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2025-04-18

哲学と便

三十歳という齢は微妙ものである。もう若くはないが、まだ大人になりきれぬ、いわば人生黄昏時の入り口である。そんな儚い春の日のことだった。

花見日和京都は、人間という名の粒子がぎゅうぎゅう詰めに充満していた。私はひとり瓶ビールを抱えて、哲学の道を歩いていたのである銀閣寺方面から桜を愛でつつ進んだが、まるで桜よりも人間背中ばかり見ているような状況だった。ビールが腹に沁みわたり、春の陽気が私の腸内で不穏な企てを始めているとは、そのときまだ気づかなかった。

帰り道、突然私の腹が革命を起こした。平和だった腸内共和国に突如現れた反乱分子。私は哲学の道をよろよろと進みながら、己の尊厳を守るために全力を尽くした。しかし歩けば歩くほど事態は深刻さを増し、私は「三十にもなって漏らすわけにはいかぬ」という悲壮覚悟を胸に秘めた。

耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ついに限界点に達した私は自宅までの最短距離を全力疾走した。三十歳の男が漏らす寸前の悲壮感を漂わせ、花見客の目を尻目に驚異的な速度で街を駆け抜けたのである

自宅の扉を開け、安堵の表情を浮かべながらトイレに駆け込んだ。しか悲劇とは、最後最後にこそ待ち構えているものなのだズボンを引き下げたその刹那、私の尊厳はあっさりと崩壊した。

結局、その日私は泣きながらズボンを洗う三十歳となった。桜が散る儚さを思い知らされた春の一日であった。

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