「非モテ」と「はてな界隈」と最近のTwitterとの絡み合いを考えるとき、どうしても浮かび上がるのはインターネット文化特有の「執着」の問題だ。
「非モテ」という言葉が流行したのは主にはてな界隈だった。はてなダイアリーやはてなブックマークは2000年代にかけて、特定の価値観や認識が濃厚に凝縮され、そこに集まる人々は自己の不遇さや社会への違和感を抱えながら、それを極めて粘着的に、ほとんど呪詛のように書き連ねてきた。その文章群は異様に長く、感情的で、かつ徹底的に自己言及的だった。
はてな民は、「非モテ」を単なるモテないことという意味を超え、一種のアイデンティティにまで昇華させた。非モテを語ることで自己の不全感を共同体の中に融解させ、他者との対立を楽しむかのように鋭く尖った論争を繰り返した。その文体はしばしば鬱屈とした執念に満ち、議論を生産的にするどころか、むしろ際限なく引き伸ばし、細部に粘着し、本題から逸脱していくのが特徴的だった。
一方、最近のTwitterにおいては、そうした粘着質な議論はもはや異端視される傾向にある。Twitterが短文主義を推奨し、スピード感やわかりやすさを追求するSNSへと変容するにつれ、はてな界隈的な長文で粘着質な非モテ論争は居場所を失っていった。その代わり、非モテ的感性を持つ人々は、短い言葉で瞬間的な共感や反感を得ようとするようになった。だが、短文で端的に表現される非モテ的な怒りや絶望は、かつてのはてなのような自己分析的な奥深さを失い、ただの感情の発散や、ネタとしての消費に終始することが多い。
最近のTwitterで頻発する「男女対立」や「恋愛弱者」といったトピックも、本質的には非モテ論争の延長線上にあるが、その議論はかつてのような粘着的な深みや自己省察を伴わないことが多い。代わりに一瞬の快感や攻撃的な快楽を追い求め、極端な意見や暴言が即時的に拡散されることで、単なる煽り合いに陥ってしまっている。
この変化は、はてな界隈の衰退と共にネット上の言論空間がどう変質したかを象徴している。長文で自己を掘り下げる場所がなくなり、瞬間的な承認欲求の満足を追求する場へとシフトした結果、非モテはアイデンティティではなく、一過性のバズワードや炎上の種になり下がってしまった。
結局のところ、非モテが持つ本来の執念深さや自己反省的な粘着質な性質は、Twitterの短文主義の中では居場所を失い、深い議論や自己理解への道は閉ざされてしまったように感じる。現在Twitterで繰り広げられる非モテ的言説は、ただ表面的な共感や敵意を生むばかりで、かつてはてなが持っていたような「自分自身を嫌になるほど掘り下げ、執拗に問いかける」ような粘着質な深みを完全に失ってしまったのである。