どうして世の中は、ここまでまでにも低次元な話題で満たされているんだろう?
天気、芸能、噂話、表層的な政治のやりとり。知性の対流はどこに消えた?
人間は有限な脳リソースを持っているのに、その99%がどうでもいい入力で埋め尽くされてる現実は、もはや精神的な浪費だ。
例えば、なぜ誰も「グロタンディーク宇宙」を話題にしない?あれはもはや数学という言語を超えて、存在論そのものに接続するスキームだ。
集合論の上に成り立つ古典的な数学構造から自由になろうとした、その大胆さと深淵さは、まるで物理法則の背後にある数学的美の亡霊を追いかけるようなものだ。
それとも、「カルツァ=クライン理論」を掘り下げた上で、「コンパクト化の自由度」が我々の時空構造に与える哲学的意味について会話できる人間はもう絶滅したのか?
量子重力理論の融合問題、特にループ量子重力と超弦理論のアプローチの根本的差異を語れる人と飲みに行きたいんだよ、俺は。
物質が本質的に情報だという観点から、ブラックホール情報パラドックスが意味するのは「情報の保存則の破れ」なのか、それとも我々が持っている「情報とは何か」という定義の方が間違っているのか。
こういう問いこそが、文明の核心にあるべきだろう?
人間が文明を築いて以来、我々は「どこから来て、どこへ行くのか」を形式体系で問おうとしてきた。
自然数に対して加法と乗法を定義し、ペアノ公理系を構築し、それが完全でも無矛盾でもないことをゲーデルが証明した時点で、真理は証明可能性の外に存在することが明らかになった。
この衝撃から回復するどころか、世間はますます計算可能なもの、アルゴリズムで消費できるものにしか興味を持たなくなった。
何のために意識は進化したのか?それが単なる環境適応の副産物だと片付けるには、意識が認識する数学的対象の精緻さがあまりにも過剰だ。
なぜラマヌジャンは夢の中で未知の関数恒等式を発見できたのか?なぜヒルベルト空間のような抽象概念が、量子力学の基礎としてこれほど自然に振る舞うのか?
この「抽象と現実の接続」が偶然である可能性は、論理的にほとんどゼロに近い。
俺が求めているのは、「真に知的な対話」だ。知識をなめらかな面として持っているだけの人間ではなく、それを自己組織化的に再構築できるような構造的知性。
話題がトポス理論からエントロピー最大化原理に移行しても違和感なくついてこれるような、そんな会話。
少なくとも「その場のノリ」とか「空気を読む」なんていう神経消耗ゲームよりは、よほど脳が報酬系を刺激されるはずだ。
いつになったら、街角のカフェで「カテナリー曲線の最小作用原理が、実は一般相対論と繋がってるって知ってた?」なんて会話が自然に聞こえる社会になるんだろうな。