はてなキーワード: ビッグとは
また文春ガー!って発狂すんのか?w
https://bunshun.jp/articles/-/78889
インターネットの登場は、資本主義に対する楽観をさらに強化した。しかし、それから30年後の世界は、自由で平等で豊かどころか、その逆になってしまった。資本主義は失敗したのか。否、資本主義は成功し、その成功がデジタル空間を生み出した。しかし、そのデジタル空間が、資本主義そのものを破壊している。ならば今度こそ、社会主義になるのか。否、かつて資本主義が打倒した封建制がよみがえったのである。それが「テクノ封建制」である。
現代の経済システムを「封建制」と呼ぶのには異論も出ているようだが、それでもバルファキスがそう断言する理由は、その搾取の仕組みにある。かつて封建制においては、封建領主は領民たちを土地にしばりつけ、彼らから地代という「レント」(不労所得)を搾取した。これに対して資本主義は、資本財や労働力から生まれる「利潤」の追求によって動くシステムであった。しかし、現代では、GAFAMなどがデジタル・プラットフォームを提供し、そこで利用されるアプリの開発者の売り上げの一定割合をピンハネする。あるいは、非正規労働者や零細自営業者の出来高払いの稼ぎからピンハネする。こうしてプラットフォーマーが得た法外な利益は「利潤」とは言えない。「レント」である。レントを追求するシステムは「資本主義」ではない。「封建制」である。だから、「テクノ封建制」だというわけである。
バイデン政権は、テック業界の独占にメスを入れようとしていた。これに反発したテック業界は、2024年の大統領選においてトランプを支持し、第二次トランプ政権を成立させた。そのトランプの大統領就任式には、イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバーグ、ティム・クック、セルゲイ・ブリンといったテクノ封建領主たちが顔をそろえた。マスクに至っては政権入りした。
日本が財政赤字を積み上げても長年物価が上がらなかった理由として、第一に挙がるのが「デフレマインド」というのはあまりにも納得がいかない。2020年代になってインフレに転じたのはデフレマインドが消え去ったから?少子高齢化と言われ続けて30年以上、どこにマインドが好転する要素があるのか?
インフレに変わったのは団塊世代の大量離職に伴う労働人口の激減、つまり日本の国力低下が主因だろう。それをウクライナ戦争とパレスチナ問題とコロナ禍による国内外の供給力の低下が強力にアシストした。「失われた30年」としてデフレが問題視されていたが、デフレで済んだのは皮肉にも国力がまだ維持できていたからだ。90年代に今の人口ピラミッドからスタートしたら、果たしてデフレが続いただろうか。長年のデフレは良いシナリオではなかったが、最悪のシナリオでもなかった。今はインフレかもしれないが、スタグフレーション寄りのインフレで、90年代から約30年避けることができていた悪夢がついに到来したのだ。今の惨状において、長年物価が上がらなかったというより、物価の上昇を避けることができていたといったほうが納得感がある。
<ゴミ箱で消去しても反応しない とある.docxファイルの文面>
この投稿物には、インターネットという不特定多数の瞳に入る環境でありながら、読者であるあなたひとりひとりの協力と一致団結が欠かせません。
どうかご協力ください。
そして、申し訳ありません。
『〇〇〇〇〇』というタイトルをお見せできるのは、この投稿自体が安全だと証明できるまで、どうか辛抱強く待っていてもらいたいのです。
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油断をするとN氏の作ったAIによって作者である私の素性を特定し、〇〇単位で亡き者にされるからです。
この文章は、小説の登場人物同士の会話や回想ではなく、いまこのページを読んでいるあなたに向けられて書かれた文章です。
匿名に優位性のある場所でしか、この文字を打つことはできません。
私が焦っているのは、今、この現代日本で『〇〇〇〇〇』がまったくもって存在しないということです。
興味深いことに、この物語がない世界線では日本のあらゆる社会的現状が比較的に見て、少しよくない方向に進んでいるように思えます。
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「ドラえもん」「ワンピース」「ドラゴンボール」「とあるジブリ作品」その他、「あなたの大好きな流行りのマルチメディア展開作品の一つ」がまったく存在しない世界に、あなたが迷い込んだとします。
その●●●●氏による『〇〇〇〇〇』は、約十年単位で大衆を沸かせているコンテンツでした。
漫画は全51巻、スピンオフ漫画は14巻。映画化は全5回、テレビシリーズは全12×6話です。アニオリは2話(45分と60分)です。CGを多用したドラマ化は個人的な総評からはやるべきではなかったと思うのですが、国内のCGクリエイターの組織及びスタッフたちに安定した仕事を与える面での功績が非常に高かったといえる作品です。発行部数も万や億という単位ではありませんし、海外の方でも楽しみやすい作風なのが幸いし、イギリス版「〇〇〇〇〇」、アメリカ版「〇〇〇〇〇」、中国版「〇〇〇〇〇」フランス版「〇〇〇〇〇」インドネシア版「〇〇〇〇〇」などが生まれるほどです。
それだけの実績があった『〇〇〇〇〇』が、なんとこの次元に存在しない。
その代用品になる物語が当然あるだろうと思いきや、いくらそれっぽいワードを重ねて検索しても全くない。
これは由々しき事態です。
作者様である●●●●氏は、この次元では既に亡くなっているのでしょうか。
もちろん名前で検索をしても一切情報は出てきませんし、表示されるわけがありません。
先日、しびれを切らし、作者が住んでいる土地や出生地に行って直接あらゆる人に尋ねましたが、なしのつぶてでした。
正直あきらめかけました。打ちひしがれる中で困惑するカウンセラー相手にカウンセリングをしてもらい、時間をかけて自身をセルフ洗脳しようとまでしました。
「きっとあの創作が原因で子供が集団で凶悪事件を起こした世界線で、だからきっと修正された」
「きっとアニメのワンシーンが原因で国際問題になって都心に核爆弾でも落ちたに違いない」
でも、この次元で丸三年も生活したにも関わらず、未だに脳裏に過ります。
その物語が日本の社会に存在しないこと自体が、大きな権力を持った何者かによる意図された操作によるものであり、
ある種の複雑な陰謀であり、取り返しのつかない誤りだったとしたら。
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今のところ犯人は「作品制作に介入できる権力者ではないか?」と推理しているまでです。
それどころか「なにかのファンタジーめいた能力者」ならもうお手上げです。
清水の舞台から飛び降りる気持ちで投稿した事実すら、なかったことにされるでしょう。
だとしたらおこがましくも、『〇〇〇〇〇』をこの手でここに再現しなくてはならない。
ひょっとしたら偶然そんな無茶な使命を帯びているからこの次元にスライドしたのかもしれない。
スライドというのは意識しないうちに別の次元に移動することです。「転生」みたいなわかりやすいものではありません。
気が付いたらドーナツの穴が存在しない地球に来ていたとしても、いつ最後のドーナツの穴を確認したかは思い出せないようにです。
実はほかにもその次元から迷い込んだ人間がいるのかもしれない。
インターネットに『〇〇〇〇〇』の内容を投稿すること自体が一種の反抗のようにも思えてきました。
描かれた漫画にはアシスタントがいて、編集もいて、大抵は一人で作られたものではありません。
小説などのあらゆる文字列にも、編集者や推敲者、検閲者が協力をしています。
正直に弱音を吐きます。
自信がありません。
こんな私のような文章力もない凡人が、あの、大衆に十年以上も支持された『〇〇〇〇〇』を説明し、ここで拙い文章で再現するなんて。
あらかじめ読者様に対して釘を刺します。
『〇〇〇〇〇』のタイトルを出さずに物語を説明するのは大変です。
これを読んでいる誰かがそれっぽいタイトルを思いついたとしても、twitterやyoutube、facebookなどのSNSでその単語、仮のタイトルを書いてはいけません。
たとえフォロワーがゼロ人だったとしても、AIで識別されて特定される可能性があります。
実を言うとAIかどうかは確実ではありません。
おそらくAIです。
確実ではないのですが、AIでないのなら、とんでもない悪意を持った「何か」です。
今までの時系列から推測するに、下手をするとユーザーである人間ごと消されるからです。
「そのタイトルを見て知ったすべての人」が、です。
あれだけのビッグタイトルを根元から消した犯人がいるのなら、相手はこちらが何十万人いようがまとめて消去することができるのではないか、そんな恐ろしい想像までしてしまいます。
くれぐれもこの物語を読む、そこのあなた自身には絶対に油断してほしくないのです。
念を押しますが、この投稿物には読者ひとりひとりの協力が欠かせません。
十分な覚悟の元、ご閲覧ください。
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First, there is a rule for creative works and stories that become famous. Some may think that "the more culturally expressive something is within Japan, the more it is favored," but this is a big misconception. Of course, there is an aspect of the evaluation process that emphasizes the accurate representation of Japanese culture.
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『〇〇〇〇〇』に登場する魅力的な主人公より前に、物語の構成について説明しなくてはいけません。
構成としては、「やさしい」「ふつう」「むずかしい」というゲームのような三段世界があり、別々の主人公がそれぞれにいながらも関わりあって収束します。
極端に言えば「やさしい」は「モルカー」のようなほんわかものです。
「むずかしい」は「ベルセルク」のような世界線ですが、それらが入れ子式に関係しています。
『〇〇〇〇〇』がメディアに登場するまでは、そんな構成の物語は存在しなかったのです。
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ここまで説明しても大丈夫だということは希望が持ててきました。
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や、ふ、む、は完全な別世界ではなく版画で色を重ねる工程のように区分けが成されています。
例えば「世界や」の遠く離れた地が、「世界む」だったり、「世界ふ」にいる巨獣の中に「世界や」が存在するといった具合です。
タイムトラベルだけでなく、意識や認知についての特性があるのですがアアアアアアアアアアアアアアアwcdfでwbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb
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その映画館に入ろうとすると、入口で入場者プレゼントのカードを1枚配られる。
そのカードの裏に、当たりの記号が書かれていると、さらに特別な抽選に参加することができ、
当たりをひいた6名の中から選ばれた1名だけがビッグプレゼントをもらえる。
私がその映画館に初めて行ったとき、その仕組みに無邪気にも感動してしまい、
ビッグプレゼントをもらえた人が映画館のステージに立って堂々と話す様子に感銘を受けたのね。
だから、もう一度映画を観てみたいと思って、昨日、行ってみたんだけど・・・。
スタッフのおじさんがカードを配るとき、自分に対してボトムディールを仕掛けてきた!
ボトムディールというのは、手品で相手に渡したいカードを引かせるテクニックの一種で、
手札の山の一番下に当たりを仕込んでおいて、
普通にくばるときは山の上のカードを配り、当たりを渡したいときだけ下から配るという、
多少なりとも手品の心得のある私は、一瞬のボトムディールを見逃すはずもなく、渡された瞬間、
このカードの裏に当たりがあると確信してしまい、実際に当たりだった。
当たりをひいた6名は、男4:女2、大人3:子供3と見事にバラけている。
その日はこどもの日で、ビッグプレゼントをもらえるのは当然ながら子供であろうということは容易に想像できてしまう。
気弱そうなオタクっぽいお兄さんは早々に辞退を申し出て去ってゆき
優しそうなおばあさんと、私は、ぜひぜひ子供に~と譲る役を演じたのでした。おわり。
という説明を受け、その日のテーマについて、各人に話してもらい、一番良さげな話が出来た人が選ばれる感じでした。
巨大スクリーンに映る対話相手はおそらく劇団員で、相手側の重いエピソードはおそらくフィクションです。
多少なりとも探偵の心得のある私には、そう見えました。
なお、この話はフィクションです。ゴールデンウィークが暇なので妄想してみました。実在の映画館とは一切関係ありません。万博とも無関係です。
面白そう、というよりはオリンピックの開会式/閉会式みたいな感じだ。つまり、どうなるかを確認したい、というタイプの関心における
最上位として、本当に見たい。
まず、芸人的に言ったら、これ以上ないぐらいにフリと緊張が利いてる状況だと思う。日本一の(だった)コメディアンのコンビが、
スキャンダルと休業明けに、何を言うのか。しかも条件は笑わせること。これって、エンターテイメントって分野における一つの挑戦だと思う。
必ずしも、この挑戦が成功するとは限らず(おそらく、失敗すると思う)、というか、結果はどうでもよくて、ダウンタウンと、
これを支える周囲のブレーン、業界の最精鋭たちが、何をもって「答え」とするのかに興味がある。
あと、たぶん、ここまでのビッグタレントの再起というイベントは、政治の世界を除けば、日本では二度と起きない可能性が高いと思う。
いまは娯楽のチャンネルが多すぎて、国民全体でここまで認識されているタレントというのが、もう構造的に生まれないのでは、と思うし、
その人物が20代の頃から還暦まで一つの国の最前線に良くも悪くも存在し続ける、ということも、もう起きないだろう。
だから、このレベルのイベントは、当事者本人の資質も、それにまつわる前フリも含めて、日本では二度と起きない気がする。
俺は、芸能というのは戦略で消費者の感情を制圧する攻撃であり技術だと思っている。だから、この二度とないかもしれない
シチュエーションに対して、この業界における日本という国の最前線が「これが答えです」と言って出してくるものがなんなのか、本当に見たい。
大げさに言えば、日本の芸能界という一領域が、人間という存在をどう考えているか、回答案を出すんだと思っている。
繰り返すけど、結果は正直どうでもよくて、単に、どうなるかに関心がある。オリンピックの開会式に近い(例えとして人によるだろうか?
俺は東京オリンピックの開会式を同じ動機で見て、結果としては、基本的に半笑いをずっと浮かべることになった)。
たぶんダウンタウンチャンネルは失敗するだろうと思う。ダウンタウン自身もここ10年くらいずっと面白くなかったし、企画としてはだらだら
低空飛行して、5年くらいで終わるのではないかと思う。でも、一回目だけは本気で興味ある。
あんまり関係ないが、「ガキ」の初回のオープニングは、若かりしダウンタウンの二人が歩きながらスタジオに向かうというものだった。
俺はすごくイカしてると思う。これも人によって感想は違うだろうけども。
…
追記。
失敗には二通りの意味があると思うので、整理しておく。
① ダウンタウンチャンネルの初回が失敗する ② ダウンタウンチャンネルそのものが失敗する の二通りである。
俺は、おそらく①②両方になると思うけど、関心があるのは、製作陣が①の可能性に対してどんな戦略を用意しているか、
だけである。
…
初回のオープニングとして「正解」があるとしたら、いまの二人でガキの第1回をセルフオマージュするのが、一番ベタなのかな、とは思う。
ダサいかね?
…
一線から退いた宮迫がテレビで空転してる話とか、一種の残酷ショーって観点で予想している人がいたので、なるほどな~と思った。
さすがに、そこまでいびつな楽しみ方を運営側が想定しているとも思えないけども。
ただ、一つ思い出したことがあって、爆笑問題の太田がラジオで松本について、「王様が玉座から転げ落ちる物語を、
自分が面白いと思えるように作れるなら、その笑いこそが松本さんを救える」と語ったことがある。
もし、ダウンタウンチャンネルが本当に、おちぶれて、笑いのセンスも実はとっくに時代遅れになっている松本の姿を映すなら、
これが結構、ドラマ的な演出としても、芸人的に目指す姿としても、正解に近いのかもしれない(ただ、きっとそうはならないだろう)。
…
令和ロマンは、昨日アップされた動画の方を見た。好印象だったし、内容も面白かったけど、「くるま=超頭いい」という先入観で、
自分の非は認めていてイヤミがない一方、「吉本が下手こいて、くるまは芸人として唯一無二のポジションになる」という感じで
世論が形成されることが、くるまにわからないはずないよな、と。
そういう意味で演出として合理的だし、ある意味で作り方の正解に沿っている。これと比べると、やっぱりダウンタウンチャンネルの方が
手探りだよな、と思う。
脇にそれるけど、吉本も「これ自分らが悪者に映るだろうな」とは自覚していたと思う。そのうえで、行政案件とか扱うにはここを
切らざるを得ない、という判断だったのかな~とか。
たけしのラジオは聞いてない。タレントとしての格でいうと、近いものがあるかも。なんなら当時のたけしの方が上なのか。
極楽とんぼについては、吠え魂リスナーだったので、「山本が事件を起こした後、加藤が一人でやった最終回」
なんだかもう、すべてがどうでもよくなってきた。
このループから一生抜け出せないんじゃないか、みたいな絶望感。
別に大きな不満があるわけじゃない。
でも、満たされているわけでもない。
ただただ時間が過ぎていくだけ。
自分が何のためにここにいるのか、何がしたいのか、さっぱりわからない。
「いつかビッグになってやる」とか、漠然とだけど何かになりたいと思ってた。
今はもう、週末はただ横になって天井を眺めているだけ。
刺激がない。
変化がない。
このまま枯れていくんだろうか。
ふと、頭の中にあのフレーズが浮かんだ。
なぜかは分からない。でも、強烈に。
盗んだババアで走り出す
そう、そんな気分なんだ。
何もかも放り出して、理屈じゃない衝動のままに、どこか遠くまで行ってしまいたい。
ババアが何を象徴するのかは不明だが、とにかく何か「ヤバいもの」「わけがわからないもの」を引っ掴んで、全力で逃げ出したい。
社会のレールとか、常識とか、期待とか、そういうもの全部から。
もちろん、実際にババアを盗んで走り出すわけじゃない。
そんなことしたら捕まるし、そもそもどうやって盗むんだ。
だけど、心の中では、まさに今、夜のハイウェイを「盗んだババア」という名の衝動体で爆走しているような感覚だ。
風を切って、涙も汗も枯れ果てて、ただただ遠くへ。
どこへ向かってるのかもわからない。
どこへ行けばいいのかもわからない。
ただ、ここではないどこかへ。
走り出したところで、何が変わるわけでもないのかもしれない。
現実は地続きで、結局また同じような日常が待っているだけかもしれない。
それでも、心の中だけででも、このフレーズを唱えながら走り出す衝動に身を委ねている瞬間は、少しだけ自由になれた気がする。
疲れた。もう寝よう。
明日もまた、同じ一日が始まるんだろうけど。
盗んだババアで走り出す。
こんな記事を読まずに、レイ・ダリオの本を読め。動画を見ろ。GR!GR!GR!
ダリオ氏は約50年にわたるグローバルマクロ投資の経験と、過去500年間の歴史研究に基づいて
世界秩序の変遷には繰り返されるパターン(ビッグサイクル)が存在することを主張しています。
本稿では、そのビッグサイクルの構造、帝国の興隆と衰退の要因、そして現代における世界秩序の変化の兆候について概説します。
ダリオ氏は、自身の経験を通じて、驚くべき出来事は過去にも繰り返し起こってきたことを痛感し、過去500年間の帝国(オランダ、イギリス、アメリカなど)の興亡を研究しました。
彼は、帝国や世界秩序の変化には時代を超越した普遍的なサイクル(ビッグサイクル)が存在すると結論付けています。
「過去の事例に似ているようですが、これからの時代は私たちがこれまで生涯で経験した時代とは大きく変わります。どうしてそれがわかるのでしょうか。なぜなら、これまでもずっとそうだったからです。」
ビッグサイクルは約250年続く重なり合うサイクルで発生し、その間には10〜20年の移行期間(しばしば大きな紛争の時期)があります。
ダリオ氏は、帝国の力を測る8つの評価基準を用いて分析を行っています。
・教育
・軍事力
・技術革新
によって特徴づけられます。
衰退は
・競争力の低下
・労働意欲の低下
・富の格差拡大
・政治的分極化
・内部紛争
によって引き起こされます。
「中央銀行が危機を回避するために多くのお金(紙幣)を印刷し、株式、金、一次産物を購入すると、それらの価値が上昇するため、お金(紙幣)の価値が下がるのです。」
準備通貨を持つことは、帝国がより多くの資金を借り入れることを可能にする「法外な特権」をもたらしますが
ダリオ氏は、秩序を「お互いに対応する人々のための地のシステム」と定義し、
国内秩序(通常は憲法に定められる)と世界秩序(通常は条約に定められる)の2種類があると指摘しています。
世界秩序は通常、大きな戦争の後に変化し、新たな支配的な大国と通貨システムが確立されます。
現在の世界秩序は、第二次世界大戦後の連合軍の勝利とアメリカの台頭によって形成された「アメリカ世界秩序」です。
ブレトンウッズ協定によってドルが世界有数の準備通貨となりました。
ダリオ氏は、自身の生涯で経験したことのない以下の3つの大きな事柄が、現在の世界秩序が変化しつつある兆候だと指摘しています。
中央銀行は債務支払いのために大量の紙幣印刷を開始しています。
②富と機会の格差が拡大し、大きな国内対立が発生していること。
③中国とアメリカの間で生じているような、台頭する大国とリードする大国間の外部紛争が増加していること。
ダリオ氏は、これらの状況が以前にも同時に起こっており、ほぼ必ず国内および世界秩序の変化につながっていると述べています。
前回この連続的な事柄が起こったのは1930年から1945年です。
ダリオ氏は、過去のサイクルを理解することで、これから起こることをより良く予測し、対応できると主張しています。
帝国の盛衰の歴史から得られる重要な原則として、以下の2点を挙げています。
①歳入よりも多く支出しないこと。
②お互いを敬い、大切にすること。
健全な教育、独創性、競争力の維持などは、上記の2つの原則を達成するための手段であると述べています。
ダリオ氏は、各国が自国のバイタルサインに注意を払い、改善に努めることで、サイクルの期間を延ばすことが可能であると示唆しています。
1971年、アメリカは資金が枯渇し、ニクソン大統領はドルの金との交換を一時停止しました。
これは、ダリオ氏が「私たちが理解していた貨幣が終了しつつある」と認識した出来事でした。
1933年、ルーズベルト大統領も同様に、金準備の不足からドルの金との交換を停止しました。
歴史的に、政府が歳入よりも多くを支出し、資金が不足すると、大量の紙幣を印刷し、通貨の価値が下落し、ほとんどのものの価格が上昇するパターンが繰り返されてきました。
ビッグサイクルは通常、大きな紛争(しばしば戦争)の後に始まり、新たな大国と世界秩序が確立されます。
過去の帝国の興隆と衰退のパターンを分析することで、現代の世界が大きな変革期にあることを示唆しています。
彼の提唱するビッグサイクルの理解は、現在の国際情勢を読み解き、未来の動向を予測する上で貴重な視点を提供します。
特に、債務問題、富の格差、そして大国間の対立といった現代の課題は
過去の帝国の衰退期にも見られた特徴と重なっており、注意深い分析と適切な対応が求められます。
ダカット(オランダ)→ポンド(イギリス)→ドル(アメリカ)→現在、人民元も台頭。