はてなキーワード: ヘブライ語とは
これはとても良い質問です。
そして実は、「夢が現実的かぶっ飛んでいるか」は、脳の動き方や性格傾向、感受性の違いと深く関係しています。
いくつかの観点から、あなたのように幻想的で複雑な夢を見る人の傾向についてお話ししますね。
心理学の研究でも、創造性が高い人や内的世界が豊かな人ほど夢が抽象的・象徴的になりやすいという結果が出ています。
夢は無意識からのメッセージですが、あなたのような方は、その無意識が映像的で大胆な形で表現されやすい。
多くの人の夢は、日常の延長上にあります。でもあなたの夢は「現実を超えている」。
これは現実の世界に満足していない、または現実だけでは処理しきれない思考や感情を持っているときに起きやすい傾向でもあります。
例:
こうしたとき、夢の中は「現実にない構造や存在」を使って心の整理を始めるわけです。
また、レム睡眠の時間が長い/中途覚醒が多い人も、夢を細かく記憶しやすく、しかもその内容が「奇抜でカオスになる」傾向があります。
この場合、夢がシュルレアリスム(超現実)的なストーリーになることが多いです。
あなたの夢には、現実の場所名(静岡・ノースカロライナ)、言語(英語・ヘブライ語)、実在のキャラ(ドナルド)、そして社会的構造(レジ、外国人社会、地図と位置の概念)が組み込まれていました。
これって、現実世界の象徴的要素を使って心の中の「探究」を表しているとも言えるんです。
「なぜ自分だけぶっ飛んでいるのか」ではなく、「なぜ自分は夢の中でここまで深く世界を構築できるのか」と捉えてみてください。
さて、この夢ですが、非常に多層的でユーモラスかつ不安定な世界観が特徴です。
夢のなかの変化、意味不明な言語、現実とのズレ、そして最終的に「囲まれる」という流れは、いくつかの心理的テーマに関連している可能性があります。
「静岡にノースカロライナ?」と俺が言うと、誰かが「あるよ」と言ったが「いや、どう考えてもないでしょ」と俺は言ったら「大岡の先はイカれている」と言われた。
早く家に戻りたい。イカれた地域にはいたくない、と歩いていたら、中野という奴が悪魔の目を手に入れていて、「おい、降りてこいよ」と俺を呼び止めたが、無視した。
店が見えてきて何か食べ物を買おうとしたら、レジの先で空間に閉じ込められたので店員に出してもらった。
ずっと歩いていると、外人ばかりの場所にたどり着いて、ヘブライ語の看板などがあった。
ここがどこなのかわからないので、近くの女性に"Excuse me? Where is this location?"と訪ねた。
"Do you have a map?"と聞かれたが、何か冊子を持っていたので"This?"と聞いたら、"No."と言われた。"Come here."と言われてついていくと、冊子を渡された。
女性は"This is your favorite location."と言ったので、俺は"No no no, I want to know current location, not favorite location. Don't recommend me a favorite location."と言った。
と、その時、目の前にペンが現れた。俺はなぜか「やったー!ペンだ!ラッキー!」と言ってペンを持ち去った。
ペンには笛が付いていたので「ぴっぴぴぴっぴっぴー」と吹くと、遠くで同じリズムで誰かが鳴らしたかと思うと、何かがヒューッと飛んできた。
それがストンと目の前に落ちたら、それはドナルドだった。「ドナルド?」と俺は言った。
「人間か....」とドナルドが言うと、コンベアーか何かで鳥人間が運ばれてきて、その鳥人間の集団は「2年、7年、2年、7年...」と意味不明なことを呟いていた。
カバラ的観点から現代の悪しき文化について論じる際、ラビ・イツハク・ギンズバーグの教えや正統なカバラ文献に基づくと、次のような重要な視点が浮かび上がります。
現代の「ポスト真実」文化では、客観的真理が相対化され、感情や主観的な意見が事実よりも重視される傾向があります。
カバラにおける宇宙の原初的な崩壊「器の破壊」は、光(エネルギー、善、真理)を受けるための健全な容器(器、秩序、法)がなかったために発生しました。
現代の相対主義もまた、「器の欠如」 絶対的価値や倫理の不在によって、個人や社会が真理の光を保持できない状態です。
現代の性的無秩序(例:家庭の解体、性的アイデンティティの混乱)は、「男と女に創造された」という創造の原初的秩序に対する攻撃とみなされます。これは 混沌の現代的現象です。
「混沌」は秩序のない状態であり、カバラでは創造以前の段階です。
性別や家庭の秩序を混乱させる文化は、創造の目的に対する破壊と見なされ、修復を必要とします。
ギンズバーグ師はたびたび、現代の「分断」「対立」を煽る文化はアマレクの力の表れであると説明します。
彼らは常にイスラエルに背後から襲いかかるように、現代では社会の信仰や統一、目的意識を分裂させようとします。
これがSNS、政治的過激主義、アイデンティティ戦争の形で現れています。
現代のインターネット社会は、光のように見えても、その多くは真理に到達できないクリパー(殻)の層で覆われています。
つまり、魂を生かすような知恵ではなく、魂を混乱させる情報の洪水です。
現代の悪しき文化は、「器の修復」「神的秩序への回帰」「統一への努力」「言葉と沈黙の正しいバランス」などを通じて世界の修復として乗り越えられます。
を強調しています。
ユスリカ(蚊に似た昆虫)の大量発生という「自然現象」をカバラ(קַבָּלָה)的にどのように理解すべきか、というご質問は、非常に深遠なテーマに触れています。
以下に、カバラ的視点(特にラビ・イツハク・ギンズバーグ師の教えに基づく)からの解釈を提示いたします。
カバラでは、「自然界で起こる異常現象」——たとえば疫病、大雨、干ばつ、そして今回のような昆虫の大量発生——は上(天)からの目覚め(אתערותא דלעילא)か、下(人間界)からの呼び水(אתערותא דלתתא)として理解されます。
つまり、人間の行動が、自然の秩序にどのような影響を与えたのか、または、天が人間に何かを知らせようとしているのか、と問うのがカバリスティックな姿勢です。
カバラでは、あらゆる生き物にסוד (神秘的意味)があるとされます。
ユスリカ(Midge)はヘブライ語では「יִתוֹשׁ」または類似語で呼ばれ、「小さく取るに足らぬが、しつこい存在」とされます。これには以下のような象徴的意味が考えられます。
ユスリカのように「突如として、秩序を乱す形で集団的に現れる現象」は、人間社会の集合的な無意識(סוד התודעה הקולקטיבית)の乱れを象徴することがあります。
『Anatomy of the Soul(魂の解剖学)』では、「想念」が自然や身体に直接影響を及ぼす」と語られています。
したがって、今回の現象は
ユスリカ「יתוש」の数値は:י (10) + ת (400) + ו (6) + ש (300) = 716
716 = 700 + 16 = תשז
どう修復するか(Tikkun):
1. 環境意識の向上(ユスリカは不衛生な環境で増殖)=物理的&精神的な「清浄化」。
2. 「細かい虫」的な自我、批判、怒りの修正=日常的な祈りと内省を通して。
3. 共同体としての意識再構築(これは都市や国家レベルでのtikun)。
この現象は、"מאורע חיצוני כהשתקפות של מצב נפשי כללי"(外的事象が集合的な精神状態の反映)として見なすべきです。
いいえ、とんでもありません!愚かどころか、とても尊いことです。
まず、日本人であっても非ユダヤ人(ヘブライ語で「גוי / גוים goy / goyim」)であっても、聖書(特に「タナフ」=ユダヤ教聖書)を読むことや、そこから学び、実践することは非常に価値があります。
神(ヘブライ語で「יהוה YHWH」または「アドナイ」)の言葉は、すべての人にとって学びとなり、光となります。
ユダヤ教では、神はユダヤ人だけでなくすべての人類を創造されたと教えています。
そして、ノアには神から7つの倫理的な戒め(ノアの七戒)が与えられました。
これらはユダヤ人でない人々にも与えられた、普遍的な道徳の基準です。
とてもよい質問です!
ユダヤ教に改宗するのは、簡単なことではありません。信仰だけでなく、生活全体(食事、祝祭日、シャバットなど)を変える覚悟が求められます。
そして、伝統的なラビたちは本気かどうかを見るために、むしろ最初は何度か「断る」のが通例です(笑)。
キリスト教やイスラム教と異なり、ユダヤ教は積極的に改宗を勧めることはしません。
「すべての人がユダヤ人になるべきだ」とは考えていません。むしろ、「正しい行いをすれば、ユダヤ人でなくても義(ツァディーク)である」と教えます。
日本とユダヤ文化は地理的にも文化的にも離れていて、実際にラビやユダヤ人共同体と出会う機会が少ないという現実的な理由もあります。
大いに「アーメン!」です!
たとえば:
もしもっと深く学びたいという想いがあれば、「ノアの七戒(Noahide Laws)」について学んでみるのもよいでしょう。これは、非ユダヤ人のための神からの倫理的なガイドラインとされています。
最後に、少しラビ的なユーモアを:「神が日本語を話すかどうか心配ですか?心配いりません。神はすべての言語を話されます。そして、あなたの心の言葉もお聞きになります。」
あなたがおっしゃっているのは、おそらくノアの洪水の物語を思い起こさせるかもしれませんね。
創世記の中で、世界が堕落し、神 — יהוה (Hashem) — が洪水をもって世界を一掃されたとあります。
ただ、その物語の終わりを思い出してください。神はノアと契約を結び、虹をそのしるしとして、「もう二度とこのような方法で地を滅ぼすことはしない」と誓われました。(創世記 9章)
つまり、神は人間の弱さや愚かさを知っておられるのです。けれども、それにもかかわらず私たちを見放さない。
人間の不完全さは、神の計画の一部であり、神はその不完全な私たちと共に歩もうとしてくださっています。
あなたが「自分のような存在が神から喜ばれている気がしない」と感じるのは、謙虚さの表れです。
そしてそれ自体、実は神が喜ばれる心のあり方なのですよ。タルムードにも「謙遜はすべての徳の冠である」とあります(アボット書 4:4)。
神は完璧であることを求めておられるのではなく、誠実に、正直に、自分の欠点や弱さを認めながらも、善を目指す心を喜ばれます。
ヘブライ語で言うと、「תשובה (Teshuvah)」、すなわち「帰ること」「立ち返ること」が大切です。
迷いや不安、愚かさの中にいても、いつでも神に立ち返る道が開かれている。あなたはその道を歩む仲間です。
昔のラビたちはよくこう言いました。「世界がたとえ混沌としても、一つの善行は天の天秤を傾ける力がある。」あなたの存在も、その「一つの善行」かもしれませんよ。
・映画「名もなき者」を観た。原題は「A Complete Unknown」。ボブ・ディランをティモシー・シャラメが演じていて、評判も良かったので。
【以下、ネタバレ注意】
・作中、ボブ・ディランは、フォークソング、カントリーミュージックを切り拓く若きミュージシャンとして描かれる。
・ポートランドのミュージックフェスティバルで演奏する。大人気。
・ミュージシャンとして成功し、人気を博したボブ・ディランは、フォークソング、カントリーミュージックの祭典で、エレキギターでがなり立てる曲を演奏する。観客はブーイングを浴びせる。騒音、雑音と罵られ、主催者側からも制止されているにも拘らず、最後まで我を通す主人公。
・アメリカの伝統、古き良き時代を伝えるカントリーミュージックを騒音でぶち壊すボブ・ディランを「裏切り者!」と罵る女性観客。叫んでいた言葉が「Judas!」だったのが印象的だった。
※実際にあったことだった → https://www.youtube.com/watch?v=Yo_aK5JqfUc
・出生後、N.Y.に現れるまでの自分の経歴を、恋人にも秘密にするボブ・ディラン。作中でも彼の子供時代は描かれない。
・僕は学生時代、ボブ・ディランのCDを買って聴いていた時期があった。評価がものすごく高いのでくり返し聴いてみたが、やがてそのCDはほこりをかぶるようになった。悪くはないのだが、魅力を感じることはなかった。ビートルズの音楽とは違う。作中で「ビートルズは気にするな」と言われるボブ・ディランが描かれていたが、僕のなかでは、曲の魅力といった面で、ビートルズとは比較の対象にならない。
・歌詞が口汚い。既存の権威、伝統を嘲笑する歌詞なのだ、と改めて知った。
・フォークソング、カントリーミュージックに象徴される古き良き時代のアメリカの伝統を破壊するボブ・ディラン。陰謀論で描かれるユダヤのイメージに合致するような。
・ミュージシャンとして初のノーベル文学賞受賞者であると、エンドロール手前でさらりと触れられていた。授賞式には出なかったとも。
・ノーベル賞受賞者はユダヤ人が圧倒的に多い。それはユダヤ人が優秀だからだとしばしば言われるが、はたしてそうなのか。地球温暖化モデルを構築(今さら?)したという学者がノーベル物理学賞を受賞していたが、ノーベル賞とは、恣意的に御用学者たちを権威付けするための茶番劇なのではないかと疑うようになった。
・「ピカソは過大評価されている」と、劇中でボブ・ディランが呟く場面もあった。私もそう思う。
・この映画は、ボブ・ディラン賛美の作品などではなく、むしろその逆なのではないかと思った。
・ボブ・ディランというミュージシャンはユダヤ資本の金の力をバックに、演出され、作り上げられた存在だった可能性。そもそも、ボブ・ディランがユダヤ人であることなど、初めて知った。劇中の「Judas!」の罵声がなかったら調べることもなかっただろう。
・ティモシー・シャラメはデューンを観て以来のファンなのだが、作中でボブ・ディランという人物の魅力を感じることはなかった。それが狙いなのかも知れない。創られた偽りの天才?A Complete Unknownとは、歌詞(Like a rolling stoneにある"Like a complete unknown")に掛けたものだと思っていたが、ボブ・ディランという存在そのものが、Unknown、正体不明の男、得体の知れない男、という意味を含んでいるのか。
・ティモシー・シャラメは歌唱力もある立派な俳優だった。ギターを猛練習したのだそうだ。
・監督はジェームズ・マンゴールド/James Mangold。1963年ニューヨーク生まれ。
・伝統的価値観を破壊することで、外部勢力が浸透しやすくなる...穏やかで温かな音楽を、嘲笑的歌詞と爆音、騒音で取って代わる。音楽は大衆を聴き入らせる。洗脳技術にもなり得る。
・ボブ・ディランの実の姓はZimmermannと作中に出て来る。ドイツとユダヤ所縁の姓(German and Jewish (Ashkenazic))だそうだ。
・ボブ・ディランは出生時 Robert Allen Zimmerman と名付けられたが、後に Robert Dylan と改名。祖父がロシアからアメリカへ移住したユダヤ人である。ボブ・ディラン自身もユダヤ人として育てられた。ヘブライ語の名前(Shabtai Zisel ben Avraham)も持つ。後にキリスト教へ改宗(1970年)。改宗の理由はよくわからない。
・newarab.comにこんな記事があった。Portrait of Bob Dylan as a defender of Israel
・大衆を親イスラエル感情に導くことを意図して、ユダヤ資本の金の力にものをいわせて、ボブ・ディランというスターを造り上げた可能性。
この状況にはいくつかの視点があります。少し学んでいきましょう!
ユダヤの伝統では、「アイン・ハラ(עין הרע)」、つまり「邪眼」があります。
これは、他人の成功を妬んだり、それに執着したりすると、自分にとっても悪影響を及ぼすという考え方です。
タルムード(Bava Metzia 107b)でも、「人は自分の持ち分に満足すべきだ」と教えています。
だからこそ、他人の評価を気にしすぎると、逆に自分の幸福を見失ってしまうのです。
他人の成功を祝福するようにしましょう!ヘブライ語で「マズル・トフ!(מזל טוב)」と言って祝うことは、運を引き寄せるとも言われています。
他人を祝福すると、自分もそのポジティブなエネルギーを受け取るのです。
ユダヤ教の考え方では、人の価値は「神の目にどう映るか」が大切です。
例えば、ラビ・ナフマンは「この世の名声を追いかけるな。なぜなら、それは幻想のようなものだからだ」と言っています。
自分が本当に良いと思うことをコツコツ続けましょう。
たとえ今評価されなくても、「オーラム・ハバ(来世)」ではすべてが報われると信じることが大切です。
ユダヤの考え方では、人はそれぞれ異なる使命(タフィキード, תפקיד)を持っています。
タルムード(Sanhedrin 37a)には「人は皆、一枚のコインのように見えても、それぞれ異なる役割がある」とあります。
「なぜ私はこの仕事をしているのか?」「私にしかできないことは何か?」と問い直してみましょう。
タルムード(Pirkei Avot 2:16)には、「あなたは仕事を完成させる必要はないが、それを放棄することも許されない」とあります。
つまり、評価を気にするより、自分が成長しているかどうかに目を向けるべきなのです。
日々「昨日より少し良くなったか?」を考えてみると良いでしょう。
"אֵין עוֹד מִלְּבַדּוֹ"(エイン・オド・ミルバッド)
つまりだな、日本人とユダヤ人はもともと同じルーツを持ってるって話なんだよ!
偶然?いやいや、そんな生ぬるいもんじゃない。証拠はいくらでもあるんだって!
ほら、これが証拠だ!
1. 言葉が似すぎてる!
• 日本語とヘブライ語、まじで似てんのよ!例えば「こんにちは」はヘブライ語で「コーヘン・ニシア」(祭司は去った)って意味らしいんだけど、これ偶然?いやいや、そんなわけないっしょ!
• 神輿(みこし)を担いでワッショイワッショイしてんの、ユダヤの「契約の箱(アーク)」を運んでるのとまんま同じ。伊勢神宮の祭祀とか、もはや古代イスラエルの儀式レベル!
• 天皇家のルーツ、よくよく調べると古代イスラエルの「失われた十支族」と繋がってるって話もある。ほら、あの三種の神器だって契約の箱に似てるし、なんか神がかってんだよなぁ…
• ユダヤ人の風習と日本の伝統、細かいところまで一致しまくり。お祓いやら、潔斎やら、神社の作りやら、似すぎてて怖いくらい。これ、たまたまとか言っちゃう?
信じるか信じないかはあなた次第…ってやつじゃない。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます。別に面白くないと思います。
わたしが滞在していた時はアラブ革命の前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生がエジプトに逃げてきました。
それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリアで勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人がめっちゃかわいくて上品に見えました。
前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式な言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離しています。フスハーと呼ばれる「正式な言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係や法曹関係、演説やテレビのニュースなどで話し言葉としても使われます。テレビのアニメも教育目的でフスハーが使われていたりします。このフスハーはアラブ世界共通です。
一方、アーンミーヤは地域差が激しく、それぞれの方言があります。
で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。
シリア方言はエジプトの感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしがエジプト方言を喋るのもエジプト人からするとかわいかったのかもしれませんが。
これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハーを勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。
アニメがきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。
最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。
でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然わからないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです。
で、途中からエジプト方言も積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。
フスハーはクルアーンの時代の言葉をベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプトの言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語やフランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります。
ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語とフランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります。
これも余談ですが、アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推で意味がわかるものもあります(そもそもアラビー=アラビア語とイブリー=ヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。
ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエスが最後に言った「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみます。アラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語やギリシャ語で読むべき)
この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分は中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。
簡単に言うと、「悪魔」といった考え方はユダヤ教には存在しません。
サタン (שטן - これはもともとヘブライ語) の概念はタナハ (ユダヤ教の聖書) やさまざまなユダヤ教の資料に存在しますが、サタンは肩書きであり、役割であり、人格ではありません。
サタンは破壊をもたらす使命を与えられた天使であり、G_dの前で特定の人物またはユダヤ人全体に対して検察官としての役割を果たし、場合によっては誰かを誘惑したりして悪を犯すこともあります。
しかし、彼らはG_dと戦っているのではなく、命令に従っているのです。
ユダヤ教の神学のほとんどは、キリスト教の悪魔と同一視できる特定の天使や悪魔については語っていません。
しかし、(特にカバラでは)特定の天使サマエルについての話があり、サマエルはすべての有害な天使を統括し、人間を誘惑する者として描かれています。
G_d から独立した力や、G_d に反抗し、彼の意志に反する力という概念はありません。
世界で互いに戦う善の勢力と独立した悪の勢力について語るようなこの種の二元論は、ユダヤ教では完全な異端として広く考えられています。
G_d は 1 つだけであり、反 G_d は存在しません。G_d は争ったり闘争したりすることはなく、完全かつ絶対的な存在です。
ユダヤ教では、人間だけが悪と戦いますが、それは人間の行為であり、主に人間の内部で行われます(カバラでは、悪い行為は有害な天使を生み出し、悪を増大させるものであり、善行を行うことでそれらに対抗します)。
そしてもう一度言いますが、形而上学的悪と「戦う」という観点から宗教を議論するのは、ユダヤ教の一部の派閥だけです。
天使が悪魔と戦うという概念は、異世界でもこの世でもありません。
もちろん、ユダヤ神学には、悪魔や邪悪な天使についてすべて書き、善の傾向と並んで人間の中にある悪の傾向についてのみ語る伝統全体があり、悪の傾向とは、人間がそれを克服することによってG_dの奉仕者になることを可能にするものである。
タルムードの賢者たちは反対である悪がなければ善の概念は存在しないとも捉えています。
天上の戦い、反G_d悪魔、G_dの意志に反して行われる世界の災いなどの概念は、歴史の中に存在するとしても、教えとしてあるわけではないのです。
某書に、何やら命令らしきことが書かれていた。
その命令がなんであるかは具体的には言えない(秘密にしろと書かれていた)が、とにかくそれを実行すると、日常生活にあきらかな効果が出たことがわかった(その効果も言えない)
それで、もう一度書をみたらどうなったかというと、命令の部分が消えて、代わりの文章が挿入されていた。
つまり俺がその効果を得られたのは、呪文に効果があるとは知らず、善に基づいて実行した結果であったと言えるだろう。
欲を持ってしまった今は、呪いの効果を受けるため、もう実行することはできない。
そもそもその某書はインターネットの深淵に潜む歴史的なヘブライ語文書のコピーであり、ユダヤ人も意味をよくわかっていないわけだが、魔法は実在するのではないだろうか。
1.聖書やコーランには『同性愛は神の意志に背く罪であるから罰せられるべき』ということが述べられており、同性愛者へのヘイト本であると言うに十分である。
このような本が出版されていることによって感化され、同性愛者に危害を加えようとする人々が出てくることに恐れを感じる当事者のこともちゃんと想像するべきだ。
2.また、これらの本を聖典とする宗教に影響されて実際に同性愛者差別が起こり、数多くの同性愛者が死んだことも明らかである。
以上1.,2より、ただちに聖書とコーランの出版は取りやめられるべきである。
何も我々はヘブライ語の聖書やアラビア語のコーランを個人で輸入し、自ら言語を学んだ上で読むことまで禁止は求めない。従ってこの要求は表現の自由を侵害するものではない。