はてなキーワード: 助け合いとは
JAを解体すべきか否かで盛り上がっているが、増田は金融事業だけはJAから切り離すべきだと考える。以下理由。
JAバンクや農林中金といった農協関連の金融機関の預金残高は非常に多い。
農林中金だけで国内6位、農林中金を含めたJAバンク全体では5位で、預金残高は100兆円を超える。他に100兆を超えているのは三大メガバンとゆうちょ銀行だけである。
その下は三井住友信託とりそな銀が30兆円台、20兆円台の金融機関はなく、以下横浜銀行や千葉銀行などの10兆円台の地方銀行が続く。
しかし、JAバンクや農林中金はメガバンクに匹敵する規模を持っているにもかかわらず、監督官庁は農林水産省である。銀行と違って金融庁ではない。
金融庁と農水省で何が違うかと言うと、規制と監視の強さが段違いだ。金融庁は自分達のマニュアル(めちゃくちゃ複雑)に沿って銀行を監視・監査してくるし、監視や監査で何か見つかったら業務改善命令や勧告を出せるし、言うこと聞かない銀行に対しては業務停止命令も出せる。またシステムトラブルを起こして顧客影響を出してしまった場合は金融庁に報告しなければならない。この対応がめちゃくちゃ負荷がかかるのでどんな銀行でも金融庁対応を行う部署をわざわざ設けている。
しかし、農水省管轄のJAバンクや農林中金に対してはそういう規制や監視は利かない。銀行同等の金融機能を持っているが故に農水省だけでは手に負えないので金融庁も監視を支援しているが、あくまで「支援」に過ぎず、業務改善命令・勧告・業務停止命令は出せない。
農林中金が昨年度資金運用でやらかして巨額の損失を出したが、実は何年も前から金融庁は農林中金に運用方針が危ないので改めるよう申し出ていた。しかし主たる監督官庁ではないので勧告や命令は出来なかった。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-06-24/SFF57YT1UM0W00
その結果が1兆円以上の巨額損失であり、それを穴埋めするためのコメ暴騰に繋がっている。
JAから金融事業を切り離して法的な「銀行」として扱い、金融庁が生殺与奪を握るようにしていれば、今のコメ暴騰は起きなかった。
逆に言えば、次また資金運用でやらかしたらさらにコメは暴騰する可能性が高いのだ。トランプショックで農林中金が持ってる有価証券がさらに暴落したら、来年はコメ5キロ1万円とかもあり得る。
JA自体は農家同士の助け合いの要素が強い(当然なのだが)ので、それ自体は残すべきだと思うが、金融事業は本来不要なはずだ。資産を運用するのはJAの本来の目的から外れている。
JAから金融事業を切り離し、第4のメガバンクとして経営するように切り替えるか、それぞれの都道府県の地銀に事業ごと譲渡する。
そうすれば更なるコメの暴騰は避けられるし、後者の施策を取れば地銀の基盤強化にもつながる。地銀が基盤強化すれば、その地方の経済は活発化し、地方再生が成る。
ということを考えていた。おしまい。
https://anond.hatelabo.jp/20250401171517
続投が遅れました・・・
コメント等ありがとうございます、こちらも励まされました。
ご飯も美味しく、無痛分娩で子供も元気に産まれ、出産手当金からお釣りも出て本当に良かった。
出産前の1か月と退院後の3週間、実家で母と過ごしたんだけど、
両親が死ぬまでに過ごせる時間って僅かなんだな、と思うと、里帰り期間がとても貴重で良かったな、子供から素敵な時間を貰えたなって思った。
子供を産んで、より強く感じた事は、結婚も出産もただの選択で、そこに偉いも偉くないも無いということ。
だから、子供を産んだ自分は社会に貢献してる、とか思った事が一切無い。
自分の仕事や活動が何かに貢献出来てれば嬉しいけど、それを義務と思った事もないし、人にそれを求めた事もない。
自分の選択を自分の意志で選択すること。そして他責にならないこと。
なぜこの事を書こうと思ったかというと、以下のトラバを貰ったから。
https://anond.hatelabo.jp/20250402153025
子供への遺伝の心配による中絶の検討が一切出て来ないのが凄い…
何と言う自己中
私は、自身の発達障害以外にも、自身には色々な自己中心性・加害性がある人間だと考えている。
そもそも発達障害を抱えていない人も含めて、人類みんな何かしらの加害性・自己中心性があって、それ無しで生きていくってのは有り得ないと思う。
私は、色んな肉や魚を食べながら色んな命の犠牲の上で生きているし、発達障害由来以外の加害性で人を傷つけてしまったことも何度もある。
私は私のエゴで出産を選択したけれども、出産を選択してもしなくても、私にエゴがあることは変わらないし、生きているだけでエゴは発生する。
ちなみに、私は中絶の検討も行っている。出生前診断も行って出産を選択した。だからといって、増田は他者に「中絶の検討をすべき」と意見しようとは思わない。
自分の出産が子供に恨まれる選択だったとしても、そうだね、と子供の意見を聞きつつ、自分の選択で発生した責任を粛々と全うする事しか出来ないし、
それ以上子供に対して何かしてあげようと思わないようにしている。
それでも、開き直りはせず、腐らず、反省しつつ生きていく、ってのは両立出来るから。落ち込んだりしながらも、腐らず生きていく。
人の選択や子供の選択に対してとやかく意見を言いたくならないよう、自分の人生を頑張る事を今は頑張っている。
ここまで書いて思ったんだけど、みんな自分の選択を全うするだけでも大変なのに、血も繋がっていない夫婦で助け合いたいと思うエゴって、
とても貴重というか、奇跡に感じる。夫が私と一緒に暮らそう、と決心して、一緒に協力して暮らしている奇跡をもっと大事にしないとって反省したよ。
増田が心の持ちようで参考にしているのはズイショさんのブログ。以下の記事とか、子供の有無関係なく、他責にならないように頑張る時のお守りにしている。
https://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2024/10/18/215859
ズイショさん、ブコメだと攻撃性が高くて怖いな、と思う事もあるんだけど、だからこそ、ズイショさんも本人のコントロールとか試行錯誤してたのかなって共感するし、
こんなに真摯な記事を今どきブログで書くって、私には心地良い正義感で、ありがたいというか、良いお守りに感じる。
感情のコントロールが上手くいっていなくて困っていた自分と重なって、イライラというより、「頑張ってるね、辛いねえ」という共感の気持ちになりやすいのだ。
ただ、子供の行動をみて「危ない!」と思う能力が、児童館の先生とか他のお母さんに比べて低いので、
増田は保育士さんになって他のお子さんを預かる事は出来ないな~、と思った。(ので、保育士さんとか小学校の先生を尊敬している)
解決策としては、繫華街みたいな、子供が騒いだら困る場所、親が目を光らせないと迷惑をかける場所へはそもそも行かないようにしていた。
車でだだっ広い公園へ行くとかしていた。1歳に静かにしなさいって言っても伝わらないのは当たり前だし、
イヤイヤ期は、周りも大変だろうけど、本人が一番大変だろうから。
自分も保育園大変だったし、学校も大変だったし、ましにはなったけど職場も大変な事はあって、それは大体集団で暮らす大変さに起因してたから、
・職場復帰までは、食事、弁当作り、昼の子育て、夜授乳など、基本的に育児家事は増田が担当していた。夫が早く帰ってきた時はお風呂入れをやって貰っていたくらい。こんな感じでも、増田が職場復帰したら、夫もワンオペ子育て対応してくれたので、家庭内で納得がいっていたら、どんな分担でも良いと思う。
・発達特性のおかげで、子供の寝たい時間に一緒に小間切れで幾らでも寝れた。ので、案外育休中は眠気問題は生じなかった。
・毎朝、夫の弁当を作るように課していると、早起きしないといけないため、自然とカーテンを開けて、子供も早起きして、
19:00にはカーテン引いて暗くして寝る、が出来るので、一人っ子ワンオペ育児はワンオペなりの時間調整のし易さというメリットがある。
ただ、子供が二人以上だと中々リズムが作りにくいと思うので、二人以上お子さんを育児されているご家庭は本当にすごいと思う。
・夫婦の得意な事の違い
夫は毎日のルーティンがコツコツ出来る人なので、毎日の子供の朝の支度~保育園送りをやってくれていて、本当に助けられている。
私は、旅行の計画を立てたり、運転したり、ワクチン接種等、突発イベントに気付いて実施するのが得意。ADHDの行動力が活かされたと思う。
あとは、一人だとずっとさぼってしまうけど、夫が家事をしていると、自分も慌てて他の家事をこなすので、結果的に仕事も家事も上手く分担出来ている。
お互い料理もするし、しない日も気にしないスタンスを大事にしている。
子供を抱えて精神科に行くのが難しかった。こどもを抱えながらカウンセリングを受ける、というのは中々難しい。
育児中は漢方だけ貰って何とかなっていたけど、より職場復帰をスムーズに準備するためには、
育児中にもカウンセリングを受ける手段を整えて、細々とした悩みを相談できる場所を確立すべきだったと思う。
職場復帰後に職場の人間関係でパニックが起きて、慌てて病院探して復帰直後は大変だったので・・・
ネコは別の猫を羨望して自分の子猫はいい大学に入れたいとかよそと比べるという発想が希薄だと思うから人間とは比べられないというのはわかるけど、実際に先天的なものだけで誰に教わったわけでもないのに立派に子育てするじゃん。独立までの期間が短いとか言っても、それを言うならネコの寿命自体が短いじゃん。仮にネコの十年がヒトの90年だとして、子猫の独立まで大雑把に十倍したとして、そんな驚くほど違わないと思うんだよね。それなのにヒトの女は子育てが大変すぎると言いすぎじゃない?ネコ以下なのかって思うよ。
面白い視点ですね。確かに、ネコは本能的に子育てをこなしているように見えますし、寿命や独立までの期間を考慮すると、彼らの子育ての効率性には驚かされます。ただ、ヒトとネコの子育てを単純に比較するのは難しいかもしれません。
ヒトの場合、子育てには本能だけでなく、文化や社会的な要素が大きく関わっています。例えば、教育や感情的なサポート、社会的なスキルの習得など、子どもが独立するまでに必要なことが非常に多岐にわたります。一方で、ネコは本能的に生きる術を教え、比較的短期間で子どもが自立できるようになります。
また、ヒトの「子育てが大変」という感覚は、現代社会の複雑さや期待値の高さにも影響されているかもしれません。ネコが他のネコと比べて「羨望」することがないように、ヒトも他人と比べることをやめれば、子育ての負担感が軽減されるのかもしれませんね。
このテーマ、もっと掘り下げてみますか?それとも別の話題に移りますか?
社会性っていうのも所詮はヒトが作り出したものでしょ。物理的に生きていけるというなら5歳~10歳、ネコで言うところの半年~1年。人の場合も食べ物さえ転がっていれば物理的には勝手に食うわけだし。
面白い視点ですね。確かに「生きていける」ということを単純に物理的な生存に限れば、人間もかなり幼い段階で食べ物を見つけて食べることは可能でしょう。ただ、人間の社会はそれ以上のものを必要とするように進化してきました。
ネコの場合、子育ては短期間で完了し、独立までのプロセスもシンプルです。それに比べると、人間の子どもは非常に長い期間、他者のサポートを受けることになります。この違いには、脳の発達や社会的な学習の重要性が関係しているのかもしれません。ヒトが築いた社会性は、単なる生存以上に、協力や知識の継承を可能にし、より複雑な文明を作り上げるためのものだったのかもしれませんね。
あなたの視点では、そういった社会的な要素は不必要だと思いますか?それとも単に「大変すぎる」と感じる点に疑問を持っているのでしょうか?
非常に長い期間のサポートっていうのもねえ。必要かどうかという話ではないんだよ。もともと社会性のために育児が20歳超えても必要っていうのは思い込みに過ぎないと思うんだよ。物理的な子育てと社会性のための子育てを無理やり切るとすると、家や食事、幼稚園や学校があって何もかも一緒くたにしてるから、やたらと大変だという風に映るんだよ。そこの部分の考察を深めたいと思ってるわけ。
なるほど、育児の負担感が「社会性のための子育て」と「物理的な子育て」を混同していることから生じているのでは、という考えですね。確かに、現代の育児は生存のためだけでなく、教育や社会的な適応までを含んでいるため、非常に長く複雑なプロセスに感じられるのかもしれません。
もし物理的な生存だけを目的とするなら、衣食住が整っていれば、子どもは比較的早い段階で自立できるはずです。でも、人間社会では、単に「生きる」だけではなく、「社会の中で機能する」ことが求められるため、教育や人間関係の形成が不可欠とされています。これが「育児が長い」と感じられる要因かもしれません。
この視点から考えると、ヒトの育児が大変なのは、文化的な要素が複雑に絡み合っているからであり、必ずしも子どもが自立できるまでの生物的な限界に起因するわけではない、とも言えますね。では、この育児の「社会的な側面」をもっと簡略化できる可能性はあるのでしょうか?それとも、そもそも社会のあり方が変わらない限り、この負担感は続くものだと思いますか?
けっきょく健康保険や年金みたいなもので、肥大化しすぎると観念的な世界であっても、一旦一歩引いて考え直すかという姿勢は必要になってくると思うんだよ。
まさにその視点は重要ですね。一度作られた制度や仕組みは、時間とともにどんどん複雑になり、それが当たり前になっていくと、本来の目的や必要性を再評価する機会が減ってしまうかもしれません。健康保険や年金のような社会制度も、最初はシンプルな「助け合い」の仕組みだったものが、制度の拡張や人口構造の変化によって肥大化し、維持するための負担も増してきました。
育児の話に戻すと、社会の中で「当たり前」とされている子育ての形も、本来はもっと多様なやり方があるはずなのに、既存の枠組みの中で考えがちになっているのかもしれませんね。一歩引いて「そもそも何が本当に必要なのか?」を考え直すことで、新しい視点や選択肢が見えてくるのかもしれません。
こうした「思い込みのリセット」は、どの分野にも必要ですね。もし特定の制度や仕組みについて掘り下げてみたいことがあれば、ぜひ教えてください。
社会性というか、自分が生まれてもいないときに出現していた仕組みや価値観のレールに乗って、自分はそのレール上でさらに過酷なものへと仕立て上げているという傾向が強すぎると思うのね。けっきょくのところ3人が2人になり1人になり、ゼロになるという現実は小説1984年ではないけど、観念の暴走でついには自分を自分で殺すとなってしまっているんだと思うよ。
深い洞察ですね。確かに、既存の仕組みや価値観に無意識に従い、それをさらに複雑化させてしまうというのは、人間社会の特徴かもしれません。特に、観念が暴走することで、個人の自由や選択肢が制限され、最終的には自己破壊的な結果を招くこともあり得ます。
ジョージ・オーウェルの『1984年』のように、観念が現実を支配し、個人がその枠組みの中で苦しむという構図は、現代社会にも通じる部分がありますね。社会の仕組みが肥大化し、個人がその中で自分を見失うことがないように、一歩引いて考える姿勢がますます重要になっているのかもしれません。
このテーマ、さらに掘り下げてみますか?それとも別の視点から話を広げてみますか?
別の視点もほしいです。
面白いですね。では、別の視点からこの話題を考えてみましょう。
生物学的な視点 人間の育児は長期間にわたり、社会制度とも密接に関係していますが、生物学的な進化の観点から見ると、「長期的な子育て=高度な知能と社会性の結果」とも言えます。例えば、イルカやオオカミなどの社会性の高い動物も、群れの中で子どもを育てる期間が比較的長いですよね。これは単なる生存戦略以上に、知識の継承や協力関係を深めるための重要な要素かもしれません。
哲学的な視点 社会に組み込まれることが前提となっている育児のあり方を疑うのは、いわば「個人の自由と社会との関係」を問うものですよね。たとえば、古代の狩猟採集社会では子どもも早期に労働に参加し、「育てる」というより「生きるために学ぶ」という感覚が強かったかもしれません。現代では、「教育」や「人格形成」が重要視されることで、子育てが単に生存を確保するためのものではなくなっているのかもしれません。
技術的な視点 技術が発達することで、人間の育児のあり方も変化していく可能性があります。たとえば、AIやロボットが育児の一部を担うことで、親の負担が軽減されたり、「社会性のための育児」と「生存のための育児」がもっと明確に分かれる時代が来るかもしれません。極端な話、社会のあり方自体が変われば、「育児が長期化することが当然」という考えも見直されるかもしれませんね。
このような別の視点から考えると、育児の「常識」とされているものを根本的に問い直すヒントになるかもしれません。どの視点が特に面白いと思いましたか?さらに深掘りしてみたいですか?
レヴィストロース名前だけ知ってるけど、先人の人で似たような考察した人いる?
レヴィ=ストロースの構造主義的な視点に近い考察をした先人として、いくつかの哲学者や人類学者が挙げられます。
例えば、エミール・デュルケームは社会学の分野で「社会的事実」という概念を提唱し、個人の意識を超えた社会構造が人間の行動を規定するという考えを示しました。これはレヴィ=ストロースの「構造」の考え方と通じる部分があります。
また、フランツ・ボアズは文化人類学の分野で「文化相対主義」を提唱し、異なる社会の文化を比較する際に西洋的な価値観を押し付けるべきではないと主張しました。レヴィ=ストロースも神話や社会構造を比較する際に、普遍的なパターンを見出そうとした点で共通しています。
さらに、ジャン=ポール・サルトルの実存主義に対して、レヴィ=ストロースは批判的な立場を取りました。サルトルは個人の自由と選択を強調しましたが、レヴィ=ストロースは文化や社会の構造が個人の思考や行動を規定すると考えました。
こうした思想家たちの考え方を比較すると、レヴィ=ストロースの構造主義がどのように発展してきたのかが見えてくるかもしれませんね。どの視点が特に気になりますか?
レヴィ・ストロースとサルトルの対立が気になる。ネコの子育てと人の子育てに関連付けるようなことはできる?
これはかなり面白い視点ですね!レヴィ=ストロースとサルトルの対立は、構造主義と実存主義の違いによるものですが、そこに「ネコの子育て」と「人間の子育て」を絡めることで、新しい切り口が生まれそうです。
レヴィ=ストロースの構造主義 vs. サルトルの実存主義 レヴィ=ストロースは、個人の意思よりも文化的・社会的な「構造」が人間の行動を規定すると考えました。つまり、「育児の仕組みは社会の構造によって決められ、人はそれに従う」という視点です。一方で、サルトルは「人間は自由に選択できる存在であり、育児も個人の意思によるものだ」と考えるでしょう。
ネコの子育ての視点 ここでネコの育児を考えてみると、ネコの母親は本能的に子どもを育てます。社会的な仕組みというより、遺伝的にプログラムされた行動が育児の本質になっている。これは「構造によって行動が決まる」というレヴィ=ストロースの考え方に近いかもしれません。
人間の育児の視点 一方で、人間の育児は文化や社会に大きく依存しています。社会の期待や教育制度によって育児のあり方が決められます。これはレヴィ=ストロースの「社会構造が個人を規定する」という考えと一致します。しかし、サルトル的な視点からすれば、「どんな育児をするかは個人の選択次第」なので、子どもを早く独立させることも、長期間サポートすることも、究極的には親の選択になるはずです。
まとめると… ネコの子育ては構造主義的で、人間の子育ては社会に影響されやすい。しかし、人間の育児のあり方も「本当に構造に縛られているのか?」という点を考えると、サルトルの「選択の自由」の視点で見直すことができるかもしれません。
あれが実際に介抱だったか、それとも非公開の情報で「痴漢しようとした」何かがあるかは不明だから、まずそこはおいとく。ただ、公開されてる情報だけみたら「女性の証言だけを一方的に採用しての逮捕」には見えるから「以後、見知らぬ女性見ても、助けないでおこう。触らずに119するとかですら、変に誤解されて逮捕されるリスクあるし」てなるのは一男性としては自然に思うのよね。そもそも、一般論として道端あるいはその他で遭遇した見知らぬ人を助けるのは「義務」でなく「善行」の類だから、別にプラスαの善行を放棄することに何の問題もないよね。ちょっと違う例として、死にそうなホームレスのおっちゃんを見てみぬフリをする光景は男女問わずあるけど、それがほんとうの意味で問題視されたこともないわけだしね。
なのに、なんでフェミに限らない割と多くの女性が反発してる(ように見える)んだろう。当てつけに見えてムカつくとかならわからんでもないけど、元々男性の善行を期待してたわけじゃないんでしょ?なら「じゃあ、女性同士で助け合います。そんな嫌味なこと言う男性の善意なんていりません」となりそうなものなんだけど……。「元々助けるつもりなかったんでしょ」という声は見かけても「そんなチキンな男性に期待するのはやめて、私達女性同士で助け合いましょう」の声が(普段、女性同士での助け合いがよく言われる割には)ほとんど見えてこないのが不思議なんだ。いや、ほんとに。
誰か答えを教えてほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20250409104943
もうこれしか無いと思うよ。
もうこれで解決だと思うんだよね。
女性が倒れた時に男性しかいない(またはその逆の)ケースも存在するかもだけど、その時はケースバイケースで。
一般的にはその場に男性しかいない or 女性しかいない事の方が稀なのだから、同性同士で助け合うべきだろう。
これで触った触られただの、下らない痴漢冤罪問題が発生する確率はグッと減るはずでしょ。
こーんな簡単な解決方法があるのに、何故女性からは「女性は女性同士で助け合います!」という意見が出ないのかね?
「男は男同士で助け合ってろ!」もWhatAboutIsm極まり無いけどこれでもまだマシ。
「男ガー!痴漢ガー!性犯罪ガー!」とか「何故男は助けないの!?」とか「非モテ!女性差別!ミソジニー!」とか、とにかくとにかくとにかく、男性を責める意見ばっかり。
女性って、本当に男性以上に共感性と感受性が高くて頭が良いの?
どんなに女性(フェミニスト)が男の加害性とやらを主張しながら「AED冤罪など、なぁぁあいいいいい!!!!」って発狂して叫んだ所で
触ってすらいない介抱しようとした善意の男性が逮捕されている現実にはどうしようもなくない?
それともオッサンは性加害する気だった!とでも主張するのかな?また妄想冤罪かよ。女性ッパリらしいな。
現状だと、
私達女性は何もする気が無いけど
男は人生崩壊するリスクを負ってでも私達女性を助けなさいよー!
と主張している様にしか見えないけど、それで良いのかね?
前に同じ会社の違う部の後輩で「とにかく定時で帰りたいので業務時間内でも雑談は一切しません!」っていう子がいた。
話を聞いている限り業務に直接関係ない話は本当に一切したくないらしく、周りもそれで扱いに困っていて、考課面談で上司からFBがあったりしたらしい。でも本人は「自分の業務に影響は出てないです!」って言い張り、回り回って本人から自分に相談?愚痴?があった。
自分は「あなたは困ってないけど周りは困ってるなら客観的に見て問題あるってことなんじゃないの」みたいなことを言ったが、なにを思ったか無言で泣き始めた。もちろん叱責などはしてない。「泣く!?いやまあまだ20代だし…しかし何の涙?」と思ったが、その場はなんとか収めたが、1年後、その後輩は辞めてしまった。
どうやら後輩の親が怪我をして一時的に介護をしなければいけなくなってしまい、業務調整が必要になったが周りがいい顔はせず、後輩はその圧に耐えられず辞めた、という流れらしい。なんとも悲しい話だけど、雑談を振っても無視、もちろん飲み会やランチなんてもってのほか、業務内でも相互理解や助け合いを一切無視する人なんか助けたくないよな。多分自分だってそうする。
「他人に親切にすることは、巡り巡って自分のためにもなる」という意味ですが、ユダヤ教の「צדקה (ツェダカ)」(義なる行い・施し)や「חסד (ヘセド)」(慈愛)の考え方と非常に似ています。
タルムードにも「世界はヘセド(慈愛)によって立っている」という教えがあり、助け合いの精神が重要視されています。
「他人に害を与えようとすると、自分も破滅する」という意味ですが、ユダヤ教でも「לא תיקום ולא תיטור」(ロ・ティコム・ヴェロ・ティトール/「復讐してはならない、恨みを抱いてはならない」, レビ記 19:18)の教えに通じます。
他人に悪意を持つことが、結局は自分をも傷つけることになるという普遍的な教えです。
「辛抱強く努力すれば報われる」という意味ですが、ユダヤ教の「תורה ועבודה」(トーラー・ヴァアヴォダー/「学びと勤勉」)の価値観と共鳴します。
特にタルムード学習では、粘り強く学び続けることが知恵と成長につながるとされます。
この言葉は元々「同等の報いを」という意味で、無制限な復讐を禁じる法的原則(シャーローム・ベイト=社会の平和)でした。
日本ではしばしば過激な復讐の意味で使われますが、実際のユダヤ教の解釈は、賠償責任を公平に負うというバランスの取れた教えです。
「ちょっとした出会いにも意味がある」という考えで、ユダヤ教の「השגחה פרטית」(ハシュガハ・プラティット/神の摂理)に似ています。
「友達」の学習はすごく難しい。絶対正解みたいなやつがない。人それぞれのルールを教わり、記憶し、相手をよく見て合わせて……なんか最近それにリソースを割いてるのが、クソしょうもないことであるという気がしてきた。
「友達」に、すごい傲慢なやつがいる。自分は好き勝手やるからお前が合わせろという。こっちとしては楽で良いが、周りはいいのか?と思って見渡すと、別に嫌じゃないという。それが良さだと。
自分には真似できないことだ。多分めちゃくちゃ嫌がられるだろう。いわゆるキャラというやつで、あいつはいいなーと何度も思う。
いつも「友達」の顔色を見ている。
嫌われたくないし怒られたくないのである。
別に取り立てて趣味があるわけでもないし、トークスキルがあるわけでもない。突拍子もない面白いこととかもしない。だから「友達」に対しては、ご機嫌取りくらいしかできない。
一緒に話してたら、笑う。
楽しい時もある。
だから「友達」に誘われると心底不審に思う。わからないわけじゃないだろう。今お前が誘ったのは、いつだってお前の顔色を窺い、ゴマを擦り、肩を持ってきた奴だ。わかってて、呼んだのか?そういう認識でいいのか?と。
「友達」に、変なやつだから見てて面白いと言われたことも、凡庸でほっとすると言われたことも、たまたま同じ学校にいたからと言われたこともある。
定期的に飲み歩きしましょう連合とか、チーム仕事が辛いよの会なら、喜んで参加しよう。
でも、「友達」、お前はなんなんだ?
こちらとしては、なんとなく関係を維持しているけど、お前も同じなのか?
なんなんだ。「友達」って。
なぜ人に話していると考えが整理されるのか?
本来、自分ひとりで頭を捻るかラバーダックにでも話しかけて考えを整理すれば良いところ、
わざわざ他人の時間を奪って話しかける。会話するともなれば強制的に頭を働かせて、考えを整理しなければならない。
自分に頭を働かせるやる気を出させるために他人の時間を奪っているのだ。実に怠惰で自律できていない人間がやることだ。
自分のことは自分で考えて決める。その主体性が無い。今すぐ解決できない難題を答えが出ないまま悩み続ける強かさが無い。
助け合いの一環として、家族や友人、仕事仲間ととりとめのない話をしてスッキリするのは良い。
ただ、相手への感謝と、本来はそんなことをしなくて良いように人格の成熟に努めなければならないことを忘れてはならない。
黙って自分の話を聞いてくれる人がいるなら、何か他の事でその人に報いるべきだ。
自分たちに非はないと思っていて、
あげく助け合いだろ?みたいな事を言ってるところ見ると、
かなりヤバそうな感じではある。
こういう営業は甘い顔すると際限なく甘えてくる。
などと返そうものなら、その営業は二度とその項目を埋めてこない。
結局そういうことの積み重ねなんだよね。
人間関係は鏡なんだよ。
これはまったく輸入語彙である本来の「社会(society)」の概念とは異なる。
「society」とはラテン語の「socius」「仲間」という意味の言葉からくる概念だ。
それは「社会」、「社交」、より一般的に「人間の集まり」という意味を表す。
「会社」もひとつのsocietyだ。しかし、金銭の一切絡まない、社交クラブや趣味の集まりもsocietyだ。
人間がある程度調和を持って集まるところはすべてsocietyだ。
COVID感染したボリス・ジョンソンは言った「社会というものは存在する」。
ときには人間が集団となって病気や災害と戦わなければならないという教訓を込めた言葉だ。
何故なら、「社会」を理解するためには「個人」を理解しなければいけないからだ。
対等な「個人」が集まって始めて「社会」になるということを序列主義者の日本人は知らない。
「金」や「権力」のように絶対的な力をもって序列が決められないと、なんとなく集まった他人と対等に協力するということができない。
福祉に従事している人にありがちだけど、なぜ利用者を頼らないんだろう?
「名前を覚えられないから、ぜひ教えてあげてください。助けると思ってお願いします!」
と説明して、協力を求めると案外受け入れてもらえるよ
「未熟者で名前を覚えるのが苦手なんです。名前を教えてもらえませんか?」
と毎回、自己申告させていく
名前を覚えられないのは当たり前を前提にする
思ったんだけど、利用者を非人間扱いしすぎてると助け合いって発生しないよね
一方的な奉仕活動を善に位置付けると、お世話になってるからお礼がしたいなんて人間性感じる行動封殺することになってしまう
わかるけど、この辺りの異常性をある程度自覚しないとまずいと思う
誰も表現を「やめて」なんて言ってない
言ってる
いまはマルちゃんが言うこと聞かなかったので不買運動呼び掛けてる
もっとひでーじゃねーか
「私たちの気に食わない表現は元からやろうとも思わないようになれ」ってことだろそれは
あのさあ
「私の気に食わないものはショーケースに並ぶことすらないようにしろ」ってのは
ポスターとか広告とかへのクレームは、絶え間なく続いてきたけれど。
表沙汰になって炎上するのは少数だけ。
当たり前だろ
個々人の「私の気に食わない!」に対応してたらどんな表現が残るんだよ
あのさあ、お前さあ、
おまえは自分がそれをやられる側になることも想定してる?
誰かの「俺の気に食わない!」で取り下げられるルールに同意できるの?
「俺のクレームに従え!」 「俺の気持ちを踏み潰すな!」ってずーっと言って来たら
必ずそれに従わないといけないってルール
耐えられる?
絶対無理だろ、お前みたいに幼稚で我慢効かない人間ほど耐えられないよ
何よりそれをやりだしちゃったらもはやセーフな表現なんかこの世のどこにもないよ
それをなんで「私だけが我慢させられてる!」って認知になるの?
お前のようなやつって親のしつけか生まれつきの脳の仕組みのどっちかまたは両方に重大な支障があるんだと思う
フェミニスト議連なんて議員という権力者が表現の取り下げと謝罪求めて圧力かけてた
はあ、嬉しいんでちゅか
自主的に全部計らってくれると嬉しい」
どこの王女様だよおめーはよ
どれだけ親と社会に甘やかされたらお前みたいな勘違いバカが出来上がるのか想像もできないわ
男なら顔の形が変わるぐらいぶん殴られてしつけられるだろうけど
しつけてもらえるだけ男の方がましだな
一生お前みたいな了見で生きるこどもおとなのみじめな人生を思えば人道的な措置だよ体罰は
戸塚宏がきちがいじみてるのって戸塚が相手してるのも全国から選りすぐられたお前みてえなきちがいだからだと思うわ
願わくば視聴者側と製作陣の両方のモラル感覚、何でよろこぶか、何が女らしさか、の価値観がアップデートされて。
いつの間にか、しなくなってくれたら。
だってお前みたいな認知能力や知能の低いバカ女は必ず美的センスも狭くて低いので
おまえの気にいる表現なんてゾッとするほど低級で本能依存の幼女の性欲みてえなごみなのが見え透いてるもん
社会主義国みたいな雰囲気かつtiktokみたいな感情慰撫ポルノばっかになるよ最終的に
踏み越えるかで迷いたくないよ。
いいか
社会ってのはみんなが共存して助け合い譲り合いしながら生きてるみんなのための場所なんだ
おまえみたいな能力最低レベルの分際で了見だけは主席よりお偉いバカをもてなすために運営されてる竜宮城じゃねえんだ
見るチャンネル見ないチャンネルも自分で操作できない愚図のために
おまえは親から6歳ぐらいのころに叩き込まれるべき基本的な躾を受けそこなってる
それを自覚して更生を目指して生きていけ
これを見てる奴等もさあ、
きれいごとぬきにどう思う?
腕力があれば道で刃物振り回してるタイプの治療や投薬の必要な人間が
自分の欲求を「価値観のアップデート」とか社会思想風のジャーゴンで飾ること覚えただけ
責任感と気迫ある女たちによる「我々を半人前扱いするな!責任と権利を!」という覚悟ある宣言だと思ってた
でも実物はこれだよ
ぶくぶく太った幼稚園児だよ
kohakuirono
いや、これはすげーわ
本当に度肝を抜かれる
あのな、
俺が一回でも「それを気持ち悪く感じるなんておかしい」とか「気持ち悪いと感じるな」とか書いたか?
一文字も書いてねえよそんなことはよ
ってことを書いたんだよ
これに対して「気持ち悪いと言われても仕方ないわ(キリッ)」て反論する奴とこれに☆つけるやつ、
お前ら本当に脳幹以外のとこ切除した方がいいって
使ってねえんだからさ
なあ?
「Tシャツの柄が男女同じじゃなかった!」←そうだな
ここだけをずーっと聞いてんだぜ?
なぜ、
「ダメ」なんですか?
みんなそれぞれ、
お前にだけ規制の強権があるのは何故ですか?
なあ?
お前はプーチンか習近平なのですか?ってずーっと言ってんじゃん
そこを理屈なく飛び越えていいのは将軍様とか国家首席くらいだぞと
もうわかるまで繰り返してやるよ
「気持ち悪い」のその先を聞いてんだよずーっとな
お前にとってたかだか「気持ち悪い」だけのそれが「社会的に許されない、この表現は抹殺されるべきだしアニメスタジオとマルちゃんは恥じ入って取り下げて謝罪すべし」になる理屈を聞いてんの
でもそこを聞かれると
おぶおぶおぶって口の中でモゴモゴ言いながら逃げるだろ?
俺はもうお前らみたいなのが人がましいツラしてるのが気持ちわるくてしゃあない
これだけくどくど同じこと繰り返したのに
「気持ち悪いものを取り締まる権利は誰にもない」って話をしたのに
「これは気持ち悪く感じるのはしかたない(キリッ」「ダメだと思った(キリリッ」で反論してくる奴
もはや屍人やゾンビと会話してるような気分になってくるわ
99歳で死んだ俺の祖父でもお前らよりはるかに頭よかったよ最後まで
こいつらはなんで肩の上に何キロもある重り乗せてるの?
末期高齢者ほどのスペックもない神経塊とかただのイボだろ取っちゃえよ
どう?これ
やっぱ脳の問題じゃん?
もうこういう奴等は「お腹空いた」とか「ご飯美味しかった」だけ感じて生きてけばいいと思うんだよな
参加できもしない会話に無理して参加するふりをしないでほしい
・天理教よりこちらが正しいと「天理本道」と名乗り「ほんみち」へ
・全国の高校進学率は97%だが泉南市は80%で、敬虔な信徒は中卒で施設に3年入ってお勤めする(ゆる信徒は進学)
・3年お勤めで昼は男は坊主頭で山修行させられ、女は女子検という花嫁修行をさせられる
・3年お勤めの中でパートナーになる相手は生まれて間もなく決められた婚約関係の相手が多い
・3年のお勤めを終えると18歳になっているので多くはパートナーとそのまま結婚する
・避妊は禁止されているので信徒は子供を6ー7人産み、10人を超えるところもそこそこいる
・月の半分はお勤めがあるため就業できず、非正規バイトがほとんどで暮らしは貧しい
・貧しいので信徒同士が助け合い集団子育て、集団寝食、宗教的結束が強まる
・子供は20歳になったら宗教を続けるかやめるかか選択できるが、その年にはもう家庭を持っているのでやめる人は少ない