しておく。フラットに見ている。
600万の中には賞与4ヶ月分が含まれているが、夏ボはもらえないので実質2ヶ月分あるかどうか、が真である。この時点で75万のマイナス。
なお月給は37.5万と初任給にしては破格に見えるが…
案件が決まるまで最大6カ月間は月給が2.5万ずつ減らされて35万になる。半年決まらなかったら15万マイナスだ。
それでもまだ初任給にしては高く見えるが…
定時が7.5時間なので1日10時間、月200時間労働が標準。朝9時出社なら20時までは帰れない。これは研修期間も同様。
この条件で時給換算してみたら1785円(160時間超過分は25%割増で2240円)と、初任給としては平均よりやや高めくらいにまで落ちてくる。
これは結構キツイ。有給休暇に関しては合法な範囲で最も少ない制度になっている。あっという間に有休使い切って欠勤になり給与や賞与が減らされる社員が女性中心に多発してると思われる。というか女性が入れる会社ではない。
他社との比較だが、例えばNRI(初任給27万円)は有休付与は17日で、夏休みが別途5営業日ある。これが大手標準だがF社は大きく見劣りする。
時給換算で5%くらい劣後することになる。これを前述の1785円から差し引いたら、時給換算1700円。
JTCなら標準装備されているこの2つがF社にはない。独身こどおじなら無影響だが、下宿者には辛いし、家族持ちなら年収100万以上変わってくる。
他社と比べて待遇面が10%くらい劣後してることになるので、これを前述の1700円から差し引いたら、時給換算1530円。もはや「並の部類」である。
F社には退職一時金も、確定給付企業年金(DB型)も、401kもない。
これも他社と比べて5〜20%(制度次第)劣後することになるので、8%として前述の時給換算1530円から差し引いたら、時給換算1400円。
もはや「低い部類」に入ってくる。
健保料率は従業員負担が3.98%とやや低い部類で、会社負担のほうが少し高めだった。はてなユーザーお馴染みの「関東ITソフトウェア健保」より0.8%くらい低い。年収500万なら手取りが4万円くらい増える計算。
今回はF社を取り上げたが、昨今の初任給アップ(の見せかけ)は実に多彩なカラクリが仕込まれている。
本件ではない他社の事例だが、ひっそり定時を30分延長するとか、健保の会社負担率を下げて従業員負担率を上げるという事例もある。また、退職金制度をDB型から401kに変えて、会社側の退職金積立負担を下げて基本給アップに回す事例がかなり多い。増田の会社もこれをやった
よくよく募集要項や求人票の内容を吟味し、不明点は素直に会社に聞いて、「高給のはずだったのにこんなはずでは…」とならないようにしよう。また、ぱっと見安く見えるJTCの初任給も、実は他の手当や福利厚生を含めたらかなり高いことがわかるはずだ。
私はメイド喫茶で働いている。
だからといって顔が可愛いわけでもなく、人手が足りてないところにたまたま受かったような感じだ。
働き始めて約一ヶ月ほどが経ち、猛烈に悩んでいることがある。
お客さんと話すことが思い浮かばないのだ。
メイド喫茶に通っている人のイメージが今どのようなものになっているかは分からないが、少なくとも平成頃の『電車男』のようなオタクはもういないということをお伝えしたい。女性と話したことがなく、内気で趣味に没頭している男性というのはほぼいないのだ。今メイド喫茶に来るお客さんのほとんどは「メイド喫茶のオタク」だからである。メイドという属性の女性と話すことが好きで、様々なメイド喫茶に通い詰める、そういった方がメインなのだ。つまりコミュニケーション力に明らかに難があるような人は見受けられず、メイドの見た目の可愛さやトークスキルを吟味しに来るような人が大半である。
そうなってくると困るのが、お客さん側に明確に話したいこと、聞かせたいこと、というものがないことである。それがあるなら、私達メイドはそれを聞くに徹すればいい。程よく相槌をして気持ちよく喋ってもらえばいい。ただそうはいかない。お客さんはメイドのトークを待っている。最近あった面白い失敗、他のメイドと遊んだ話。何かメイドからのアクションが求められているのだ。
しかし、明確に話したいことがなくても、お客さんはメイドさんと「お話がしたくて」来ている。メイド側は上手に相手が話したくなることを引き出さなければならない。
そこがとにかく難しい。
初めて会った人には、「何でこのお店に来てくれたんですか?」「趣味は何ですか?」と聞けばいい。ただ2回目以降はそうはいかない。「今日は何してきたの〜?」「最近の推し活はどう〜?」「最近暑いね〜」などと話しかけ、運が良ければ今日はこんなことをして〜と話してくれるが、全ての質問に「まぁ、普通」と返されることもしばしば。私が嫌われているのかもしれないが、話題が続かないと本当に焦る。新人メイドはまだ出来ることも少ない為、お喋りすることが仕事。話を途切れさせることはあってはならないのだ。
そういう時に私は頭が真っ白になってしまう。本当に話が思いつかず、このあと雨降るみたいですけど傘持ってきてますか?みたいなつまらない話を切り出してしまう。そしてこいつはつまらないと思われると余計に私と話してもらえなくなる。それがここ最近立て続けに起こっている。
元々コミュニケーションに自信はなく、それを克服しようという意志のもと始めたバイトでもあったが、お金を貰いながら苦手を克服しようなんて考えが甘すぎたのかもしれない。最近は考え込みすぎて普通の友達との会話ってどうしてたっけ?と色々なことが何も分からなくなってしまっている。会話が続かないとき、頭が真っ白になってしまうとき、どうしたらいいのだろうか。
どの政党も掲げてる政策に良い悪いがあってちゃんと吟味しないと駄目なんだけど、大まかな傾向はあれど具体的には個々人で違う部分も多いってのが実情だから
まず前提として、君は「図書館は開かれている」「本は安い」「大学も破格」と述べることで、
知識アクセスの平等性を主張しているつもりかもしれないが、これは完全な論点ずらしだ。
議論の本質はそこではない。問題は「知識が無い人間は語るな」という発言封殺の構えそのものだったはずだ。
こちらが指摘したのは、知識水準の差をもって発言権の有無を裁定する態度そのものが、思想の自由と矛盾しているという点だ。
図書館が開いていようがいまいが、それはこの矛盾を一ミリも解消しない。
加えて、「本は安い」と言うが、思想という営みは金銭的アクセスの有無で測れるものではない。
問題は「アクセス可能性」ではなく、「アクセスしていない人間が語ること」を即座に嘲笑・否定する君の構造的態度だ。
その発言は論理的反駁を放棄し、相手の努力量を揶揄することによって、自分の怠慢を正当化する態度に他ならない。
本来、思想とは「不完全な論考ですら吟味に値する」とする寛容の体系だ。
それを「無意味」と切り捨てた時点で、君は思想を語る資格を自ら捨てている。
君が侮辱したその長文に、君は一度も中身で勝っていない。
本日は、個人課題の提出に関して注意喚起をさせていただきます。
第一回の授業では、総合政策学への導入および生成AIのハルシネーションについてお話しました。その際に資料を配布しましたが、実はこの資料を生成AIにアップロードして要約や感想を自動生成すると、授業や資料とは関係のない 『文明論之概略』があたかも授業中に強く推薦されたかのように誤回答する仕組みになっていました。
残念ながら、提出されたコメントの中には、この授業と無関係な『文明論之概略』について感想を書いている方が一定数見られました。このようなコメントは評価対象外とします。
生成AIの出力を無批判に信じ、内容を自ら確認せずに使用することは学術的にも倫理的にも問題があります。今回、『文明論之概略』に関する感想が提出されたケースは、生成AIが適切に活用されているとは言い難いものです。生成AI を利用する際には、まずはその仕組みをよく勉強し、使い方を十分に考え、その出力の正しさを必ず自分自身で批判的に吟味してください。
今後は、皆さんが自らの思考と努力によって学習に取り組み、塾生としての自覚と責任感をより一層深めていくことを期待しています。
教員一同
デパートの広告で「○○物産展」の文字を見ると思い出すことがある。
子供の頃、親に連れられていく物産展は、ちょっとしたお祭りみたいでわくわくした。
普段は静かなデパートの一角が、その期間だけ異様な熱気に包まれる。
試食コーナーの人だかり、威勢のいい呼び込みの声、そして普段は嗅ぐことのない食べ物の匂い。
醤油の香ばしい匂い、甘いお菓子の匂い、海産物の磯の香り、漬物の独特な匂い…それらがごちゃ混ぜになった、あの空間特有の匂いが好きだった。
特に北海道物産展なんかは鉄板で、白い恋人とかロイズの生チョコとか、そういう「わかりやすいお土産」を買ってもらえるのが嬉しかった記憶がある。
親は試食に夢中で、あちこち見て回っていた。母は漬物や乾物を吟味していて、父は海産物系の試食に目がなかったような気がする。
ソフトクリームやコロッケみたいな、その場で食べるものを買ってもらうのも楽しみの一つだった。
普段はあまり買わないような、ちょっとだけ「いいもの」を買ってもらう特別感もあったな。
大人になって自分のお金で物産展に行くと、また違った視点になるのが面白い。
子供の頃は気づかなかった、地方の特産品の多様さや、作り手のこだわりみたいなものに目が行くようになった。
そして何より、あの頃、親も結構楽しんでいたのかな、なんて思ったりする。
自分が子供を連れて行ったら、きっと同じように目を輝かせてくれるだろうか。
昔は親にねだって買ってもらっていたお菓子を、今度は自分が親に「これ好きだったでしょ?」なんて言いながら買ったりする。
そういう時間も悪くない。
物産展の独特の熱気と、甘いのやらしょっぱいのやらが混ざった匂いは、いつまでも家族との賑やかだった記憶と結びついている。
あの匂いを嗅ぎに。
まあ、落ち着けよ。
開幕から一週間。案の定、ネットや一部メディアは大阪万博のネガティブキャンペーンで盛り上がってるな。「行列が酷い」「運営がグダグダ」「飯が高い」「コンテンツがしょぼい」…。うん、まあ、そういう声があるのは知ってる。
でも、ちょっと待ってほしい。本当にそれだけで万博全体を「失敗」と断じるのは、あまりにも早計だし、感情的すぎやしないか? 開幕直後の混乱なんて、これだけの規模の国際イベントなら「想定内」の範疇だろう。むしろ、一週間経って見えてきたポジティブな側面や、長期的な視点も踏まえて、もう少し冷静に評価すべきじゃないかと思うんだ。
まず大前提として、これだけの規模のイベントで、開幕当初に全くトラブルがないなんてあり得ない。オリンピックだって、過去の万博だって、人気のテーマパークのオープン時だって、大なり小なり混乱はつきものだ。重要なのは、そのトラブルに対して運営がどう対応し、改善していくかだろう。
「行列が酷い」というが、それは裏を返せば「それだけ注目度と人気が高い」ということの証左でもある。もちろん、快適性の改善は必須だが、ネガティブな側面だけを切り取るのはフェアじゃない。この一週間で、すでに行列対策や案内表示の改善が進んでいるという話も聞く。現場は必死に対応しているはずだ。
万博の価値は、開幕一週間のオペレーションだけで測れるものじゃない。各パビリオンが提示する未来へのビジョン、そこで展示されている最新技術、国際交流の促進、そして将来へのレガシー。これらが本質的な価値のはずだ。
今はまだ「どこが混んでる」「どこが空いてる」みたいな短期的な情報に目が行きがちだが、実際に訪れた人からは「〇〇館の展示は未来を感じて凄かった」「海外パビリオンの文化交流が面白い」といったポジティブな声も確実に上がっている。メディアが報じない(あるいは報じにくい)だけで、体験価値の高さを感じている人は少なくないはずだ。
今の批判って、本当に「万博」そのものへの批判なのか? それとも、単に現政権や特定の団体への不満をぶつけるための格好のターゲットにされているだけじゃないか?
もちろん、正当な批判や改善要求は必要だ。でも、中には「万博」というだけで脊髄反射的に叩いているような意見も散見される。ロジカルな批判と、感情的なレッテル貼りは分けて考えるべきだ。特に、まだ実際に訪れてもいないのに、伝聞情報だけで全体を否定するのはアンフェアだろう。
「税金の無駄遣い」「経済効果なんてない」という意見も根強い。確かに、巨額の費用がかかっているのは事実だ。しかし、これも短期的なコストだけで判断すべきではない。
万博は、未来への投資という側面が大きい。ここで披露された技術が将来の産業を育てたり、国際的な日本のプレゼンスを高めたり、あるいは子供たちに夢や刺激を与えたりすることの価値は、すぐには金額換算できない。費用対効果を問うなら、数十年単位の長期的なスパンで見る必要がある。
開幕一週間の時点で、大阪万博を「失敗」と断じるのは、あまりにも視野が狭いと言わざるを得ない。初期の混乱や問題点を指摘し、改善を求める声は重要だ。しかし、それと同時に、この大規模イベントが持つ潜在的な価値や、長期的な視点、そして実際に現場で生まれているポジティブな体験にも目を向けるべきだ。
どうせ叩くなら、もう少し建設的に、そして実際に体験してから評価しても遅くはないんじゃないか? 俺は、まだこの万博の可能性を信じたいと思っているよ。
子供の頃から穏やかな性格で、感情に波風が立たない人間だった。
もちろん悲しみや怒りを覚えたりすることはあるが、感情が理性を優越するほど昂ったことはほとんどない。
どちらかというと理屈っぽい人間でもあるので、そういった感情の波立ちを覚えても、まずは自分が何を嫌だと思っているか、自分の感情は正当なものか、といったことを、いちいち自分なりに納得できる論理に当て込み、吟味する癖が昔からついている。
どうしてそうなったか、という理由はない。誰かに強制されたり、躾けられたりしたのではなく、ただ単に記憶がある頃にはすでにそうだった。
こう書くと実に理性的な人間のようだが(実際私も長いこと、私自身をそのように評価してきた)、実際のところ私は「感情が遅い」だけなのではないかと思う。
なぜか。上記のように、自分の感情に吟味を重ねた結果、一ヶ月後、半年後、ヘタすると数年後に「私って怒っているんだ」とか「悲しんでるんだ」という、きわめて素朴な結論が出ることがしばしばあるからだ。(つまり、感情が希薄なわけでもないのだ。)
その段になってはじめて、私は自分の感情に正当な自信を持ち、場合によってはそれを根拠に他者に訴えかけることができるようになる。
しかし当然、相手にとっては「今更!?」ということになる。私が一年かけて咀嚼し続け、ようやくいま消化することができた感情は、他人にとってはキレイさっぱり終わった「過去」だからだ。「いつまで昔のことに執着してるの」とか「昔のことを蒸し返すなよ」といった反応が起こるのもわかる。でも私にとっては、いまこの瞬間ようやく理解に達し、心に染みわたった事実なのだ。
ところで言い訳みたいに聞こえるかもしれないが、私のこの「遅さ」は「ウジウジ考えてる」というのとも少し違う。
独自解釈だが、ウジウジってのは「あの時ああしてればよかったかな、チェ」「どうせダメだし」みたいな、どうにもならない、出口のない想像を延々とこねくり回す心の動きのことだと思う。
それはいろいろな角度やパターンから自分の言動や起こった出来事を分析してみて、「自分は何を感じていたか」を自分に対してより説得的に論証する過程なのだ。(自分で書いててもなんかキモいと思う。)
要するに、ウジウジ考えることが目的化しているということは全然なく、パッと納得できる考えがすぐに出ればそれに越したことはない、という方針ではあるということです。
いっときの感情に流されない性格は、社会生活一般においては良い方向に働くことのほうが多い。急激な精神的ショックを喰らわない、という点もメリットだと思う。
一方で、誰も私の感情をマジメに受け止めてくれない、ということは最近じわじわと苦痛になってきた。リアルタイムで感情を抱けないってそういうことだ。
悲しむべきタイミングで、喜ぶべきタイミングで、怒るべきタイミングで心から感情を表せない。
私の感情にはコミュニケーションする力、現実を変える力がない。これってある種の欠陥なんじゃないか。
……というような話を最近、友人に打ち明けたところ、精神が安定しているということは現代社会において一つの「特権」だという言葉をもらった。
特権か。私にとっては感情に任せて押し切ったり、人を裏切ったりできる方が、そういった行為を「感情的に」咄嗟に行なってしまえる人のほうがよほど特権的だと思ってしまうんだけどね。
ヒスってる人に対する冷笑ではないですよ。ただそういった行動には良かれ悪しかれ、共感が集まるものだという点に限っては羨ましいと思う。私の場合は共感すら集まらないことが多いから。
アンガーマネジメントが大事。ということも言われるけど、感情を吐き出せる力、というのも私にとっては一つの才能に見えるんだよな。
3回目の休職の終わり頃、地元の新幹線のホームで私は俯いていた。
きつい西日にじりじり焼かれる不健康な白い腕が、ほとんどのポケットと相性の悪い、重たいiPhone 13 Pro Maxを支えていた。
通算すれば半年ほど休みを貰っていたにもかかわらず、エネルギーは常に枯渇していて、喉と胸がいつもチクチク痛かった。
平日の日中は、実家のリビングのソファに寝転がって、ひたすら人がたくさん死ぬ映画やアニメを見て、耐えがたい出来事を思い出し、ひとりで過呼吸を起こして繋がることのないいのちの電話を鳴らした。
親に見つからないようにこっそりと買い集めた「いつでも現世から逃避できるよキット」を眺めては、悲しいとか怖いとか辛いとか、そういう感情を置いてけぼりにして溢れてくる涙を流して今日が終わるのを待つ日々が続いた。
あの頃、私の傍には常に死があった。
ある時、タイムラインで誰かがリポストした、Vtuberの切り抜きを見た。
もともとアイドルがたくさん出てくるソシャゲ沼出身の自分からすれば、リアルタイムで動く3Dの素体は荒っぽく見えた。
画質が悪くなったり、ありえない方向に腕が捻れてしまったりする彼らは、画面の向こうで声を張り上げ、大げさに笑い、床に転がり、また笑った。母が夕食時に好んで見ているような、毒にも薬にもならないバラエティ番組の真似事だ。
調べてみると、彼らはROF-MAOというVtuber4人が組んだユニットで、週一回決まった時間に20分前後の動画を投稿しているとのことだった。
確かにくだらなくはおるものの、彼らには不思議な魅力があった。沢山のくだらないの中に、今でも正体のわからない、なにかきらきらしたものがあった。
私は多分、そこに共鳴したのだと思う。
私は、この週に一度の投稿を、自分の目標とした。それは、友達も居らず孤独だった子供時代、好きな児童文学作品の続きが出る日を心待ちにしていた頃と同じだった。
人がたくさん死ぬ作品の代わりに、配信の切り抜きなど、ROF-MAOのメンバーが投稿しているものを見るようになった。
正直なところ、おもしろいとは思わなかったが、無音は孤独を思い出す。
そのうち、コラボ配信で一緒になった他のライバーの配信も追うようになり、ジョー力一(じょーりきいち。りきいちは漢字だ)のラジオに辿りついた。
力一は、ピエロのような風貌をした男性のライバー(Vtuberが所属する事務所、にじさんじでは配信者のことをこう呼ぶみたい)がひたすらに無い話をするラジオ。
アンパンマンのキャラクターとして転生するならどうサバイブするかの話を真剣にする彼の姿を見て、私は久しぶりに声をあげて笑った。笑った後に、ちょっとだけ泣いた。
私は、三回目の復職を決めた。
笑えたから大丈夫、とまでは思わなかったけど、いつまでも現状に甘えているわけにはいかない。
貯金は底が見えていたし、私のかなしみは田舎より東京の方が紛れる気がした。
私はホームで俯きながら、泣かないための、なるべくくだらなくて、できれば笑える、を基準に動画を吟味してオフラインでも見られるようにダウンロードをしていた。
そのうちの一つが、舞元啓介主催のローションカーリング選手権だった。
舞元が、有志を募って(?)行った、ローションまみれのコマ(もちろんライバーである)がカーリングのコースを滑り、お尻の位置が得点になるという催しだ。
そして私は出会ったのだ。女装したデカエルフ、花畑チャイカに。
グリーンの唇、バレッタで留めた黒髪、あからさまに男性の体格であり全然着こなせていないメイド服。
彼の姿を一目見たとき、我が目を疑った。彼こそが運命だと思った。したことないけど、ひとめぼれとは恐らくこんな感じなのだろう。
舞元のことはジョー力一と共同でやっているラジオ舞元力一で知っていたし、叶も有名人だから知っていた。剣持刀也と加賀美ハヤトは言わずもがな、その時点で大変お世話になっていた。
私はローションカーリング選手権で初めて、花畑チャイカを認識したのである。
彼の見事なまでに珍妙な滑りに、私は季節を忘れた。
衝撃だった。自分の背丈くらいの大きさの空気砲でドカンと打たれたら、あのときの衝撃が再現できると思う。
ただひたすら、私は大きな画面を見つめた。間違えて買ってしまったiPhone13Pro MAXに感謝した。
気が付いたら私は新幹線の座席に座り、普段はあまりしないマスクの上から口元を抑えて笑ってた。呼吸困難になるほど、声を殺して笑った。
笑いながら目的地に運ばて、私は今度こそやっていけると思った。
その論文、日本では生田哲という人が一般向けに紹介してるみたいだね。その人の記事を読んだのかな。それとも論文そのものを自身で批判的吟味したのかな。
自分が読んだ限りでは、運動不足のデブがウォーキングという低強度の活動を行う分には消費エネルギー量は増加すると解釈できた。運動強度を高めたりすると、ある一定の閾値を超えた段階で消費エネルギー量がプラトーに達する、だから運動だけでなく食事管理も大切なのだということだが、それは元増田の状況には当てはまらない。なぜならそんな高負荷の運動をしたら消費エネルギーが低下する前に関節がぶっ壊れるからだ。もちろん食事管理ができるならするに越したことはない。むしろしたほうがいい。継続できるならだが。