平和都市広島で続く知られざる大砲製造、防衛力強化の要に
野原良明-
G7サミット開催地にも波及効果、地元選出の岸田氏防衛費増額
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戦前は軍都、学徒動員で支えられた兵器工場は原爆を生き延びる
広島の中心部は「平和」へのメッセージであふれている。メインの道路は平和大通り。隣接する手入れの行き届いた平和記念公園内には、平和の時計塔や平和の鐘、原爆死亡者追悼平和祈念館、平和の灯などがある。犠牲者を追悼し続ける神聖な場所だ。
原爆投下で1945年末までに約14万人が死亡したと推計され壊滅状態にあった広島。その後工業都市として急速な復興を果たす一方で、「平和都市」としての地位を確立してきた。戦後75年余りにわたって武力紛争を免れてきた日本において、広島の果たす役割は今日でも大きい。平和運動の中心地であり、そのメッセージは政治的にも影響力を持つ。自身を広島出身の総理大臣と言う岸田文雄首相は、同市で19日に開幕する主要7カ国首脳会議(G7広島サミット)で核軍縮への支持を取り付けたい考えだ。
しかし慰霊碑からそれほど離れていないところでは国際関係の異なる光景が見られる。
中国が近隣諸国に対し強硬な姿勢を強めていることを受け、岸田政権は戦後かつてないペースで防衛費を拡大し、従来の政策を大きく転換させている。昨年11月には防衛費を国内総生産(GDP)の2%に相当する水準(現在の経済規模では年約11兆円)まで倍増させる計画を発表。これにより日本の防衛予算は米国、中国に次ぐ世界第3位の規模となる見込みだ。「防衛」以外の武器配置に関するタブーを破り、日本は近い将来、長距離ミサイルを使用したり、他国との共同軍事作戦に参加できる軍事力を有することになるかもしれない。
そうした情勢の中、防衛機器製造でも鍵を握ってくるのが広島だ。市には日本の主要な防衛機器工場があり、戦車や艦船などに装備する大砲の増産に備えている。広島市の南に位置し、海上自衛隊の主要基地もある呉では太平洋戦争後に日本が初めて運用することになる事実上の空母が完成しようとしている。
安倍晋三元首相の下で始まったタカ派的な傾向をさらに深めている岸田氏は、これらの防衛力強化が地域紛争抑止のために必要だと主張している。昨年12月に発表された国家防衛戦略では中国について、日本の「平和と安全及び国際社会の平和と安定を確保し、法の支配に基づく国際秩序を強化する上で、これまでにない最大の戦略的な挑戦」と位置付けている。中国の習近平指導部は、極超音速ミサイルなど先端兵器の開発を追求し、南シナ海に人工島を建設するなど、海洋権益を確固たるものにしようとしている。日本政府にとって重要な経済パートナーである台湾の情勢が特に懸念されている。中国は台湾問題を巡り武力行使を選択肢として排除しておらず、台湾周辺の海域で定期的に軍事演習を行っている。武力衝突に至れば、地域の貿易に加え、日本企業が依存する台湾の半導体製造施設も脅かされるだろう。
日本を一流の軍事大国にするのは容易ではない。過去には防衛プロジェクトで問題が相次ぎ、多くのメーカーは防衛関連契約でかろうじて収支トントンを達成できている程度であり、これら企業が新たな需要に応えられるかどうかは不明だ。同時に、政府は輸入に過度に依存することを懸念している。日本が自国防衛に責任を持つためには、国内の防衛産業の強化が不可欠だと岸田氏らは考えている。
ロシアのウクライナ侵攻で大国間の紛争リスクが高まったものの、日本においては法的・政治的な障害はより大きい可能性がある。1945年に無条件降伏した日本は、戦時中のアジアでの残虐行為を非難され、打ちのめされた状態にあった。2年後に施行された日本国憲法の第9条は「戦争の放棄」と「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めている。日本は1950年代から自衛隊を運用しており、9条が文言通り厳密に守られてきたわけではないが、岸田首相の提案は現状を大きく変えるものであり、論議を引き起こしている。平和主義への支持は、特に選挙を左右する高齢の有権者の間で根強く、憲法9条改正にはかなりのハードルがある。在任日数で歴代1位の安倍元首相でさえ、改正に向けた支持を十分に集めることができなかった。
こうした議論は特に広島で難しさを伴う。市の指導者らは長い間、地元防衛産業が目立たない存在であることを望んできた。平和を標榜する都市として、政治的な緊張を高めるようなことは望んでいない。しかし、岸田氏ら政治家が、台頭する中国の影響を考慮するよう国民に呼びかけるにつれ、状況は変わり始めている。広島商工会議所の深山英樹名誉会頭は「今こそそういう防衛産業に携わっている企業もちゃんとこういうことをやっていますと、大っぴらに言っていくべきだと思う」と語る。3歳の時に被ばくした深山氏は「憲法に書いてあるものだけでは国は守れない」と指摘する。
軍都広島・学徒動員
広島は、日本が1930年代から40年代にかけてアジアの大部分を支配下に置くことを可能にした軍都だった。南にある呉海軍工廠では、有名な戦艦大和をはじめとする日本を代表する大型艦艇が建造された。広島市には旧日本軍兵士の軍服や砲弾を製造する工場があった。
広島市には、北海道で創業した日本製鋼所の製作所がある。同製作所では終戦近くに日本の都市を夜間空襲した米軍爆撃機を迎え撃つ高射砲などを製造していた。当時、多くの地元男性が戦線に送られたため、労働力の一部は学徒動員で補っていた。
加藤八千代さんは1944年に日本製鋼所に動員された時、15歳だった。同級生と一緒に週7日、12時間労働のシフトに組み込まれた。勤務が終わると別の学徒と交代し、24時間体制で工場は稼働していた。飛んできた金属片が学徒の目に入ったり、砲弾の部品の鋭利な刃で指先を切ったりと負傷も多かった。勝利のために自分たちが役に立っているのだと、政府のプロパガンダに教えられた。「国のために尽くすのなら自分の命を惜しまないと小学校の時からたたきつけられた。だからみんな授業がなくなっても日本のためならみんなでがんばらないとねと、それしかなかった」と加藤さん(94)は話す。
日本製鋼所の工場は1945年8月6日、節電のために月に一度の稼働停止となっていた。加藤さんは友人らと宮島に海水浴に行く約束をした。それまで軍都広島は不思議なことに大空襲を免れていた。しかし加藤さんは万一に備えて、包帯と防空頭巾を持っていた。午前8時15分、加藤さんは広島の市街地から数キロ西に位置する駅で列車を待っていた。その日広島にいた人たちが回想する閃光(せんこう)や爆音は加藤さんの記憶にはない。最初の記憶は、立っていた場所から約10メートル離れた場所で意識を取り戻したことだ。
加藤さんは立ち上がり、友人2人を見つけることができた。一人は日焼けしたように顔が茶色くなっていた。もう一人の右腕にはガラスの破片がたくさん刺さっていた。3人はなんとか小学校に向かい、そこで多くの他の生存者の惨状を目の当たりにした。目に焼き付いたのが垂れ下がる皮膚だ。「ずるーっと剥けたのが、指先のこの爪のとこから下に落ちずにぶら下がっていた」と加藤さんは振り返る。「それを見た時にはほんとに3人で抱きおうて泣いた」。
加藤さんは原爆投下の前には、市内にある日本製鋼所の分工場に動員されていた。この工場は甚大な被害を受け、加藤さんは二度とそこへ戻らなかったという。同社の本工場は山に遮られたことで爆発から守られたが、8月15日には終戦を迎えた。米軍は、日本に再び戦争をする能力を失わせる計画の一環として、同社工場での兵器製造を禁止した。生き残った従業員らは、鉄鋼加工の技術をミシンなどの消費財に応用することでなんとか事業を継続した。
しかし、世界が冷戦に陥ると状況は変わった。朝鮮戦争が始まると、米国は軍装備の製造・修理の支援を日本に依頼するようになった。日本製鋼所は輸送用車両の部品製造に始まり、米軍用の無反動砲も製造するようになった。新しい兵器製造技術を学ぶために海外に従業員を派遣した。自衛隊が設置された1950年代には、戦後唯一の国内砲メーカーとなり、武器製造を許可された数少ない国内企業の一つとなった。もっとも小規模で規制の厳しい防衛関連契約では大きな事業を支えることが難しいため、プラスチックなどの民間分野にも進出し戦後事業を拡大していった。
それでも日本製鋼所は広島で防衛機器の製造能力を徐々に築き上げ、地元請負業者のネットワークを構築。しかし、そうした事業運営はそれほど注目を集めなかった。この地で創業し現在も本社を置くマツダを中心に地域経済は回ってきたからだ。現在でも、多くの地元住民は日本製鋼所の敷地内で何が行われているのかよく知らない。軍事関連の存在そのものが、まだ一部の人々にとって微妙な話題であるため、同社は防衛関連事業の宣伝に力を注いでこなかった。同事業の防衛部門の役員の名刺には、片面が英語で「ordnance business」と書かれている(ordnanceは軍需品)。もう片方は日本語で「特機」とだけ記されている。
大砲製造の現場
日本製鋼所の広島製作所は、市の東端の平地にあり、約2000人規模の陸上自衛隊海田市駐屯地の近くに位置する。筆者が昨年そこを訪れた際、社屋の一つの内部には「私たちは総合樹脂機械メーカーで世界ナンバーワンを目指します」との横断幕が掲げてあった。全面に出しているのは防衛事業ではなく民間向けの事業だ。案内してくれたのは、東京在勤の特機本部企画管理部長の良辺啓太氏で、筆者を3人の現地幹部に紹介してくれたが、全員匿名を希望ということだった。自分たちの防衛関連の仕事内容が公になれば、自分や家族が嫌がらせを受ける恐れがあるためという理由だった。
工場内は撮影禁止のため、筆者はスマートフォンを預けた。良辺氏と共に工場内の広いホールへ入った。天井を支える梁の一部はさびており、戦時中のものもある。鋼を切る音が絶え間なく聞こえ、機械油の臭いが漂っていた。同社によると、1950年代に操業を再開して以来、約6000丁の大砲を製造してきたが、セキュリティー上の理由から年間生産の数値は公表していない。
作業場の一つには、軍艦の前部甲板の模型があり、船体内部から弾薬をつり上げるシャフトも付いていた。ここでは、海上自衛隊の護衛艦などに搭載する5インチ砲を製造していた。また、すでに自衛隊によって使用された砲を修理、整備する作業員もいた。別の場所には、砲身の内側にらせん状の溝を刻む「ライフリング」の機械が2台あった。砲弾を空中で回転させ、目標に向かう軌道を安定させるためのものだ。
2016年に増設された新しい建物にも入った。数十キロ離れた目標を砲撃できる強力な移動砲である19式装輪自走りゅう弾砲の自衛隊からの受注に応えるために造られたものだ。製造されたりゅう弾砲は、スタッフが8輪トラックに搭載する。試験が終われば、自衛隊の部隊に納入される。防衛予算の増額に伴い、こうした武器の調達は増える見込みだ。良辺氏は、今後の発注についてはまだ分からないが「期待している」と述べ、「防衛省の注文があれば設備投資し、当然、受注を受けないということはない。われわれが唯一の供給会社だからだ」と語った。国内で大砲を製造している企業は他にないという。
ただ、防衛機器の製造で利益を上げるのは簡単ではない。日本の人口が減少する中、労働力不足は常に懸念要因であり、日本製鋼所は人材確保でマツダのような資金力があり知名度の高い地元企業との競争で苦戦している。また機密保持の観点から広島製作所では外国人労働者は雇用していない。このほかにも収益機会を大きく制限する要因がある。その一つは武器を輸出していないことだ。日本の防衛業者が海外で販売するには政府の許可が必要で、政府は規制緩和の方向を示しているが、実際には許可された例はほとんどない。
防衛省によると、全ての防衛契約の利益率は平均8%だ。しかし、多くの場合、納期の遅れや追加試験など想定外のコストをメーカーが負担することになり、利益がさらに圧迫される。防衛装備庁の装備政策課長、松本恭典氏は「履行過程でいろんな要素があって利益が飛んでいく。それで残るのが、ひどい企業になると赤字になるし、2-3%とかになるという状態」だと話す。近年の予算増にもかかわらず、ここ数年間でコマツや住友重機械工業などの大手企業が防衛事業を縮小してきた。その結果、中小の下請け業者の数は減っている。防衛省が数を把握できないほど多くの企業が防衛事業から撤退している。「そうこうしているうちに技術力は陳腐化し、技術優位を保てなくなっているというのが防衛産業の現状」だと松本氏は指摘する。
これは日本の政策当局者を困難な立場に置いている。明らかな解決策の一つは、現在約16%を占める輸入武器の割合を増やすことだ。しかし、日本の最も近い同盟国でさえ、最先端技術の共有に制限を設けている。日本政府は真に自立した部隊を持つためには、これをコントロールする必要があると考えている。日本は英国、イタリアと共同で次世代戦闘機を共同開発する計画を進めているが、背景には米戦闘機のソフトウエアのソースコードへのアクセスを米国が拒否していることがある。ソースコードへのアクセスがなければ、アップグレードや改造について独自の判断ができない。
要するに、岸田首相の目標を達成するには、活力があり世論の批判をあまり恐れない国内防衛産業を育成する方法を見つけなければならないということだ。良辺氏の上司である新本武司特機本部長は、1986年に入社して生まれ故郷の広島が最初の勤務地となって以来、ずっと日本製鋼所の防衛事業部門でキャリアを積んできた。自身の仕事について話す際には常に慎重さを求められてきたと、インタビューで語った。理由は、どの防衛機器メーカーにも共通する守秘義務に加え、周囲の反応に気を配る必要があるためだ。
同社は今、広島製作所の防衛機器製造工場に筆者が取材で入ることを認めるなど、一般市民との関係で以前よりオープンになろうとしている。同製作所の幹部が知る限り、大砲の製造ライン見学にジャーナリストを受け入れたのは初めてだった。「われわれがやっている仕事もある意味で国民に理解されている。戦後70年たって、だんだんと理解されてきつつあるのでその抵抗感が少しづつ和らいできているのが、この10年くらいの置かれた環境の違いではないかと思う」と新本氏は話した。
海軍の町・呉
広島市中心部から南へ約20キロに位置する呉市は、賑やかな埠頭(ふとう)を中心に広がる。海上自衛隊の基地や航空機エンジン部品工場や大型造船所もあり、全国でも非常に珍しい「海軍の町」だ。道路の求人広告の横断幕には「進学するなら自衛隊、就職するなら自衛隊」と書かれていた。
この造船所の歴史は、20世紀初頭にアジアで最も強力な海上戦力として台頭した日本海軍の草創期にさかのぼる。当時史上最大の戦艦だった「大和」は、1937年に呉市で起工された。この地域は太平洋戦争後期に激しい爆撃を受けたが、当時の軍用建物の幾つかは倒壊を免れ、今も使用されている。
かつて呉海軍工廠が存在したドックヤードは現在、横浜に本社を置く造船会社ジャパンマリンユナイテッド(JMU)が運営している。その最重要プロジェクトは、全長248メートルの護衛艦「かが」の改修工事だ。甲板が平らで空母に似ているが、2017年に就役した同護衛艦はヘリコプターしか搭載してこなかった。固定翼ジェット機の海上運用は、まだタブー視されていた。しかし18年、当時の安倍政権は米国で設計されたF35戦闘機を搭載可能にするため「かが」を改造すると発表。F35の最大の輸出先は日本だ。「かが」は現在、ドックでクレーンや工場建物に囲まれている。甲板の強化や船体の形状変更など第一段階の工事は1年以内に完了する予定だ。姉妹艦「いずも」では既に米戦闘機の発着艦が行われた。
しかし、日本が重要な防衛プロジェクトの一つに着手する中で、当局者は国民の不評を買うことを懸念している。公式の文書では「かが」と「いずも」は「多用途運用護衛艦」とあいまいな表現で説明されている。21年にはカルロス・デル・トロ米海軍長官が「日本の空母いずも」を見学してきたとツイートし、日本で物議を醸した。米国防総省は、同護衛艦の地位について同長官が公式見解を述べたわけではないとの釈明を余儀なくされた。
海上自衛隊呉地方総監部庁舎は、JMUのドックからすぐの場所にある。東シナ海の紛争地帯に近いという理由で選ばれたこの場所は、日中対立の初期段階である19世紀後半から軍事施設として使われてきた。同様の地理的特性から今日も重要拠点となっており、日本の潜水艦や水上艦の母港となっている。そのうちの一隻である全長151メートルの「さざなみ」を筆者は訪れた。日本製鋼所が製造した主砲を搭載した同護衛艦は2008年、海上自衛隊艦艇として戦後初めて中国に入港し、広東省に地震救援物資を届けた実績を持つ。当時、日本企業が中国本土に多額の投資を行い、中国人観光客が東京や京都に押し寄せるなど両国の関係が比較的友好的だった時期だ。
中国が尖閣諸島の領有権を主張する中で日中関係は悪化した。2012年には日本の保守系議員や政治団体関係者が尖閣諸島に上陸して日の丸を掲げたことに対する抗議デモが中国全土で起こり、中国政府はこれを後押ししないまでも容認した。「さざなみ」艦長の井上大輔氏は筆者に対し、「いま第一に考えないといけないのは中国だ」と率直に語った。「抑止力として『やり返す準備があるぞ』と『できる能力があるぞ』というのを維持していくのが重要だと思う」と述べた。
しかし日本の多くの地域では、そうした地政学的な現実は軍隊の受容にまだつながっておらず、米国で一般的な旗を振る支持ですら受け入れられていない。「さざなみ」の水雷士、山際雅貴氏(26)は、呉は自身のような海上自衛隊関係者を町全体でサポートしているという。映画館での割引やラーメンの無料での全部盛りといったサービスを受けられるという。一方で、広島市に行くときには青の迷彩服を着ていかないと話す。「土地柄もあるし、地域的な雰囲気をやはり感じる部分はある」とした。
平和記念式典・デモ
広島市の平和記念式典では、開式前に市内各所から集められた水を原爆死没者慰霊碑に供える献水が行われる。原爆の投下後、多くの人が水を求めながら死亡したからだ。開式後にはまず死没者名簿の奉納が行われ、首相ら参列者が慰霊碑の前に献花する。慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。
2022年8月6日、毎年開かれる平和記念式典に出席するため多くの日本の政治家や外国要人が広島に足を運んだ。しかし、このような厳粛な場でも最近の政策を巡る論争が聞かれた。岸田首相が「77年前のあの日の惨禍を決して繰り返してはならない。これは、唯一の戦争被爆国である我が国の責務であり、被爆地広島出身の総理大臣としての私の誓いだ」と演説したとき、遠くから抗議の声が聞こえてきた。平和主義を掲げる団体が原爆ドームのすぐ近くでデモを行っていたのだ。横断幕には「ヒロシマの怒りで改憲阻止」と書かれ、「私たちに戦争はいらないし核もいらないし基地もいらない」とマイクで叫ぶ女性の声が聞こえた。
21年に首相に就任する前、岸田氏は安全保障面で穏健派であることをアピールしていた。子供のころに広島を訪れた際に被爆者の話を聞いたと頻繁に語り、20年には「核兵器のない世界へ」という本を出版した。そのため、安倍首相よりもさらに迅速に防衛力強化を進めようとする岸田氏の決意は政治評論家を驚かせた。岸田氏は在任中に憲法9条を改正する意向を示しているが、憲法改正の発議には衆参両院のそれぞれの本会議での3分の2以上の賛成と国民投票が必要だ。
変化の速さは、新たな状況によって部分的に説明がつく。ウクライナでの戦争は他の国々と同様、日本でも防衛問題を前面に押し出した。台湾を巡る緊張の高まりも無視できない。中国は昨年夏、台湾周辺に弾道ミサイルを発射し、その一部が日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下。紛争に巻き込まれた場合に直面し得る潜在的なコストについて、日本政府への警告となった。
一方で、岸田氏のバックグラウンドが、他の日本の指導者に欠けていた政治的な資質になる可能性もある。冷戦時代の強硬なタカ派だったニクソン大統領だけが1970年代に米国と中国の関係を修復できたと言われるように、広島にルーツを持つ首相だけが、より毅然とした安保体制に日本を導くことができるかもしれない。世論調査は、国民がこの考えにオープンなことを示している。NHKが昨年12月に行った世論調査では、防衛費の大幅増額に「賛成」と答えた人は51%、「反対」は36%という結果になった。
10代のころに日本製鋼所で働いていた被爆者の加藤さんは、日本の再軍備という考えに心を痛めているという。かつてのように軍が力を持ち過ぎ歯止めが利かなくなるかもしれないという懸念を持ち、憲法改正にも反対している。加藤さんが学んだ広島市立第一高等女学校(現在の広島市立舟入高等学校)では生徒と教師676人が原爆で死亡。これら犠牲者を悼むために個別に執り行われた昨年8月の追悼式で加藤さんは毎年と同じように涙を流した。
しかしそんな加藤さんでさえも、迫る脅威の中でこのように話す。「もう日本は戦争を放棄したのだから攻めてはいかないが、攻められたらやはり自分の国の国民は守らないといけない」。
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原題:Japan’s New Military Might Is Rising in a Factory in Hiroshima(抜粋)