はてなキーワード: かなっちとは
三代目の俺から言わせてもらうと
三代目で潰れるのは二代目が悪い
一代目が育てたビジネスモデルや設備が限界を迎えるのが三代目の頃なんだよね
それまでにビジネスモデルの刷新や設備投資、人材育成をしっかり回していないと老衰でぽっくり逝くように死んでいく
でもそれって二代目から始めてないと間に合わないわけ
でも二代目の頃は一代目が残した資産だけで余裕で生きていけちゃうんだよね
今までと同じように働いて、今までと同じように稼いで、今までと同じように金使って
それでだいたいなんとかなっちゃうのが二代目なわけ
雇われリーマンみたいな気持ちで毎日同じことやってればいいだけ
そのツケは全部三代目に回ってくる
もちろんそこでドカンと巻き返す優秀な三代目もいるんだけど
かなり難易度は高い
『俺は悪くない』
日本人の月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074
典故ってのは何かにつけて漢籍(漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩。
例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。
また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖(ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代の象潟もラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇の美女西施→潟湖の西湖の風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。
やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟は芭蕉の後に地震があって、輪島の海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。
こんな風に昔の日本は漢籍を引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。
んで、月見の方も平安時代に貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍の記述で中国で古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。
んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江戸時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。
で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民が比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。
例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。
富士山が世界遺産に登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。
例えば庚申講。道教とか神道、民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰で人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王に悪事をチクるから徹夜で宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。
都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこちに庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。
https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7
こういう「講」(信仰の寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。
月には月齢があって、新月、三日月、満月、半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰は別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰が仏教と結びついていた。
仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリックの職業別聖人信仰に似ているね。
月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。
で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。
二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に
https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7
また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。
もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音が本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。
これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。
これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。
「子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。
十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊は大日如来、阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。
で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い、宴会、食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝と安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。
それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。
月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。
一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。
だから二つがごっちゃに混ざってるってこと。
新月の次の日:既朔
十四夜:小望月、待宵
十六夜:既望
十七夜:立待
十八夜:居待
十九夜:寝待
廿夜:更待
これも漢籍典故による特別視から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれた表現と考えられるのだ。
日本産ゲームのリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。
大抵、西洋のルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト。
でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。
近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名を発見して訪れてみるっていうのも自文化の勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。
ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府が奨励して盛んになったんすよ。
江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。
そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまりは官製文化の面があるの。
それくらいの年齢だと親と自分の関係性が一番大きいからそれでもなんとかなっちゃうからだろうけれど。
あ?他責されたときはお互いに自分の正当性を主張し合ってたから、増田の姉の対応とは全く違ったものだったけれど、他責思考がそれで修正されたことはない。
そんな子供もギャンググループを構成するようになると自分が正しいみたいなことに執着すると友人関係が破壊されて結果的に損をすることに気づいたのかそういうのは減った気がする。
というわけで、甥っ子が同年齢の子供たちとそれなりに交流をするなら問題ないと思うけれど、同年齢の子供たちとの交流を遮断されているなら気になるなって思った。
あと、結局は解決できない思いみたいなのもあったりするので、真っ向から対立するよりも気分をごまかしてうやむやにする系の対応で、自分の心の処し方を教えるのもあるかもしれない。
家関連の話は大体、性能に偏ってる
でもまあ結局家は価格や立地だよ
どんなに有識者の意見を集めたり実体験を聞いたとしても、家のことなんて10年単位で全部変わっちゃうんだし
10年前なんてUA値0.8でも高機能とか言われていた気がするけど、いまそんなこと全然ないしさ
断熱性能とか耐震は建てた瞬間に決まっちゃうからどうしようもないけどさ、高気密高断熱じゃないからって人間が住めないことはないわけだし
どんなにおしゃれな外壁と立派な庭だとしても、毎日見てると大したこと感じなくなるし
けどさ、安けりゃ全部許せるでしょ?
そんなもんなんだよ
10年、20年住んでも「安くて便利な家に住んでいたな」ってほうがたぶん満足感は高いと思う
安けりゃその分を子供に費やせるんだ
短期給付で大抵の医療費の足しになるし、高額医療を受けてもある程度の自己負担で済む
それに公務中での事故や怪我なら公務災害として医療費が出るから、実は本当にお金が必要な場面は少ない
もちろん透析治療とか大きな障害には負担が大きいけど、そこまでいったら手帳交付されるから別の手当や減税があるし。例えば自動車税は免除されることが多い
仮に癌をなっても共済の範囲でだいたいなんとかなっちゃうんだよね
そりゃ医療保険に入っていれば色んなお金を出してくれるだろうが、そのために無駄な掛け金をだすのはあんまりわからない
必要な保険は、自動車保険や火災保険や生命保険保険くらいだろう
自分ではどうしようもない高額なものや社会通念上ないと困るものには保険をかける意味がある
それに保険は保障の範囲を重複させることにあまり意味がなく、既に保障が手厚いのにさらに輪をかけるのは勿体ないと思う
ちわーす、おっちゃんです
まあ座ってや、座布団あるで
さあ、話っていうのは、まあ、なんてことないんやけどな
まあなんや、そんな大層なことやないんやけどな
まあ、一言で言ったら、明日からユニクロ感謝祭やから、一緒に行かへんかっていう話やねん
午前休とってさ、行ってくれへんかなっちゅう話
まあこのユニクロのページ見てみてや
https://www.uniqlo.com/jp/ja/special-feature/kanshasai
タダでお菓子もらえるねん
お得やろ
あとな、10000円買ったら、ステンレスのボトルももらえるんや
あとヒートテックも安なってるんやで
うん、そや、買ってやるさかい、一緒に行かへんか?
お菓子もらえて、ヒートテックももらえたら、一緒に行ってもええかなって思えるかな思て
お!ええか!やった、感謝やで
ほなまた明日、9時くらいに、おっちゃんの部屋まで来てくれるか
やっぱりな、服買うときは誰かに見てもらわんと、よく分からんねん
似合ってるかどうかとか
だから一緒に来てくれたら助かるねん
まず、一つ目のダメなところは「着地点が分からんのよな…」とか言って、具体的な目標設定をしていないことだ。料理でも何でも、具体的なゴールがなければ試行錯誤も無駄になりやすい。
次に、「トマト缶ベースがいいのか、ヨーグルトベースの方がいいのか」なんて迷ってばかりで、一つに絞って実際に試してみる姿勢が足りない。料理は実験でもあるんだから、まずどちらかを試してみて、それから反省点を見つけるべきだ。
「鳥をヨーグルトに漬けて冷蔵庫とかめんどくさいし」なんて言い訳をするな。面倒くさいからという理由で手を抜けば、当然美味しい料理にはならない。手間を惜しむな。
「カレー粉とガラムマサラぐらいで決着したいし」というところもおかしい。料理は基本を押さえてから自由にアレンジするものだ。まずは基本のスパイスを学んでから、自分なりのカレー作りにチャレンジするのが良い。
「なんかめんどくさがりでもできる、基準になるようなカレーが作りたいと、ずっと思ってるんだけど、最近はサボってる、太ったし…」これもダメだ。サボっている自分を正当化しちゃいけない。太ったのであれば、健康的な食生活を心がけるべきだし、努力することが大切だ。
「ゼロからカレー作ると少量というのも難しい気がするんだよな、トマト缶ダパーッとかなっちゃうし…」これも甘えだ。少量でもできる方法はあるはずだし、自分で調べて工夫するべきだ。
最後に、「あー、かわいい美少女がゼロからうまいカレー作りに来てくれないかなぁ…😟」なんてのは、夢を見ている暇があるなら、自分で努力しろ。自分の力でやり遂げる喜びを覚えた方がずっと素晴らしい。