会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?