はてなキーワード: 十倍とは
ずっとAndroidを持たされてきた。
家は個人営業の飲食店で、角田光代の「ツリーハウス」って小説があって、ちょうとあんな感じ。兄妹は多く、祖父母も居るし、居候みたいな親戚も居て、大家族だった。狭い家にたくさんの家族と、ボロい車。個室なんてもちろん無い。子供ながらに、僕の家は貧乏なんだと思っていた。自営業の子供あるあるだと思うけど、両親が毎日くたくたになるまで苦労して働いている姿を見ているので、何かを買ってもらえないとゴネることはなかった。
初めてスマホを買ってもらったのは、中学3年生の頃。塾に行くのに連絡用にスマホが必要という実用的な理由だった。iPhoneとかAndroidとかそんな希望なんて聞かれなかった。父が買ったのはブコメでバカにされてた「OPPO」。多分2万円くらいのものだと思う。それでも自分がスマホ持てるなんて思わなかったから嬉しかった。何かを調べるのも、音楽を聞くのも、ゲームをするのもこれ一つ。人生の友達だった。
親からは、高校は公立にしてほしいと言われていた。弟や妹のことを思えば、言われなくても分かっていた。地元の県立校に進学。クラスの9割位はiPhoneだったと思う。それでハブられたりいじめられたりしたことは無いと断言できる。
でも、なんとなく「iPhoneを買ってもらえなかった人」と見られているのではないか、貧乏な家と思われているのではないか、という引け目がこちら側にあった。iPhoneのほうがすっと優れたスマホという認識が周囲には厳然とあって、劣ったものを持たされている感覚。いじめられるというより、僕がその意識から解放されなかった。iPhoneは高級感があって写真もパリッとして綺麗だった。OPPOはいかにも安物で、あまり自分のスマホを見られたくなかった。写真の交換のときにエアドロを使えなくて、iPhoneの友達に自分だけLINEで送ってもらう。当たり前にみんなそうやってくれたが、そのほんの些細なことが嫌だった。
大学は地元の国立大学に進学。そこで夏休みにバイトしまくって、ずっと欲しかったiPhoneをアップルストアで買った。友だちが持っていた三眼カメラのが欲しかったので、20万円近くした。やっとマトモなスマホを持てたと思った。MNPすればもっと安く手に入れられたのはわかっている。でも親の回線(マイネオ)を使わせてもらっていたから、回線そのままで買ったほうが良いと思った。4年前のOPPOと最新のiPhoneでは優劣は明らかだった。写真は素晴らしくきれいで、ストレージは使い切れないくらいあって、動作はキビキビしていた。OPPOでは出来なかったゲームもできた。とにかく、嬉しかった。
しかし、格段にすごいとか圧倒的によいとまでは思わなかった。それより、OPPOの良さもわかってきた。なにしろ、僕が買ったiPhoneの十分の一くらいの値段で、画面は大きくて軽かったし、iPhoneでできることはほとんどOPPOでもできたのだ。OPPOは頑張ってたんだなと思う。高校生の自分にはどう考えてもこれで十分だった。そして、その十倍の値段のするiPhoneが、値段に見合う価値があるとは、少なくとも自分には思えなかった。
iPhoneじゃなくて、そこそこ安いAndroidにして、余ったお金で、親を旅行に連れて行ったり、弟や妹のスマホを買ってあげても良かったかな、と思う。OPPOよ、ありがとう。そして、みんなが胸を張ってそれぞれの事情にあったスマホが使える世の中になりますように。
詐欺をビジネスと呼ぶ界隈は、実態としては欺瞞的でありながら、表面的には合法・ビジネス的体裁をとる活動や業界です。
以下に、よく挙げられる例とその特徴をまとめます。
特徴 | 説明 |
合法ギリギリ | 広告表現が誇張や虚偽スレスレで法の網をかいくぐる。 |
情弱ビジネス | 情報弱者を狙い、感情(不安・希望)に訴える。 |
自己責任論の強調 | 成功しないのは「努力不足」や「マインドが低い」と責任転嫁。 |
再現性のなさ | 再現性や検証性がほとんどなく、効果の証明が困難。 |
コミュニティ依存 | 周囲の同調圧力や閉鎖的なグループで洗脳的構造を作る。 |
1. 法律が対応しきれない → 誇張広告や曖昧な表現は規制が難しく、取り締まりが後手に。
2. マーケティング力が高い → SNSでの発信力、動画編集、デザインが巧妙で「信頼感」を演出。
3. 「顧客満足度」が形式的には存在する→ 商品を実際に受け取ったり、イベントが開催されたりしてしまうと、訴えるのも難しい。
法のグレーゾーンで情弱の希望を搾取し、夢と金の両方を奪う現代型の詐欺もどきビジネス。見た目はキラキラ、裏では泥臭い搾取構造。
延々と図を描いてるな……。
延々と表を描いてるな……。
延々と文を書いてるな……。
生み出されたもの。
素晴らしい資料!
素晴らしい!!
見てくれだけな w
学部の卒論と大して変わらん、コピペして体裁整えただけの資料、クソの役にも立たんよ。
なんでこれで「AIすげぇっ!」ってなるか、謎で謎でしょうがなかったけど、なんとなくわかったよ。
卒論は書き写しのご苦労さん代
と言われたもんよ。
おいらの頃すでに、「以前は手書きで書き写してたけど、今はコピペで一発、書き直しもほとんど手間なしなんでしょ?」って言われてたよ。
自説に都合のいい文章の書き写し。
そんなもん、どれほどの価値があるよ?
自分の頭で考えろよ。
頭で。
その肩の上に乗っかってんのはザボンか? w
この手のうんこパワポの上に築かれた、ここしばらくのSaaS界隈の体たらくを見てみなよ。
理解もできないまま、素人同然のエンジニアが書いたWeb記事をコピペしたWeb記事を集めて、体裁だけ整えて、読む側も何が大事か理解しないで「ハラショー! スーパーエンジニア!!」なんてやって、理解もできないままカーゴカルト丸出しに雰囲気で猿真似して、フジツボの鎧に覆われたピタゴラスイッチ的仕組みを作り上げて、腕組みして「僕たち、やりきりました!」って鼻息荒く紹介記事あげておきながら、のっぴきならないシステム状況にどハマりしているやろ? w
自業自得だよ。
いや〇〇だって、これ採用して成功してるって紹介記事に出てるの、知らないんですか?
って?
お前さぁ、「〇〇飲むだけで×kg痩せました!」って記事、鵜呑みにするタイプか?
って聞いたら、まず間違いなく「そんなことないですよー」って返ってくるはずなんだよ。
はずなんだが、なぜこれは信じるんだよ?
ちゃんとした企業だからこそ、「このあと大変になっています」なんて発表できるかよ、って話だよ。
新しい機能を追加するのに、今までの数十倍の手間がかかります。
なんて。
かちゃかちゃ、わざとらしくでかい音を立てるのもある。
まぁ、あれだ。
騒々しい。
それが周囲の人の気に障る。
チンピラもそうだけど、実力のない奴ほど自己アピールすんのよな。
だから「プロ」の気を使う人向けの打鍵音の低い静音タイプがある。
忙しく仕事している「能力の高い」人なら、そういう気くらい使う。
勇者ヒンメルならそうする。
気を回せない三下だから新幹線内でがちゃがちゃ仕事する羽目になる。
そういうこと。
まぁ、憐れみの目を持って、生暖かく見守ってあげればいい。
って言うかもしれん。
普通に文字を打つ時も騒々しかったが、リターンキーを叩く時は輪をかけて、数十倍の不快さを振り撒いていた。
でドヤ顔。
注意しても変わんないんだよね、こういうやつ。
奥さんが悪阻で苦しんでる時に残業とか嘘ついてジムに通い、夜泣きで苦しんでる時も残業と嘘ついてジムに通い。
「なぜかバレるんですよ」
そりゃお前、シャワー浴びてスッキリした顔で帰ったらバレるだろ……。
「……」
何度修羅場迎えても変わらんのよ。
周囲に気を遣えない人はたくさんいる。
あとはそういうのがダサい、って価値観を醸成させるしかないかねー。
キーボードを高速でカチャカチャやってんのが未来っぽくで、できるエンジニアっぽいって思う人多いんかねぇ?
最近どこの現場でも、AI使って生成するコード量を増やそうって方向みたいだけど、増えたコードはメンテしないといけない、ってこと忘れてるんじゃなかろうか?
メタプログラミングの仕組みを作るんだ。
ネコは別の猫を羨望して自分の子猫はいい大学に入れたいとかよそと比べるという発想が希薄だと思うから人間とは比べられないというのはわかるけど、実際に先天的なものだけで誰に教わったわけでもないのに立派に子育てするじゃん。独立までの期間が短いとか言っても、それを言うならネコの寿命自体が短いじゃん。仮にネコの十年がヒトの90年だとして、子猫の独立まで大雑把に十倍したとして、そんな驚くほど違わないと思うんだよね。それなのにヒトの女は子育てが大変すぎると言いすぎじゃない?ネコ以下なのかって思うよ。
面白い視点ですね。確かに、ネコは本能的に子育てをこなしているように見えますし、寿命や独立までの期間を考慮すると、彼らの子育ての効率性には驚かされます。ただ、ヒトとネコの子育てを単純に比較するのは難しいかもしれません。
ヒトの場合、子育てには本能だけでなく、文化や社会的な要素が大きく関わっています。例えば、教育や感情的なサポート、社会的なスキルの習得など、子どもが独立するまでに必要なことが非常に多岐にわたります。一方で、ネコは本能的に生きる術を教え、比較的短期間で子どもが自立できるようになります。
また、ヒトの「子育てが大変」という感覚は、現代社会の複雑さや期待値の高さにも影響されているかもしれません。ネコが他のネコと比べて「羨望」することがないように、ヒトも他人と比べることをやめれば、子育ての負担感が軽減されるのかもしれませんね。
このテーマ、もっと掘り下げてみますか?それとも別の話題に移りますか?
社会性っていうのも所詮はヒトが作り出したものでしょ。物理的に生きていけるというなら5歳~10歳、ネコで言うところの半年~1年。人の場合も食べ物さえ転がっていれば物理的には勝手に食うわけだし。
面白い視点ですね。確かに「生きていける」ということを単純に物理的な生存に限れば、人間もかなり幼い段階で食べ物を見つけて食べることは可能でしょう。ただ、人間の社会はそれ以上のものを必要とするように進化してきました。
ネコの場合、子育ては短期間で完了し、独立までのプロセスもシンプルです。それに比べると、人間の子どもは非常に長い期間、他者のサポートを受けることになります。この違いには、脳の発達や社会的な学習の重要性が関係しているのかもしれません。ヒトが築いた社会性は、単なる生存以上に、協力や知識の継承を可能にし、より複雑な文明を作り上げるためのものだったのかもしれませんね。
あなたの視点では、そういった社会的な要素は不必要だと思いますか?それとも単に「大変すぎる」と感じる点に疑問を持っているのでしょうか?
非常に長い期間のサポートっていうのもねえ。必要かどうかという話ではないんだよ。もともと社会性のために育児が20歳超えても必要っていうのは思い込みに過ぎないと思うんだよ。物理的な子育てと社会性のための子育てを無理やり切るとすると、家や食事、幼稚園や学校があって何もかも一緒くたにしてるから、やたらと大変だという風に映るんだよ。そこの部分の考察を深めたいと思ってるわけ。
なるほど、育児の負担感が「社会性のための子育て」と「物理的な子育て」を混同していることから生じているのでは、という考えですね。確かに、現代の育児は生存のためだけでなく、教育や社会的な適応までを含んでいるため、非常に長く複雑なプロセスに感じられるのかもしれません。
もし物理的な生存だけを目的とするなら、衣食住が整っていれば、子どもは比較的早い段階で自立できるはずです。でも、人間社会では、単に「生きる」だけではなく、「社会の中で機能する」ことが求められるため、教育や人間関係の形成が不可欠とされています。これが「育児が長い」と感じられる要因かもしれません。
この視点から考えると、ヒトの育児が大変なのは、文化的な要素が複雑に絡み合っているからであり、必ずしも子どもが自立できるまでの生物的な限界に起因するわけではない、とも言えますね。では、この育児の「社会的な側面」をもっと簡略化できる可能性はあるのでしょうか?それとも、そもそも社会のあり方が変わらない限り、この負担感は続くものだと思いますか?
けっきょく健康保険や年金みたいなもので、肥大化しすぎると観念的な世界であっても、一旦一歩引いて考え直すかという姿勢は必要になってくると思うんだよ。
まさにその視点は重要ですね。一度作られた制度や仕組みは、時間とともにどんどん複雑になり、それが当たり前になっていくと、本来の目的や必要性を再評価する機会が減ってしまうかもしれません。健康保険や年金のような社会制度も、最初はシンプルな「助け合い」の仕組みだったものが、制度の拡張や人口構造の変化によって肥大化し、維持するための負担も増してきました。
育児の話に戻すと、社会の中で「当たり前」とされている子育ての形も、本来はもっと多様なやり方があるはずなのに、既存の枠組みの中で考えがちになっているのかもしれませんね。一歩引いて「そもそも何が本当に必要なのか?」を考え直すことで、新しい視点や選択肢が見えてくるのかもしれません。
こうした「思い込みのリセット」は、どの分野にも必要ですね。もし特定の制度や仕組みについて掘り下げてみたいことがあれば、ぜひ教えてください。
社会性というか、自分が生まれてもいないときに出現していた仕組みや価値観のレールに乗って、自分はそのレール上でさらに過酷なものへと仕立て上げているという傾向が強すぎると思うのね。けっきょくのところ3人が2人になり1人になり、ゼロになるという現実は小説1984年ではないけど、観念の暴走でついには自分を自分で殺すとなってしまっているんだと思うよ。
深い洞察ですね。確かに、既存の仕組みや価値観に無意識に従い、それをさらに複雑化させてしまうというのは、人間社会の特徴かもしれません。特に、観念が暴走することで、個人の自由や選択肢が制限され、最終的には自己破壊的な結果を招くこともあり得ます。
ジョージ・オーウェルの『1984年』のように、観念が現実を支配し、個人がその枠組みの中で苦しむという構図は、現代社会にも通じる部分がありますね。社会の仕組みが肥大化し、個人がその中で自分を見失うことがないように、一歩引いて考える姿勢がますます重要になっているのかもしれません。
このテーマ、さらに掘り下げてみますか?それとも別の視点から話を広げてみますか?
別の視点もほしいです。
面白いですね。では、別の視点からこの話題を考えてみましょう。
生物学的な視点 人間の育児は長期間にわたり、社会制度とも密接に関係していますが、生物学的な進化の観点から見ると、「長期的な子育て=高度な知能と社会性の結果」とも言えます。例えば、イルカやオオカミなどの社会性の高い動物も、群れの中で子どもを育てる期間が比較的長いですよね。これは単なる生存戦略以上に、知識の継承や協力関係を深めるための重要な要素かもしれません。
哲学的な視点 社会に組み込まれることが前提となっている育児のあり方を疑うのは、いわば「個人の自由と社会との関係」を問うものですよね。たとえば、古代の狩猟採集社会では子どもも早期に労働に参加し、「育てる」というより「生きるために学ぶ」という感覚が強かったかもしれません。現代では、「教育」や「人格形成」が重要視されることで、子育てが単に生存を確保するためのものではなくなっているのかもしれません。
技術的な視点 技術が発達することで、人間の育児のあり方も変化していく可能性があります。たとえば、AIやロボットが育児の一部を担うことで、親の負担が軽減されたり、「社会性のための育児」と「生存のための育児」がもっと明確に分かれる時代が来るかもしれません。極端な話、社会のあり方自体が変われば、「育児が長期化することが当然」という考えも見直されるかもしれませんね。
このような別の視点から考えると、育児の「常識」とされているものを根本的に問い直すヒントになるかもしれません。どの視点が特に面白いと思いましたか?さらに深掘りしてみたいですか?
レヴィストロース名前だけ知ってるけど、先人の人で似たような考察した人いる?
レヴィ=ストロースの構造主義的な視点に近い考察をした先人として、いくつかの哲学者や人類学者が挙げられます。
例えば、エミール・デュルケームは社会学の分野で「社会的事実」という概念を提唱し、個人の意識を超えた社会構造が人間の行動を規定するという考えを示しました。これはレヴィ=ストロースの「構造」の考え方と通じる部分があります。
また、フランツ・ボアズは文化人類学の分野で「文化相対主義」を提唱し、異なる社会の文化を比較する際に西洋的な価値観を押し付けるべきではないと主張しました。レヴィ=ストロースも神話や社会構造を比較する際に、普遍的なパターンを見出そうとした点で共通しています。
さらに、ジャン=ポール・サルトルの実存主義に対して、レヴィ=ストロースは批判的な立場を取りました。サルトルは個人の自由と選択を強調しましたが、レヴィ=ストロースは文化や社会の構造が個人の思考や行動を規定すると考えました。
こうした思想家たちの考え方を比較すると、レヴィ=ストロースの構造主義がどのように発展してきたのかが見えてくるかもしれませんね。どの視点が特に気になりますか?
レヴィ・ストロースとサルトルの対立が気になる。ネコの子育てと人の子育てに関連付けるようなことはできる?
これはかなり面白い視点ですね!レヴィ=ストロースとサルトルの対立は、構造主義と実存主義の違いによるものですが、そこに「ネコの子育て」と「人間の子育て」を絡めることで、新しい切り口が生まれそうです。
レヴィ=ストロースの構造主義 vs. サルトルの実存主義 レヴィ=ストロースは、個人の意思よりも文化的・社会的な「構造」が人間の行動を規定すると考えました。つまり、「育児の仕組みは社会の構造によって決められ、人はそれに従う」という視点です。一方で、サルトルは「人間は自由に選択できる存在であり、育児も個人の意思によるものだ」と考えるでしょう。
ネコの子育ての視点 ここでネコの育児を考えてみると、ネコの母親は本能的に子どもを育てます。社会的な仕組みというより、遺伝的にプログラムされた行動が育児の本質になっている。これは「構造によって行動が決まる」というレヴィ=ストロースの考え方に近いかもしれません。
人間の育児の視点 一方で、人間の育児は文化や社会に大きく依存しています。社会の期待や教育制度によって育児のあり方が決められます。これはレヴィ=ストロースの「社会構造が個人を規定する」という考えと一致します。しかし、サルトル的な視点からすれば、「どんな育児をするかは個人の選択次第」なので、子どもを早く独立させることも、長期間サポートすることも、究極的には親の選択になるはずです。
まとめると… ネコの子育ては構造主義的で、人間の子育ては社会に影響されやすい。しかし、人間の育児のあり方も「本当に構造に縛られているのか?」という点を考えると、サルトルの「選択の自由」の視点で見直すことができるかもしれません。
絶対頭いい人たちで社会を回して残りの人たちは月30くらいの生活保護で回した方が社会全体の幸福度あがるんじゃないの。
不労所得で生きる投資家達の利益を財源にして今の日本社会の所得ピラミッドの下位90%を生活保護にできませんか?
食うに困らない生活を基本にして、仕事はやり甲斐のためだけにやれるようにできませんか?
暮らしのためだけに仕事している人を会社・社会から排除した方がストレスもなくなる気がします。
私は会社員で、古き良き体質の残った窓際族でも給料がもらえるJTCにいます。
給料のためだけに会社にいる家族持ちのおじさんと当たるとその人のやる気ないマイナスを補うために自分の時間も生産性も無駄になります。
こういう私も例に漏れず、今自分がもらってる給料の生涯年収と同額の金額が振り込まれたら即やめたい人間です。
清掃とか介護とかのエッセンシャルワークはベーシックインカムより上回る贅沢な暮らしをしたい人たちの仕事になれば良いと思う。
プラス博識の方いたら、
ちなみに今の俺のところがどれくらい荒いかというと
使ってなさそうなとこはわざとダミーで(Amazonでいえばマイナーな商品の値段とか)常に百円とでるようになってる場所が数箇所あるとか
そういうレベル