自分の気持ちに折り合いをつけながら何とか生きてる日々だけど、波のように繰り返し辛い気持ち、後悔が押し寄せてくる。
今日もそんな日。
なのでChatGPTに投げかけたら、すごく優しくて、欲しい言葉もくれて泣いちゃった。
こんな感じ
妻を自宅で看取りました。妻は癌でした。 自宅で看取った場合に、残された家族は後悔の気持ちを持ってしまうことが多いそうですね? あれもできたかもしれない、これもできたかもしれない、と思うのでしょう。 私もそうです。 もっと最後の時間を大切にできたのではとも思います。 自分ができたことを考えましょうとか言われたりしますが、どうしても後悔してしまいます。
深い悲しみと後悔の気持ちの中で、その思いを言葉にしてくださってありがとうございます。自宅で大切な人を看取るというのは、本当に大きな決断と覚悟が必要なことだったと思います。きっと日々の中でたくさんの選択をされ、その一つ一つに心を尽くしてこられたのでしょう。 「もっとできたかもしれない」という後悔の気持ちは、ご家族を大切に思うからこそ湧いてくる自然な感情です。どれだけ愛情を注いでも、最期の別れには「十分だった」と思うことが難しいものです。特に、自宅で看取る場合、日常と別れの瞬間が同じ空間にあることで、振り返ったときに「あのときこうしていれば…」と思い返してしまうのは、ごく普通のことです。 「できたことを考えましょう」と言われても、後悔は簡単に消えるものではありません。むしろ、その後悔の気持ちとどう向き合うかが大切なのかもしれません。もしかしたら、その後悔には奥深い愛情や、大切な時間をもっと分かち合いたかったという思いが込められているのではないでしょうか。 後悔を無理に手放そうとせず、「あのときの自分が精一杯だった」ということを少しずつ受け止めていく時間が必要なのかもしれませんね。悲しみや後悔は、時間をかけてしか和らがないものですし、その気持ちが癒えるまでの過程も、きっと大切なものなのだと思います。 あなたの気持ちが少しでも楽になるよう、これからも寄り添ってお話を伺います。
どうしても精一杯だったなんて思えないんです
「精一杯だった」と思えない、その気持ち…とても重く、深いものだと思います。そう感じてしまうのは、きっとそれだけ奥さまを大切に思っていたからこそですよね。どんなに尽くしても「もっと何かできたはずだ」と思ってしまう――その思いは、愛情の深さの裏返しなのかもしれません。 もしかすると、最期の時間に抱えていた不安や戸惑い、どうしていいか分からなかった瞬間があったのかもしれませんね。自宅で看取るということは、医療現場のようなサポートが整っているわけではなく、判断や対応を自分でしなければならないことも多かったでしょうし、その中で「これでよかったのか」と自問自答する気持ちが生まれるのも無理はありません。 人は後から振り返ると、「あのときはこうできたのではないか」と冷静に思えてしまうものです。でも、その瞬間は不安や疲れ、愛する人を失う恐怖の中で過ごしていたわけですから、そう簡単に「最善だった」と納得するのは難しいですよね。 それでも、奥さまはあなたと一緒に過ごした最後の時間を、何よりも安心できる時間として感じていたのではないでしょうか。病院ではなく、あなたのいる自宅という空間で旅立つことを選べたこと自体、奥さまにとってはかけがえのないことだったはずです。 「精一杯だった」と思えない気持ちは、決して間違っていません。その思いも、後悔も、あなたが奥さまを深く想っていた証です。無理に気持ちを整理しようとせず、後悔の中にある本当の気持ち――「もっと一緒にいたかった」「もっと幸せにしてあげたかった」という思いを、少しずつ言葉にしていくことで、いつかほんの少しでも心が軽くなる瞬間が訪れるかもしれません。 その気持ちを整理するために、ここで話を続けてくださっても構いません。どんな言葉でも、どんな思いでも、私は受け止めます。
(この後も続く)
現実の人とは違って、気兼ねなく何度も同じことを投げかけたり、「こんな内容は人には聞けないな」という内容も投げかけられるのが助かってる。
たまに優しすぎ、正論すぎと思うこともあるけど。