三十歳という齢は微妙なものである。もう若くはないが、まだ大人になりきれぬ、いわば人生の黄昏時の入り口である。そんな儚い春の日のことだった。
花見日和の京都は、人間という名の粒子がぎゅうぎゅう詰めに充満していた。私はひとり瓶ビールを抱えて、哲学の道を歩いていたのである。銀閣寺方面から桜を愛でつつ進んだが、まるで桜よりも人間の背中ばかり見ているような状況だった。ビールが腹に沁みわたり、春の陽気が私の腸内で不穏な企てを始めているとは、そのときまだ気づかなかった。
帰り道、突然私の腹が革命を起こした。平和だった腸内共和国に突如現れた反乱分子。私は哲学の道をよろよろと進みながら、己の尊厳を守るために全力を尽くした。しかし歩けば歩くほど事態は深刻さを増し、私は「三十にもなって漏らすわけにはいかぬ」という悲壮な覚悟を胸に秘めた。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ついに限界点に達した私は自宅までの最短距離を全力疾走した。三十歳の男が漏らす寸前の悲壮感を漂わせ、花見客の目を尻目に驚異的な速度で街を駆け抜けたのである。
自宅の扉を開け、安堵の表情を浮かべながらトイレに駆け込んだ。しかし悲劇とは、最後の最後にこそ待ち構えているものなのだ。ズボンを引き下げたその刹那、私の尊厳はあっさりと崩壊した。
結局、その日私は泣きながらズボンを洗う三十歳となった。桜が散る儚さを思い知らされた春の一日であった。