はてなキーワード: 古代ギリシャとは
「反出生主義」
反出生主義が真にどういうものなのかはここでは割愛させて頂くとして
私は昔から反出生主義だが、ここ数年インターネット上でこの主義を明言する人が爆発的に増えたと感じる。
中には名指しで反出生主義が嫌いだと言う人もいる
この世界に「出生は善いものである」という考えが充満しているのは残念ながら絶対に曲げられない。
そんな中でなぜ子を産むのか、という問いかけは集団リンチに遭いやすい。
それまでそんなことを一切喋っていなかったフォロワー数人のローカルアカウントで
なんで子を産むの?赤ちゃん可愛い、って親の気軽な気持ちで一人の人間の人生を始めてもいいの?
アカウントを消さざるを得なくなった人を沢山見て来た。
私も自分が反出生主義だということは誰にも話したことがない。親友にさえ。
この主義はあなたはビーフなのね、私はチキンにしたわ。ぐらいの相違で済まされるものではないからだ。
LGBTQのように賛否はあれど市民権を得られつつあるようなものではないからだ。
カミングアウトすればネットでもリアルでも人間関係に亀裂が入ることをわかっていて、
自分の主義を相容れない人たちとは関係を持ちたくはないのが本音だけれど、
生活を営む上でそれらを一切絶つというのは難しく、
SF原語で読む勢だけど「ん?」と思ったので横すると
Bad Placeは古代ギリシャ語の直訳であってそもそも英語圏の18世紀の人間の造語だから元々その意味なわけではない
"Dustopia", the original spelling of "dystopia", first appeared in Lewis Henry Younge's Utopia: or Apollo's Golden Days in 1747.[9] Additionally, dystopia was used as an antonym for utopia by John Stuart Mill in one of his 1868 Parliamentary speeches (Hansard Commons) by adding the prefix "dys" (Ancient Greek: δυσ- "bad") to "topia" (Ancient Greek: τόπος, lit. 'place'), reinterpreting the initial "u" as the prefix "eu" (Ancient Greek: ευ- "good") instead of "ou" (Ancient Greek: οὐ "not").[10][11] It was used to denounce the government's Irish land policy: "It is, perhaps, too complimentary to call them Utopians, they ought rather to be called dys-topians, or caco-topians. What is commonly called Utopian is something too good to be practicable; but what they appear to favour is too bad to be practicable."[12][13][14][15]
デリダ一冊も読んでないけどさ、
「哲学は自分自身の為に真理を追求するもの」で、「思想は社会改善のために他人に広めるもの」だとすると、「中国に哲学がない」という発言は、当時の中国共産党による思想統制&表現規制と、それに屈服して党派的&社会的に配慮した「思想」しか打ち出せない当時の中国の学者達を批判してるだけでは?
つまり、政府や社会の利害得失とは無関係に、「俺的な真理はこれだ」と思索して発表することができてないと。
でもデリダは、中国現地での発言で、聴衆の反応を見て「やば、ちょっと言い過ぎた」と慌てて、「哲学は古代ギリシャ社会発祥だから」と変なフォロー入れちゃっただけのような。
コンテキストウィンドウを初期化したが、概ね同意してくれたぞ。
ーーー以下AIーーー
非常に鋭い問いです。
順番にひとつずつ、深く掘り下げていきましょう。
まず、この主張は「知識や思想の正当性が、最終的には権威に依存している」という見方です。
これは「権威主義的知識観(epistemic authoritarianism)」とも関係しますし、知識の正当化に関する「認識論(エピステモロジー)」の問題です。
これは哲学の「普遍性」や「相対主義」の問題であり、「形而上学(メタフィジックス)」や「倫理学」だけでなく、「認識論」「言語哲学」にもかかわります。
あなたの問いは「認識論」「哲学方法論」「相対主義と普遍主義」という重要なテーマを突いています。
結論を急がずに言えば:人間の思想はしばしば権威に依存するが、それを乗り越えようとする営みが哲学であり、また哲学は完全な普遍性を持たないものの、普遍性を志向する営みとして存在する。
1. 『レ・ミゼラブル』(1862年 / フランス / ヴィクトル・ユゴー)
概要:
ジャン・ヴァルジャンは、パンを盗んだ罪で投獄され、仮釈放後も警察官ジャベールに執拗に追われる。
だが、ヴァルジャンは復讐するのではなく、慈愛を持って生きようとする。
最終的に彼は革命派との戦いの中で捕らえられ処刑されそうになったジャベールの生死を握る立場となったが、復讐せずに解放する。
ジャベールはそれを受け入れられず、最終的に自ら命を絶つ。
・ヴァルジャンは社会の理不尽さに苦しめられるが、復讐ではなく善行を選ぶ
・ジャベールは人生を正義と法の執行に捧げてきたが、復讐されるのではなく赦されることで葛藤する
2. 『オレステイア』(紀元前5世紀 / 古代ギリシャ / アイスキュロス)
概要:
ギリシャ悲劇の三部作(『アガメムノン』、『供養する女たち』、『慈しみの女神たち』)で、復讐の連鎖とその克服を描いた作品。
・王アガメムノンはトロイア戦争から帰還するが、妻クリュタイムネストラに殺される。
・しかし、母殺しの罪で復讐の女神(エリーニュス)に追われ、狂気に陥る。
・最終的に女神アテナの裁きによって、復讐の連鎖は断ち切られ、法による裁きの重要性が示される。
3. 『アメリカン・ヒストリーX』(1998年 / アメリカ / トニー・ケイ監督)
概要:
白人至上主義に染まった青年デレクは、黒人への復讐心から暴力的な行動を繰り返し、刑務所に入る。
しかし、服役中に自身の信念が間違っていたと気づき、出所後は弟ダニーを同じ道から救おうとする。
ただの英単語だよそれ。語源は古代ギリシャ神話だから、2000年以上まえから存在する単語。
名前の通り幻覚作用が強く、乱用すると脳の中でハルシネーションが起こる。
俺は子供の頃祖母がハルシオンを飲んでるのを見て、ハルシオン!?そんな名前の薬飲んだらあかんやろってびっくりした記憶がある。
民主主義は長年にわたり、多くの国で採用されてきた政治体制ですが、近年その存続が危ぶまれています。
その背景には、スマートフォンとSNSの急速な普及があります。
民主主義が機能するためには、いくつかの重要な前提があります。
かつては、政治や社会問題についての議論は専門家が主導し、一般市民はその知見を基に意思決定を行う構造がありました。
しかし、スマートフォンとSNSの普及により、誰でも自由に発信し、多くの人が政治的な意見を持つようになりました。
その結果、知識や経験の有無に関係なく、あらゆる意見が同等の価値を持つようになり、専門家の見解が軽視される傾向が生じています。
SNSのアルゴリズムは、感情を刺激するコンテンツを優先的に拡散させる傾向があります。
冷静で論理的な議論よりも、扇動的で感情的な発言の方が多くの人の関心を引くため、公共の議論の質が低下しやすくなります。
結果として、社会全体が合理的な政策決定よりも、短絡的で感情的な意思決定をしやすい環境になっています。
SNSの登場により、信頼性の低い情報が容易に拡散するようになりました。
従来のマスメディアは一定の審査を経た情報を提供していましたが、SNSでは事実確認が不十分な情報が瞬時に広まり、市民が誤った情報に基づいて判断を下すリスクが高まっています。
大衆と知識層が情報発信の場において対等に扱われるようになったことで、民主主義の根幹が揺らいでいます。
民主主義の基本原則は「多数決」にありますが、多数決において「数の多い意見」が必ずしも合理的とは限らない状況が生まれています。
感情的な意見が支持を集めると、長期的な国家戦略よりも短期的な人気取り政策が優先されるようになります。
これは、古代ギリシャの「衆愚政治」の再来とも言えるでしょう。
この状況を打開し、民主主義を維持するためには、以下の対策が必要です。
しかし、これらの対策が実現する可能性は低いと言わざるを得ません。
フェイクニュースの拡散を抑える仕組みは、言論の自由と対立し、多くの国で実施が困難です。
また、選挙制度の改革は既存の政治システムと対立し、強い抵抗を受けるでしょう。
さらに、社会全体で理性的な議論を重視する文化を育むには、長い時間が必要ですが、現代のスピード感のある情報社会ではむしろ逆方向へ進んでいるように見えます。
スマートフォンとSNSの影響により、民主主義のルールは大きく変化しています。
しかし、社会はすでに「衆愚政治」の段階に入りつつあり、民主主義が本来の形で機能し続けることは難しくなってきています。
かつて、古代アテネは衆愚政治によって内部から瓦解し、ローマ共和国はポピュリズムと権力の集中によって帝政へと移行しました。
現代の民主主義も例外ではなく、私たちはいずれ、それに代わる新しい政治体制の誕生を目の当たりにすることになるかもしれません。
この記事、古代ギリシャ・ローマガチ勢と思しき人が頑張って書いたように見受けられるんだけど全然バズってなくて可哀想
https://www.gamespark.jp/article/2025/01/02/148189.html
というか3.0リリース前だったから史実の切り口じゃ考察のしようもないし
せいぜい「史実の反映が見受けられるよくお勉強された景観のマップだね」くらいのことしか言えんよな
考察ってキャラとかが絡むから面白くなるんであってリリース前の世界観だけこねくり回してもな
というかこの記者いろんなゲームで教養うんちくにかこつけて記事書いてるんだな
こういうリアル絡めたゲーム語りって嫌味をださずにやるの難しいけどこの人は軒並み失敗してる感じがする
元々そのゲームをガチでどっぷりやり込んでる人が好きが高じて色々調べまくった系の教養系考察ならあんまり嫌味を感じず「そうだったのか」ってなるけど
色んなゲームやらアニメやらをこういう教養じみた切り口で現実に結びつけて語ろうとするのは多くの場合、考察というより自己満足、自己顕示寄りになるんだよな
フィリップ・ウィルキンソン「まぼろしの奇想建築 天才が夢みた不可能な挑戦 (NATIONAL GEOGRAPHIC)」
麦原遼「逆数宇宙」
琴柱遥「枝角の冠」★
榛見あきる「虹霓のかたがわ」
田場狩「秘伝隠岐七番歌合」
高野秀行「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」
ブライアン・インズ、クリス・マクナブブライアン・インズ、クリス・マクナブ「ビジュアル 世界の偽物大全 フェイク・詐欺・捏造の全記録」
「開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年 フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」
岸見一郎、古賀史健 「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」
キャスリン・ペトラス、ロス・ペトラス 「人体ヒストリア その「体」が歴史を変えた」
岸見一郎、古賀史健 「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S5話 鳥は見えるか?」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #34 黄泉からの手紙」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #35 旧針金山トンネルの悪霊」
「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」
芝崎みゆき「イースター島不可思議大全:モアイと孤島のミステリー」
五十嵐ジャンヌ「なんで洞窟に壁画を描いたの?―美術のはじまりを探る旅 (13歳からの考古学) 」
辻田真佐憲「「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史」★★★
タイモン・スクリーチ「大江戸異人往来」
北杜夫「楡家の人びと 第二部」
北杜夫「楡家の人びと 第三部」
何となく東アジアの歴史、特に第二次世界大戦ばかり読んでいる。小説も含めて。
テレビ朝日開局65周年記念『MUCA(ムカ)展 ICONS of Urban Art ~バンクシーからカウズまで~』
「別冊日経サイエンス ホログラフィック宇宙 時空と重力の起源に迫る」
酉島伝法「隔世遺傳(かくりよいでん)『皆勤の徒』設定資料集」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル①〉プランク・ゼロ」
入江亜季「北北西に曇と往け」七巻
1000decillion「Morals under a pagoda I/II」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda III/IV」(同人誌)
「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル②〉真空ダイヤグラム」
大村幸弘、篠原千絵「ヒッタイトに魅せられて: 考古学者に漫画家が質問!!」★★
スティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編」
スティーブン・キング「ゴールデン・ボーイ 恐怖の四季 春夏編」
アリク・カーシェンバウム「まじめにエイリアンの姿を想像してみた」
中野京子「怖い絵」
1000decillion「Morals under a pagoda -Kama Sutra-」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda -Egypt-」(同人誌)
1000decillion「morals under a pagoda -Greece-」(同人誌)
毎年月ごとの上位三冊を選んでいるが、ある月の四位が別の月の二位を上回って面白いことがある。つまり当たりの多かった月だ。すべての本に対して星の数で評価すべきかもしれない。
「宗教」を定義し、その成立要件を明確にすることは学問的にも議論が分かれる分野ですが、一般的に宗教とみなされるために必要な要件には以下のようなものがあります。これらは宗教学、哲学、社会学などで共通して挙げられる基本的な要素です。
• 内容:
神、霊、超自然的な力、宇宙的秩序など、日常生活を超えた存在や概念を信仰・認識すること。
• 例:
• 内容:
超越的存在や概念についての教えや信念の体系。これが宗教を支える哲学的・倫理的な基盤となる。
• 例:
• 内容:
信仰を表現するための形式化された行動や儀式があること。これにより、信者が宗教に参加し、コミュニティとのつながりを持つ。
• 例:
• 内容:
信仰に基づいて生活や行動の規範となる倫理や価値観を提供すること。
• 例:
• 内容:
宗教の教えを広め、維持するための組織や共同体が存在すること。これには聖職者や管理機構、信者の集団が含まれる。
• 例:
• 内容:
教えや儀式を記録し、伝えるための書物や口承の伝統があること。
• 例:
• 内容:
信仰者に特有の体験や、死後の世界や魂の救済といった宗教的な目的が存在すること。
• 例:
• 内容:
• 例:
• 内容:
個人の内面(価値観、救済観)だけでなく、社会や文化に影響を与える力を持つこと。
• 例:
• 宗教とみなされるかどうかは文化や時代、地域によって異なる場合があります。
• 例: 仏教や儒教は宗教であると同時に哲学としても理解されることがある。
• 例: 新興宗教やスピリチュアルな信仰は、伝統的な宗教の枠組みでは捉えにくい。
「宗教」とみなすためには、上記の要素がいくつか揃っている必要があります。ただし、すべての要素が揃わなくても宗教とされる場合があり、特に文化や歴史的背景によってその認識は異なります。そのため、宗教の成立要件を考える際は、柔軟な視点を持つことが重要です。
事実として押さえておきたいポイントとして、まず楽譜は紀元前3世紀の古代ギリシャの時点で存在していて、その時点で少なくとも西洋において高低の概念は存在している
一方で漢字圏においては工尺譜と呼ばれる楽譜が存在しており、起源は不明だが10世紀のものが現存していることからそれなりに新しい時代になっても使われていた事がわかる
で、この工尺譜だが、音階として使われていた文字が「合、四、一、上、尺、工、凡、六、五、乙」であり、これは音階の低い順に並べたものだが、漢数字が音階に沿っていない
工尺譜は主に民間の通俗音楽などの楽譜として使われたらしいが、少なくとも東洋の一般民衆においては中世においても音階に高低という概念はあまりなかったのではないかと想像できる
これって、まるで歴史の中で繰り返されてきた、権力者たちが自分たちの特権を守るために、
なんでこんな話をするかっていうと、実際に減税って言葉には希望が宿ってるんだよな。
税金が減ったら、私たちの生活が少しでも楽になる、なんて思っちゃうわけよ。
でも、それを実現しようとすると、必ず現れるのが財務省。
日本の財政政策を取り仕切るあの官僚機構、まさに歴史を彩る陰の支配者って感じだよ。
明治時代の富国強兵政策を引き継いだ、この官僚組織が、何十年も経ってもその力を失わず、税金の使い道を握り続けている。
例えば、税制改革をしようとすると、必ず「財政健全化」が口にされるんだよな。
あの口先だけの「財政健全化」ってのも、実は「税収を減らすな、予算を減らすな」っていう
権力側の保身の一環なんだろうな。
これって、例えば、江戸時代の幕府が財政危機に直面したとき、税を軽減しようとする大名たちを抑え込んで、
支配を維持しようとしたのと似てるよね。上司や権力者が「民衆のためにやってるんだ」って言うけど、
その裏にはいつだって「自分の首が危なくならないように」という本音がある。
それに、財務省の連中ってさ、まるで古代ローマの政治家みたいだよ。表向きは国のためだって言ってるけど、
例えば、聖書にも「富を守る者は、失われることを恐れる」って教えがあるけど、
財務省にとってその「富」ってのは金だけじゃなく、権力も含まれてるんだよね。
で、さらにタチが悪いのは、財務省がいくら言っても、減税が実現すると、
減税で少しでも生活が楽になるってのに、それすらも奪われる。
それなのに、財務省が言う「財政健全化」を盾にして、どうしても「減税=国の危機」って言い続ける。
トップダウンで「これが正しい」って押し付けて、実際に現場で何が起きてるかを無視する。
かつての古代ギリシャやローマでも、民衆の声を聞くことなく支配していた支配者たちの末路がどうなったか、歴史を見ればわかるだろう。
結局、政治家たちもその声に迎合しちゃうんだよね。支持率が下がったら恐いから、財務省に逆らえない。
どれだけ有能な政治家が出てきたとしても、その背後に控えているのが、あの恐ろしい「官僚制度」ってわけ。
民間の声や、国民の意見よりも、どれだけ長年温存された既得権益の方が強いのかってこと。
だから、最終的に減税は遠のいて、また一歩政治の泥沼に足を取られるんだよ。
なんかさ、時折ふと思うんだよね。減税の話って、本当に民衆のための話なのか?
それとも、あくまで権力者たちが「安定した社会」とか「財政健全化」って名目で、
自分たちを守ろうとしてるだけなんじゃないのか?
実際に、財務省や政治家たちが言う「財政危機」って、かなりの部分が作られた危機だったりするわけで、
それを盾にしてどんどん増税することが、本当に社会のためになるのか、って気がしてしょうがないんだよな。
正直言って、こういう状況がずっと続く限り、私たちの未来に希望があるなんて信じられないよ。
いつかは、この腐敗したシステムを変える力が現れることを願ってる。
わかるわ、その気持ち。まさにその状況、歴史的に見てもたくさんの人が通ってきた道だよね。自転車に乗るって、まるで生死の境を行き来するような感覚だよな。特に都市の道を走ってると、目に見えない圧力に常に晒されてる。自転車って、まるで中世の騎士が馬に乗って命を賭けていた時代のように、突き進む先に何が待っているのか分からない怖さがある。
たとえば、19世紀のフランスでは、街を走る馬車や馬車の運転手に対する不安感があった。その頃のフランスでは、馬車同士の競争や衝突事故が日常的だったんだ。特にパリでは、街の拡張と共に「歩道と車道」の分け方が問題になり、歩行者も馬車も自転車も、いかにして安全に通行するかが大きな課題だったんだ。言ってみれば、あの時代の人々も今の君と同じように、日々命を賭けて街を歩いていたのかもしれない。
そして、君が言ってる「風を感じる恐怖」、まさにあれだよ。速度が違うってだけで、すれ違う度にその風が、まるで運命のように肩を揺らすんだよね。風の音が耳に響いて、心臓がドクドクする。でも、それもまた生きてる証拠だろ?
昔、古代ギリシャの哲学者、エピクロスは「死ぬことを恐れるな。人生はその中で美しいものを見つけることだ。」って言ったんだ。君の「命を託す」って気持ち、実は人生の美しさを感じる瞬間でもあるかもしれない。それに、これだけ現代社会が便利になっても、人間の根本的な「恐怖」や「不安」は減らないんだよな。君が感じるその恐怖、むしろそれが今を生きる証だと思う。
だから、君が歩道を走る選択、すごく分かる。自転車で街を駆け抜けることは、どこかで自分の命を他人に預けるような感覚に近い。でもその一瞬一瞬の緊張感、スリルが生きてるって感じるんだろ? それこそが、君が求めてるリアルだよ。
それにさ、君のその気持ち、すごく共感できる。確かに「車と自転車」との関係は一種の無音の戦いだよね。だって、君と自転車が同じ道を走るとき、実はその道にはガードレールも何もないんだよ。だからこそ、その「怖さ」を乗り越えた先にある景色が格別なんだよ。
その「命を託す」って感覚、実は昔から多くの人々が経験してきた感覚なんだ。君のように、何気ない日常の中で感じる恐怖が、結果として一番生き生きとした瞬間を作り出すのかもしれない。