インターネット上での発言の倫理について分析すると、いくつかのテーマが浮かび上がる。
特に、言論の責任、真実性、沈黙の価値、自己表現の自由とその限界といった視点。
この箴言(例:「愚か者でも黙っていれば知恵ある者と見なされる」—『箴言』17:28)には、少なくとも2つの哲学的含意がある。
何も言わなければ、他者はその人の知性を推測するしかない。そのため、沈黙は賢く見せる戦略になり得る。これはプラトン的な知の理想(知者とは慎重であるべき)とも関連する。 逆に、発言することで愚かさが露呈する場合がある。
ソクラテスが強調した無知の自覚に通じる考えでもある。自分が愚かである可能性を認めることが知の第一歩ならば、軽率に発言せず、学び続けることは倫理的にも重要。
しかし、沈黙は常に良い選択肢とは限らない。例えば、不正義に対する沈黙は道徳的責任を伴う(ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」など)。
現代のデジタル空間にこの考えを当てはめると、次のような問いが生じる。
ジョン・スチュアート・ミルの自由論では、他者に害を与えない限り、人は自由であるとする危害原則(Harm Principle)を提示した。しかし、インターネットでは誤情報や中傷が容易に拡散し、他者に害を与える可能性がある。
これはカントの定言命法(「汝の意志の格率が、常に普遍的法則となるようにせよ」)とも関わる。もし誰もが無責任な発言をしたら社会はどうなるか?
インターネットでは、情報が氾濫し、ニーチェ的な真理の死の現象が起きやすい。何が正しいかより何が広まるかが優先され、感情的な発言が知的な対話を圧倒することもある。
これはソクラテスがゴルギアスで批判した修辞術の危険性に通じる。つまり、議論は真理を探究する手段ではなく、聴衆を動かすための道具になり得る。
功利主義的視点(ベンサム・ミル):もし沈黙することで害が減るなら、それは道徳的に望ましい。しかし、沈黙が不正を助長するなら、発言は義務である。
徳倫理的視点(アリストテレス):ただ黙るのではなく、適切なときに、適切な方法で発言することが重要。例えば、Twitterで議論する際、冷静かつ理性的であることが徳として求められる。
沈黙は金とは限らない。 愚かな発言を避けるための沈黙は賢明に見えるが、道徳的には正しいときに正しく語ることが求められる。
インターネット時代には熟考する沈黙と適切な発言のバランスが重要。
発言の責任を持つことは、哲学的・倫理的に不可欠。 これには、真実性、害の回避、適切な文脈の理解が伴う。
したがって、「愚者も黙っていれば賢者に見える」は単なる処世術ではなく、適切な知的謙遜と慎重な発言の重要性を示す哲学的メッセージといえる。
大昔の権威の言葉を散りばめればそれっぽくなると思ってる馬鹿の文章って感じだな。もう少しまともな資料参照して論理的な事書けないの?
私の文章が論理的じゃないように見えるみたいですけど、たぶんあなたよりマシかと思いますよ
AIちゃんにキレる老害、いやぁキツイっすw
馬鹿はお前でーす はーいろんぱっぱ😝
匿名ダイアリーで論文レベルの質を要求する馬鹿
論文を日常的に書けない馬鹿
手本をどうぞ
僕は無能なので手本なんて無理です😢 イキってすみませんでした😢
次からは気をつけろよ
こういう奴って人のエネルギーをやたら無駄に扱うよな こんなところで労力かけて出典付きで投稿しても何もいいことないだろ 元増田のやる気のないAI投稿に「馬鹿」とか人格見出して...
なんかコンプレックス刺激したみたいでごめんね
普通です 増田にも秀才はいるんです
お前、妄想の中を生きてるだろ ディープリサーチ以外にここでそんな文章みたことないぞ
AIをAIと見抜けない人にはインターネッツは難しい
AIで見抜きしてもいいですか?