幸いいままで暴力沙汰になったり、その他警察等にやっかいになったことはないが、
何か理不尽なことがあったときに、冷静に考えてその後の人生と天秤にかけてでも手を挙げるという手札を切る事があると心の中で思っている。
世の中が言う暴力がいけないという感覚は、いつどこで身につくのか今まで生きてきて自分はわからなかった。
そういう教育ルートを通ってきていないだけなのだろうと思うのだが、
時代の流れもあると思うのだが、昔よりもその感覚みたいなのは強くなっているように思える、
だが暴力はいけないという感覚はあるのに「暴力はだめだろ」という暴言めいた口調は依然問題ないような空気がある、
ハラスメント感覚で言えばほぼ同等なのに、片方はよくて片方はだめらしい、
いざとなったら手を挙げるという自分からすると暴言も暴力もいざとなったら行うのでバランスが取れているが、
暴言はよくて暴力がよくないという感覚の人はどういう思考をしているのかがわからない。
いや、暴言と暴力の対比がしたいわけでもないのでちょっと脱線してしまった。
単純に暴力単体でいつどこで暴力はだめだろうという感覚が身について行動原理に組みこまないようにしているかがわからない。
何か行動を起こすときにいろいろ思考する中で暴力という手を何個か考えている、
ただ単に自分のほうが弱かったり暴力よりも別な手の方が効率が良かったり、はたまた最終的な感情を優先してその行動を起こさないだけである。
暴力がだめだからそれをしないのではなく、天秤にかけた結果しないだけである。
恥ずかしながら、この国では「自力救済」が禁止であることを最近まで知らなかった。
今まで生きてきて何をするにも自分の力で何かを成し遂げろと教育されてきた気がするし、
利己的に生きている世の中で、自分を守ることができるのは自分しかいないはずである。
自分の事だけであればいいかもしれないが、自分の子供の事だったらなおさら抑えられないと思っている。
ここ直近であった、神奈川の殺人事件では警察は動いてくれなかった。
今日会った小学校の事件はいじめが原因で先生は動いてくれなかった。
こんな世の中で「自力救済」が禁止だから何もするなと言われても、納得できないし、
自分であればそうなる前に手を動かしていると思っている。