はてなキーワード: コンビニ人間とは
じゃあ海外のアセクシャルコミュニティの掲示板行けば?(これ何度目だ?)
割と増田みてーな同人腐女子・生きづらいオタ女子が言いそうな発言とかも突っ込まれることなく、
穏やかにやりとりしてる(自分のアイディンティーなんて自己定義するものだからそれはそう)ので
ニコニコできるんじゃあないでしょうか?
たとえば『コンビニ人間』がAVENにアセクシャルとしてあげられていて草生えましたわ
I recently read 'The Convenience Store Woman' by Sayaka Murata (English translation)
It's a quirky, funny and quick read. I would even recommend it to people who don't like reading, if I thought the story/character/quirkiness would interest them. I'm actually going to give a copy to a friend as a gift.
The central character also appears to be aro and ace.
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風変わりで、面白くて、あっという間に読めてしまう。読書が好きでない人にも、ストーリーやキャラクター、奇抜さに興味を持ってもらえると思えば、薦めたいくらいです。実際、友人にプレゼントするつもりだ。
Asexuality and Asexual Characters in Books & Comics - a Collection
日本で恋人を作らないと云々かんぬんとか寝言言ってるやつは、アセクシャルなのにゲイを名乗らないといけない世界を見て震えろって思うわ
これが本物のカップル圧ってやつだよ、神の愛を示せないやつに居場所はないの
そもそもなんだけど、伝統的な宗教価値観が支配するカップル文化が強烈な地域、つまり日本以外じゃないと、
アセクシャルで困ること特にないぞ。カップル圧の低い日本は理想郷なのでは?
あと、同性愛者だと思われて困ること特にないし、異性となんかあったんだな(トラウマがあるんだな)って思われて困ること特に無い
日本の自称アセクシャルの人は、こういう風に思われて、具体的にどう困るのか、逆に教えて欲しいのだわな
同性に告白されたことはあるけど、それは学生時代のことだし、増田やってる年齢になってもなお起こることじゃねーのよ
異性に関しては、高齢の親族に『お前は異性を必要としていないように見える』って言われるくらいなので、誰も寄ってこないぞ(平和な世界)
強いて言えばセックスアピールが強烈な人・モテに全力で価値を置いてる人とは男女とも相性が最悪
恋愛がトラウマとか思われてるなら『時期が来たらまた向き合いと思う🥺』とか適当に誤魔化せるでしょ
(そこまで踏み込まれることはまず無いんだけど。学生じゃあるまいし)
ゲイも、異性や恋愛にトラウマがある人も、モテない人も、異常者では無いけど(理解できる範疇にいる人)、
人に情を持たない、人をセクシーだと思わないヤツは、多くの人にとって理解できる範疇になくて、
映画に出てくるナイフ持ってニタついてるサイコパスみたいなヤツなのかな?って警戒されちゃうの
そもそも友達ゼロじゃなきゃ、こういうやり取りの末に、(きっとゲイなんだな)、(きっと異性や恋愛にトラウマがあるんだな)
(この話題には触れんでおこう)ってなってると思うよ
>その実情が発達障害というダサくて劣った症状だと突き付けられたらすぐにその看板を下ろすだろう
ググればいくらで出てくるぞ。下記のように
double minority asexuality asd adhd
Are Autism Spectrum Disorder and Asexuality Connected?
Asexuality is a lack of sexual attraction to any gender. There is some evidence to suggest that many self-identified asexuals have a formal diagnosis of autism spectrum disorder which is characterized by deficits in social interaction and communication, as well as by restricted and repetitive interests and behaviors. Additionally, the literature shows that asexuality and lack of sexual attraction or low sexual interest is overrepresented in people with autism spectrum disorder compared with neurotypical samples. Nevertheless, no studies have been conducted to investigate the relationship between autism and asexuality in depth. We conducted a systematic review of the literature to examine whether asexuality and autism spectrum disorder are connected. We conclude that asexuality and autism share various aspects, such as a possible role of prenatal factors, reference to romantic dimensions of sexual attraction and sexual orientation, and non-partner-oriented sexual desire, but future research should explore and clarify this link.
無性愛とは、どの性別にも性的魅力を感じないことを指します。多くの自己認識された無性愛者が、自閉症スペクトラム障害(ASD)の正式な診断を受けているという証拠があります。ASDは、社会的相互作用とコミュニケーションの欠陥、ならびに制限された反復的な興味や行動によって特徴付けられます。さらに、文献によると、無性愛や性的魅力の欠如、または低い性的関心は、神経典型的なサンプルと比較して、自閉症スペクトラム障害を持つ人々に過剰に表れています。それにもかかわらず、自閉症と無性愛の関係を深く調査する研究は行われていません。私たちは、無性愛と自閉症スペクトラム障害が関連しているかどうかを調べるために、文献の体系的なレビューを行いました。私たちは、無性愛と自閉症が、出生前の要因の役割、性的魅力と性的指向のロマンチックな側面への言及、パートナー指向でない性的欲望など、さまざまな側面を共有していると結論付けましたが、将来の研究はこのリンクを探求し、明確にする必要があります。
あるものなんか下記から始まって笑っちゃったw そっかw一般的な概念だったんだw
This chapter challenges the commonly held notion that individuals with ASD are asexual or inappropriate in their sexual behaviors.
この章では、自閉症スペクトラム障害(ASD)を持つ個人が無性愛者であるか、性的行動が不適切であるという一般的な概念に挑戦しています
アセクシャルやセックス依存症が発達障害である可能性は高いだろうけど、別にイコールではないだろうよってねw
ちなみにこれは発達障害=アセクシャルは不適切、社会的助けがあれば、異性愛者として楽しめるとかいう内容みたいよ
あと、ずっと『なんでセックスするんだ😡』って言ってるが、アセクシャルはセックスするやつはするぞ。なんなら性依存症だっているし
セックスで情が深められないだけ、恋愛以前に人や気持ちに対する関する関心が無いか薄い、それにグラデーションがあるだけ
これ、本当に的外れだと思うんだけど。
J.K.ローリングはアセクシャルを、“異常”だなんて言ってない。寧ろその逆で、何ら変哲のないごくありきたりな人達だって言っているんだよ。
「セックスに興味ないってだけで被害者ぶりたい人たち、よかったね、“偽・抑圧記念日”おめでとう!」というJ.K.ローリングの言葉は、アセクシャルを“異常”扱いしているのではなくてその逆。
好きな人が多いけれど興味の無い人もいるコンテンツという意味では、恋愛ってそれこそ「ハリー・ポッター」みたいなものでしょ
わざわざ記念日を設けてまで、自分はアセクシャルやアロマンティックですとわざわざ表明するのって、「『ハリー・ポッター』に興味の無い人のための日」を設けるようなものじゃないか。あまりにも愚かで厚かましい行為だと思う。
そうする事によって、他のより深刻な人権侵害が相対化され、薄められて無視されてしまうんだから、そりゃ嫌味も言いたくなるってものでしょう。
アセクシャルが“異常”扱いされているって、それ自体が酷い認知の歪みだと思う。
この世界において差別され貶められているのは、パートナーのいない人間や子供がいない人間だよ。けして恋愛感情の無い人間や性欲の無い人間ではないよ。
100人に告白して振られ続ける惚れっぽい人間は、恋愛感情の無い人間なんかよりもよっぽど馬鹿にされてるよ。
あと、「コンビニ人間」も、読んでてほんと的外れだと思ったんだけど。あの主人公はおそらく発達障害の設定なんだと思うんだけど、それにしてはあまりにもその解像度が粗いんだよね。
発達障害の生き辛さというのは円滑なコミュニケーションやミスのない業務遂行が出来ずに仕事で使い物にならない事が多くを占めるのであって、
この中では「雨月物語」しか読めていない。確か角川ソフィア文庫で読んでいる。
村上春樹「海辺のカフカ」で言及されていたので興味を持った。物語集として面白いのだが、序文に紫式部を持ってくる自意識の強さが良い。あと、僕はそもそも怪奇物語が好きだ。好きなのは凄惨なスプラッタやお化け屋敷的なジャンプスケアではない。何か人知を超えた存在がいるという驚きや恐れなのだ。
これは僕の感傷マゾとつながっているのだろうが、言い出せない妄念を抱えた死者というモチーフが好きだし、神話物語に通じる奇譚が好きで、だから仏教説話も説教臭い割に好きだ。
ところで、東京創元社の編纂したSF短篇集「時を歩く」にピンとくる言葉があった。空木春宵によれば、幽霊とは虐げられた人々の象徴で、だから怖いというよりも親しみを感じるそうだ。その言葉にはたと膝を打った。だから僕もお化けや妖怪が好きなのだ。異様な姿をしていて、理解できるのかできないのかわからない、その「他者」っぽさが面白いんだ。モンスターが深い知性を持っているという設定、大好き。
ちなみに、小林泰三「酔歩する男」の元ネタ菟原処女伝説が、「浅茅が宿」でも触れられている。これを書いていたら小林泰三をまた読みたくなってきた。
「菊花の約」は小泉八雲が「怪談」で翻案している。小泉八雲も上と同じ理由で好きだ。一度彼が翻案する前の原典を読んでみたい。僕は箱庭的世界というモチーフが好きなので「安芸之助の夢」が特に大好きだ。
ところで小泉八雲の朝ドラをやるそうだ。大好きな作家だが、きっと観ないんだろうな。僕がテレビを見る習慣をなくしたのは、一つはイケメンの歯の浮くようなセリフを聞きたくないからなのだが、もう一つは小説家を目指すために、帰宅してから寝るまでの時間をずっと執筆にあてていたからなのだ。あと、ドラマを見ていると本編を放っておいて、史実ではどうなっていたかを調べる悪癖もある。
というわけで、残りの物語もそのうち読む予定。
これも「おくのほそ道」しか読んでいない。たしかビギナーズ・クラシックスだ。人々と交流しながら俳句を作っているのが楽しそうだけれど、地元に句会の記録が実は山ほど残っていたりしないんだろうか。
そういえば句会に通う友人にそそのかされて試みに俳句を作ってみたけれど、短歌と比べて情報量が圧倒的に凝縮されている。言葉選びが極めて厳密で、密度が高い。短歌は十四文字だけの余裕があるがあるから、聞いていてもゆとりがある気がする。僕は散文の文学の良さは情報の圧縮困難性、言い換えるならばどういう話かあらすじを短くまとめると魅力が失われる度合いが高いものを高く買っている。逆に、詩文はどこまで世界を圧縮できるかだ。しかしながら、短歌は枕詞で五文字も使う。なぜこんな効率の悪いことをしているのかは不思議だ。
短歌は与謝野晶子、俵万智、穂村弘あたりを読み、俳句は他に高浜虚子あたりを読んだ。
俳句じゃなくて短歌だが、与謝野晶子は熱量がすごくて読むのにえらく時間がかかった。また、穂村弘は生々しい男の生理が表現されていて何となく好ましく思う。しかしそれを荒っぽくぶつけているようできっちりと計算して表現している。形式があらかじめ用意されているからこそか。「台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し」「男の子はまるで違うねおしっこの湯気の匂いも叫ぶ寝言も」「泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも」。僕は意外と暴力的なものが好きらしい。
俳句は数が多く、未読が多く、次々に新しいのが生まれており、追いつけない。ここに載せられた作品もいつかは読みたいが、記憶に残らないこともあるだろう。しかし、すべてを記憶しておかないと不安だというのも強迫観念に過ぎない。読んだその場で一期一会の幸せを覚えれば、それでいいのかも。ちなみに、俳句が作者の目の前で論評されるバラエティは、かつて通った小説創作講座を思い出して胸が苦しくなるから、見ていない。あれ残酷だよね。
こうしてみればわかると思うが、平安時代の文学と比べると、まだまだ読めていないのが江戸時代の作品だ。開き直って現代語訳でどしどし読みたい。
古典は急がない。いつまでも待ってくれている。世間で流行っている作品とか必読書とかそんなのとは無縁だ。千年前の作品を読むのが一年や二年遅れたところで、どうということはない。
ところで脱線するけれど、いま生きている人を推せる人って偉いと思う。だって、いつスキャンダルで裏切られるかわからないからだ。それこそ明治の文豪がクズだったとかいう話はよく聞くけれど、今となっては本人を含めて関係者がみんな死んでるので、多少は冷静でいられる。新たに醜聞が掘り起こされても「昔の人だからね」とどこか冷静になれる。今の人だとこうは行かない(以下、きちんと謝罪をしなかったためその態度に非常に腹が立ってファンをやめた人や、音痴なイケメン歌手の実例を事細かに挙げるつもりだったが、見苦しいので削除した)。他にも存命人物だと、事件を起こす前のオウム真理教を面白がってた著名人や、古本屋で見つけたロリコン写真集に「これぞ芸術」と推薦文を寄せていた文化人に「逃げるなァァァ」と言いたくなることがある。
やっぱり推しは死んでいる人に限る。どんな差別発言をしていても過去の人間だから納得できてしまう。そんなことを頭の片隅に置いてネットサーフィンをしていたら、芥川龍之介が「侏儒の言葉」で似たようなことを言っているのを見つけた(正確には、悲観主義について調べており、そこから哲学者フィリップ・マインレンダーを見つけ、そこから偶然にも「侏儒の言葉」の言葉にたどり着いた)。
古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。
又
「侏儒の言葉」は好きなんだけど、読んでいると段々と彼の鬱に巻き込まれていく。いつか芥川全集をぶっ通しで読みたいが、晩年の作品を読むと真実を言い当てすぎていて心底気分が悪くなってくる。二十代の頃のようにシニシズムを楽しむだけの体力がもはやない。ネヴァーモア! 昔はアンブローズ・ビアス「悪魔の辞典」とか大好きだったんだけどな。
とはいえ、数百年前の古典を無批判に読んでいると、人間に身分の上下があることやとりあえず天皇家が偉いことが自明に思えてくるし、人命がアホみたいに軽いことに感覚がマヒしてくるので、これもまたよろしくない。
こういうことを考えている時は大抵は体調不良のときなので、筋トレなりストレッチをしたりするのがいいのである。僕らは結局肉体を備えた存在で、そこからの入力がどんな言葉よりも助けになることが多い。というか、言葉が自家中毒を起こすことはよくあるのだ。ペッペデス。頭が良すぎて不幸になった人間の物語は好きだが、芥川には生きて戦後を見てほしかった。
さて、池澤夏樹の全集では、これ以降の巻では明治の作品が扱われる。しかし、ここまで書いてきてかなり長くなってしまった。ひとまず、江戸時代までで一区切りとし、近代の作品はまた別の機会としたい。おそらく本気になって書いたら、作家ごとに思い入れのある作品は多く、言いたいことはたくさんあるので、もっと長いエントリになることだろう。近現代作家集に至ってはIからIIIまであり、合わせて何十人もの作家が紹介されている。倍近くになるだろう。
ただし、その機会がいつ訪れるかはわからない。先にドストエフスキーや中島敦、ポーやラブクラフトについて書くかもしれない。あるいは、文学にかこつけた自分語りが一段落したので、これで終わりにすることも大いにありうる。
なお、次のエントリでは、有名どころだが話の流れから言及できなかった作品について述べる。
さっきは何が苦手かについて書いてしまったので、逆に何が好きかについても少しは語ろう。芥川賞をはじめとした現代文学を読んでいて、どういう作品が自分に刺さるかを整理すると、知識が豊富な語り手の小説が一番好きで、その次が自分の巨大な感情を論理的に言語化するのがうまい人が語り手であるものだ。それから、無軌道な性欲や暴力衝動、ひがみなどの負の感情を抑えきれない人間が出てくるのが続く。自分が中高生の頃、そうしたダークな受賞作が連続していたと記憶している。田中慎弥「共喰い」とか、時代は下るが西村賢太「苦役列車」とか、砂川文次「ブラックボックス」とか、自分の暴力衝動に屈する人間を描いたのが好きだ。青来有一「聖水」とかもそうだ。世間からはみ出してしまった、汚らしい人間が好きだった時期がある。おそらく「悪とは?」が内なるテーマだったんだろう。
芥川賞は一つの賞でしかなく、世間的には評判が良くてもピンこと来ない作品はどうしてもある。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」は最初から自分の中の無意識の声たちについて説明しすぎていて、「それだったら最初っから意識の流れとか無意識って言えよ」って思ってしまって、それ以来ずっと批判的にしか読めなかった。あれは高齢者向けの一人で生きることを学ぶ教養小説なんだよな。あと、又吉直樹の作品に結構な頻度で、的外れな批判をしてくる劇団員の女性が出てくるけれど、「お前、本当は社会的な作品批評が嫌いだろ?」っておちょくってやりたくなる。村田沙耶香「コンビニ人間」については前回のエントリで名前を伏せてチクリとやってしまった(最後まで読んでいないくせに!)。
理想を言えば性別だとか人種だとか国籍だとか年齢だとか思想だとか、そういうのを抜きにして作品を評価したいんだけれど、ある程度年齢を重ねてくると、十代の頃のように素直にストーリーを受け止められず、若いころのように思考の柔軟性がなくなり、労働で疲れていては異質なものを楽しむゆとりが減る。どうしても自分の属性や性格が近い人の文章が面白く感じるので、公平に評価するためにマイノリティ枠を設けるってのは、いくつかの問題点があるとはいえ、一つの知恵だと思う。なお、文学的に優れていることと、そのときの自分に刺さって面白いのと、今の社会が必要としているのとは、まったく違うので、話題の小説がいつも面白いわけにはいかないのはしょうがないのだろう。
脱線すると、芥川賞を取ってもその後書き続けられた作家のほうが面白い。というか、受賞作がつまらなくてもその後面白くなる作家も多い。しかし、逆に芥川賞を取る前の青臭い作品にしかない魅力もある。長編を連載するだけの構成力も体力もないデビューしたての漫画家の初期短編集からしか得られない栄養素があるのと同じだ。
なお、僕は大体漫画を買うときは短編が多い。「Fellows!」「ハルタ」「エロティクス・エフ」「楽園」「アフタヌーン」出身の漫画あたりから、絵が好みなのを選んでいるようだ。
というか、みんなあれだけ長編の少年漫画を読むだけの体力があってすごい。ただし、僕がなかなか長編漫画が読めないのは、活字のようにぶっ通しで一気に読もうとしているからという可能性がある。連載を追うペースで、ゆっくりと読めばいいはずだ。
なんでこんなことを言うのかというと、僕は同世代的経験に相対的に乏しいためだ。例えばゲームが下手すぎて、ドラクエやファイナルファンタジーなどの多くの作品をプレイできていない。ポケモンでさえ途中で飽きる人間なのだ。自分が好きなペースで刺さった作品を読んでいるだけなのだが、時折どうしても疎外感を覚える。若いころにもっと流行りのJ-POP聞いてりゃよかったよ。そりゃあ人は人、自分は自分だけれど、寂しい。
とはいえ、少年漫画の多くは恋愛が扱われるので、そこまで読みたい気分でもないのである。
こういうことを書くと「課題の分離」とかいう話になりそうだけど、個人的にはアドラー心理学はそこまで信用していない。さっき書いた「課題の分離」をはじめとした有益な概念は多いし、原因を探るよりもまず対処法を考えるのは、実生活で非常に役に立つ。というか、実際に役に立った。だが、「嫌われる勇気」をはじめとした本ではいいことを言っている一方で、「私に反論するとしたら、それは私の理論を理解していないからだ」という、反証可能性を潰すような自己完結した思考をしているのがいただけない。これは初期のフロイト派の「私に反論するとしたら、それは私に父親を見出しているからだ」とか、古い時代のフェミニストの「私に反論するとしたら、あなたが女性差別を乗り越えられていないからだ」とか、それらと同様の理屈だ。なにか自己完結した、人の話を聞かない嫌らしさを感じる。
自己完結と言えば、たとえば何人かの反出生主義者が(もちろん別の哲学的立場でもいい、実例は見たことがある)、予期される反論に対してすべて想定問答を作ってガチガチに自己防衛をしているのを見ると、圧倒的な壁のような「他者」を感じる。この人と議論しても、自分も相手も何も変わらないだろうなという、諦念を感じることがある。互いに変化をもたらす「対話」にならないのだ。
意識の高い人たちが叩かれるのはこれも理由かもしれない。会話をしても意見を変えてくれないだろうと感じるのだ。一方的な議論をしたいのなら活字でいい。僕は対話がしたいのだ。
モデルになった事件の被害者は、自分たちだけが美女を独占して性奴隷にしたいマスゴミ権力者によって「美女は性格悪い、ブスは性格いい」と思い込まされて、あんなブスに騙されて殺されたアホどもだが、本書では、日本で行われている、そうした女の場合だけ美女蔑視し、男の場合は、コンビニ人間みたいにブサイクだけ叩くという現実を捻じ曲げ、逆にし、ここにもいるような増長しきった屑フェミ女どもを喜ばせているだけ。こういう時だけ、平気で被害者叩きが受け入れられる。よくもまあ、女の被害者の時だけ、人権だとか建前でバッシングできるよな
日本の女優なんてのは、マイナス要素以外の何物でもなくなっている。日本の女優は、映画もドラマもほとんど出ず(出たらコケるから)、宣伝しなくても売れるようなロングセラー商品のCMばっかやっているのは、そういう事情がある。なおハリウッドはもっと酷くて、フェミがもっと女優を出せと喚いているくらいだ。日本のフェミ腐女子が女優なんて出すな、イケメン俳優以外女性差別!と喚いているのと対照的である。
大人になっても映画館に行くような男はバカしかいないが、女の場合、高学歴ほど、そういうものを見て、増長して糞フェミ化していく。高学歴な女がモテないのは、そういう性格のせいであって、男が高学歴を嫌がるからではない。結局のところ、美女でも、男に攻撃的で糞フェミなら持ち上げられるので、テレビを見ていると、美人でも、というか、テレビを見てる層だと、美人ほど露悪的な糞フェミ化していく。余裕のあるブスは偽善的で自己中な糞フェミ化していて、表面的には優しそうにふるまいながら、平気で男を騙して殺す。
女受けを狙ったようなブスメインの映画ドラマも全く受けない。男向けでそういうのが受けるのは、それくらいしか男にとって面白いものがないからで、チー牛女たちにとっては、もっと面白いイケメンドラマや映画が沢山ある。ごくたまに受けるのは、ひたすらイケメン俳優ばっか推しまくってる作品だけだ。結局、デブスを見に来るのではなく、イケメン俳優が見たいだけだから、デブスがメインだと分かるともう二度はない。SPY/スパイが小ヒットした後、ゴーストバスターズは大コケした。稲垣吾郎でブスの瞳を猛ステマしても、視聴率はダダ下がった
大体、日本の女優と言う奴は、そういう男叩き美女叩き嫉妬ブス媚びドラマ映画ばっかやってるから、男からは総すかん、必死に媚びた女視聴者層というのは、嫉妬ブスばっかだから、当然女優がメインの映画もドラマも大嫌い、ということで、商品価値が殆どなくなっている。ということで、映画もドラマも、スター男優がメインになり、女優は居なければいないほどヒットする。男も、女がメインの映画ドラマなんて糞ばっかであることを学習しており、頭が良ければ映画もドラマも見なくなり、鈍感なバカでも女メインの映画ドラマを避けている
それと、もう一つ重要なことがある。それは、マスコミと仲の良い女も信用しないという事だ。特に、顔が良いのにそういうプロパガンダに協力している女なんて言うのは、大体整形の元チー牛女だ。
女の場合だけ、”チー牛”ほどクズ、美女ほど性格が良い、という常識だけ身に着ければ、こんなモンスター女の被害者にはならない。マスゴミのイケメンアイドルが、ヤクザ顔負けの脅迫を性奴隷ファンに行っていることからも、男の場合は、勝ちグミっぽく見える奴ほど屑いのだが。まあ、日本は極度に恋愛市場が偏っているから、モテる男は増長しまくって、妊婦の腹を蹴るぐらい平気でできる状況なのだ
海外でも人気とか宣伝されてるけど、本当に人気なら、なぜ代理店の強い一部の先進国だけでしか翻訳されてないんだろう? 村上春樹は、代理店なんてあってないような第三国でも大人気である。
「コンビニ人間」読んでみたけど、どうも作者の(日本人的な)感覚を弁明するための作品のような気がしてならない。
極端に過剰な自意識って、極端な強情さによって「自分以外の他者」を蔑ろにしてしまう。実際、作者の周りの人たちってけっこう大変な目にあっているのではないかと想像する。もちろん話は面白いし、感覚的にすごく共感はできるんだけど、文学作品と呼ぶとしたらそれを克服していくことが必要になってくる気がする。少なくとも内に閉じていくのではなく、外に開いてくべきではないかと。
どうも日本の文壇の人たちって、前者を評価して、後者を軽んじる傾向がある気がする。村上春樹なんていい例だけど(文壇のお偉いさんから「こんなものは文学でもなんでもない」とよく言われていた)。。こういうメンタリティを許容してしまうと、何でも人のせいにしないと生きていけなくなってしまう。
そもそも文学作品って翻訳されたときに真価を発揮すると思っていて(普遍性は言語の壁を越えるから)、僕はこんなに苦しいとか、私はこんなに辛いとか、「自分が自分が」のかまってちゃん文学は、日本では許容されても世界では通用しない。
マジでさ、何も身につかなかったんだよね。
なんとなくフリーター世界で生き延びる処世術みたいのとか、全く他所で応用が利かない工場内限定の技術とか、そういうのだけが積み上がってく。
それってさ、転職でも役に立たないし、自分で反省振り返っても虚しいんだよね。
職場や機械が変わるだけでなんも出来なくなるような能力なんだよ。
同じクイズゲームを百万回プレイして全部のクイズを百人一首みたいにイントロクイズ出来たとして、それは別のクイズゲームにすら応用できない能力でしょ?
俺の中に積み上がってるものってそれだけなんだよ。
はい終わり。
それが俺の人生。
悲しいね。
辛いぜ。
今回の兵庫県知事選挙の結果を見て、ワイはもう選挙に参加しない方が世のためかもしれないと思った
ワイは精神障害と発達障害がある重度障害者(知的障害はなし)のアラフォーやが、未だに何が正しいのかわからないまま生きている
未成年の時は何度か警察のお世話になり、20代も職場でキレ散らかされ職を転々とする日々
良かれと思ってやったことで相手を怒らせたり悲しませたりすることは無限回あった
とんでもなくやらかさないと、なぜそれをしてはいけないのかがワイにはわからへんのや
正直今も、なぜそれらが正しいか理由はわからないがみんなが正しいとしているので、そのルールに則って生きている状態や
コンビニ人間やこちらあみ子の主人公みたいな人間と言えばよりイメージしやすいやろか?
こんな人間やから職場で話し合える人もおらず、家族とも縁が切れ、県内に友達も1人しかいない
話し合える人がいないなら自分で考えて何が正しいのかを判断し、投票するしかないやろう
しかしワイには一体どれが真実か陰謀論か、何が正しくて悪なのかがガチでわからん
みんなは一体何を基準に支持を決めてるんや?
真剣に教えてほしい、自分の国や街を良くしたいって気持ちはちゃんとある
ワイは毎回ちゃんと調べて支持政党や支持者を決めているつもりやったが、自信がなくなってしもた
今回斎藤知事はシロというのは調べてわかっていたが、県議や各市町長との仲が悪く意思疎通ができていない
それならちゃんと連携できる稲村さんの方が県政がスムーズに進むんちゃうかと思って彼女に投票した
ちなみに相生市長が稲村さん支持を表明した時、机をバンバン叩いていたのがパワハラと言われているのも何でかわからんかった
相生市長の机バンバンと噺家が噺途中で机バンバンするのと何が違うんや?
やっぱりワイみたいなバキバキハッショは政治に参加せん方が世の中のためなんかな
自分で考えろって怒られるんやろうが、どうやったらみんなが考える正しい選択ができるようになるんかほんまにわからん
もちろんお前みたいなガイジは政治に参加するなという意見が多いならワイはそれを素直に受け入れる
それが世の中のためになる正しい選択なら、ワイは喜んで政治に参加しないという選択をする
きっとそれはそれで怒る人らはおるんやろうけどな
ハンチバック
気持ち悪いんだけど気持ち悪く感じること自体が悪みたいな感じもあり、いい小説だ
全体にラノベっぽい軽薄さ?がありながら内容はめちゃくちゃズバッと怒りを放っていてかなりいいんだよなー
これ読んで主人公キモイ!って批判してるやつとか「考えさせられた」とか安直に言ってるやつめちゃくちゃダサいな…感性が
あと本当にズレた感想になるけど
病院に行くなりしたら状況が好転する可能性があるやろって主人公が頑なに病院に行かんと話の都合を感じてイライラするから最初から主人公がグループホームに入っていてそこは安心して読めた
弱者男性に対する主人公の差別心とか、主人公も結構性格悪い(言うてそんな悪くない、障害者は聖人ではない、なんなら作中でも出てる通り健常者に比べて曲がるに決まってるやろ理論は私もそう思うしなんなら健常者より徳高い寄付してるから)けどそのへん精算されず最後まで弱者男性的な人が悪というオチなのできつい人はキツそうって言うかしんどそうにしてる人の感想見てそうやろなと思った
弱者男性は元は社会問題的な本当にしんどい人に関する真面目な意味もあるスラングだったのに意味が変化したとはいえなんも考えず「キモインセル男性」みたいな意味で使ってるとかさー
エンタメやないから精算がないのは全然いいけどそういうの読むと当事者に近い人とかはしんどいよな
コンビニ人間もそうやけどフェミニズムちゃんと学んでそうな作者の作品の弱者男性が悪役でなんやかんやオチみたいな話多くね?(2個しか読んでねーだろ!!!)
あと枝葉主人公ネットにどっぷりやのにネットリテラシーなくほぼ本名で特定できそうな呟きすなーっ!になった
メタ的都合もあるやろうけど主人公がほんまは誰かに見つけて欲しかったとか主人公の幼さの表現とかでもあるんかな
考えたことなかったあ(ʚ̴̶̷᷄_ʚ̴̷̷᷅)知れて良かったです!考えさせられましたあ。健康な体に感謝✨」みたいなただ障害者を消費するだけの安直感想ダサいから絶対言いたくないけど作者としては怒りで書いたわけだし問題提起のつもりなら「考えさせられた」でいいのかもしれない
紙本派まじダセーみたいな下りに「好きな物は好きなの!いや俺たち悪くねーし!」てキレてる人多くて自分と同じ属性がちょっと否定されただけで自分が責められてると思って安直に反論してるみたいで幼さを感じる そういう話じゃなくね?
しかし、反論も自由…(そもそも読解出来てなくね?みたいな反論多いけど)
普段娯楽作品ばっか見てるからマイノリティがテーマのものでも「マジョリティに対する配慮も無いとゴミ!!」みたいな感想ばっか見てて、まあ娯楽作品は楽しませるためのもんやからその感想も一理あるんけど何となく自分もそう思い込んでたから
純文学やからこそのマジョリティに対するおもねりが全然ない投球を見れて衝撃的で気持ちよかった!
いや私が分からんかっただけでこれでもマジョリティに媚びてるところあるかもしれんけど
つくたべとか私結構楽しんでるけど結構上の理論で叩かれてたりしててほえ〜と思う
娯楽作品でも言い方ゲロ悪やけどマイノリティ向けスカッとポルノみたいな形で結構需要あると思うけどなーマジョリティからの叩かれは無視で、、、(マイノリティがマイノリティな限り売れねーだろ)
主人公が働くコンビニの新人として入ってくる白羽。「男なのにコンビニバイト程度の職にしかつけない」(この職業蔑視も白羽の意見)理由を、現代は縄文時代と変わらないムラ社会で社会不適合者に厳しいせいだと主張する。
「僕はずっと復讐したかったんだ。女というだけで寄生虫になることが許されている奴等に。僕自身が寄生虫になってやるって、ずっと思っていたんですよ」
市川沙央『ハンチバック』
主人公が暮らす施設のヘルパーである田中。低身長で包茎(手術済み)。重度身体障害者で金には困らない主人公に対し、田中は健常者の男性ではあるが貧乏でモテないため主人公を憎んでいる。「インセル」や「弱者男性」といったワードも登場する。
どっちも有名作だし、弱者男性はむしろ女性作家の興味が向きやすい人物像だと思う。彼らは愚かしい人物として描写されてはいるが、ある種主人公のご同類であり、同じ穴のムジナとして描かれている。
男性作家だと自称弱者男性が私小説的な作品で主人公に据えるパターンはいっぱいあるけど、いうほど登場しなくないか?しかも私小説だと、現実の作者は作品を完成させる能力があり商業出版されたりもしてるという矛盾がある。
なぜ弱者男性がフィクションに登場しづらいか。腹の中で不満をたぎらせてるだけで全然行動しないパーソナリティだから物語が動かないんだよ。
そのかわり内面描写が得意な小説では「現実では関わりたくないし自分はなりたくないけど、あいつらの生態を知りたい」という怖いもの見たさ的な需要がある。そして弱者男性は誰からも透明な存在だが、女性は謎の敵意を向けられたりしつこく言い寄られたりと、加害される形で不本意に関わる機会が結構あるので興味が向きやすい。
気分悪くはなんないけど、純文学楽しめないのは分かるわ。
感情移入するとか、起きている事件を楽しむとか、そういうのじゃないんだよな。
意味深な状況を描写してるから、それについて理性を働かせて、理性のために感情は一旦止めといて、ああそういうことねみたいな。
文学ファンって、テストに正解できたことに悦に浸って、自分の感情を動かしてるんじゃないの。オシャレカフェで美味しくもないコーヒー飲んでるのと同じ。まあこれは想像だけど。
俺ら下層民にとっては「そんな当たり前のこと言って何が面白いんだ?」みたいな感じ。
『コンビニ人間』とかね。『無敵の犬の夜』とかね。『蹴りたい背中』とか。クズ人間がクズ行動をして得るクズ体験なんか、普通によく見るだろ。動物園の珍獣を見てるような気分なんだろうけど、文学ファン以外のマスにとっては日常だからなそれ。日経平均株価の上下移動見てるようなもんよ。