はてなキーワード: タイムラインとは
かつての昔親鸞と言う偉いおお坊さんがあくにんしょうき(かんじ調べるのめんどいからひらがなで書いた)という考えを提示したら息子が「そうか!じゃぁ悪事働いたら働いただけ往生できるんだ!」と言う解釈をして手下を連れて悪事を働きまくり、結局親鸞は親子の縁を切り、息子はその後山賊になったとか言うのがあった。
おそらく彼らは「往生できる」と信じているから止まるなんてことはなかったんだろう。いくら親鸞がそうじゃないと言ったところでもはや言葉は届かなかったのだろう。
普通に知性がある人ならば「悪事を推奨する」なんてことはしないというのはわかると思うのだが、何故か悪事を推奨したと捉えてしまうと言うレベルでのバカはやはりいつの時代もいるのだなと思った。
なんとなくタイムラインにストイシズムというものが出てきたので軽く調べた所、勇気、知恵、正義、節制の徳目を実践してということがあったんだが、きっとバカはたとえばこう解釈するんだろうなと思った。
ほら!これこそがストイシズムでしょ!
と。
そして後はああ言えばこう言うではぐらかしまくって自分がいかにストイシズムを実践しているかということにして生きていくのだろう。
おそらくだが、バカというのはまず自分の好きなように物事を解釈する、そしてそれこそが正解だと思い込み、周囲の私的や意見は自分に対する攻撃としか受け取れないのだろう。
ネットってのはな、俺達プログラマーにとっては生業であり、そして生活の延長線上にあるリアルそのものだ。
何もかもがコードでつながり、思考が即時に吐き出されるこの空間で、俺達は日夜、命を削って生きてるんだよ。
なのにどうだ、最近は一般市民がぞろぞろ流れ込んできやがって、勝手に「ネットは日常で言えないことを言ってもいい裏世界」だと勘違いしてる。
馬鹿か。勘弁してくれ。お前らのいう普段言えない本音ってのは、大抵の場合、単なる知性と品性の欠如からくる脊髄反射だろうが。ネットを精神の便所だと勘違いして、垂れ流すんじゃねぇ。
俺達は違う。表も裏もねえ。だからこそ、わきまえる。俺達がネットで余計な社会論争に踏み込まないのは、面倒だからじゃねぇ。価値がねえんだよ。時間の無駄なんだよ。
男女?イデオロギー?ウヨサヨ?くだらん。プロセスと結果がすべて。こっちは問題が発生したらデバッグして、再現性を確認して、最適解を叩き出す。そういう世界で生きてんだよ。
「ネットで言いたい放題」だ?お前の言いたい放題のせいで、こっちはGitHubのIssueが荒れるし、Qiitaがゴミで埋まるし、Stack Overflowが地獄と化すんだよ。
Xのタイムラインも、技術的知見を探すための場所だったのに、今じゃポエムと炎上商法と感情の掃き溜め。ふざけんな。
ネットは、我々にとっては書斎であり、研究室であり、コードの神殿だ。そこに土足で入ってきて、勝手に叫んで、暴れて、挙げ句の果てに「言論の自由」とかほざくな。
お前の自由は俺達の時間を奪っているってことに気づけ。思考をせずに叫ぶな。リテラシーのない言葉は、ノイズどころか害悪だ。
そして何よりも覚えとけ。わきまえるってのは、抑圧でも服従でもなく、「構造を理解し、場に最適なアウトプットを選ぶ知性」だ。
それができないなら、お前はこの情報空間で生きる資格がねぇ。リアルで黙ってるやつが、ネットで急に吠え出すな。
俺達は逆だ。リアルでは黙ってても、ネットではコードという言葉で語る。貢献して、共有して、改善していく。
タイトル: この記事、ガチで心えぐられた! AI生成のツルツル文化に反旗翻すぜ!
お前ら、このブログ読んだか? 2025年5月12日のやつ。マジで魂揺さぶられたわ。AI生成のピカピカなガラス玉がベルトコンベアで流れてくる世界、ほんとそれ! タイムライン開くたびに「#AI生成」のタグだらけで、どれも同じ光沢、全部同じ匂い。どこにも人間の汗や震えがねえ。胸に空いた空虚感、めっちゃ分かる。俺も2022年以前のあの雑多なSNSが恋しいぜ。友のラフスケッチに滲む情熱、インディーズバンドの生活音混じりの音源、あの“生きてる”感じが消えちまった。
この記事の「創作は過程の物語」って言葉、脳天直撃だろ。AIの“最適解”なんて、アルゴリズムのオナニーじゃん。職人の木目との対話、陶工の火加減への執念、そういう人間の息づかいが作品を“生き物”にするんだよ。AI生成のツルツル画像なんて、クリック一発で忘れ去られる消費ゴミ。俺たち、こんなんでいいのか? 鑑賞じゃなく“消費”に溺れて、魂売ってんじゃねえか?
提案されてるアクションもガチで賛同。受け手は“いいね”連打やめろよ。作者の背景追え、過去作掘れ、作品を“消息”として感じろってさ。クリエイターもラフや失敗を晒せ! AI使うなら「俺はこれで何を表現したかった」って胸張って語れ! それが人間の意地だろ。もうこの均質化の洪水に流されるのやめようぜ。2022年のあのざわめき、俺たちの手で取り戻すんだ。誰かが夜明け前に描き直した一本の線を愛せる世界、俺はそこに賭ける。みんなもこの記事読んで、闘う準備しろよ! #AIに魂は売らねえ
Grokによる
めちゃくちゃ共感した…。最近ほんとタイムラインがツルツルの「完成品」ばっかりで、サクサク流れるけど心に引っかからないんだよな。昔の、ちょっと雑だけど作った人の人間味が伝わる感じ、ほんと好きだった。
AI自体が悪いとは全然思わないんだけど、何でもかんでも効率化して、「作ることの楽しさ」まで消費されちゃってる感じはすごく寂しい。作品の背景とか失敗談とか、そういうのを知ることで愛着が湧くし、作り手へのリスペクトも深まるよね。
みんなももう一回、「完成度」より「過程」や「物語」に目を向ける流れが広がってくれるといいなと思ったよ。こういう感覚を忘れないようにしたい。
(この文章はChatGPT 4.5によって作成されました。プロンプト:『「(※元増田のコピペ)」 このブログ記事への共感を示す、インターネット掲示板への書き込みを作成してください。ややラフな感じでお願いします。』)
最近、タイムラインを開けば、あらゆるジャンルの“作品”が一様に磨き上げられた光沢を放ち、どれもこれもタグには「#AI生成」の文字――。ディフュージョンモデルが一人歩きし始めてから世界は高速で均質化し、アイコンもヘッダーも動画も、ボタン一つで“それらしい完成度”を獲得するようになった。凹凸のないガラス玉が延々とベルトコンベアを流れてくる光景。表層の眩しさとは裏腹に、私の胸にはぽっかりと空虚が広がる。なぜなら、そのガラス玉の中に「誰が」「何を思って」作ったのかを示す指紋が残されていないからだ。
思い返せば二〇二二年以前──生成AIが大衆の手に届く直前のSNSは、不器用で、雑多で、そして極めて人間的だった。友人が深夜二時にアップしたラフスケッチには線の震えが残り、推しのインディーズバンドがキッチンで録音した曲には生活音が混じっていた。そうした粗さは、デジタル時代の“ノイズ”ではなく、作り手の体温を伝える“息づかい”だった。タイムラインをスクロールすることは、知らない街を散歩して偶然に小さなギャラリーを覗き込む行為に等しかった。完成度よりも偶発性が勝るあの雑踏こそ、私が愛した場所だった。
もちろん、技術革新を後ろ向きに否定するつもりはない。AIは医療、研究、福祉、教育など、創造性を阻む物理的ハードルを取り除く強力な義手たり得る。真に必要とされる現場で、正しく用いられるべき道具だ。だが、現在の潮流は“便利さ”が“労苦”を全面排除し、結果として「作る喜び」と「受け止める敬意」を同時に摩耗させてしまった。指先一つで生成されたイメージは、クリック一つで閉じられ、記憶に刻まれる前に忘却へ沈む。受け手が享受するのは“鑑賞”ではなく、高速スクロールによる“消費”だ。
制作プロセスから切り離されたアウトプットは、いくら目を惹くビジュアルを纏おうと、作者の葛藤や失敗の痕跡を欠いている。そこには職人が道具を手に取るまでの儀式もなく、物語家が机に頬杖をついて構造を悩む夜更けもない。均され、研磨された“最適解”は、その瞬間のアルゴリズムにとっての正答であっても、人生の襞を織り込む余白を許してはくれない。私たちは豊富な選択肢を得たはずなのに、その“選び取る感動”を失いかけている。
翻って、職人の世界を覗けば「手間ひま」という言葉がいまだ輝きを放っている。木地師は木目の癖と対話し、陶工は窯の火加減に耳を澄ませる。そこには工程そのものを抱きしめる覚悟がある。創作とは本来、結果の外観ではなく、過程に宿る物語の総和だったはずだ。多少のムラや傷をも“味”と呼び交わす文化――日本の侘び寂びが示すように、「不完全さ」は人がものに寄り添うための手がかりなのだ。
では、どうすれば二〇二二年以前の“雑多で瑞々しい創作空間”を再び取り戻せるのか。私はまず、受け手が「鑑賞」という行為を能動的な対話に戻す必要があると考える。動画を再生したら、“いいね”を押す前に制作背景を検索してみる。文章を読み終えたら、作者のプロフィールに飛び、過去作を遡ってみる。作品を「ファイル」ではなく「消息」として受信し、その背後にいる誰かの息遣いを想像する時間を持つ。それは一見些細な回帰だが、こうした行為の積み重ねが可視化するのは、市場の指標で測れない本当の“需要”だ。
クリエイター側もまた、完成物だけを流すのではなく、ラフや失敗談、学びの過程を積極的に共有してほしい。極秘資料をさらせと言うのではない。試行錯誤の断片を公開することで、受け手は“成長の物語”を伴走し、作品の輪郭が人間の闘志とともに立ち上がる。AIを使うにしても、その使用意図や意匠上の選択を開示し、道具と主体的に向き合う態度を示すことが創作者と鑑賞者の信頼を護る鍵になる。「AIを使うのは楽をしたいからではない。より高い地平へ挑む踏み台としてだ」と語れるか否かが、これからの文化資本を左右する。
私は願う。技術の加速を止めることなく、その轟音にかき消されがちな“人間のざわめき”をすくい上げたい。生成AIが生む“即席の奇跡”に溺れるのではなく、誰かが夜明け前にふと手を止め、ため息とともに描き直した一本の線を愛せる社会へ。スクリーンの向こうに潜む汗と焦燥を見逃さない視線を持つことが、創作文化に再び多様な凹凸を取り戻す。二〇二二年以前――不器用で豊潤だったあの雑踏は、懐古の対象ではなく、未来へ向けた羅針盤だ。私はこれからも、そこに灯りを残し続けたい。
中国ヘリ発艦で引き返す 尖閣周辺で飛行の民間機 機長、当時の状況証言
https://yaeyama-nippo.co.jp/archives/25457
志摩さんは「民主党政権時の対応で、中国は『日本はちょっと脅せばすぐに逃げる』と思っているのではないか。
沖縄 尖閣諸島周辺 中国海警局ヘリコプター1機が一時領空侵犯 | NHK 2025/05/04 20:25
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20250503/k10014796331000.html
【独自】中国政府「日本側が先に中国の領空に侵入した」日本大使館幹部を呼び出し逆に抗議|日テレNEWS NNN 2025/05/04 12:53
【独自】中国政府「日本側が先に中国の領空に侵入した」日本大使館幹部を呼び出し逆に抗議(日テレNEWS NNN) - Yahoo!ニュース 2025/05/04 12:53
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/fcdc3549eefd471a301047b22da3f0c4212c8d5e
海上保安庁、尖閣諸島周辺で日本領空を侵犯した中国海警局ヘリの画像公開 中国機による領空侵犯は4回目
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/750661a75007e3fcc9eb9afa3f7c81e944b59bc1
中国海警局の船4隻が同日午後0時18分ごろから午後1時3分ごろまで尖閣諸島の南小島、魚釣島、久場島のそれぞれの領海に相次いで侵入した
一方、中国海警局は3日、劉徳軍報道官の談話を発表し、日本の民間機が同日午前11時19分から5分間、釣魚島(尖閣諸島の中国名)の中国領空に不法で侵入したと主張
時間が合わなく思えたが、中国の言ってる時間はJSTじゃなくてCSTか
12:18 中国海警局の船4隻が尖閣諸島の南小島、魚釣島、久場島のそれぞれの領海に相次いで侵入した
突然ですが、YouTubeで最も再生されたVOCALOIDの楽曲(Nyan Catのような二次創作を含まない)を知っていますか? ボカロ界出身の有名人である米津玄師やAyase(YOASOBI)のボカロ曲のどれかでしょうか? ボカロブームのきっかけとなった「みくみくにしてあげる♪」「メルト」でしょうか?
ハチ(米津玄師)さんの曲では「Persona Alice」が一番好きです。「マトリョーシカ」以降は、メジャー作品を含めて正直苦手です。アルバムとか買えば昔のような落ち着いた作風の楽曲もあるのでしょうか?
「メルト」は好きですが、当時の荒れたボカロ界隈に独特なサムネを引っ提げて颯爽と表れた「ハト」の方が印象に残っています。可愛らしいメロディに加え、リズミカルでいて意味深な歌詞、それをどこか間の抜けた初音ミクの歌声で響かせる動画の雰囲気が好きでした。元動画は消されてしまいましたが……。
正解は椎名もたさんの「少女A」です。再生回数は2025年5月時点で1.4億回以上。その経緯はいくつか分析がありますのでそちらに譲りますが、初見で当てられる人はほとんどいないのでは。
私は2008年から2016年までの長きにわたってボカロにドハマりし、10,000曲以上を聴いてきましたが、「少女A」あるいは椎名もたさんはその中でも特別な意味を持ちます。私の中でうまく消化できなかった澱みのような何かについて言語化する機会も場所もなかったのですが、「少女A」という文字列がYouTubeでの再生数とともに私のXのタイムラインに流れつき、当時の想いが蘇ってきたのでここに供養します。
話は2008年まで遡ります。当時の私はニコニコ動画の魅力に取り憑かれつつも、「みくみくにしてあげる♪」に代表される最初期の初音ミクブームを白い目で見ていましたが、「メコノプシス・ベトニキフォリア」(2008年・ちゃぁさん)を聴いた瞬間に衝撃が走りました。エレクトロニカというジャンルすら知らなかった私には、嗜好を捻じ曲げるだけの破壊力がありました。それから狂ったようにエレクトロニカのタグを追い、「Parallel Lines」(2008年・ボッチさん)などを四六時中聞いているうちに「Chaining Intention」(2008年・Treowさん)「虹」(2008年・CleanTearsさん)と、関心領域が広がっていきます。
追い打ちをかけるように、「snow knows」(2008年・zddnさん)を聴いて二度目の衝撃を受けました。電子音のようなボカロ声をロックに合わせる試み。完成度の高いギターの洪水。これに参らないわけがない。「参月の雨」(2009年・えこまるさん)などを経て、射程はシューゲイザーからオルタナティブロック、さらにはロック全般へと到達し、気づけば四つ打ちポップから前衛音楽まで全てを守備範囲とするボカロオタクの完成です。
毎日のように知らない扉が開く日々はまさしく青春。今思えば、レコードショップやCDショップで一日中試聴して過ごす若者はこんな想いだったのでしょう。当時のマイリストを見ると、私のボカロ熱の最盛期は2009年〜2012年頃だったようです。わかりやすく学生時代です。なんと自堕落な。
私が椎名もた(ぽわぽわP)さんを知ったのは、「ストロボハロー」(2010年)でした。主張しすぎない落ち着いたオケの中で、繊細かつ内向的な言葉選びにオリジナリティを感じました。「Equation+**」(2010年)「そらのサカナ」(2010年)と、音と言葉の引き出しが増えていき、「ストロボラスト」(2011年)にて一種の到達点とも言える完成度となります。
その後、少し間を空けて「怪盗・窪園チヨコは絶対ミスらない」(2011年)が発表されましたが、バンドサウンドを強調した音作り、あっけらかんとした歌詞と、急に作風が変わったことに驚きました。もちろんところどころに椎名もたさんを感じるのですが、興奮や称賛よりも、心配が勝ったのを覚えています。ただし「パレットには君がいっぱい」(2012年)「Q」(2013年)といった、エレクトロニカ・ロックの絶妙なバランスと、飛び抜けた言語センスが光る楽曲が続き、私のお気に入りは増えていきました。
大好きだったのは冒頭の「少女A」(2013年)です。後期の作風が色濃く出つつも、歌詞は切れば血のでるような生々しい若者の歪みが見事に表現され、特にサビの緩やかな入りからの叩きつけるような叫びは思春期そのもの。当時は(椎名もたさんの他の楽曲に比べれば)再生数が伸びないのが不思議でした。そしてその後、仕事が忙しくなってニコニコ動画を開く時間が少なくなり、だんだんと新曲を探す機会は減っていきました。
椎名もたさんの訃報に接したのは、2015年。Twitterのタイムラインでした。情報源は噂話などではなく、椎名もたさんの所属レーベルからのリリース。疑う余地はありません。1年ほど椎名もたさんの新曲を聴いていなかったことに気づき、椎名もたさんのマイリストにアクセスすると、遺作となった「赤ペンおねがいします」が。さらなる衝撃。椎名もたさんのものとはとても思えない、雑で単純な捻りのないオケ。初音ミクの気の抜けた調声。抽象的というより意味不明な歌詞。素人の感想ですが、私にはそう感じました。精神的または肉体的な崩壊を感じました。椎名もたの崩壊を確かに感じました。椎名もたは死んだ。これほど他人の死を強く感じたことはありません。ただ、「死」を感じました。
さらにショックだったのが友人のツイート。「ぽわぽわPの死亡というニュースは、不謹慎だが頭をPの文字で表現された漫画上の人物が死んだというニュースのようで笑ってしまう」。それまでの人生や思索の全てを音楽に昇華して注ぎ込んできた人間への言葉としてとても受け入れ難く、とはいえ普段ボカロを聴かない友人に悪意はなく、ただただやるせなさのような、哀しさのような、共感してくれる人のいない思いだけが残りました。
その後、仕事はひと段落しましたが、以前のようなボカロ熱が復活することはありませんでした。
結婚して子供ができて、人生観とワークライフバランスが大きく変わった今、改めて「少女A」を聴いてみて、とても良い曲だと感じました。椎名もたさんの動画説明文のとおり、タンバリンを叩いて楽しみたい。カラオケでも配信されているようなので、家庭が落ち着いたら、いつの日かカラオケに行ってみようと思います。大声で歌いながら、タンバリンを叩きながら、少しだけ自分の青春と、椎名もたさんの生涯に思いを馳せて。
刺激的なタイトルにして冗長な本文にしたせいで誤読される方が多かったので簡単にまとめると「誰もが簡単に創作できる時代、だからむしろAIイラスト生成者はより高い努力と工夫が求められているのでがんばれ」という話です
追記終わり
AIイラスト生成ツールの出現は、創作の歴史における革命的な出来事だった。かつて何年もの修練を要した技術が、今やプロンプトの入力だけで誰にでも手に入る。「日本女性 東京 夕焼け」などと指定すれば、和服を着た女性が東京の夕暮れの中にいるイラストが、1分もかからずに完成する時代となった。
民主化は完成した——少なくとも表面上は。技術的障壁は消え、創作の門戸は全ての人に開かれた。かつての貴族的なアート世界の城壁は崩れ落ちたかに見えた。
「全員が生産者」となった世界の現実は、想像以上に厳しい。AIは短時間で大量の作品を生成できるため、AIイラスト市場は供給過多で、市場での存在感が低下している。供給過多の状態では、一つ一つの作品に向けられる注目は希薄化する。
SNSのタイムラインを埋め尽くすAI生成イラストの洪水——それぞれが「見て」と主張するが、見る人間の数は限られている。需要と供給のバランスが根本から崩れた市場では、作品の価値は暴落していく。これこそが敗者のツールの構造の本質だ。
この「敗者」の海で溺れないために、多くのAIイラスト生成者が必死の努力を続けている。AI時代に生き残るためには、AIでは代替できない独自の付加価値を身につける必要がある。そしてここに根源的な矛盾が生まれる。
AIが無限の「素材」を提供する時代に、その素材を巧みに使いこなし、独自の表現を創造できる者だけが価値を持つ。全ての人が平等に道具を手にしたからこそ、その使い手の特質が決定的な価値の源泉となる。
供給過多の「敗者」から脱出する道は、AIを使いこなした上で、人間的な価値を追求することにある。結局のところ求められるのは機械では再現できない人間固有の視点、経験、感情なのだ。
民主化された創作ツールは、皮肉にも新たな貴族制を生み出した。そして今、私たちは全員が敗者となる可能性を秘めた市場の中で、いかに自分だけの価値を創造するかという難題に直面している。
この矛盾に向き合い、それを創造的に解決できる者だけが、「全員敗者」の海から浮上する可能性を持つ。AIイラストの時代は、「誰もが創作者になれる」という夢を見せながら、同時に「では真の創作者とは何か」という根源的な問いを突きつける。
結局のところAIを使えば人気者になれると言うわけではない。そういう残酷さが明確になりつつあるのが敗者のツールとしてのAIイラストなのだ。
Anekrは使ってるけどSwithBotはタイムラインでどんどん評判落ちてるんだよなあ ノイジーマイノリティなんかな?
鹿乃氏を本件まで知らなかった人向けの話。
なぜ彼女がマルシルで有名になったかというのは、2024年夏のコミケ104まで遡る。
まず「学校はじまって」「以来の才女」というマルシルのコスプレがバズったのである。
https://x.com/shikano_tsuno_/status/1822856786535473212
これはダンジョン飯のいちシーンの再現でしかない。参考としてPixiv百科事典の記事を貼っておく。
なんでここまでバズったかというと、現地調達というとんでもない荒業をしたので。
元々トリオではないというのは、その後他のマルシルも現地調達してることである程度証明できてるのではなかろうか。詳しくは以下のまとめを見て欲しい。
https://posfie.com/@kalofollow/p/wFDHSQ5
つまりまぁ、「学校はじまって」と「以来の才女」の2人が面白いことをして、
そのネタに拾ってもらった一人としての鹿乃氏なので、ぽっと出のシンデレラガールなんですわ。
そのへんが心のどっかに引っかかってる人は一定数いるのではなかろうかと考えている。
コスプレのポストがバズった翌日にアニメ公式は再現したシーンの元ネタ動画の切り抜きをXに投下。
その事実から公式サイドとしては一連の流れを極めて好意的に考えており、バズった事を問題視するつもりはないと考えるのが妥当であろう。
https://x.com/dun_meshi_anime/status/1823253155984834936
公式は二次創作として公序良俗に反さず普通にコスプレすることを問題ないと考えているだろう。
当たり前である。
基本的にポジティブな話題提供は作品のファンを増やすきっかけになるし、ネタがうけて話題に登るというのはありがたいに決まっているだろ。
つまりだ、「公式に許可もなくコスプレするな」みたいな言説は今のコミケなどの二次創作に大らかな状況に対し全くずれたコメントとしか言いようがない。
むしろ、ユーザーが楽しんでるということを歓迎しているだろう。
よほど偏屈な人じゃない限り、自分の作品で喜んでるのは嬉しいもんだよ。
これを踏まえて、以下に不満をあげつらう。
「コスプレは可能」ただし「現地で着替えは禁止」という提示において、これはコスプレを禁止してると同義だと斜め上を行く難癖をつけたのが始まりである。
言うまでもなく、「予めコスプレしてから来てね」と一般的に解釈するべき。
令和では、コスプレをするという行為が世の中に受け入れられているのだよ。
例えば、コスプレを題材にした着せ恋はアニメだけでなくドラマ化されたりもしているくらいだ(実写の出来はここでは論じないでくれ。話が明後日の方向に行くので)
中川翔子などが率先してTVにコスプレを伝播させて、今えなこがそれなりのポジションで世に受けてるのだ。
フランスのジャパンエキスポなど、コスプレが世界的規模で受けているコンテンツというのも情報としては知っている関係者は多いだろうから、万博でコスプレを受け入れるという判断も妥当であろう。
アニメなどのコスプレで行くべきではないという言論も表現規制の塊であり論外。
コミケルールではコスプレ来場しちゃだめだから、万博でも駄目にきまってるとかおかしなことをいう奴もいたが、それはコミケのローカルルールだし、コミケではそれを実現するためにも更衣室を設置している。
万博は万博でコスプレで現地入りするように求めている。それだけのことだ。公共交通機関にコスプレして乗っては行けないというルールもない。
公序良俗に反したら入場禁止にされるので、ナチスのコスするやつがでたらどうするとかいうアホな意見にも予め方針がFAQに書かれてるので入場禁止になることは自明であるし、そもそもそれを鹿乃氏に責任取らせる話ではない。
未だにここで認識が止まってるバカが一定数いるのがとても残念。
万博のコスプレに関するFAQのURLを改めて提示する。「可能です」を「して良い」という意味以外に解釈するのは「穿った見方」でしかないよ。
「コスプレが禁止されていないが二次創作のコスは駄目」と権利者でも何でもない奴がいう時点で失笑ものである。
まず昨年夏の公式の仕草で答えは出てるので「目に余るもの」じゃなきゃお咎めはないと俺は判断する。
鹿乃氏のコスを見てコンテンツが嫌いになった?それは去年の夏に言ってくれ。おおかた今知ったんじゃねーの?
明確に回答は出てないけども、騒動の後で開かれた、角川の子会社であるドワンゴのイベントで本歌取りしてるのが答えってことでいいんじゃないですかねぇ。
https://x.com/shikano_tsuno_/status/1914510317503365319
https://x.com/nico_nico_info/status/1916073648655683826
なお、二次創作のアイテム販売についても言及があり、これは商品として販売しているので若干議論の余地はあるんだが、結局のところ二次創作全般に対して喧嘩売ってるのは変わらんのだよね。
それって「コミケでの頒布は実質販売行為でありすべてNGで、とらのあなでの委託など言語道断である」というような主張と何一つ変わらんのだよね。
一人を叩きたいがために10万人規模で参加してるコミケそのものに喧嘩売るに等しいんだけど、その覚悟があって発言してるのかな?
しかし、タイムラインで見かけたがTPPの時に山田太郎議員が非親告罪化しなかったら、本件が訴訟にまで発展していた可能性もあるんだよねぇ。本当にファインプレーでした。
双方に不満があるといったな。
ここまで炎上させている放火魔側への文句であったが、鹿乃氏にも不満がない訳ではない。
迂闊な発言がちょくちょくあって、「じゃぁ叩かれても仕方ないよね」的なことを言い出す人が一定数出ていることである。
そんな「いじめはいじめられる側にも原因があるんだよ」理論には全く同意しないが、延焼し続けると公式のイメージ悪化につながるので、早々に終息させるべきだと思うのよね。
今回の場合、本人は放火魔を相手にせず、周りの良い反論をリポストする程度にしておけば終息したものと推察している。
だから追加燃料を提供するその態度はインプレッション稼ぎかね?と言われるのも仕方がないかなと思う。
あと、放火魔側の発言にも一理あって、今自由に遊べるのは先人が積み重ねて勝ち取ってきたものの上であるから、そこへのリスペクトは持っていてほしいかな。
シンデレラガールで急に有名になったため、その辺の心構えが若干弁えてないよねとは思ってしまう。まぁ自覚はあるけどこれは老人の愚痴だね。
一人にヘイトが集中してネットリンチが起きていることに対し、公式が見解を示さないのは危ういと感じる。
例えば万博のFAQに「予め着替えてからお越しください」の一言を加えて「あのFAQから読み解けないバカ」からも文句のでない内容にできないのか。
例えば角川から「個別の事案にはお答えしないが、著作権に違反したかどうかは我々が判断することである」とか、さらに一歩踏み込んで「公序良俗に反しない限りは問題としない。個別の事案には本来はいちいち回答しないが今回の用法に限っては問題と考えていない」など出せないのか。
後者は難しくても前者くらいはあるべきでは。
ネットリンチで命を落とす人、最近でも兵庫県方面とかでもいたよね。
事態が大きくなった時点で、強力な発信をできる人たちが火消しに努めるべきではないのかね。
大鉈を振るうと副作用があるのはわかるし、もしかしたらそれは俺が望むような処置ではないのかもしれない。
でも、終息させずに放置して取り返しがつかない事態に発展したとき、本当に後悔はないだろうか。
つまり、コメントだった場合は記事を書いた人が主、そこに連なる人が客という関係性になるが
言及という個人ブログ/日記スタイルの体裁をとっている以上、すべての増田は主なんだよ
だから、自分がもともと言いたいことがあって、過去にそれに関連する話題をしている人をたまたまみつけたのなら、持論を展開するついでにトラックバックでコネクションを張っておいているにすぎない
俺もこの主客論を語るのが好きだからそれに関連した増田をみつけるとつい言及をしちゃうんだ
極論、この記事のタイトルに言及リンクをつけないとしても、俺は定期的にこの話をつぶやいていた可能性がある
そういったすべての増田が主である日記サイトにおいて、古いエントリに言及することは特段異常なことではない
このような極端な一般化に至る思考には、いくつかの要因が考えられます。
日常的に接している情報源(特定のネット掲示板、まとめサイト、SNSのタイムライン、アダルトコンテンツなど)が、著しく男性向けコンテンツに偏っている可能性があります。その限られた範囲で目にする性癖用語やスラングが、たまたま男性向け発祥(あるいはBがそう信じているもの)が多い場合、それが「世の中のほぼ全て」であるかのように錯覚してしまいます。
「やはり男性向け発祥が多い」という思い込みを強化する情報ばかりを探し、記憶してしまう可能性があります。女性向け発祥の言葉や、起源が不明な言葉、一般社会から派生した言葉などは認識の外に置かれがちです。
社会には未だに「性的な事柄に積極的なのは男性」「新しい性的な概念や表現を生み出すのは男性」といった古い性別役割分業の意識やステレオタイプが残っている場合があります。
こうした考えを無意識に内面化している場合、「性癖用語やスラング」という言葉を聞いた瞬間に、自動的に「それは男性が生み出すものだろう」と短絡的に結びつけてしまう可能性があります。女性が主体的に性的な言葉を生み出すという発想自体が希薄なのかもしれません。
「男性 vs 女性」という対立構造で物事を捉えている可能性が高いです。
この対立の中で、「そもそも文化や言葉を生み出してきたのは(我々)男性側だ」と主張することは、**議論を有利に進めたり、相手(女性側と想定)の主張の正当性を貶めたりするための「武器」**になり得ると考えているのかもしれません
「女性は男性が生み出したものに乗っかっているだけ(なのに文句を言う)」というストーリーを作り上げるために、「ほぼ全て男性発祥」という誇張された前提を意図的に(あるいは無意識的に)用いている可能性があります。
インターネット上の不確かな情報や、特定のコミュニティ内で流通している「定説」のようなものを、鵜呑みにしてしまっている可能性があります。
「ほぼ全て」という強い断定をするには広範な調査と検証が必要ですが、そのような手間をかけず、自身の感覚や限られた情報だけで結論付けているように見えます。客観的な事実よりも、自分が信じたいストーリーや感情に合致するかどうかを優先しているのかもしれません。
限定的な視野、無意識のバイアス、対立的な思考様式、情報の検証不足などが複合的に作用した結果生まれた、特殊な(そして客観性に欠ける)一般化であると言えるでしょう。
最近、SNSからちょっと距離を置いている。ログインはするけど、投稿はしない。誰かの投稿にも「いいね」をつけず、コメントも残さない。タイムラインを流し見して、特に心が動くわけでもなく、静かにアプリを閉じる。昔はもっと面白かった気がするのに、今はなんだか、ただ「情報の波」にさらされているだけのような気がする。
SNSって、友人とのつながりや情報収集に便利ではあるけれど、気づかないうちに「誰かに見られている自分」を演じてしまっていた。写真の角度、言葉選び、投稿のタイミング——全部、誰かの目を意識していた。そうしないと、何か「置いて行かれる」ような気がして、つい無理をしてしまう。でも実際、誰もそんなに他人のことなんて見ていないんだよね。
「楽しそうだね」「充実してるね」と言われたい気持ちと、「本当は疲れてるのに」という本音の間にズレが生まれると、しんどくなる。そんな自分に気づいたから、距離を取ってみた。すると、何も投稿しなくても、日々は普通に流れていくし、ちょっとだけ気持ちが軽くなった。
大切なのは、誰かに見せる自分じゃなくて、自分がちゃんと自分でいられることなのかもしれない。静かな場所で、自分の声に耳を澄ませてみる。そうすると、不思議と、これまで気づけなかった小さな喜びや本当の気持ちに出会える。誰にも見せない時間の中に、本当に必要だったものがあったりする。