はてなキーワード: 名詞とは
うん柱(うんばしら)
【名詞】〈俗〉
① 排便時、比較的細長く硬さのある便が水に沈まず、水面上に垂直に立った状態で静止している現象。茶柱(お茶に浮かぶ茶の茎)の状態になぞらえた呼称。便の密度、形状、水の張り具合などの偶然が重なって発生する、やや稀な自然現象。
使用例:「今日の朝、見事なうん柱が立ってた。なんか運気上がりそう」
類義語:立ち便、便塔
② 転じて、不安定な状況下で妙に堂々と存在感を放つもののたとえ。
例:「会議中ずっと黙ってたけど、最後に一言で全部持ってったな。あの人うん柱みたい」
【備考】
Q.
「予断する」という言い方について、日本語として正しいでしょうか?
A.
はい、「予断する」という言い方は日本語として正しいです。 「予断(よだん)」とは、前もって判断すること、結果を予測することを意味する名詞です。これに動詞化する接尾語「する」を付けて「予断する」という形で用いられます。 多くの場合、「予断を許さない」という慣用句の形で「今後の状況がどうなるか予測できない、油断できない」という意味で使われることが一般的です。しかし、「予断する」という形も、例えば「結果を予断するのはまだ早い」のように、文脈によっては間違いではありません。 ただし、日常会話では「予測する」「予想する」といった言葉の方がより一般的に使われる傾向があります。「予断する」は少し硬い表現、あるいは特定の文脈で使われることが多いと言えるでしょう。 まとめると: ** **「予断する」は日本語として正しい動詞です。** ** 意味は「前もって判断する」「結果を予測する」です。 ** 「予断を許さない」という慣用句が非常に有名です。 ** 「予測する」「予想する」に比べて、やや硬い表現、または使用頻度が低い表現と言えます。 ご参考になりましたでしょうか。
「全然違わない話すぎるな」という日本語には、いくつかの不自然な点があります。以下に具体的に指摘します:
「全然違わない」の使い方:
「全然」は通常、否定形と組み合わせて「まったく~ない」という意味で使われます(例:全然わからない)。しかし、「違わない」はすでに否定形を含んでいるため、「全然違わない」は「まったく違わない」という意味になり、強調された否定表現としては正しいのですが、文脈によっては冗長に感じられる場合があります。
この場合、「全然違わない話」は「まったく違わない話」、つまり「完全に一致する話」や「同じ話」と解釈できますが、話し言葉としてはやや不自然に聞こえることがあります。もっと自然な表現としては「全然違う話じゃない」や「完全に同じ話」などが考えられます。
「すぎる」は通常、形容詞や動詞に付いて「~しすぎる」という意味を表します(例:大きすぎる、食べすぎる)。しかし、「話」は名詞であり、名詞に直接「すぎる」を付けるのは文法的におかしいです。
「話すぎる」は「話が多すぎる」や「話しすぎる」のような意味を意図している可能性がありますが、どちらにしても「話すぎる」という形は不自然です。「話が多すぎるな」や「似すぎてる話だな」など、意図に応じて別の表現にするべきです。
この文は、恐らく「全然違う話じゃない、めっちゃ似てるね!」のようなニュアンスを伝えたいのかもしれません。しかし、「全然違わない話すぎるな」はその意図が曖昧で、聞き手にとって何を強調したいのかわかりにくいです。
たとえば、「全然違う話じゃない、超似てるな!」や「完全に同じ話じゃん!」のように、意図を明確にすると自然になります。
修正例
以下のように言い換えると、より自然でわかりやすい日本語になります:
「完全に同じ話じゃん!」
「似すぎてる話だな!」
「全然違わない話すぎるな」は、「全然違わない」の冗長さと「話すぎる」の文法的な誤りが主な問題です。意図を明確にし、文法的に正しい表現に直すと、より自然な日本語になります。文脈や話し手の意図に応じて、適切な言い回しを選ぶとよいでしょう。
芸術が分からんって人を見かけた際に太宰治の斜陽が取り上げられていた。
思えば、太宰治の作品って走れメロスしか読んだことないなって気付いたから、太宰治全集を買って斜陽を読んでみた。
純文学の作品なんて読まないから理解できるか不安になりつつ読んでみた感想。
ある程度の歴史的背景を知っていればもっと楽しめたんだろうな。
難しかったっていうのは内容の密度が濃すぎて、全てを理解できないまま読み終えてしまったっていうところ。
蛇に関連するところも漠然とふわふわした感じでしか理解できてない。
それと、知らない名詞が予想以上にたくさん出てきた。
知らない単語が出てきては調べてって読み進めるから、読了まで時間がかかってしまった。
リバノールっていう薬を知らなかったし、ヨイトマケって単語も知らなかった。
籐椅子とかは調べてみて、あぁこういう椅子あったなって理解できたけど随所に知らない単語が出てきて、自分の教養のなさを思い知らされた。
現代のWEB小説とかエンタメ小説は読みやすい文章を意識して書かれているから、あの文体に慣れるのに数ページかかった。
かず子の人となりが分かり始めて、かず子の第一人称視点の話だと理解してからは、すらすらと読めるようになったし、音のリズムが良いからか読み進めるのが苦じゃなかった。
二のところで、外人みたいだからスパイと疑われた描写があったけど、かず子ってハーフだったりしたのだろうか?
トロイカという文庫本を渡してかず子を休ませた将校さんとのやりとりは、あれはどういう描写だったのかいまいち理解できていない。
分かる人がいたら教えてください。
面白かったところは、十万文字にも満たない文字数で、かず子や直治、お母さまの人生を味わえるような濃密な文章だったこと。
読み終えた時は、なんとも言えない行き場のない気持ちが生まれていた。
直治の夕顔日誌に書かれていた
けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。
どうも、くいちがう。
という所は直治の苦悩を表していて良かった。
直治の遺書に書かれていた
姉さん。
僕は、貴族です。
夕顔日誌と遺書に描かれている直治の本心と普段外に見せているギャップで、直治という人間の人生を読者に訴えるあの文章はエグい。
タイトルの斜陽って沈みゆく太陽だから、没落した貴族を表してたのかって読み終えてから気付くぐらいには読解力がない。
個人的に好きだったところは、かず子や直治が心の内を吐露する描写の詩的な表現が好きだった。
それに、それぞれの登場人物の哲学的なのが立っていて、よくこんな文章が書けるな、太宰治は普段どんなこと考えて生きてたんだろうって小学生並みな感想しか出てこない自分が悲しい。
分からなくもない。
「寂しい」の感情、とカッコ付きであれば文法的に違和感は減らせるが、一般的には、名詞形にして寂しさと書くだけで伝わる。
感情という分類を強調したいなら、寂しさという感情、あるいは、寂しい感情、とすればいいところを、寂しいという形容詞に直接「の」をつなげてしまうのは意図的だろうか。
わざと型破りで幼稚な表現をしようとする若者言葉っぽさを狙っているのだろうか。
その割には寂寥感のような難しい名詞表現もしているので、キャラづけとしてもブレていて本当に不可解で不気味に感じる。
こうした文章表現が、上の増田にとっては「頭の悪さ」を感じさせる一因になっている可能性がある。
なお自分はその冒頭6文字で読むのをやめたので、それ以降のタイトルや本文にある他の「頭悪い」要因については触れられないことをお断りしておく。
名詞:感情が圧縮された一瞬の衝突。例:「彼の一言にはソンパクトがあった。」
形容詞:混沌としているが美的秩序が感じられるさま。例:「あのコード、クルフィドで好き。」
動詞:バラバラな要素を即興で一貫性ある構造にまとめる行為。例:「プレゼン前にアイデアをリグネートした。」
名詞:無意識の動作パターンを可視化した図または構造。例:「日常行動のチョレオグラムを分析すると癖が見える。」
「白」を「しら」と読むケースは、和語(やまとことば)として古くから使われている言葉に多いです。例えば、白雪(しらゆき)、白鷺(しらさぎ)、白魚(しらうお)、白和え(しらあえ)はどれも昔から日本語として使われてきた表現で、「しら」という読みが定着しています。
一方、「白ごはん」は、現代的な言葉遣いで生まれた造語に近い表現で、もともと「ごはん」は「御飯」という敬称がついた表現であり、音読みや訓読みとは別の、いわば話し言葉的な「しろ」の響きが自然に選ばれました。
また、「しら」はやや古風で文学的な響きを持ち、名詞に直接ついて、そのものの美しさや清潔さを強調する用途が多いのに対して、「しろ」はより日常的な響きで、「白い」「白色」という単純な色そのものを表現するときに用いられやすい傾向があります。
「白ごはん」は日常の食卓で親しまれる気取らない食べ物であるため、「しろ」という素朴でなじみやすい読みが自然に選ばれ、定着したというのが、主な理由でしょう。
言葉はこうして「響きの印象」や「日常性」といった感覚的な理由で定着することが多いので、こうした謎や疑問は興味深いものですね。
異常者とは思えないかな
【BLOGOS、傍聴】「女性だから顔を傷つけたくない」〜渋谷・バレエ教室女性講師親指切断事件
https://note.com/shibutetu/n/n7edb90fcfc69
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/174218
被害講師によると「『ひざ!』と注意すると、この世界では“ひざが曲がっている”という共通認識なのに『ひざは名詞なのでそれじゃ分からない』とか、『脚をもっと上げて』と言うと『何センチですか』と返してきた」と言う。学ぶ姿勢が全く見られなかったという。
しかも「講師の言ったことが理解しきれない」ことを理由に、レッスンを丸々ビデオ撮影していたというから気持ち悪いことこの上ない。「撮影タイムを別途設けるから」と、講師が注意してもお構いなしだったという。講師や女性受講者のレッスン風景をエロ目的で収集していた疑いもますます高まる。
英語等の外国語にも対応していたので、自身が話せる言語である英語モードを見てみたが、酷かった。日本語わからない客にとっては実用性が無いといっていいだろう。
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すかいらーくグループに入って、グループによる多様な顧客をもてかす基準が導入されるのかなと思いきや、こんなもんなのか。「英語モード搭載。ヨシッ!」とでもいうつもりじゃないよね?注文システムを外注した下請け開発業者に任せっきりな様子が目に浮かぶ。他の言語の出来栄えはわからないけど、各言語の話者に言わせればきっと似たような感想が返ってくるんじゃないかな?
一般に「スタンバる」という言葉はアニメ『機動戦士ガンダム』が初出だとされている。
意外なところでは「スタンバる」=用意する、スタンバイする もガンダム発祥の言葉。初出は『機動戦士ガンダム』で、シリーズを代表する名艦長・ブライトが発した。
「黒歴史」「スタンバる」…実は"ガンダム発祥"な用語で、世代の上司とうまくコミュニケーションを取る方法(1/3) - ウレぴあ総研
現在、Google Booksや国会図書館デジタルコレクションによって、容易に用例を検索できるようになった。
画面では居間から台所へ行くだけでもスタジオの中では、AセットからBセットへ飛んで行かねばならぬ場合が多いのです。これをスタン・バイと呼びます。中には日本語の様にくずして、「Aさん、早く台所のセットへスタンバって下さい」などという、F・Dさんもいる様です。
1978年『小型映画・別冊 ビデオ読本2』「ビデオ用語解説」
日本でテレビ放送が開始されたのは1953年だが、1960年の本に載っているということは、かなり早い時期からあったのだろう。
「ママちょのカメリハはCスタでやります」「ハイ、スタンバってー」「A子のシヨン待ち」「フロアシさん、そのバック八百屋にして下さい」
スタンバる=用意する。
ちなみに「ママちょ」は『ママちょっと来て』というドラマのこと。
こうして「スタンバる」はテレビ業界外へと広まっていったのだろう。
どちらもテレビ局を舞台にした小説だが、フィクションにも登場していたことがわかる。
1973年『日本教材文化研究財団研究紀要』「特別寄稿 語彙の広がりと知性」
名詞に「る」をつけて動詞にする流行語もよくない。スタンバイから「スタンバる」, サドから「サドる」, ガリ版を切ることを「ガリる」, ゲバ棒から「ゲバる」, ゼロックスから「ゼロる」ETC。
そして、この時期には既に「最近の流行語」として認識されていたらしい。
ということは「ガンダムが広めた」ということすら怪しい。