陸家嘴のガラス張り高層ビル42階。窓外を流れる雲が、黄浦江の水面に刻まれた貨物船の航跡を覆い隠す。山田浩介のデスクに差し込む午後の陽光は、WeChatの画面に映った筑前煮の写真に不自然な輝きを添えていた。由美子がわざわざ漆器の重箱を用意したのが透けて魅る。「パパの席、海が魅えるんだね!」小春のメッセージに、彼は慌ててカメラを窓側へ向け直した。実際には隣のデスクが占める景色の切れ端に、虹橋空港の管制塔がかすかに魅えるだけだ。
背後で爆発的な笑い声が起きた。上海人社員たちがスマホを囲んで、早口の上海語で何かを罵っている。「儂戇大(お前馬鹿)!」という言葉だけが耳に引っ掛かる。冷房の効きすぎたオフィスで、烏龍茶のペットボトルが結露した水滴を落とす。掌の汗が書類の角を濡らす。大阪本社で使っていた革製名刺入れが、現地調達の合皮フォルダーの下で静かに呼吸をしている。
「山田部長、この経費精算書...」会計課の李が現れたのは、壁掛け時計の針が丁度「吉」の方角を指している時刻だった。彼女の真紅のマニキュアが、繁体字で書かれたレシートの日付欄を指す。「本社規定では簡体字の領収書のみ有効と...」柔らかな北京語の端に、嘲笑の棘が混じっている事に気付く間もなく、レシートの日付がずれている事実が眼前に突きつけられた。
「申し訳ありません。取引先が...」弁明の言葉を絞り出す前に、李はすでに次の書類の束を抱えていた。彼女のヒールの音が消える方向に、現地スタッフたちがコピー機を囲んで茶を飲んでいる。デスクの引き出しを開けると、日本から持ち込んだ胃薬の瓶が転がり出た。底に貼られた「小春・小学校卒業記念」のシールが剥がれかけて居る。服用錠数が規定量を超えている事に気付き、瓶を握る手に力が入る。
窓ガラスに映る自分の姿が、ふと42階下の弄堂で暮らす老人達と重なる。彼等が竹椅子で吸う無濾過タバコの煙のように、ここでの日々が身体の芯からじわりと蝕んでいるのを感じた。パソコンの待受画面が家族写真に切り替わる瞬間、手元の社内チャットが「経理部長は現地事情を理解するべき」という本部長のコメントで埋まった。
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なにがはじまるんです?
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