はてなキーワード: カラオケとは
カラオケ自体は嫌いじゃない。年に2、3回程度とはいえヒトカラもするし、互いに趣味の知れてる仲の良い友達と行く分にはそれぞれ好き勝手に歌うので構わない。
だが今回、会社の有志によるカラオケ懇親会的なのに呼ばれてしまった。それも自分より若手、ほぼ20代が中心の会である。
普段交流の無い若手に急に「〇〇さんも来ませんか」と声を掛けられた。何を以て私を誘ったのかさっぱり分からないが、折角誘ってくれたしと思っていいよと答えてしまった。
テレビも全く見ないのでここ10年以上は世間で流行りの曲なんて全くというほど知らない。
ヒトカラで歌うのも古い曲ばかりだ。自分のプレイリストに入ってる曲の中で少しでも新しいものをと思って発売年を調べても2010年以降の曲が全然出てこない。
今年25歳の子が生まれたのが2000年だから、2000年代後半に流行った曲なら何とか通じるだろうか。それでも選択肢が少ないのだけど……
これが40代後半以上の人だと、その人の子供の頃の曲とか歌うと若い子達の親が聴いてたとかで通じたりするんだよな。そうでなくても昭和の歌謡曲とかはそれはそれでネタになる。
突然ですが、YouTubeで最も再生されたVOCALOIDの楽曲(Nyan Catのような二次創作を含まない)を知っていますか? ボカロ界出身の有名人である米津玄師やAyase(YOASOBI)のボカロ曲のどれかでしょうか? ボカロブームのきっかけとなった「みくみくにしてあげる♪」「メルト」でしょうか?
ハチ(米津玄師)さんの曲では「Persona Alice」が一番好きです。「マトリョーシカ」以降は、メジャー作品を含めて正直苦手です。アルバムとか買えば昔のような落ち着いた作風の楽曲もあるのでしょうか?
「メルト」は好きですが、当時の荒れたボカロ界隈に独特なサムネを引っ提げて颯爽と表れた「ハト」の方が印象に残っています。可愛らしいメロディに加え、リズミカルでいて意味深な歌詞、それをどこか間の抜けた初音ミクの歌声で響かせる動画の雰囲気が好きでした。元動画は消されてしまいましたが……。
正解は椎名もたさんの「少女A」です。再生回数は2025年5月時点で1.4億回以上。その経緯はいくつか分析がありますのでそちらに譲りますが、初見で当てられる人はほとんどいないのでは。
私は2008年から2016年までの長きにわたってボカロにドハマりし、10,000曲以上を聴いてきましたが、「少女A」あるいは椎名もたさんはその中でも特別な意味を持ちます。私の中でうまく消化できなかった澱みのような何かについて言語化する機会も場所もなかったのですが、「少女A」という文字列がYouTubeでの再生数とともに私のXのタイムラインに流れつき、当時の想いが蘇ってきたのでここに供養します。
話は2008年まで遡ります。当時の私はニコニコ動画の魅力に取り憑かれつつも、「みくみくにしてあげる♪」に代表される最初期の初音ミクブームを白い目で見ていましたが、「メコノプシス・ベトニキフォリア」(2008年・ちゃぁさん)を聴いた瞬間に衝撃が走りました。エレクトロニカというジャンルすら知らなかった私には、嗜好を捻じ曲げるだけの破壊力がありました。それから狂ったようにエレクトロニカのタグを追い、「Parallel Lines」(2008年・ボッチさん)などを四六時中聞いているうちに「Chaining Intention」(2008年・Treowさん)「虹」(2008年・CleanTearsさん)と、関心領域が広がっていきます。
追い打ちをかけるように、「snow knows」(2008年・zddnさん)を聴いて二度目の衝撃を受けました。電子音のようなボカロ声をロックに合わせる試み。完成度の高いギターの洪水。これに参らないわけがない。「参月の雨」(2009年・えこまるさん)などを経て、射程はシューゲイザーからオルタナティブロック、さらにはロック全般へと到達し、気づけば四つ打ちポップから前衛音楽まで全てを守備範囲とするボカロオタクの完成です。
毎日のように知らない扉が開く日々はまさしく青春。今思えば、レコードショップやCDショップで一日中試聴して過ごす若者はこんな想いだったのでしょう。当時のマイリストを見ると、私のボカロ熱の最盛期は2009年〜2012年頃だったようです。わかりやすく学生時代です。なんと自堕落な。
私が椎名もた(ぽわぽわP)さんを知ったのは、「ストロボハロー」(2010年)でした。主張しすぎない落ち着いたオケの中で、繊細かつ内向的な言葉選びにオリジナリティを感じました。「Equation+**」(2010年)「そらのサカナ」(2010年)と、音と言葉の引き出しが増えていき、「ストロボラスト」(2011年)にて一種の到達点とも言える完成度となります。
その後、少し間を空けて「怪盗・窪園チヨコは絶対ミスらない」(2011年)が発表されましたが、バンドサウンドを強調した音作り、あっけらかんとした歌詞と、急に作風が変わったことに驚きました。もちろんところどころに椎名もたさんを感じるのですが、興奮や称賛よりも、心配が勝ったのを覚えています。ただし「パレットには君がいっぱい」(2012年)「Q」(2013年)といった、エレクトロニカ・ロックの絶妙なバランスと、飛び抜けた言語センスが光る楽曲が続き、私のお気に入りは増えていきました。
大好きだったのは冒頭の「少女A」(2013年)です。後期の作風が色濃く出つつも、歌詞は切れば血のでるような生々しい若者の歪みが見事に表現され、特にサビの緩やかな入りからの叩きつけるような叫びは思春期そのもの。当時は(椎名もたさんの他の楽曲に比べれば)再生数が伸びないのが不思議でした。そしてその後、仕事が忙しくなってニコニコ動画を開く時間が少なくなり、だんだんと新曲を探す機会は減っていきました。
椎名もたさんの訃報に接したのは、2015年。Twitterのタイムラインでした。情報源は噂話などではなく、椎名もたさんの所属レーベルからのリリース。疑う余地はありません。1年ほど椎名もたさんの新曲を聴いていなかったことに気づき、椎名もたさんのマイリストにアクセスすると、遺作となった「赤ペンおねがいします」が。さらなる衝撃。椎名もたさんのものとはとても思えない、雑で単純な捻りのないオケ。初音ミクの気の抜けた調声。抽象的というより意味不明な歌詞。素人の感想ですが、私にはそう感じました。精神的または肉体的な崩壊を感じました。椎名もたの崩壊を確かに感じました。椎名もたは死んだ。これほど他人の死を強く感じたことはありません。ただ、「死」を感じました。
さらにショックだったのが友人のツイート。「ぽわぽわPの死亡というニュースは、不謹慎だが頭をPの文字で表現された漫画上の人物が死んだというニュースのようで笑ってしまう」。それまでの人生や思索の全てを音楽に昇華して注ぎ込んできた人間への言葉としてとても受け入れ難く、とはいえ普段ボカロを聴かない友人に悪意はなく、ただただやるせなさのような、哀しさのような、共感してくれる人のいない思いだけが残りました。
その後、仕事はひと段落しましたが、以前のようなボカロ熱が復活することはありませんでした。
結婚して子供ができて、人生観とワークライフバランスが大きく変わった今、改めて「少女A」を聴いてみて、とても良い曲だと感じました。椎名もたさんの動画説明文のとおり、タンバリンを叩いて楽しみたい。カラオケでも配信されているようなので、家庭が落ち着いたら、いつの日かカラオケに行ってみようと思います。大声で歌いながら、タンバリンを叩きながら、少しだけ自分の青春と、椎名もたさんの生涯に思いを馳せて。
マジで…
エキストラなの見え見えな事象ドッキリ番組がここ最近じゃ素人のカラオケ大会になってるしさぁ
掃除テクだとかの企画っやってる番組だと思ったらここ最近は大食いか激辛かたまぁ~~~に元不良大御所(?)お笑い芸人の日曜大工でヨイショするだけだったりさぁ
ネットで何べんも見たような動画にアニメの声優とってつけて芸人にリアクションさせて視聴率取ろうとしたりさぁ
面白くねえな~って思う番組にぜってえ出てる連中が元子役の大御所と暫くテレビ居なかったくせにやたら顔がデカい元お笑い芸人と野球2世タレントの3人のうちどれかが出てるんだよ
珍しくコント番組やるのかな~とか思ったそこそこ若い芸人が出てた番組も変な学校でかくれんぼだの鬼ごっこだのやってる変な番組に成り下がったしよ、視聴率ってのはどうなってんだい!?
まあわかるよ、いやなら見なけりゃいいってさ。
でも電源付ければ見てもらえるっていうエンタメとしてネットの動画を流用したりするのはどういう事だい、面白さじゃ勝てないっていう敗北宣言じゃん。
ネット冷笑ヲタク的な連中はテレビはオワコン!オールドメディア!って息巻いてるけどよ
ヲタク共の好きな漫画、アニメ、声優なんて奴らの言うオールドメディアに飼われてる存在でもあるんだぜ。
ネトフリだの配信サイトでどうにでもなるって思ってるだろうけど、ここ最近の配信サイトが広告入れるようになってる当たりあっちもカツカツなんだろうよ
まあ面白いこと考えるやつが一人で行動できる世の中になっちまったから、いろいろしがらみのあるテレビ局だかに入って年寄りにおべっか使ってペコペコするより
YouTubeで自分で動画作ったり、女だったらケツ出した写真をネットで売ってりゃガッポリいける時代だからしゃーね―んだろうけどさ…
なんか面白い番組がバンバンやるような、夜10時まで面白い番組が連なってたような時代がまた来ないかなぁ。
って言う感じでとにかくめんどくさいのよ・・・・。
任天堂を例に出したけど、インディーズゲームも1個1個調べなきゃいけなかったりするから大変っていうのは
前に事務所入ってた子(今は抜けて転生して個人やってる)が言ってた。
私は義務教育を受けていない。
正しく言えば小学校、中学校にまともに通っていない。所謂不登校だった。
そんな自分が今23歳となって社会人をやっていて強烈に感じる弊害と、どうしてそんなことになってしまったのかを綴っていきたい。頭が悪いということの行く末は孤独と搾取という気がしていて怖いのだ。
まず、私は簡単な計算が出来ない。親いくつ?って言われたときに「51です」と答えるとじゃあ27歳の時に産んでるんだ!若いね!などと返してもらえる。私はその計算が出来ずに頭の中でひっ算をしているうちに会話が進んでいた。
優先順位が自分で立てられないのだ。その場で目についた物だけを進め、何で期限が今日までのものに何も手を付けてないの?といったことが何度も起こる。
また、人と会話ができない。言葉が出てこないのだ。日常の些細な雑談でさえ、言葉が詰まり、人を困らせる。
そうなるに至るまでの過去を振り返る。
私の栄華は小学3年生の頃だった。
ある程度裕福な家庭で、欲しいおもちゃはたくさん買ってもらって、小学生が憧れる可愛い物を沢山持っていたからクラスでも友達が寄ってきてくれていた。
だから私は図に乗った。友達も世界も全部自分のものという無敵感があった。クラス新聞を自分の漫画で埋めたり、クラスの皆とカラオケに行ったとき(本当は規則違反なのでこっぴどく叱られた)私以外に曲を歌わせないなどの粗暴さを見せていた。その結果やはり友達がいなくなったし、クラスから孤立した。そのまま学校へ行けなくなり、私は中学受験をする為の塾に行くことで日々を過ごすようになっていた。保健室登校という言葉がじわじわ出始めたくらいの頃で、当然保健室にも居場所はなく、私はコミュニケーションをとる相手といえば家族と塾の先生だけ、という状態になっていた。なんとなくカウンセリングに通いながらも結局学校には馴染めず、そのまま受験して合格した中学校に進学した。その中学校はその当時の私の偏差値では受からないと思われていたけれど、受験できる時期が早かったから練習用に受けてみた本命ではない学校だった。私のレベルより遥かに偏差値が高かったのだ。そこに何故か受かってしまい、そのまま入学。今思うとそれがいけなかったのかもしれない。
鮮明に覚えているのは、社会の授業中に先生に当てられて、世界の大陸名を答えられなかったとき。ひどく恥ずかしく、体調が悪いと嘘をついて教室を逃げ出したことを覚えている。その後もとにかく私は勉強についていけなかった。数学と英語はいつも赤点。補修のメンバーは毎回帰りの会で名前を読み上げられ、それが恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなかった。友達と話していても私だけ落ちこぼれの劣等性という烙印が頭を離れず、常に焦っていた。私はそこでまた逃げ出してしまった。学校に行かなくなるのだ。そして、小学生の時のように受験勉強をするでもなくアニメにどっぷりハマってしまった私はオタクとしての黒歴史をバッチリ残しながら、授業も受けず過ごしていた。
その結果私は義務教育で身につくはずの基礎的な知識、友達とのコミュニケーションの取り方、一つの物事をやり遂げる忍耐力、多少の理不尽に耐えるごく普通の精神力、そういった物が全て身につかないまま義務教育期間を終えてしまった。
高校は出ているがそれもやはり不登校であまり通えていない。その後2年間フリーターをした後専門学校似通って卒業して社会人をやっている。)
私が今思うのは「逃げてもいいよ」という言葉の怖さだ。私はとにかく甘やかしてもらっていた。辛いなら逃げていいよ、学校に行くのが苦手なら休んでもいいよ、と。でもそれは結局将来の私がこのように苦しむ結果になってしまった。一度も努力をしたことがないから忍耐力がなく、すぐに投げやりになり、何もうまくいかない。勉強をしていないから物事を知らない。記憶をしておく力を持ち合わせていないから人との会話も覚えていない。とにかくどうしようもない。
もう、若いからで済まされる次元にもいられなくなってしまった。私はどうしたらいいのだろう。全ての事柄から逃げてしまっていたツケが回ってきている。こんな私の人生に挽回の余地はあるのだろうか。辛くて情けない毎日を送っているうちに鬱にもなってしまった。正直もうどこから手を付けていいか分からない。高い学費を払い続けて私を育ててくれた両親に申し訳なくて涙が出る。頭が悪くて、死にたいのに死ぬための知識もないんだ。
天然パーマと色素の薄い瞳が可愛い子で、身長は私より15cmくらい高い。
彼は私を「〇〇さん」というふうに名前で呼ぶ。
年下とそういう関係になるのは初めてなうえ、相手が年齢よりも幾分か幼い顔立ちをしているせいで、いつもいけないことをしているような気持ちになる。
彼は私に触れるのが好きだ。大学の帰りの電車で手を繋ぎたがるし、よく私の肩に触れる。
その控えめなスキンシップが、躾の良い牧羊犬のようで、愛しい。
ー
声を抑えられないような強さで、彼は私を噛む。
お腹を、胸を、耳を。
私は精神的に不安定な方で、人の温もりが欲しかった。軽いキスやハグをしたくてのこのことカラオケについて行っては、彼に食べられる。
場所の都合上、最後までせずに私の体に彼が触れることが大半だった。
うっかり、自分にはマゾヒストのけがあると教えてしまったばっかりに、身体中が痣だらけになるまで噛まれるようになった。
痣を見る度になんて躾の悪い犬だ、と思う。
「なんで痛いのが気持ちいいの?」と彼はよく聞くけど、私はいつも口ごもってしまう。
痛いとアドレナリンやエンドルフィンが分泌されて気持ちいいのだ、とか。
痛いイコール気持ちいいという図式を体が覚えてしまったのだ、とか。
言いたいことはいろいろあるものの、上手く働かない脳ではそれを言葉にできない。
彼に悪いことをしてしまって、その贖罪としてなにをされても受け入れる、ということになっていた。
悪いと思ってるの?次にホテルで時はもっと激しくするから。泣くまでやめてあげない。
部屋に入るなり押し倒されて、彼は私の体を噛みながらそんなようなことを言った。
彼が唇を体に当てると、怖くて体が震えるようになっていた。噛まれるんじゃないかと思って。噛まれて気持ちよくなるのがいつも怖い。
ちぎれそうになるくらい胸を強く噛まれて、私は逃げたくて仕方がなかったけど、体が激しく抵抗するのを何とか抑えた。
逃げるな、と怒られたくなかった。
片方の胸を強く噛まれて、もう片方の胸は指で責められた。痛くて仕方ない片方に比べて、指での刺激が甘くて何度も大きな声が出た。
背中に勃起した状態のものを押し付けられて、そこの部分に痺れたような感覚が走る。
膝に乗ってキスをしたとき、鼻をつままれた。息が出来なくて、死んでしまうかと思ったけど、意地悪をされて興奮した。
そのあと、はいおしまいと体を離されて、とてつもなく切ない感覚に襲われた。
して、とお願いすると外側ばかり責められて中は全く触ってもらえなかった。
外側を激しく擦られて痛いのに一度イった。とことん自分は終わってるんだ、と思った。
中がもどかしくて、いれてと何度もお願いして、ようやく許可が出た。
指の上に腰を下ろして、そう言われて腰を下ろさせられた。
カラオケだから静かにね、と言われたけど、ぜんぜん我慢できなかった。
イっても止めてもらえないのが辛かった。イってすぐに責められると刺すような感覚が中を襲って耐え難い苦痛がある。
子宮口の手前の部分がいちばん気持ちよくて、そこをずっと責められ続ける。
耳を噛まれながら中をえぐられると冗談みたいに気持ちが良かった。逃げたくて、痛くて、やめてほしいのにどうして気持ちいいのか、自分でもわからない。
最後までしたかったけど、口にするのが恥ずかしくてできなかった。