どクズ野郎のバロウズが生んだアートそのものを映画にーー『クィア/QUEER』は単なるロマンス映画ではない
『クィア/QUEER』は大人のロマンスを描いた恋愛映画か?
いまこの文章を出先のコーヒー店で書いているのだけど、Wi-Fiが弱すぎてインターネットへの接続がままならない。つながっているはずなのに、ページが読み込まれることはまるでない。まさしく映画『クィア/QUEER』にて情緒的な焦点が当てられているのは、このようなもどかしさである。アメリカを離れメキシコシティでプラプラしている駐在員のウィリアム・リー(ダニエル・クレイグ)は、息子ほどの歳の青年ユージーン・アラートン(ドリュー・スターキー)に恋をしてしまう。ゲイ・コミュニティから距離を置きつつも男性を愛する気持ちに抗えないリーは、自分がはたしてアラートンに受け入れられるのかと身悶えしつつ、彼との距離を縮めようと腐心する。片やアラートンはリーの気持ちに応えるような素振りを見せながらも、時に彼を冷淡に突き放す。一途さと恋愛ゲームの間に揺れるリーは、みっともないほどにアラートンに拘泥し、彼を求める。
概要だけ見ると、本作は大人のロマンスを描いた恋愛映画と分類できよう。それは決して間違いではないのだが、原作者がウィリアム・S・バロウズ、さらに同書がバロウズ自身の自伝的要素を多分に含んだものであることを加味すると、陶酔を伴う言葉「ロマンス」で映画『クィア/QUEER』を一元的に語ることは乱暴に思える。なぜか。それはバロウズがロマンスという言葉の対義語と言って良いほどにヤバい御仁だからだ。
本邦では『クィア/QUEER』と同時にバロウズのドキュメンタリー『バロウズ』(1983年)が封切られる。バロウズについて端的に述べた同作のキャッチコピーが出色なので引用したい。「ジャンキーで、妻殺し、やりたい放題に生き延びた二十世紀最凶の偉大なる作家にして破壊者ウィリアム・S・バロウズのドキュメンタリー」。バロウズについてきわめて簡潔に述べつつも、その多面性を捉えた名文だ。さらに言えばこの惹句の参照元はかつて出版されていたバロウズの研究本「たかがバロウズ本。」(著:山形浩生)の帯文「ジャンキーで、おかまで、妻殺し」にある。さすがに「おかま」は時代的にニュアンスがそぐわないので削除されたと見るが、四半世紀前は「ゲイ=おかま」と意訳されていたわけで、ここに社会的意識の変遷が垣間見えちょっとした味わい深さも醸す。ちなみに映画原作本「クィア」の初邦訳版の題は「おかま(クィーア)」であった。こちらも再発に際し改題されたのだが、しかし「ジャンキーで妻殺し」であるバロウズを表現するにあたり、かつては蔑称として用いられていた「クィア」を「おかま」という言葉に落としたのは、政治的正しさとは対極の場所で生きたバロウズを表現するにあたってはアリではないか、と無理を承知に思えてならない。
閑話休題、バロウズの生き方を俯瞰視すると、それがロマンスという四文字に収斂できるものではないことがお分かりいただけるのではないか。では『クィア/QUEER』でのリーの足跡とバロウズの半生を照らし合わせて紐解いてみよう。舞台はメキシコシティだが、なぜリーは、バロウズはかの地にいたのだろうか。その理由を原作「クィア」序文より引用する。「ニューオリンズでのヘロインとマリファナ所持の件での裁判はどうも勝ち目がなさそうだったので、公判日には出廷しないことにして、メキシコシティの閑静な、中産階級向け住宅地にアパートを借りた」。サラッと書かれているが、つまるところこの男、有罪になりそうな裁判をバックレて国外逃亡したのだ。続いて「民法の時効年数となる五年間は合衆国に帰れない」なんて涼しげに語っており驚かされる。要するにバロウズ、どクズ野郎なのだ。
苦く甘い愛の物語は深く暗い死の上に成り立ったもの
中小企業の社長の息子に生まれたバロウズは、基本的に親からの仕送りで暮らすボンボン。ハーバード大学を卒業してからヨーロッパの医学校に進むも、定職らしい定職に就くことはなかった。のらりくらりと大不況から第二次世界大戦を乗り切りつつ、親からの仕送りをアテにして麻薬三昧。ヨーロッパでの偽装結婚を経て、後年には作家ジャック・ケルアックの妻のルームメイト、ジョーン・フォルマー・アダムズを内縁の妻として娶った。「女はこうして口説くんだ!」——ドキュメンタリーでも見られた、自分の同性愛気質を認めつつも、マッチョな振る舞いを見せるバロウズの姿勢はこの女性遍歴にも現れている。
そんなわけで『クィア/QUEER』で切り取られた瞬間のバロウズは事実上、妻帯者であった。さらにジョーンには連れ子もいたのだ。彼女たちもまたバロウズに連れられメキシコでの生活を余儀なくされたのだが、原作にも映画にもその姿はない。徹底的に「いないもの」として扱われている。原作でリーは、船を買ってそこで過ごす瞬間を夢想する。夕暮れに染まる海。船のデッキには自分と若い恋人、アラートン。もちろんその妄想の中にはジョーンはいない。
『クィア/QUEER』のB面を描いた作品がある。映画『バロウズの妻』(2000年)だ。バロウズに放置されていたジョーンがどのようにこの時期を過ごしていたのか、180度異なる視点からのドラマが紡がれる。若い男の身体を求めていたバロウズ、そしてバロウズの身体を欲していたジョーン。求めるものが手に入らず互いの背中ばかりを見つめ合い、決して視線が交錯しない関係性の中で、ジョーンのもとにかつての恋人が現れる。セックスレスに悩んでいたジョーンが求めていたのは肉体なのか、それともバロウズの愛なのか。彼女が選ぶのは……。
ジョーンを演じたのはお騒がせ女優/ミュージシャンのコートニー・ラブというのがなんとも香ばしいのだが、同作での彼女の演技はかなり良い。余談となるが、カート・コバーンはバロウズの信奉者であり、氏とコラボレーションを果たした音源「the "Priest" they called him」を発表していたりする。『クィア/QUEER』の劇中でニルヴァーナの曲が積極的に使用されているのも、コバーンとバロウズの関係性を踏まえてのこと。そう考えると『バロウズの妻』の配役はなんとも因果だ。
妻と子を放置してアラートンの尻を追い回していたバロウズであったが、『クィア/QUEER』で語られた出来事の後にジョーンを射殺してしまう。リンゴを息子の頭の上に置いて矢で射抜いたウィリアム・テルになぞらえて、ジョーンの頭にグラスを置き、それを狙うも彼女を誤射したのだ。この事件に関してバロウズの証言は二転三転しており、最終的には「俺じゃなくてね、俺に憑いてた悪霊がね、悪いんだよ……」とスピった言い訳を終生続けた。原作「クィア」が書かれたのはこの事件の翌年である。この点を踏まえるとジョーンという存在が徹底的に無視されていることは、バロウズが彼女に関心を払っていなかったこと以上に、メキシコに来た理由である「逃避癖」とでも言うべきものが由来しているように思える。バロウズは大いなる喪失から目を背け、記憶の中にのみ存在する若い恋人との日々を書き留めたのだ。あるいは、そうしなければ自分を保てなかったのかもしれない。
『クィア/QUEER』で描かれる苦く甘い愛の物語は深く暗い死の上に成り立ったものであることがお分かりいただけたかと思う。さらに言うと、なぜこの時期のリーがアラートンを激しく求めたのかという点に関して、後年バロウズは「断薬症状によって感情の昂ぶりがコントロールできなかったため」と述懐している。あくまで生理現象なのだ、と。映画なんて結局は商材でしかないため、こんな身も蓋もない話が「一途な恋のために、地の果てまでも行く男の物語」「どこまでも愛おしいラブストーリー」として売り出されている。そのギャップから生じる黒い笑いもまた本作の魅力の一つであろう。