30代後半の会社員。
私の前職は地方公務員で、前妻は紹介で知り合った自治体の外郭団体の職員だった。
当時、父、兄、叔父が経営する会社の財政状況が悪化し不渡り直前のような状況で新婚生活を過ごしていた。弟は法科大学院を修了するも司法試験に合格することができずに精神的不調に陥り医療保護入院となっていた時期でもある。親の会社が好調だった頃に何不自由ない学生生活を過ごさせてもらった私は両親に代わり弟の学費を支払っていた。
自分自身の生活費と家賃、弟の司法試験予備校と大学院のローンの支払い、まだ高校生の妹もいた実家への仕送り。
支払いだけで給与が消え、そのうちに妻が妊娠し出費が増えると支払い予定は給与を上回り貯蓄がものすごいスピードで目減りした。
妻や義両親には経済的状況を打ち明けられず、足りないお金をキャッシングで賄う日々。
ある引き落とし日になんとか集めたお金で支払いを済ませた。
その翌日はゴールデンウィークの初日で妻と小旅行に行く予定だった。
いつも前妻と出かける時は近場のコンビニでアイスコーヒーを買って駐車場でナビをセットするのがルーティンだったが、もうガソリンを入れるお金も一杯のアイスコーヒー(今は120円だが当時は100円だった)を買うお金もない。
数日後に控えるカードの引き落としもできない。
「ちょっと買い物に行ってくる」と言って振り返った。
大好きだった前妻の姿を見て声を聞いたのはそれが最後だった。
財布もスマホも持たず、公園や公共施設の水だけを飲んで行く宛もなく知らない町や山道を歩き続けた。
数日間歩き続け、連休が終わり、膝が痛みを通り越して最早何も感じなくなった頃に地方都市にたどり着いた。
何か食べたい。布団で眠りたい。
標識を頼りに市の区役所に行き、生活保護業務を担当する部署の窓口でNPOが運営する無料低額宿泊所の連絡先と住所を求めた。
近くの交番で警察に道を教えてもらい、一番近い施設へ徒歩で向かった。すぐに入所を決め、施設の職員とともに先程の窓口へ行き生活保護を申請した。
その夜、寮の食堂で久々の食事をし、布団の中で眠った。食事は今思えばひどいもので、寮や寝具はかなり汚く不衛生だったが、その時の私にはようやくたどり着いた天国だった。
昼間はぼーっと天井を見つめ、食堂で他の入居者と食事をし、夜は眠る。
こんな生活が数ヶ月続いた。
酒や喧嘩、施設利用料の支払い(生活保護費の殆どが施設利用料として消え手元にはほとんど残らない)で揉めるなど問題を起こす入居者が多い中、大人しく金を払ってひたすらぼーっとしてる私は施設長から気に入られ事務仕事を手伝わされるようになった。
支給日や入居者の通院の際に送迎をして欲しいと言われ、免許の再発行をするために住民票などの手続きをした。
それがきっかけでケースワーカーが私の戸籍や附票を手に入れ、扶養義務調査を行った。
私の所在を知った両親が施設に迎えに来たことで生活保護は廃止となった。
私が行方をくらましている間に父の会社がなんとか危機を乗り越え持ち堪えたこと、弟が退院して就職したこと、妹が国立大学に合格したことを聞いた。前妻が流産してしまい今は実家にいること、一緒に住んでいた部屋がもう解約されていること、私が無断欠勤で懲戒免職になっていることも聞いた。
あの日に彼女との離別を覚悟したはずなのに、正式に離婚が成立した夜にはそれまでの思い出が蘇ってきて涙が止まらなかった。
父の取引先の会社に正社員として採用してもらい、第二の社会人生活が始まった。
弟は残業の少ない会社に転職し、仕事をしながら司法試験予備試験の勉強を続けている。
ガソリンとETCの支払いにしか使っていないが、クレジットカードも再び手に入れた。
今朝、妻とのゴールデンウイーク旅行の前日に借金の支払いに終われる悪夢を見て飛び起きた。
しっかりと向き合い振り返ることで少しは気が楽になるのではないかと思い、これを書いた。
男の労働に比べて特別死亡率が高いわけではないんだけど、今日のはてなーはいつも通り出産は命がけという結論に至っている
もはや明確に欺瞞だから正すべきだよな
医療のおかげと言われたところでそりゃ医療がなけりゃだいたいのことは命がけになるやろ定期