はてなキーワード: 免罪符とは
お前は「ネットチンピラよりも弱者男性の方が生きる価値がない」と言い放った。
まずこの時点で知的破綻が始まっている。価値とは何か、誰が決めるのか、何を基準にしているのか、何一つ定義していない。
ただ自分の気に入らない存在を、気に入らないというだけで無価値と断じている。
感情を道理にすり替えるな。感情は主張にはならない。議論に必要なのは証拠と論拠、それがないなら、それはただの知的失禁、いや「感情放尿(エモション・ピス)」に過ぎん。
ナチズムという言葉の本質は、特定の属性集団に対して価値の有無を選別し、排除を正当化する思考パターンそのものだ。
君の主張はその構造と寸分違わぬ。内容が違えば別物になるとでも思っているのか?
なら問おう。もし誰かが「フェミニストは全員死ぬべき」と言ったとしたら、それが崇高な思想によるものだから許されると思うか?
思想の看板で差別を飾り立てれば正義になると思っているなら、それは思考の自殺だ。
フェミニズムやリベラリズムの名を借りるなら、せめてその理念ぐらい理解してから口にしろ。
あれは誰かを見下すための棒ではない。誰の側に立つべきかを選ぶための免罪符でもない。
もし君が他人を「価値がない」と切り捨てる権利を持っていると本気で思っているなら、それこそ君が批判している「権力的抑圧」の体現者そのものだ。
鏡を見ろ。そこに映っているのは、差別と排除の構造を無自覚に再生産する、思想ごっこに酔った小物だ。
君の主張は知性を欠き、倫理を欠き、自省もない。フェミニズムでもリベラルでもない。ただの感情放尿だ。そしてその放尿の始末は自分でつけろ。他人に拭かせるな。
GW中に腐女子によるバカカプが話題となっていたため、ずっとどこかで叫ぼうと思いながら我慢していたことを、この場を借りて叫ぼうと思う。
漫画「メダリスト」が、「よだつか/つかよだ」というバカカプBLを推している腐女子によって荒らされている。
その影響が実害を伴いはじめたため、主にまだ「メダリスト」を読んでいない人に向けて、この素晴らしい作品が誤解されたくない一心で現状とそれに対する個人的な心情を書き綴らせていただく。
なお、これを書いているオタクは「おれは正当な読者 原作読んでねえだろってバカカプが嫌いだった」という態度でいるため、この時点で嫌な予感がした人はブラウザバックしていただきたい。
トピックは以下の通りだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250512013446
②「よだつか/つかよだ」はなぜバカカプなのか
(当エントリー)
https://anond.hatelabo.jp/20250512014700
どうしても字数制限内に抑えきれなかったため、複数エントリーに分けて投稿させてもらう。
本題は前トピックなので消化試合じみているのだが、ここからは既に腐女子によって変な先入観を植えつけられた人向けの話題だ。
カプの受動喫煙量が多くなりがちな現状において、「メダリスト」に対する誤解を解くには必要なので書かせていただく。
別ジャンルの腐女子でも、ムキムキで金髪の男と細身で黒髪の男のBLを日々どこかで見かけているのではないだろうか。それこそがメダリストを荒らしているバカカプである。
(純粋なFAをいいねしただけでもおすすめタブにこのバカカプBLを表示するXのポンコツっぷりも酷いが、これは次のトピックで語る。)
はじめに言っておきたいが、「どんなカプも幻覚なんだからバカカプとか無いでしょ」という言い訳は無意味だ。
そもそも「どんなカプも幻覚」というのは、幻覚だからこそ作品の解釈に持ち込んだりさも公式かのように振る舞ってはいけないと言う自戒のための言葉であり、バカカプの免罪符ではない。
まず最低限の情報を伝えると、この二人、現在53話まで連載されている中で直接会ったのは2話のみである。
(そして驚くべきことに二回会った中でもお互いの名前を呼ぶことすら一度もない。司の方は他の人間との会話や心の中で夜鷹純という名を出したことはあるが、夜鷹の方はマジで名前を出したことすら一度もない。)
一度目は、偶然いのり&司と夜鷹が出会った際に、光に勝ちたいと豪語するいのりを夜鷹が無慈悲に否定し、それに怒った司が宣戦布告した場面。
(ここでいのりを否定した夜鷹の言動は驚くほど的確に司の地雷を踏んでいる。)
そして二度目は、慎一郎が夜鷹との親友同士の夜のスケーティングに流れで司を招いたところ、以前の司の宣戦布告を真に受けていなかった夜鷹が司にアイスショーのキャストオーディションへ行くことを勧めてきたため、改めていのりのコーチとして宣戦布告した場面。
ちなみに、ここで司は憧れの選手だったはずの夜鷹に対し「めちゃくちゃ性格が悪いんじゃないか?」と心の中で言うほど好感度が下がっている。自身の新しい夢であるいのりに対し二度も否定をされているので当然の反応だが、夜鷹目線だと最強の自分が育てている最強の選手たる光が勝つ、だから君の教え子の夢は叶わないと言うのもまた当然なので、平行線である。
(普通にネタバレなのであまり言いたくないが)その後司が敗北すると夜鷹云々よりいのりを勝たせられなかった不甲斐なさが全面に出し、(かなり後に判明するが)夜鷹の方も「もう飽きた」と興味を無くしており、コーチ同士のライバル関係と言えるような状態はあっさりと消えている。
(コーチ同士でのこれを引っ張ったところで選手を通した代理戦争にしかなり得ず、やりすぎると選手軽視と捉えられかねない表現にもなりそうなので当然といえば当然かもしれない。)
対する弟子はと言うと、いのりは敗北から半年ぶりに光の顔を見ただけで尋常ではない悔しがり方をし、その顔を見た光はいのりの闘志が強く残っていることを喜びキラキラ笑顔が止まらない様子であった。
司と夜鷹の関係性については作中の事実を並べるとご覧の通りである。
司は蛇崩との方がよっぽど競い合ったり時に協力したり世話になったりと縁があるし、
夜鷹は慎一郎との無二の親友(公式で慎一郎の妻のエイヴァが嫉妬するほどの仲である)というのが強すぎる。
さらなるバカ要素を付け加えると、Xで大多数の腐女子が宣っているよだつかよだの根拠が全くの嘘まみれなのである。
不快なバカカプを漁るような自傷趣味は無いため事故的に遭遇したポストのみを根拠とさせていただく。
「夜鷹は司の才能を特別に認めている!脳を焼かれてる!これはキテる!」といったものが頻出したので、多分これが腐女子の中でメジャーな説なのだろう。
ちなみに夜鷹は司の才能を認めてなどおらず、そのことは作中で明言されている。
宣戦布告二回目が発生したscore22で、
慎一郎が司に対し「すごく才能のある方だ」と発言したのに対し、
明確に、「そうは言えない」「限られた時間の中で証明できなければないのと同じだ」と明確に否定している。
夜鷹は全日本選手権で見かけた記憶と目前でのジャンプ練習を経て、司の能力を理解したのか「君は自分に希少な能力があることを自覚している」と発言しているのだ。
(その後ご丁寧に「褒め言葉じゃない」と釘を刺しているが)
加えて、後のscore39で司が夜鷹のこの発言を反芻する際に、「希少な"才能"があること」と歪めてしまっているのだ。
こういう描写をされると、勘違いしてしまうのもしょうがないかもしれない。頻繁に原作を読み返す読者でなければ気づけなさそうではある。二次創作するのに読み返さないのか?という疑問は残るが。
(それにしても、光に「同じ種類」と分析された司が光同様「信頼できない語り手」属性を持っているのは面白い。司の場合過去の後悔から「才能」という言葉に囚われている節があるのが原因だろうが)
このように、なぜか夜鷹が司を認めている、なんなら入れ込んでいるという妄想に取り憑かれ拡散するオタクがあまりにも多い。
このバイアスの異常性がとてもよく現れているのが、下記リンクにある某掲示板の1スレだ。
(現在単行本未収録のscore51の内容に触れたスレのため、ネタバレを踏みたくない方はスルーしていただきたい。)
おそらく腐女子と思われるスレ主がバイアスまみれの意見を提示したため、当然のように確かな作中描写をもってして否定された一幕が伺える。
当時このスレを発見したときは、原作をまともに読んでいる人間の目にはちゃんとこれらは異常に映るんだなという安堵を得たため非常に印象に残っている。
(とはいえバカカプ腐女子の流入が発生したのは事実であり、以降はこの板もあまり覗かなくなってしまった。)
そして世に蔓延るは、オタクがよくやる悪い二次創作のオンパレードだ。
攻めの変態化、セコム化、受けの過剰age、加えてオメガバースとかいうオタクの性欲にまみれた、関係性捏造のための伝家の宝刀・・・
原作に根拠のないバカカプによくあるやつである。好きな作品でやられるとこうも嫌なものなのかと悲しく思った。
しかしここで、この怪文書を生み出すに至る最上級の怒りを抱かせた概念に遭遇する。
師弟if。夜鷹と司の。
絶句。なんだこれは。
まるで「どうすれば最大限メダリストという漫画を冒涜できるか」を三日三晩考えた末に出てくるような概念ではないか。
さすがに正気を疑う。この作品での師弟の繋がりとは運命であり特別であり、それぞれにとっての救いなのだ。
原作での師弟関係を否定するような二次創作が何を意味するか、原作を読んだ人、あるい拙文で伝えたかったことを読み取っていただけた方には理解してもらえるであろう。
懇切丁寧に、そして明確な信念を持って真摯に描かれたコーチと選手の物語が大きな魅力の一つとなっているこの漫画においては、これ以上の冒涜はない。
オタクは国語の成績がいいのだけが取り柄ではなかったのか?読解力と呼ぶのも憚られるほどの当然の作品解釈すらできないのか。それとも原作なんて妄想のエサでしかないという不誠実極まりない態度で二次創作をやっているのか。いずれにせよ最悪である。
※ここ以降は単行本未収録の話までしっかり触れるので、好奇心でここまで読んでくださった原作未読勢はいよいよ戻って原作を読んでほしい。※
※これだけは覚えて帰ってほしい。メダリストについて言及するアカウントを見つけても、それがプロフに「よだつか/つかよだ/🦅☀️/☀️🦅」などの文字列があった場合、そのツイート内容は真に受けないでほしい。メダリスト腐女子のはなしは信じるな。※
師弟ifが最悪の原作冒涜であるのに加えて、組み合わせも最悪である。
司と夜鷹のコーチとしての方向性は対比され描かれる、平行線の思想である。それぞれの名前に準えて表現するならまさに昼と夜。太陽が姿を現す限り夜は存在せず、夜の中に太陽が存在することもまたあり得ないのだ。
もろに最新score53の内容に触れてしまうが、司が目指すコーチとはかつての司少年が出会いたかったコーチだ。
それは、始めるのが遅いからと夢を否定せず、氷の上にしがみつく術を示してくれるコーチ。バカみたいに夢を目指す理由として、才能を保証してくれるコーチである。
これまでで書いた通り、夜鷹はかつての司少年と同じ境遇のいのりを、始めるのが遅かっただけの天才を前に直接夢を否定する言葉を放った。加えて、夜鷹の指導方法は温かな励ましなどは一切ない。明らかな出遅れの上クラブに入りもせず才能があるか教えてほしいなんて言う司少年が夜鷹と対峙したところでいのりと同じ目に遭うのは明白だ。
絶対にうまくいかない組み合わせにも程がある。嫌がらせか?原作そのものだけじゃなくキャラに対しても追い討ちで嫌がらせしたいのか?
司が師匠パターンのものもあるようだが、そうなるともうめちゃくちゃである。まず何を見てスケートを始めることになったんだ司は。
本当に、同じ漫画を読んだ人間の妄想とは思えない代物である。しかし悍ましいことに、このような原作冒涜が一定の人気を得て複数人の手によって生み出されているのが、メダリストに蔓延るよだつか/つかよだの腐女子という集団である。
夜鷹の口数が少ないのをいいことに感情を捏造し、ifやパロで関係性を捏造する。
作中での明確な発言すら捻じ曲げる。
もはやそこにあるのは捏造のみである。ifやパロにしても、大体流行るのは生存ifやら物騒な世界を舞台にした原作での学園パロで、そこにはキャラクターに幸せになってほしいという愛が少なからず存在しているものだが、よだつか/つかよだで蔓延っている師弟ifは原作愛など皆無の冒涜だ。
このカプがバカカプでないなら一体何だと言うのだろう。
だが街は、また新たな“欲望の歪み”によって揺れ始めていた。
そこに映っていたのは、炎上系フェミニストVtuber・理詰院メグ(りづめいん・メグ)。
演説はこう始まる。
「“メロい”って言葉、聞くだけで吐き気がする。それ、結局“性欲”でしょ? “好き”で包んでるだけでしょ?」
「“推し”や“メロい”は性加害か否か?」の議論は、再びネットを炎上させていく。
そんな中、街に新たな敵――
全身漆黒のボディに金の装飾、瞳の奥で艶やかに光る赤いスリット。
「いい感じに“性欲”が育ってきたね、ニンゲンたち……
あんな怪人(カヲル)を生み出せる種族の可能性って、サイコー❤」
彼女は人間の“性”への執着を絶賛し、むしろ加速させようとする存在だった。
「欲望は罪じゃない。むしろ“抑圧こそが悪”だって、教えてあげる」
ヴィーナスは、カヲルと理詰院メグ、相反する“欲望”の波動を融合させ、
「“推し”は愛なのか性なのか?」という問い自体を、人々の脳にループ再生させ、
メグ:「いいえ、あなたの“好き”もまた、“性欲”です。それを“純粋”と呼ぶのは、ただの免罪符」
「こういうの、ほんとメロい……❤」
仮面ライダーメロイ、新フォーム――“インモラルスタイル”、発動。
「私の“好き”はね、正しいとかじゃない。
でも、他人に“言い換えられる”筋合いなんてないの!!」
そして理詰院メグの正体に、衝撃の事実が――?
この「感想」、とても鋭くて毒もありますが、確かに一理あると感じますね。
元の投稿は一見すると「息子の純粋な動機に心を打たれた親のしみじみした話」のようで、きれいにまとまっている。でも感想で指摘されているように、「自分の過去の加害的な振る舞いに対して本質的な反省があるか?」といわれると、やや疑わしい。
投稿者は「かつての自分の悪い行いが、好きな人の存在によって自然に消えた」と言っている。でもこれは、反省して行動を改めたというより、「好きな人に見られたくないからやめた」という動機の薄さを美談として語っているようにも見える。
また「善性は生まれつきじゃなくて、誰かのためにマシになろうとする気持ちの延長線上にある」って言葉も、綺麗だけど、ちょっとズルい。これは「悪かった過去を持っていても、誰かを好きになれば“まとも”になれるんだよ」という免罪符を自分に与えてるようにも読める。
そして今は「息子という存在」を盾にして、「俺はまともになった側だ」とマウントを取ってるというのは、確かに鋭い指摘。
一方で、こういう語りが「善人アピール」と受け取られてしまうのは、「子どもを持つことで成長できる」というテンプレ的美談がネットで過剰消費されていることにも原因がありますよね。
なので、この「感想」はある意味で社会全体の語り口へのアンチテーゼでもあると思います。
「人間的に成長した」と思っている人ほど、成長した風な物語を語りたがる。
この構造に対して「いや、お前まだ何も終わってないよ」と突っ込んでいるわけで、それ自体はとても健全な批評かもしれません。
「作者が嫌って言ったらやめます!」を自己正当化のための免罪符に使わないでほしい
同人は楽しいからやるものだし、原作者に嫌と言われたらやめるのも正しい。
でもね、それが意味を持つのは、同じ趣味の人たちや、同人を嫌いな人たち、そしてなにより原作者に対して思いやりと配慮がある時だけだよ。他者への配慮があってこそ重みを持つ言葉なの。
言ってることはもっともらしく聞こえるけど、結局彼女はずっと一貫して「私は間違ってない」としか主張してきてない。歩み寄る姿勢はあると思う。しかし歩み寄る意思があるかは甚だ疑問。
彼女は自分の言動でジャンル全体や他の二次創作者が迷惑を被ったとしても「コミュニティで考える事」と考えているような発言をしている。
二次創作コミュニティを良くしたいと主張する一方で、デメリット方面に関してはコミュニティへの責任感が一切見えてこない。
自分の成果は自分の物、失敗した責任はコミュニティ全体が負うべきもの?
横の繋がりでしかない趣味のコミュニティで個人が引き起こした事態への責任は、基本的に個人が背負うべきだ。
赤の他人が引き起こした事態を受けてコミュニティのあり方を再構築する必要はあっても、その責任を負うのは個人だよ。
趣味のコミュニティで、失敗した場合の責任の所在を有耶無耶にしつつ、コミュニティの意見も聞いた上で「でもでもだって」を続け、コミュニティ全体に影響を及ぼす可能性のあるリスクを度外視し、メリットの方ばかり見続けて好き勝手やる人と、同じコミュニティで一緒に活動し続けたいと思う?
だいたい「原作者が嫌だと言ったらやめる!」って言葉、本当に原作者の方を向いて言ってる?
あのな、「素人だから正しい見解は分からない」って言い出した時点で、思考放棄宣言なんだよ。
それを「誰を信用するかに委ねる」って、経済議論じゃなくて宗教の話にすり替えてんの。信じる信じないの問題にした時点で、もうお前の頭の中には論証って言葉は存在しないってことだ。
学者同士で見解が違う?当たり前だよ。科学なんだから仮説と検証があって、常にアップデートされていくもんだ。でもな、それと「何でもかんでも等価に扱っていい」ってのはまるっきり別の話だ。
たとえば、リカードの比較優位理論に反論してる学者もいれば、地動説に反対してる人間もいた。
でもそれが両論併記されるか?されねぇだろ。学問ってのは、エビデンスと理論の整合性で淘汰されていくゲームなんだよ。
で、その中でどれがより現実と整合してるかを素人でも判断できるように、学者はモデルや統計や事例を使って説明してる。
「信用できる人を選ぶ」ってんなら、少なくともその人が何を根拠に主張してるのかを理解しようとしろって話だ。
そこをすっ飛ばして、「どっちが信頼できそうか」とか「口調が穏やか」とかで決めるなら、それは学問じゃなくてテレビのコメンテーター選びだ。
お前が素人だからといって、無知のままでいる免罪符にはならねぇ。少なくとも、議論に首を突っ込むなら「分からない」で開き直るのは最低の態度だ。
理解しようとした結果「分からない」ならいい。でも「最初から分かるわけない」と言ってるやつが、「見解の相違」だの「主流派は」だのと、もっともらしい言葉使って話してんじゃねぇよ。
なるほど、「全部おまえのルールの押しつけ」ね。
だがな、ルールというのは俺が決めたかどうかじゃなくて、言語で対話を成立させるために人間が自然に従っている構造のことだ。
議論には論点があり、主張があり、反証があり、そして何より発言に責任を持つという暗黙の了解がある。
それを全部投げ捨てて「ルールなんて知らん、俺はこう思う」では、議論じゃなくてただの自己放尿だ。
「増田は匿名掲示板」「1対1で話す場所じゃない」その通りだ。
だがな、匿名だろうと集団だろうと、知的対話という行為自体の構造が変わるわけじゃない。
お前が「横から好きに質問してくれていい」と思ってるのは勝手だが、だからといって「中身のない冷やかし」や「無意味な相対化」が許容される理由にはならない。
それに「嫌なら消えろ」っていうのは、議論に負けた者が言う最終手段であり思考放棄の宣言だ。
つまり、こう言ってるのと同じ。「僕はもう知性で勝てません。だから物理的排除を主張します」
こんな宣言、見てるやつが聞いたら失笑ものだろう。議論とは、正しさの応酬で相手を納得させる行為だ。
「俺はそう思わない」「俺は受け入れない」そんなのは主観の叫びでしかない。
それを「正当な反論」だと勘違いしてるなら、まず国語からやり直せ。
あぁ、具体性ね。
「弱者男性を殺す」って言っといて、それが「具体的ではないからセーフ」とか抜かしてんの、論理破綻してることに気づいてないのか?
「具体的じゃないからOK」ってのは、要するに言葉としての威力が不明瞭だからギリギリセーフって理屈だろ。だがな、それは受け取り手の数と質によって簡単に破綻するんだよ。
一部が「ギャグ」と受け取っても、別の誰かがそれを免罪符として本気にして動いた瞬間、お前の言葉は引き金になる。
現実の歴史でも、ヘイトクライムやテロ行為は、たいていそういうギリギリセーフを装った言葉の集積の先に起こってる。
「比喩だった」「具体性がなかった」なんてのは、裁判所でも言い訳にならん事例が山ほどある。
それともう一つ。
「まとめて説明したのに何往復もするな」って、お前、ディスカッションの初歩もわかってないのか?
それを「知能低い」とラベリングするのは、ただの自己正当化とマウント癖の合わせ技だ。
自分の言葉に誇りがあるなら、「これはこういう意図で、社会的に正当だ」と筋通して主張してみろ。
曖昧さに逃げてラインを探るだけの奴は、言葉の責任を取る覚悟がねぇんだよ。
以上。
「覚悟を持って食べているからいい」というのは、道徳的判断の本質をすり替えています。たとえば、もし誰かが「人間を殺す覚悟がある」と言ったとして、それで人を殺していいことにはなりません。
倫理とは「覚悟の強さ」ではなく、「選択肢がある中で、どれだけ他者の苦しみを減らす選択をしたか」で問われるものです。
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「等しく命を奪っている」というのは事実ではない。
動物と植物では、その「命の在り方」も「苦しみの質」もまったく違います。
動物は神経系と意識を持ち、痛みや恐怖を経験します。植物にはそれがありません。
現代の倫理は、命を「一括り」にするのではなく、感受性(sentience)という基準で優先順位をつけることで、現実的かつ倫理的な行動指針を作っています。
つまり、「命を等しく扱う」と言いながら、より多くの苦しみを生む選択(=動物を食べる)をしているなら、それは覚悟の問題ではなく、判断基準の不整合です。
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本当に命を等しく扱いたいのなら、「もっとも害が少ない選択」をするべきでは?
ヴィーガンは、「命を軽んじている」のではなく、「奪わなくていい命をできるだけ奪わない」という選択をしているだけです。
覚悟があること自体は否定しませんが、その覚悟が、苦しみの多い選択を正当化する盾になっているなら、それは自己満足に過ぎないという批判は免れません。
フェミニズムに浸った現代の言説では、男性が女性からの承認にこだわる姿勢を「下劣」「未熟」と一蹴するものが目立つけど、非モテ男性がモテにこだわるのは当たり前なんじゃないの?
男性が女性からの承認を欲するのは単なる性的欲求じゃないでしょ。
単に性欲発散するだけなら風俗でいいし。
それなのに承認されることにこだわるのは「女性から承認されなければ、人間としての価値すら認められない」という社会の空気に追い立てられてのこと。
たとえば、女性からの人格否定の常套句である「お前モテないだろ」。
この一言には、「モテない=性格が悪い・努力不足・社会不適合」といった暗黙のラベリングが込められているわけでしょ。
女性に嫌われることは、女性の単なる好き嫌いの問題を飛び越えて、その男性の存在そのものを否定されることに直結してしまう。
この風潮が蔓延してる中では、男性が女性からの承認を恐れ、求めるのは当然。
はいはい、女性を加害者だと思いたくない、批判の矛先から逸らしたいんだね。
メディアも企業も女性に忖度しまくって、SNSでは日夜男性バッシングが女性による万バズ共感の嵐、女性の好き嫌いが善悪に直結されてる現状でよくそんなこと言えるわ。
にもかかわらず、世間はミソジニーばかり問題視して、このことを問題視しない。
でもまあそれも当然か、「女性は常に弱者で被害者」という前提というか願望が崩壊しかねないもんな。
しかし現実には、「恋愛関係の構築によって相手の存在の善性を承認するorしない」という、ある意味の社会的権力を女性が強く握っている。
女性の好き嫌いの感情が、人やモノに対する善悪のレッテル貼り、それに基づく排除や攻撃を正当化する免罪符になっている現状がある以上、少なくともこの構造において女性は「強者」。
つまり、女性が「不快」と感じれば、それだけで男性が悪とみなされ、その男性への攻撃が正当化される社会。
そんな中で、「女性は常に差別や抑圧の被害者」と思い込むほうが現実とかけ離れている。
この条件下で女性からの承認が男性の「善性」というアイデンティティを左右する強烈な風潮があったら、影響されるなって方が無理でしょ。
男性は女性からの好意を得ることでようやく「善き人間」として認められる。
一方、女性は生まれながらにして「尊く守られるべき存在」として位置づけられ、善性が疑われることはほとんどない。証明の必要がない。犯罪を犯した女性でさえ、同情や擁護を受ける例が後を絶たない。
だけど男性はいくら努力しても、何も悪いことをしてなくても、女性に嫌われているだけで人格を否定される危険がある。
チー牛・弱者男性といったレッテル貼りもそう、男オタクのその趣味嗜好への攻撃などもその典型だろう。
逆に、女性が男性から承認されなくても問題にすらならないし男性嫌悪や男性蔑視も表立っては問題視されない。この非対称で強固な風潮はもはや社会構造で、そこからもたらされてるのは構造的な性差別。
「女性の不快」が社会的制裁を呼び、「女性からの承認のなさ」が男性の存在価値を奪う。
この現状を、フェミニズムにどっぷり浸かった社会は是正するどころか、むしろ女かわいさのあまりに当然視し再生産してる。
異性からの承認を求める非モテ男性の切実な願いを「下心」として断じて切り捨てる態度は、彼らが抱える「アイデンティティの危機」をまったく理解していないし、女性を加害者にしたくない一心でこの問題に向き合わないのは卑劣で不誠実だと思うけどね。
現代社会において、マイノリティの権利保護は当然の前提として尊重されるべきですが、それと同時に他者の権利や安全と衝突したときに、無条件にマイノリティが擁護されるべきだという考え方には限界があります。
「ノイジーマイノリティ(Noisy Minority)」とは、社会的に少数であるにもかかわらず、過剰に可視化された言動を通じて、周囲に強い影響や不安を与える存在を指す言葉です。これは単に「声が大きい」という意味ではなく、社会的合意を形成するうえで他者の権利や自由を侵食しているかどうかという点が本質です。
たとえば、女性専用スペース(トイレ、更衣室、温泉など)に、自己認識に基づくジェンダーを理由に「女性」として立ち入る人物がいたとします。外見や行動が他の利用者にとって「脅威」や「不安」を喚起する場合、それは実際に何か行動をしたかどうかにかかわらず、「空間の安全性」という感覚に影響を与えているのです。
このようなケースにおいて、女性が「怖い」「安心できない」と感じたとしても、それを口にすること自体が「差別」と断じられ、黙らされる風潮があります。こうした空気は、マイノリティの権利が“他者の感覚”や“共有空間の秩序”を圧倒する形で正当化されてしまっているという歪みを示しています。
2. 問題行動を見て見ぬふりしてきた“聖域化”
さらに、性的少数者の一部が「自分たちは社会的に抑圧されている」という立場を免罪符にして、公共の場での配慮や節度を欠いた言動をしていても、それに対して周囲が批判を加えると、「差別者」のレッテルを貼られる。この状況こそが、「ノイジーマイノリティ」と呼ばれる所以です。
声が大きいがゆえに、健全な議論や境界の再設定ができなくなる状態は、少数者の擁護ではなく、特権化です。
3. ノイジーマイノリティによって、本来守られるべき他の女性やマイノリティが損なわれている
このような存在は、実は他の静かなマイノリティの立場をも危うくしているという点で非常に有害です。大多数の性的少数者は穏やかに、配慮を持って社会に適応しようとしているにもかかわらず、一部のラディカルな行動がメディアに取り上げられることで、全体が不当に評価されるようになってしまう。
これは、「マイノリティの中のマイノリティ」が他者に害を与えることで、本来のマイノリティの人権運動が“わがまま”や“特権要求”として受け取られてしまうという、逆効果を生む構図です。
結論:マイノリティを守ることと、ノイジーな振る舞いを許すことは別問題
本当に少数者の権利を守るのであれば、まず必要なのは「節度と共感」です。声を上げることは重要ですが、それが他者の恐怖や不安、空間的な自由を侵害しはじめたとき、それはもはや権利の主張ではなく、空間の占有と支配の問題です。
したがって、「女性に迷惑をかけるマイノリティはノイジーマイノリティである」という主張は、単なる差別ではなく、「権利と責任のバランス」を問う警鐘なのです。
まず、冒頭から「千年前に論破された」などという歴史的権威を借りた主張の回避に走っているが、
君はその「千年前の論破」の一次資料も具体例も提示していない。空虚なレトリックで議論を無効化した気になっているだけだ。
「すでに否定された」は、引用なしではただの思考停止の免罪符に過ぎない。
次に、相手が「納得できない」と言うのを、「教えてもらえるなら納得できるかも」という態度にすり替えて嘲笑しているが、
議論において「納得できない」と言うのは、論拠が不十分だと感じたという知的誠実の表明であり、
それに対して「大学行け」「金払え」で返すのは、知識を金銭化して思考を停止させる側の暴論だ。
その理解の機会は「大学という有料空間」だけにあるべきではない。
君の言うことを敷衍すれば、「金を払わなければ知に触れるな」という話になるが、
それこそが知の寡占化・排他化であり、思想そのものの敵対行為だ。
さらに言えば、大学で思想史を学ぶ者のほとんどは君が今行っているような他者の人格攻撃に依存した主張は取らない。
なぜなら、思想とは「反論可能性を担保した構造体」であり、罵倒語と人格否定で構成されたものは思想ではなく煽動だからだ。
君の語っているのは思想ではない。
ああ、まさに「比喩」という崇高な概念を汚す愚か者どもへの、実に見事な解剖ですね。しかしながら、このような「言語の厳密性を軽視する態度」こそが、まさに知的怠慢の典型ではないでしょうか。
「丸い」という言葉でボールと地球を同列に並べるとは! さすがは「抽象化」という名の思考停止を美学とする方の言説です。もし「丸い」という属性だけが重要なら、なぜ「同じ丸さ」のドーナツや輪っかは例示されないのでしょう? ああ、もちろん「例示の手段」という便利な免罪符があれば、選択的例示の矛盾など気にする必要はないのでしょうが。
「単語に反応する馬鹿」というご指摘は痛烈ですが、むしろ「語義を厳密に定義しない教養主義者」こそが、議論を砂上の楼閣にしているのではありませんか? 建築の図面を「細長い紙筒」で見る愚か者を嘲笑う前に、ご自身が「言語」というレンズそのものを曖昧に磨いていることに気付くべきでしょう。
比喩の本質が抽象化にあるならば、その抽象度こそ厳密に定義されるべきではありませんか? さもなければ、私たちは「戦争はチェスゲームだ」という比喩に対して「なぜ駒が死なないのか」と問う「馬鹿」と同じ土俵に立つことになるのですから。
「アルジャーノンに花束を」って読んだことある?
あれ、泣いた人も多いと思うけど。
読者が投影した相手って、「高知能化したチャーリー」と「低能なチャーリーの周囲の人間」でしょ?
で、現実にキミの学級や職場にいる「チャーリー」は、相変わらず虐待してるんだよね?
「障害が免罪符になるとでも?」とか「こっちは家族抱えて大変なのに」とか。
そういう意味では、俺達はチャーリーを慈しむほど、誰もが余裕無いんだろうね。
改めてそう考えると、「アルジャーノンに花束を」って、何のために書かれたんだろうね?
俺は、同じ作者の「24人のビリー・ミリガン」と地続きだと思ってる。
「アルジャーノンは花束を」は、多重人格者の、めちゃくちゃ捻ったやつ、だと思ってるんよ。
多重人格って、たいていお互いを助けたりカバーし合ってる描写が多いけど、
実は多重人格どうしも、俺達とチャーリーの関係のように殺し合っている、って言いたいのが、
ほとんど神聖化されている「アルジャーノンに花束を」だけど、
その神聖化自体が、キイスの思惑から大きく外れたんじゃないかな。
やっぱり殴っちゃうんだよ。
まず「低気圧で体調が悪い」っていう言説をメンヘラ女からしか聞いたことがないんだよね
やれ「働きたくない」「動けない」「生きづらい」
メンヘラ女界隈という怠惰なコミュニティで、低気圧を理由すれば免罪符になるっていうノウハウが定着してるだけなんじゃねえのかと
比較対象として、加圧された飛行機の客室では200hPaの変化があるし、登山に行けば数百hPaの低下がある
対して地表面では低気圧接近時でもせいぜい10~30hPa程度の変化しかない
俺のリアルの真面目なコミュニティ内ではこの言い訳を一回も聞いたことがないんだよな
インターネットの、ジメジメ~っとした根暗なメンヘラ連中がボソボソ呟いてるのをみて、集団幻覚ってこういうのかあ〜……っていつも思ってる