はてなキーワード: うさぎやとは
そんな皆は、ブラックホエール号におけるノブナガの活躍はもう知ってると思う。
今週改めて言及されたけど、ノブナガは艦内で刀を没収されたり破壊されたりしながらも必死にやりくりしてるんだ。
愛刀を没収されたノブナガは、今現在どうやって戦っているのか?
簡単だ。
その辺の刀にまとわせたオーラを刃状に変化させることで全然問題なく戦えている。
この状況に対して仲間たちも「急ごしらえのおまけみたいなもんじゃん」という意見が出ていることからも、ノブナガは刀っぽいものがあれば戦えるので刀の質には拘ってないことが分かる。
うん。
「刀っぽいもの」さえあれば十分なんだよな。
さて、それでは表題の「「七色弓箭(レインボウ)」の話に戻ろうか。
「七色弓箭(レインボウ)」はポックルの念能力で、指でぐわしみたいなポーズを取ることでオーラを弓矢に変化させる能力だ。
NGLで弓矢を没収された状態のポックルはこの能力を駆使して必死に戦っていた。
でも最終的には「最速の橙の矢を!」と驚いてるうちにボコボコにされて終わってしまった。
悲しいぐらいに貧弱な念能力だったわけだ。
なぜ、ポックルはこんなことになったんだろうか?
答はシンプルだ。
「オーラを弓矢に変化させることにメモリを使ってしまった」×「別に必要ない能力をいくつも作ってしまった」のあわせ技である。
ハッキリ言えば、やってることのレベルはヂードゥと大差がないと言っていい。
まず、弓矢なんてものはその辺にあるツタと木の棒でもそれっぽいものは作ることが出来るわけであって、没収されることを警戒して弓矢そのものを具現化する必要はないのだ。
弓状のオーラを具現化すること自体が「ゴムのような性質をもたせる」バンジーガムにも似たオーラ変化を必要とし、発動にも習得にも余計なメモリ消費が発生する。
その辺で拾ったそれっぽい弾力のある紐状の物体を「纏」で強化する方が遥かに効率がいい。
矢だって鏃部分はオーラで作ってもいいが、棒の部分はその辺にある木の棒でも十分なはずだ。
貴重な念エネルギーを使い捨ての弓と箆(のう)に使ってしまうのが完全に無駄なのだ。
そして、修行においてもそれらをイメージするために使っていた時間で念の出力を伸ばしたほうが遥かに効率がいい。
登場しているのは2つだけだが、その両方が明確にメモリの無駄を感じさせてくる。
炎を矢に纏わせる赤の弓は屋外において火を素早く扱えるというメリットがあるように見えるが、そもそも火なんてものは強力な摩擦でも起こせるので念能力者が本気で木を擦り合わせれば一瞬で手に入れられる。
何らかの特別な効果があるならまだしも、ただ火を起こすだけの能力なんて修行で身につけるようなものではない。
橙の矢はアイディアだけなら間違っては居ないのだが、これが7つの能力の1つであることがまずい。
オーラを矢の速度に変えるというのは一見すると理にかなっているのだが、そもそも論として「物凄い強い力で矢を飛ばせばすごいスピードが出せる」というものがある。
わざわざ念を速度に変換しなくても、素の出力が高ければそれに応じた速度で矢は飛ぶのだ。
高速で飛ばすことが出来たとしてスピードにステータスを振ったせいで威力が下がっては結果が伴わない。
この能力は本来の矢の威力が十二分に高まり「当たった時の威力が極めて高く、多少威力を削っても命中率を上げることを検討しても良い」という状態にしなければ話にならないのだ。
「七色弓箭(レインボウ)」は作中においては蟻兵士を何体か倒しており、一見するとそれなりの能力に見える。
念が使えない相手からすれば不可視であるし、そのような相手に対して一方的にぶつけるにはピストル程度の威力でも十分な殺傷力がある。
ハンタ世界における動物はメチャクチャヤバイ奴らがクソほどいる。
キメラアントだってそんなヤバイハンタ世界で生まれた野生動物の一種だ。
ポックルが最終的に相手取りたいのはその辺のうさぎやイノシシではなく、そのレベルの生物ではないのか?
だとしたら「単に念が使えないだけの奴には不可視(でも気配や音は感じられる)」「ピストルや火矢程度の威力」では全然話にならないのだ。
求められるのは「念や特殊な感覚器官を備えた相手にも認識できない矢」だったり、「当たれば一発でこちらの有利に状況が変わる矢」だったり、ないしは「とんでもない威力の矢」であるはずだ。
幻獣と渡り合えるような念能力の完成を目指すという点において、ポックルのやっていることは全くもってメモリの無駄である。
弓矢を持ち歩く必要がないという利便性や、ちょっとした速度増加なんてものは、念が使えるという優位性に甘えたなまっちょろい発想から出てきた舐めプでしかない。
ノブナガのように「その辺で拾ってきた道具にオーラを纏わせることで念能力は完結させ、メモリの大部分を基礎修行や威力の面に集中させる」という運用を考えるべきであった。
ポックルの師匠が誰なのかは知らんが、あまりにもメモリの使い方についての教育が足りてない。
念能力における理想的パターンは「当たれば必殺」か「基礎修行に比例してドンドン強化される」のどちらかであることは言うまでもなく。
ポックルの「七色弓箭(レインボウ)」はそこからあまりにも遠い。
もしポックルがもう数年修行を積んでいても、多種多様などうでもいい能力を増やすことばかりにメモリを使って、肝心の基礎的な威力や必殺性は疎かにしたままだったであろうことは想像に難くない。
念能力を他の能力バトルと比較したときに、かなり特徴的な部分が1つある。
それは「能力は自分で考え、自分で開発する」ということだ(継承戦は超例外だってことは忘れるなよ)。
つまり、自分で能力を開発する関係上、シンプルである程修行効率がいいのだ。
ポックルの「七色弓箭(レインボウ)」はやたらめったら効果が増えていてシンプルじゃない(多様な能力が使えるという点では盗賊の極意は似ているが、クロロの念能力そのものは「相手の能力を盗める」という一点特化型だということを忘れないように)。
そして、半端に多様であるが故に使える能力自体は複雑なものではなく、相手からすれば何が起きているのかが簡単に分かってしまう。
多様な効果があって何が出てくるのかわからないというのは一見すると強力だが、それよりも遥かに恐ろしいのが「相手に行われた攻撃の正体が食らったあとでも分からない」という状態だ。
ポックルの能力は火を起こしたり高速で矢が飛んだりするだけで、撃たれてしまったあとはその効果を疑う余地は一切なく、これでは分からん殺しの性能は大したことがないと言って良い。
素手からの不意打ちによる分からん殺しという点でも、弓矢を具現化して発射するという工程により相手に次の手を読ませてしまうのがよくない。
同じく素手から遠距離攻撃する能力でも「俺の両手は機関銃」はいきなり指から念弾が出てくるという予測しづらいものであり、また正体が分かった頃にはその破壊力によって相手は大きくダメージを受けている可能性が高いという不意打ちとしての完成度の高さがある。
念の戦いにおいては、基本がシンプルであり、何が起こったか理解される前に倒してしまえることが重要なのである。
そしてこれは、自然界において多様な能力を持った幻獣同士の生存競争にも同じことが言えるはずだ。
ポックルの能力は単に「念能力者同士の戦いで弱い」というだけに終わらず、「幻獣をハントするというミッションの攻略においても弱い」と言わざるを得ないのである。
東京に出てきたばかりの地方出身者にとって、東京土産はなかなか難しい。
正確にいうと、味に小うるさい家族・親戚がいる場合には特に難しい。食に無頓着な人向けには、東京ば○ななど、東京が名称についた土産でも買っておけばいい。
しかし、舌が肥えた家族・親戚向けには、帰省の度に頭を悩ませてる。
これが東京から買って帰るべき個人的オススメの「東京土産」だ。
言わずと知れたお菓子の定番。まず、嫌いな人がいない安牌。本店は港区の南青山なので正真正銘の東京土産と言える。
ただ、全国のデパートで販売されているため、誰でもいつでも食べられるのが、それでも意外に買わないから喜ばれる。
東京住まいが長くなると、どら焼きとたい焼きの食べ比べをすることになる。
私は、うさぎや派で、かつ、柳屋派。うやぎやは賞味期限がその日中と厳しいが、うさぎやのどら焼きはずっしり重く、水分が多く含まれる証拠でうちの家族の評価は高い。
うさぎやは、その日中に食べてもらうがある。東十条の草月も1個の値段が安くて独特な見た目と味で美味しい。一方、たい焼きは地方への持ち帰りは相当厳しい。
東京土産、定番中の定番。大人が好きな味。チーズケーキがあまり好きでない人も食べられる人多し。1カット小さいが十分な食べ応えあり。
その日中に食べてもらうつもりで持って帰る。でも、翌日までは食べられる。
番外編
東京土産に味を求めると買う手間がかかる。行列必至なところが多い。そこで、東京土産はハナから諦める。
京都のお菓子なら、味が保証されているし、東京の和菓子なんてどれも洗練さに欠ける(と思う)。
最近では店舗も増えたが、地方在住の人にとってピーエルマルコリーニなどの店舗はなかなかないので重宝される。
NG編
1)ひよこ
福岡土産なので、東京の人は福岡に土産として持っていかないこと。
例えば、東京の和菓子を京都へ持っていくことは、京都の人からすると、喧嘩を売っている・挑戦しようとしてきている、と思うらしい。
新しい店に疎いので老舗中心になるけど…
→チョコレート部分にアート(定番は浮世絵)が施されていて、見た目も美しく、味も当然ながら美味しい。薄くしっとりしたエクレア生地に包まれたカスタードクリームが口の中に広がる幸福。コーヒーも美味。
→季節のトッピングが特に見逃せない。みはしマニアの人から情報を得て、初めて食べた若桃トッピングのクリームあんみつは、今までの俺の中でのあんみつの概念が、ヒョイと覆された。
→ここのフィナンシェは多分バターの使用量が尋常じゃない。噛むとじゅわりと口内に広がるバター。こんなにバターの存在感を感じたフィナンシェは初めて。
→千疋屋なので当然果物は選び抜かれたものなんだが、なんというか、雑味がまったくない、素直でそだちのよい味わいのバナナがクリームと共にお口の中にイラッシャイなんである。朝方、たまたまこちらでおめざ的に頂いたのだが、こんな上級品を朝からお迎えできたあの日は、俺的幸福な朝TOP10に入るぐらいの、記憶の至福の味であった。なお、コーヒーも美味。
全然映えないけど、以上です。
いつのまにか触れあえない体質になっていた
犬猫鳥のいる実家に帰ったとき、呼吸できなくなるくらい鼻腔が閉塞して全身に発疹ができたのがきっかけで検査した
姪の飼ってるハムスターの爪がひっかかっただけでグロいミミズ腫れもできた
うさぎやチンチラの餌となる牧草なんかの稲科植物もだめになった
子供はできないとわかっている
変な言い方かもしれないけどこんなにも動物の里親の条件満たしてるのに飼えないなんて!
数年前同棲していたときは小動物の里親になって目に入れても痛くないほど可愛がり、
長生きしてもらって看取りまで全身全霊を捧げた
お互いの実家で犬猫飼育してて、受診やトリミングなど手伝えることは喜んで手伝った
今回念願の一戸建てを建てて「よし!いまこそ好きなだけ動物と暮らそう」と思ったらコレだよ
犬を外で飼うなんて絶対無理だし、飼ってみて無理なら...なんてクソ無責任なと死んでもしたくないし、爬虫類系は懐いてくれないだろうしアレルギーだってあるかもだし
すごく凹んでる
第一志望校落ちたときやだいすきな祖父がなくなったときより凹んでる
動物と暮らせる人がうらやましい!
動物との暮らしを夢見て在宅で稼げるように努力してきたのにさ。
みんなペットを大切にしてね
ドールが好きだ。人間型も動物型も。SD系のリアル顔もDD系アニメ顔も。
シルバニアも好きだ。かわいい。でも赤ちゃんばかり持ちあげられるのはあまり納得していない。みんなまるごと愛してあげてほしい。
ぬいぐるみも好きだ。テディベアやうさぎや猫のぬいぐるみは昔から好きだった。
所持している人に対して引くとかはそこまでない(流石にbl的な絡みとかぬい同士の添い寝とかはちょっと……となる。)が、自分で所持しようとは全く思わないし、かわいい~とはならない。同じようにいわゆる「もち」も好きではない。
ちゅんやキャラの衣装を着ているクマは人間ぬいほどではないがまぁちょっと苦手ではある。
こんな感じ。
ポケモンやDQのスライムやミッキーみたいなぬいぐるみは好きだしそれらに関してはなんとも思わない。
別に苦手のままでもいいのだが、眠れない深夜になんでだろうととりあえず考えたのでここにメモしておく。
先に書いておくけど結論は出なかった。
最初、人間キャラのぬいが苦手な理由はそのキャラの人格や設定が既にあるため、私たちと同じ次元で身近に小さなぬいとして存在しているということに自分が解釈違いを起こしているからではないか、と考えた。
キャラクターにはそれぞれ暮らしている世界があるし人生がある。だから解釈違いになっている、という感じだ。
ポケモンはそれぞれ個体が違うのでトレーナーも性格も千差万別だし、スライムも同じように「スライム」というほぼ同じ見た目の種族なので千差万別。
ついでに人間型の中でもボカロは大丈夫なのだが、これもポケモンと同じ理由になると思う。「○○さんちのボカロ」という文化が昔からあったからだろう。
だからぬいぐるみになって大勢が所持していても違和感を持たない。
そこの違いが苦手がそうじゃないかの違いだと思った。
でもちょっと違った。
このブログの一番最初にドールが好き、と書いたが、実は所謂キャラクタードールはかなり好きなのだ。(DDとかすごい。ボカロを筆頭にたくさんある。SD系でカスタムしている方たちも尊敬している。)
ドールという形でなら同次元に存在してても問題なしになってしまう。
じゃあなんでだろう。
デフォルメされてるからかな。ボカロやスライムみたいに大量にいてもおかしくない、と思えないからかな。
Twitterとかではぬいぐるみ自体が苦手な人はよく見るけど私みたいに人間のキャラぬいだけが苦手な人は見かけないので(そもそもそんな発言できる空気でもないだろう。ぬいをもってるオタクはたくさんいる。)眠れない夜に書いてみた。
おやすみ。
月日が経つと忘れてしまうと思うので。
3月終わりの三連休以来、約2ヶ月に家族で週末に遊びに行った。
土曜日は近くの市立温水プールへ。入口にはデカデカと県内在住者のみ、マスク未着用の人は入館不可と書いてあった。従業員が1人立っていて入館者がマスクをつけてるかチェックしてるようだった。マスクから鼻が出てた子供は注意された。更衣室で水着に着替え終わるまでマスクは着け続けるように、と言われる。どうせプール入ったらみんな顔つけて息継ぎとかするのに?と思うが従う。結局受付にも更衣室にも人はおらず、接触したのは入り口に立ってた従業員だけだった。プール内にはいつもの半分くらいの人がいた。換気のため窓が全て開けられており、更に普段なら稼働しているジャグジーやサウナが使用不可になっていることもあって非常に寒かった。が、数ヶ月ぶりに泳ぐととても気持ちよくすぐに気にならなくなった。子供とゆっくり泳いだり水中ジャンケンをしたりして過ごす。1時間ほどで子供の唇が紫色になったのでプールからあがった。こんなことは初めてだった。来週も来ようねと約束する。
日曜日は天王寺動物園。10時半に到着、入場まで約二十分並ぶ。暑くて死にそう。屋台のかき氷を買って食べながら待つ。しばらく並んでると自分の少し後ろの方で「ここより後ろに並んでる人から入場規制がかかります、次に入れるのは1時からです。」と従業員が叫んだ。ギリギリ私たちは入れそうで良かったねと子供に言った。後ろから赤ちゃんが泣いてる声が聞こえてきて、かわいそうだね、と子供は言った。
ライオンやオオカミは気を抜いたように寝てた。夫にそっくりなゴリラがいて子供と笑った。ペンギンは歩くのは遅いけど泳ぐのは速いねと関心していた。うさぎや羊は感染対策のため居なかった。また今度来ようねと約束した。ゾウが亡くなっていたことを知って寂しい気持ちになった。暑すぎるので園内でもアイスを買って食べた。マスクは熱中症になりそうで外した。1時過ぎに動物園を出たら入り口付近で従業員が「本日は今からでは入場できません。」と叫んでいた。てんしば公園は動物園に入れなかった家族連れで見たことのない混み方だった。
私は大学に通うために去年の春から一人暮らしをしている。と、周りではそういうことになっている。正確には、15人か20人くらいの家族と一緒に家を出た。今もみんなで暮らしている。実家が好きなので寂しいけど、家族と励まし合って頑張っている。
私が今言った家族というのは、世間ではぬいぐるみと呼ばれるものに当たるのだと思う。が、彼女たちは私にとっては家族で人間だ。例えばくまや、うさぎや、ネコや、いぬや、ひつじなんかの形をした、れっきとした人間だ。私の大切な家族だ。
実家にも他に40人ほどの家族がいる。元々は父、母、姉、姉、私の五人家族だった我が家。段々と家族は増えて、今は合わせて60人家族くらいだろうか。その全員に名前が付いている。苗字と名前の両方がある。それから歳と、性格と、話し方や声なんかがそれぞれにある。家族だからもちろん全員のそれを記憶している。私の元からの家族も、もちろんそれを記憶している。ベッドやソファもあるし、小さな個室もある。二つ上の姉は裁縫が得意だ。それで、私の家族はみんなちゃんと服を着ている。人は家具や住居を必要とするし、人は裸では歩かない。そういうことだ。
旅行に行くときにはいつも家族がもめる。だれがその旅行に行くのか、喧嘩は絶えない。まだ小さい子が多いから、みんな行きたがるのも仕方ない。結局は私や姉や、母がその仲裁をして、代表の子と旅行を楽しむ。一緒に写真も撮るけど、それはもちろん人のいないところで。私たちの家族が、誰からも認められるものではないということは理解している。
小さい頃からずっと一緒に過ごしてきてもう中学生になる家族には、随分と悩みを打ち明けた。私の血を分けた家族よりも私のことを知っていると思う。本当に色々なことを話したのだ。彼女の故郷の話。私の将来の話。お互いに、布団にもぐっては沢山の話をした。
この間、友人にロック画面を見られた。私のスマホのロック画面は、家族の写真だ。家族を画面いっぱいに写るように並んでもらって撮った。みんなとても可愛くてお気に入りの写真だ。友人は「このすみっこぐらしのしろくまととかげ、なんで隣にしないの? すみっこぐらしはすみっこぐらしでまとめないと」「てかノーブランドのぬいぐるみ随分持ってるね。これカエル🐸?」と画面を指差して笑った。私にはよく分からなかった。この子はすみっこぐらしのしろくま、なんて名前ではないし、すみっこぐらしのとかげ、なんて名前ではない。この子には別の名前がある。ノーブランドも何も、生きてる人間なんだからそんなものあるわけないじゃん。カエルじゃなくて人だって。言いたいことは色々あったけど、理解してもらえるとも思わない。私は「質問多すぎてわかんないよ」と言った。友人は相変わらず笑っていた。
今日は他人から見たらパンダのぬいぐるみにしか見えないだろう、私の家族と眠る。この子は寒がりだから、お腹のあたりで抱っこしてあげて眠る。
誰に理解されるわけでもない。けれどこれが私の家族の愛の話だ。私と私の、家族の愛の話。
いつかわかってくれる人に出会えるかなあ。
うさぎを食べこたことがある日本人はきっとフレンチ好きだろう。
「あれはなかなか美味しいんだと」これが叔父からわたしへ最後の言葉だった。
しばらく疎遠になっているうちに、叔父は胆道癌であっけなく亡くなってしまった。
しかし、この叔父のことばが頭の片隅にひっかかっているようで、
和食を愛するわたしは叔父の死後3年がたっても、まだうさぎを食べたことを時々思い出した。
そして今、目の前に生きたうさぎがいる。
おおくのうさぎやマウス(含ノックアウトマウス)も利用してきた。
うさぎのしめかたはいろいろあるが、わたしは注射器を多用した。
苦しいのか、目をつぶって、きゅーっとだけなく。
叔父の供養にもなるだろう。
私はこの原作である漫画が不朽の名作であると思っていて、それを2時間の間口の広い映画として結実させた片渕監督は素晴らしいし、
映画は大変な傑作であるなと思いながらも、原作ファンとしてやはりどうしても白木リンの物語が割愛されていることが残念に思う。
そして、こちらのブログを読んで、ユリイカを買ってきて読んだ。
ユリイカ「この世界の片隅に」 感想 【片渕監督の込めた「すず」という少女への愛】
http://www.club-typhoon.com/archives/8332896.html
短く綴られた理由にとともに
----
「そこをつくらないと話にならないよ」って文句を言う人が出てきて、また続編をつくれるかもしれない(笑)。
----
という一文があった。
そうか、そうであれば存分に、めんどくさい原作ファンとして「話にならない!」と言わせてもらおうと思う。
以下、原作と映画のネタバレどころか個人的な妄想まで含まれるので、未読・未見の方は読まないことをお勧めします。
*****
すずは、絵を描く人である。
基本的にはおおらかで、健やかな人であるけれど、少しぼんやり天然なところがある人として描かれている。
たぶん絵を描く人には同意してもらえると思うけど、絵を描くのが好きな人の一部は、現実と自意識の間に透明のキャンバスというかレイヤーを持っていて、現実をそのレイヤーを通して見ているようなところがある。
それがない人と比べてほんのわずかタイムラグがあったり、レイヤーのおかしな働きのせいで見えている世界が違ったりすることがある。
ただ、それは彼女が現実を直視できないということではない、表には出さないがむしろ人一倍繊細に世界を感じる感受性を備えているのである。そのことは波のうさぎや白木リンとのエピソードなど、随所に現れていると思う。
ほんの少し運命が違えば(具体的には周作の母が足を悪くしなければ)「北條リン」であったかもしれない女性である。
周作はどうやら上官の付き合いで遊郭にあがりリンと出会い、そして良い仲になった。ただ、おそらく身請けのための支度金の問題や、親族の反対にあい、そうこうしているうちに母が足を痛めたために、家に女の働き手がどうしても必要になった。そこで周作は「幼い頃出会ったあの女性であれば」と無茶を言ったのだと思われる。半分以上、探し出せなければそれでよい、という気持ちもあったのではないか。
それがすずに対し後ろめたい北條家の秘密であり、何も知らずそれを受け入れるすずに対する周作の姉、径子の苛立ちの原因でもあっただろう。
径子は、おそらくその性格からしてこうした企みに反対だったのだろうと思う。(映画の径子は本当に良かった)
結局のところ、原作においてその秘密はバレるのだが、すずは「代用品」であったことをただ心にしまう。
それはのちに明らかになる、すずにも水原に対して秘めた思いがあったことと対となっている。
けっきょくそれは周作とすずの初めての喧嘩、という形でお互いに秘密をかくしながら本音を晒すという場面に行き着く。
それまでのすずはどこかまわりへの遠慮や壁を感じさせるところがあったが、それ以降、すずはリンに(周作がどうやらリンの嫁入りのために準備した)リンドウの茶碗を渡すまでに強くなる。この場面、そしてそのあとの桜の中のすずとリンは本当に美しい。
その後のリンとすずの交流は微笑ましくも緊張を孕んだもので、戦火が激しくなってくる状況と相まって本当に言葉にならない。家と家族をめぐる問答など、これらの場面はやはり2時間の映画に収めるにはあまりに複雑で美しくも悲しく、どうやっても難しかったと思う。
ただここにこそ、この物語の奥深い、それでもこの世界の片隅に生きていかねばならない悲喜こもごもの、この物語の核があったのではないか。
舞台である戦時の状況はより深刻になってゆき、やがて大きな悲劇がおきる。
映画はそこにフォーカスをあてて、話をわかりやすく整理している。それはおそらく興行として正しく、そして映画から原作へというルートを大きく開いているのだろう。それはおそらく、成功している。
ただやはり、原作を読了したあとに、北條リンと水原すずだったかもしれない「もしも」を思いつつ再読した時に感じた、大きな驚きと感動につながっている部分、それが映画にないことが、私はやはり残念でならない。
エンドロールで原作に近しいコマ形式の紹介はあったし、おそらくそれは「ゼイタク」な話なんだろう。
ただ、私はやはり「この世界の片隅に」には白木リンのエピソードが必要で、文字どおりそれがないと「話にならない」と思う。
私はこの作品が大好きで、映画も素晴らしかった。この素晴らしい作品が、この世界にあってくれて良かった。
ただ、やはりこの作品に映画から触れた人は、原作も是非読むべきだと思う。ぜひ、リンさんの強さと美しさに触れて欲しい。
つまりですね、第二回クラウドファンディングまだっすか?