「無駄づくり」発明家・藤原麻里菜が語る、不器用にものづくりを続ける理由
「インスタ映え台無しマシーン」などの「無駄づくり」で知られる発明家・藤原麻里菜氏が、エッセイ集『不器用のかたち』(小学館)を昨年刊行した。分厚いミルクレープ、ぐちゃぐちゃの赤べこ、不完全なテディベアなど、一見すると失敗に思えるような作品を制作し、そのプロセスとそこで感じた思いについて綴っている。「不器用であっても、ものをつくることは楽しい」と語る藤原氏のものづくり論に迫った。(篠原諄也)
ーーご自身で不器用だと感じたきっかけはありますか。
藤原:私は小学生の頃からものをつくるのが好きだったんですけど、姉がなんでもすごく器用にできる人だったんですよね。それで姉を知っている先生から「お姉ちゃんと違って、麻里菜ちゃんは不器用だよね」って言われて。そのときは授業中にプリントを半分に切るように言われていたんです。みんなはハサミできれいに切っているのに、私だけビリビリって破いたんですよ。それで先生にそういう風に言われて、私は不器用なんだと自覚しました。
中学、高校と進むにつれて美術を志すようになったんですけど、周りの人と比べても、全然きれいにものをつくることができませんでした。自分もきれいで緻密なものよりは、もっと抽象的なものが好きでした。だからもうこれはこれでいいのかな、と思っていました。自分の好きなように絵を描いたり、ものをつくったりしてきましたね。
ーー当初は不器用であることに苦手意識を持っていたものですか。
藤原:やっぱり人と比べられると、恥ずかしかったですね。例えば、夏休みの工作が教室にずらっと並んだときに、自分の作品だけ下手だったり。私は字も下手なんですけど、中学1年生のときに習字の書き初めが壁に貼られました。先生がみんなの作品にはよくできたという印の黄色い付箋を貼っていて、私だけが貼られてなかったんです。だから自分で付箋をちぎって貼ったのを覚えていますね。でも私のいいところは、自分のことがすごく好きなんです。だから下手でも、自分ひとりでものづくりをしているときは「自分ってすごいな」と思いながらやっていました。
ーーそういう風にポジティブに捉えられるのはなぜでしょう。
藤原:19歳の頃に無駄づくりの活動を始めて、最初は本当にダンボールだけでつくったりしていて、自分の中でクオリティは求めてなかったんです。しかも当時のYouTubeはあまり誰も見ていなくてアングラな場所でした。そこに勝手に動画を投稿するならいいかなと思って。好きなようにつくって、下手でも自分のなかで及第点が出たらいいなと思ってアップしていました。
そしたらものの見方が変わってきたんです。それまでは人に見せるのが恥ずかしかったんですけど、自分のやっていることに自信がついてきました。誰でも最初は絶対下手なんですよ。でもそこを認めなければ、永遠に始められない。不器用でも下手でも、つくりつづけることをすれば、絶対に道が開ける。当時、自分が下手だけどやるという選択をできたことによって、ずっと今まで続けられています。
藤原:いろいろ理由はあるんですけど、自分のなかのテーマで「実用とは何か」という問いがあるんです。世の中では、実用的なものが価値があるとされる。あるいは逆に、実用じゃないからこそ価値があるという考え方もある。例えば、バックパックだと、たくさん荷物が入るか、取り出しやすいかという実用性で判断されます。一方で、高級ブランド品は、そんな機能性がないからこそ、ラグジュアリーなんです。いずれにしても、実用というものを基準にして価値ができている。では、役に立つとはなんだろうという思いが、自分の中にあるんですね。
すべての物事に目的がありすぎると思うんです。例えばどこかに散歩するにしても、健康のためだと考える。目的がないと何もできなくなってしまっている。でもそんな目的ばかり求めずに、ただ何もない道を探して歩いていくようなことが好きなんです。無駄というのは、目的から解放されている手段です。そういう意味で無駄づくりには、意味があるんじゃないかと思ってきました。
ーー今回の本ではどのようなものをつくりましたか。
藤原:最初のきっかけになったのは、2023年に自分が太ったからつくった紙粘土の人形でした。当時、めちゃくちゃ鬱で、無駄づくりのアイデアも浮かびませんでした。でもとりあえず粘土でもこねてみようと思ってつくってみました。それが下手であっても、ものをつくることは身体的な感覚としてめちゃくちゃ気持ちがいいということを実感しました。手のひらで粘土の柔らかさを感じる感触が気持ちがいいし、そもそも、頭の中にあることや心で感じたことを形として放出することが気持ちがいい。その経験がこの本を執筆するきっかけになりました。
次にこの本の企画としてやってみたのが、分厚いミルクレープでした。うちの夫は普段はそんなにわがままを言わないんですけど、急にミルクレープが食べたいと言い出して。それで私が暇だしつくるかとなって。普段あまり料理はしなくて下手なんですけど、世の中にまだ存在しないような料理を食べたいと思ったら、つくってみるんです。例えば、パンの上にハンバーグをのせて食べたらおいしいだろうなと想像をして、それを実際に自分の手で形にしてみるとすごく楽しい。それが生きるということだと思うんですよね。
ーー今回の本の中では米国の19世紀の思想家デヴィッド・ソローなど、いろいろな本からの引用がありましたね。
藤原:ソローは一昨年ぐらいに初めて読んだんですけど、めちゃくちゃ面白いです。まだ全部は読めてないんですけど。何百年も前なのに、超偏屈な人で。こんな人が近所に住んでたら、嫌だなっていう(笑)。今の時代だったら、ゴミ屋敷に住んでいて、近所の人から嫌われてそうなおじさんだと思います。
ソローは歩くのがめちゃくちゃ好きなんです。当時、蒸気機関車が発明されたんですけど、ソローは絶対に機関車なんか乗らないと言う。「人は汽車に乗るために1ヶ月働く。俺はその1ヶ月で歩くから俺のほうが早い」みたいな謎の理論を唱えるんです。ひねくれてて、めちゃくちゃ面白いですね。
ウォールデンという湖のほとりに自分で小屋を建てて一人で住んでいました。意外と友達はいて、小屋に遊びに来るんですけど、「早く帰れよ」みたいなことを書いるんですよ。おしゃべりなおばあちゃんが来て、マナーがなってないから早く帰ってほしいとか。文明社会へのカウンターとして、自分の肉体やスキルで勝負をしようという考え方があって、それも共感するんですけど、一番はその偏屈さが面白いなと思いますね。
ーー藤原さんは元々本を読むのはお好きだったんですか。
藤原:好きでしたね。今はあまり時間がなくて読めてないんですけど。最初は中学生の頃、国語の教科書で太宰治と寺山修司が自分の中で刺さりました。図書館や古本屋で日本文学を中心に読み始めました。高校からはドストエフスキー、チェーホフなどロシア文学がコメディっぽい作品が多くて、読んでいました。
ーーそうした読書はご自身の活動に影響を与えていますか。
藤原:本は結構読むんですけど、すぐ内容を忘れちゃうんですよ。でも忘れているからこそ、血肉になっている感じはしますね。あと本はそのときに欲しい言葉をくれたりする。だから何かを得るために読むというよりは、ふと目があったおじさんにめっちゃ殴られるみたいな、そういう感覚で読んでいました。たまに喝を入れられるというのは、自分にとって大切なことですね。