健康診断の受診を終えるとすぐに病院を後にした。病院の壁はなだらかな斜面になっていて、ところどころに凹みがあり、その凹みのひとつひとつに座席が配置されている。つまりこの建物の外壁全体が巨大なスタジアムの観客席のような構造になっているのだ。問題はどこにも明確な通路や階段がないことで、通行人は急峻な丘をよじ登るように不安定な斜面にしがみついて歩かなければならない。
どうにか頂上まで登りきると、ちょうど眼下で知人の出演するオペラが始まったところだった。壁際にもたれ、息を整えつつ視線を落とす。大勢の人々が舞台いっぱいに溢れ、群衆全体がひとつの巨大生物のようにうごめき回転している。そこで展開される雑踏のシーンが、演出された作為的なドラマなのか、それとも自然形成された無秩序な流動なのか、どちらとも判断できないまましばらく見入っていた。
そうして数分か、それとも数十分が経過した頃だろうか、ふと群集を形成する人物たちがすっかり入れ替わっていることに気付いた。最初にいた知り合いの顔や特徴的な幾人かの人物たちはいつの間にかどこにも見当たらず、その代わりに全く構成の異なる別の人々が似たような群衆を形成しているのだ。もしかしたらこれは観客に気付かれることなく、いかにその組成を入れ替えるかという巨大な実証実験だったのかもしれない。ともかく、知人の出番は見届けたことだし、これ以上この場に留まる義理もなくなったというわけだ。
帰宅しようと再び屋外に出る。夜のアークランプを反射して石畳が夢のように滑らかに光っている。いや、夕刻になって降り始めた霧雨で地面が瑪瑙のように濡れているのだ。そういえば足先も妙に冷たい。気付けばいつの間にか裸足ではないか。どこかに靴を置いてきてしまったのだ。妙に霧がかかったような曖昧な記憶を辿るが判然としない。明確に靴を脱いだ覚えはないが、可能性があるとすれば健康診断の会場であろう。あの病院はどこだったか、確かこの建物の三階にある青い絨毯の広間だった。
複雑に入り組んだショッピングモールの雑踏をあてどもなく迷い、それらしき扉を押す。落ち着いた雰囲気のラウンジであった。黒曜石の一枚板のカウンターにロングドレスの女が数人佇んでショットグラスを傾けているが、睫毛の先まで微動だにしないところを見ると、彼女らはマネキンなのかもしれない。天鵞絨のカーテンが滑らかに波打つ通路を足音を殺して通り過ぎ、さらに奥の扉を押すと、突然の眩い光に包まれた。目を細めて周囲を見渡す。北欧の森林地帯を思わせる広大な湖の風景であった。なぜだか分からないが、懐かしさと哀しみとが複雑に入り混じった感情がとめどなく溢れ出る。それでいて私はこの風景画作り物であることを薄々感づいている。あの空も太陽も、巨大なドームの天井に描かれたフレスコ画に過ぎないのだ。
←前 | 後→ 薄暗い場末のバーであった。入り口から奥に向かってやや細長い作り。既に客が入っている。ぼくは一番右奥の角に陣取り、改めて店内を見回した。ここからちょうど対角...
←前 | 後→ 物陰から慎重に辺りの様子を窺うパジャマ姿の男がいる。その背後から不意に現れた赤いシャツの男、パジャマをいきなり引き倒して殴る蹴るの暴行を加え始める。周囲で...
←前 | 次→ 陳という名の中国人とメガネの女、そしてぼくを合わせた三人は、チームを組んで働いていた。いや、強制的に働かされていたといった方が正しいだろう。ぼくらの上官は...
←前 | 後→ 弟が夢にうなされ、何かうわごとを言っていた。よく聞いてみると、左手に持った板を踏めと言っているようだ。むろんそんなものを持っているわけはないが、ぼくは板を踏...
←前 | 後→ 閑散としたショッピングモールの広大な敷地を歩いている。際限のない広さにはいつも漠然とした不安を覚えるものだ。駐車場に出て車を待ちながらぼんやりしていると、...
←前 | 次→ 全て巨大なガラス張りの屋敷であった。広大な敷地に熱帯の植物を栽培する温室があり、見上げるような高さの天井がそれを覆っている。いわばこの屋敷全体がひとつの巨...
←前 | 後→ 街の外れあたりから山の方に向かう白い道がある。この道の存在には以前から気付いていたが、今まで一度もその行き先について意識したことはなかった。今日初めてそこ...
←前 | 後→ 隣家には美しい婦人が住んでいた。時々挨拶を交わすくらいでさほど深い付き合いもなかったのだが、どういうわけだか今日、その家の家政婦が私に電話をしてきてこんな...
←前 | →後 巨大なトランクを持ち運ぶのは移動の足枷になるし、何より単純に面倒だ。思い悩んだ末、荷物はそのまま列車の網棚に置き去りにして用事を済ますことにした。前から2両...
←前 | 後→ 慣れない郊外の街で車を走らせていたせいか、すっかり道に迷ってしまった。行き止まりに車を停めて同乗者と運転を代わる。砂埃の舞う頭上を見上げると、夕闇を背景に...
←前 街中を歩いていると、遊歩道でやけに粗暴な男が暴れているのが目に入った。誰かれ構わず通行人を威嚇し、その反応を楽しんでいる様子。遠巻きに眺めていると、その男のポケッ...
←前 仕事先の懇親会に招かれ出かけてきた。聞くところによると今日はこれから数十人は集まる予定になっているらしい。普段なら絶対に断るような会合で、自分でもなぜ参加すること...