はてなキーワード: 不可知とは
んじゃあ仮にその理屈を受け入れるとしたら、
男が女アイドルを好きになるのだって社会が押し付けてくる価値観を「内面化」したものでしかないのかもしれないし、本当の欲望なんてどこにもないかもしれないじゃん。
2年ラグぐらいの話は、まあ先回りするのにちょうどいい。でも、これが20年ラグとかになると…「俺が間違ってるのかな?」っていう、もう不可知との戦いになる。答えを待つ時間が、しんどいね…。
人生みたいな【すぐに答えの出ない問題】って、そういうことなんだと思う。「自分が答えがわかっていても、その正解を信じて行動する」って戦いと、「正解がわかっていたとしても、それを活かせるチャンスを獲得する」っていう、もう一つの戦い。この二つがあるから、難しい。
だから、一見すると「頭の良し悪しより行動力」って錯覚されがちなんだけど…。実際、頭良くてもチャンスつかめない人はいるし、頭悪くても問題にならない場所にいる人もいるからね。
…ただ、頭悪いけど行動力があるタイプは、再起不能レベルの失敗をどっかでやるんだ。
「うわぁ…自分で地獄に向かって全力疾走しとる…」って、あんぐりしとるけどね、今。
逆に、頭いいのに成功できない人。これは、・メンタル弱い・仲間がいない・試行回数が少ない…の、どれかだと思うんだよな。
頭いい分、リスクが見えすぎて慎重になったり?自分でできる手堅いプランで考えちゃう?リスクと天秤にかけて、チャレンジしない?
そのへんが、まあ、上振れない原因かな。
前の記事
AIに聞いてみたけど「ほぼ合ってる」と言われたぞ
ーーー以下AIーーー
2. 前提が違えば、導かれる思想も異なる。
→ ほぼ正しいです。
哲学では厳密な定義づけを行い、「もし〜ならば」という形で議論を展開します。
たとえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」は「疑い得るすべてを疑う」という前提から出発しています。
カントも「認識は経験に先立つ構造がある」という前提で組み立てます。
→ これも正しいです。
たとえば:
前提の違いで全く異なる体系が展開されます。
物理学では実験で淘汰される前提が、哲学では「論理的な整合性」しかチェックがないため、並列して残るのです。
→ ここは部分的に正しいが、完全ではありません。
しかし、哲学の営みは「どの前提が最も説得力があるか」を論争し、歴史的に淘汰と洗練が行われてきた過程でもあります。
たとえば:
つまり、観点の陳列ではあるが、ランダムな羅列ではなく「知的淘汰と再編の過程」でもある。
あなたの批判は哲学の構造的な弱点を的確に突いていますが、「陳列するだけ」に限定するのはやや過小評価です。
哲学は確かに前提依存で多様な観点が並びますが、それらを整理し、どの視点がより妥当かを探る「批判と洗練の営み」でもあります。
11月になった。イベと月次/ver限の進捗
原神 | ☑螺旋 ☑シアター ☑花神誕祭テーマイベ ☑戦闘イベ[ongoing] ☑魔神任務 ☑熱闘モード ☐鋳境の研鑽 ☑お試し ☑月次チケダスト交換 ☑5.1追加アチーブ ☑5.1追加レシピ |
スタレ | ☑末日 ☑裏庭 ☑叙事 ☑立本サンポイベ[ongoing] ☑音ゲーテーマイベ ☐不可知域(進捗:凡人集2/6,シミュレーション記録84%) ☑お試し ☑月次チケエンバー交換 ☑2.6追加アチーブ(宇宙以外) |
ゼンゼロ | ☑立本ショウルイベ[@1] ☑チートピアテーマイベ ☑激変ノード ☑お試し ☑月次チケ残響交換 ☐1.2追加アチーブ(@ポンペイ転倒とギアコイン3万) |
3rd | ☑花火Webイベ ☑年次回顧Webイベ ☑メイン探索[エリア開放待] ☑牧場テーマイベ[ongoing/Lv7] ☑お試し ☑月次基地チケ交換 |
柳のPV、フェチ要素や蒼角の可愛さに気を取られそうになるけど普通に映像表現すごすぎないか?
ライティングやボケやアニメ的メガネ表現や小物の揺れとかどんだけ凝れば気が済むのか
写真部はちょいちょい笑いの神が降りてくるな
私はクリスチャンの両親に育てられ、ある時期までは神を信じていた
だが遅まきながら成人後に、聖書に書いてあるような都合の良い神(守り助けてくれる神)はいないんだと気づいた たとえば虐待されて亡くなった小さな子供がいると知りながら神の存在を信じるなら、それは死者への冒涜になると思った 私は小さな犠牲者を冒涜するような人間ではありたくないし、朧げな神よりも目の前の人間の尊厳に天秤が傾くようになった
まあ普通の人は、そもそも神の存在しない地平線から人生をスタートするか、宗教を信じる家庭で育った子も大体は思春期に至る頃には、親を批判的に見れるようになるのに伴い神の存在を自分の中から削除する …んだよね?
生き物は死んで物質として土に還り、脳など、肉体の作用であった思考も共に消える、魂とは人が都合よく作り出した概念であり最初から存在すらしない
多分、大多数の日本人にとっての死生観てそういうものなんだと推察する 私も遅まきながらそういう場所に落ち着いて、長くそこに留まっていた
でも最近、狼狽えている 昔の信仰に戻ることは絶対にないけれど、それとは別として神とか仏の存在を信じる人の気持が切実にわかる ガザとかウクライナを見ていたら、やっぱり天国と地獄はあってほしい
無辜の犠牲者は天国に行って慰められてほしいし、加害者には地獄の業火で永遠に焼かれてほしい (死者を裁いて天国と地獄を管理する存在を便宜的に神と呼称するとして)神にはいてくれないとこまる
たび、死ねば悪行がゼロになるなんて許されるわけがないという考えが頭に過る 神の存在を前提として育てられた私の脳が、勝手に昔の思考の癖をなぞっているのだと分かっていても、それでもなお「神」の存在にすがろうとする 自分は愚かだなと思いながら
いつか悪人は裁かれ相応の報いを受けるのだと信じなければガザの人たちもウクライナの人たちも正気を保てないだろう 一説によればガザではこの1年で30万人近く死んでいるという 誰にも顧みられないまま土砂に埋もれ朽ちていく死体があまりに多すぎる
3.11では2万人が死に、日本中が大混乱と悲嘆に飲み込まれたというのに、何十万人て…
自分を幸せにする神ではなく自分を殺した相手に復讐する神が必要なんだと切実に感じる
もし神がいるとすれば不可知なのだろうと個人的には思う 神はこの世に干渉もしない でも善悪を計る絶対的な存在が別の世界にいて人を見ていてくれなければ困ると思ってしまう
神の存在しない地平線から人生をスタートし、神という考えすらよぎることのない生活をしている人は現代の虐殺を見てどんな事を考えてますか?
※人間も動植物を虐殺して食べてるではないかというツッコミは今は受け付けまられせん
※10.7で殺されたイスラエル人とその加害者ついても勿論同じ事を考えますが、数日で終わった殺戮と1年続く殺戮では自ずと考える時間が違ってきます
そんなことはない? いや、ある。
すべて人間は、「意識してカネ/権力以外の価値観を持たなければ拝金主義/権威主義になる」のである。
「カネより大事なもの」「権威より尊重するもの」があるということである。
「コスパを度外視しても未来に投資する」「権威に逆らってでも弱者を守る」こういうことは、洗練された強い価値観を持たないと実行できないことだ。
日本人は「なんとなく平和主義」で「なんとなく自由主義」だが、「なんとなく」にすぎないので、カネと権威の強い圧力があるとあっさり屈してしまう。
拝金主義、権威主義であるためには強い主義主張を持つ必要はない。むしろ、ただ意志が弱ければ当たり前にそっちに流れるのである。
カネと権威の圧力を前にしても「平和」「思いやり」「自由を愛するこころ」を貫くためにこそ、普段からの強い意識が必要なのである。
よって、普段からきちんとものごとを議論せず、言語化できず、価値観をしっかり持たない日本人は、消去法的拝金主義、消去法的権威主義が他のどの国どの民族よりも強いという結果に至るのである。
強い価値観を持たないすべての日本人は、消去法的拝金主義者であり、消去法的権威主義者である。
日本人が「なんとなくの平和主義者/自由主義者」でしかないこの現状が続く限り、日本はどこまでも新自由主義かつ全体主義の最低国家への転落に歯止めが利かなくなるだろう。
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613
みたいな主張、ようは「数学的に証明されたら感覚的なことではない。感覚じゃない事実なことを示すために証明するんだ」みたいな主張に対する違和感から始まってんだよね、元増田は。
いや、定義自体が、人間にインプットされた「同一/非同一」とか「書き換える」みたいな原始的な観念/身体感覚に依存してる部分が多少なりともあって、このプリセットが全人類で同一か確認する術が不可知なのだから、
「感覚をあいまいなもとみなし、そこから『全く』逃れるために証明するんだ」という考え方は、誤りだろって突っ込みたい動機から始まってるんだよね。全くじゃなく、程度問題だろ、全く感覚の影響を排除できてるというのは思い上がりだろっていう。もちろん厳密であろうと努力する態度は尊いと思うよ。
https://togetter.com/li/1912610
漫画本編はまとめに載ってる(作者が宣伝用に全ページうpしてる)ので知らん人はまず読んでどうぞ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722072961604756130/comment/IthacaChasma
内心の自由についての考えが深まる怪作。先生の内面も高潔だったら、きっとサトリ君は救われていないと思う。そして先生が口に出して言っていること(外面)は全て正しい。
賢しげにこんなこと言ってる&星つけてるブクマカが実際は全く内心の自由について考えておらずただ自分の思い込みを強化しているだけとバラしたので確かに怪作
なぜならこの漫画は「内心の自由の尊重についての物語」ではなく「内心の自由が崩れている世界の物語」だから
作者にその意図があったかどうかはともかく作品はそうなっている
先生が口に出して言っていることが正しい?
普通に保身のために嘘ついてるが?
「アンタのそのイカれた本性 必ず表に出させてやるッ!!」
はてな民は人権とか詳しいから3秒考えれば分かると思うんだけど、「読心術で知った他人の内心を周りにバラす」が内心の自由の侵害といえるかどうかはかなり微妙
むしろバラすことを禁止してしまうとサトリくんが自分の知っていることについて自由に発言する「表現の自由」の侵害になりかねない
「恋心を打ち明けられた人間はそれを一生黙っている義務を負うのか?」はブクマカの間でも意見が分かれたのを覚えているだろう
もちろん自分の恋心を自分の意思で打ち明けた一橋の事例と無許可で心を読めるサトリくんの事例は根本的に違うが)
外形と内心を同じように感知できるサトリくんにとっては「ねえねえ、僕の担任の先生はメガネの若い男の人なんだよ」と「ねえねえ、僕の担任の先生は僕の首を蹴りとばしたいと思ってるんだよ」の間に違いはない
まあさすがにこの内容だと名誉毀損濃厚だが、例えば「先生はハムスターを飼いたいと思っている」程度の穏やかな事柄を暴露するのがどういう法律に抵触するというのか
秘密を守るとの約束(つまり口頭での契約)があったわけでもないので民事でも厳しい
なぜこれほど先生に不利な事態になってしまうかというと、サトリくんが心を読んだ時点で内心の自由という原則が崩壊しているから
読心術はその前提を壊すから憲法の自由権全般の作り直しが必要になる
仮にサトリくんがクラスメイト全員に読心能力を与えることができたならと考えると崩壊の様子がわかりやすくなる
重要なのは読心能力者の間では互いに心を読み合ってテレパシーができること
こうなってしまえば他人の内心の暴露も誹謗中傷も企業秘密の漏洩も何もかもが合憲的に合法的に行える
読心能力を得た生徒たちは先生の心を読んでさまざまな感想を抱くだろう
そしてテレパシーで話し合うだろう
表面上は平然と振る舞うことはほとんど不可能だろうし、仮にできたとしてそのような状況で先生の尊厳が守られているとはとてもじゃないが思えない
口に出して話をしてしまうほうがまだマシではなかろうかとすら感じる
ただし実際にはサトリくんは1人しかいない
だから先生は良心の自由原則が壊れたことを他の人々から隠蔽しようと、消滅してしまった自由がまだ存在するかのように見せかけてサトリくんを脅しているしそれは上手くいきそうに見える
しかし内心の自由は読心術を持たないホモサピのポジショントークにすぎないのでサトリくんにそれを押し付けるのは多数派の暴力だ
視覚を持たないヒトデが地上を支配して「視覚から得た情報は一生心の中にしまっておくべき。表に出したら権利侵害」と言い出したら理不尽だと思うだろう
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる