平成一桁台生まれ、親にはとにかくぶっ叩かれながら育てられた。
高校中退の父親には安全靴で小石みたいに蹴られまくり、母親には平手で叩かれたり殴られたり、勝手に所有物を捨てられたり壊されたり、裸で外に出されて鍵閉められたりもしたな。
クソ田舎とはいえガキの泣き叫ぶ声は聞こえていたと思うが、近所の奴らは特に何もしてくれなかった。まあそんなもんだよな。
父親は暴力の擬人化だったので人格を語るべくもないが、母親は「きちんと育ってほしいから殴って躾けている。殴っているこちらも痛いが、お前のためを思ってしていることだ」と主張していた。筋が通っていると思ったので、18歳頃まで素直に殴られ続けていた。
で、大人になって子供を持ったわけだが、本当に自分の子供に手を上げる親の考えが分からなくなった。
だって可愛いとか可愛くない以前に、ひとつの人格を持った他人だろう。自分の子供だからとか関係あるか? 暴力に訴えるのがいけないということは大前提だろう。他人の子供を殴ったら逮捕されるのに自分の子供を殴るのは許されるなんて、なんだかその部分からしておかしくないか。今はちゃんと許されてないのかもしれないけど。
で、自分の子供を育てるにつれ、親があの冬の夜に泣き叫ぶ俺を素っ裸にしてせせら笑いながら表に出したこととか、「避けるなよ」と手で庇うのも許さずビンタし続けたこととか、安全靴の土とゴムの匂いとかあれが腹にめりこむ感覚とか思い出して、思い出しては子供の顔見て、あり得ねえよなって確信して、どんどん許せなくなるわけ。
その一方で、バカガキは痛みを以ってでしか学習できないっていうのも分かるんだよ。行儀のなってない奇声ガキに遭遇するたび(殴ってでも躾けろや)って苛々するし。苛々して、かつての親が自分の中にもいるのを自覚して、落ち込んで、せめて自分はガキの頃の自分に欲しかった理想の親を演じ続けようと思うわけだけど。
ちょっとは分かりあえるかなと思った、いわゆる毒親持ちの相手に自己開示したら「親も親という他人。そのことを理解して許してあげて。それができないのは子供ですよ」とか、優しげな笑みのまま言われるわけだけど。
何が正しいんだろうな。
でも何が正しくたって、俺は許せねえんだよ。
親とはもう連絡をとってない。遠方に住んでるし、携帯も着信拒否にした。何度か叔母づたいに連絡が来たけど、幼少期にされたことが許せない旨を伝えてシャットアウトしてる。あんなバケモノどもに大事な人たちを会わせたくないし。あれに会うことで自分の中のバケモノが惹起されて、今の生活を壊してしまうのも怖いし。
孫の顔は二度と見せない。近況も送らない。葬式にも出ない。これが報いだと思うのかな。思わねえだろうな。子供のままでいいよ。あいつらの心なんか一生分かんねえもん。
回答ではないけど、子供の人格や人権を考えるようになったのはかなり最近の話だからさ 田舎で30年前だったら子供殺してもそれは仕方ないという風潮だったかもしれない