「浄岸院さまに対して面目が立たない」というセリフが意味すること
2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第20話で、将軍世子の豊千代(のちの11代将軍・徳川家斉)の婚約者、薩摩藩主の島津重豪(1745~1833)の3女・茂姫を側室にしてはどうかという田沼意次(渡辺謙)の提案に、「それでは浄岸院様に対して面目が立たない」という理由でお断りを入れるシーンがあった。
実は、2008年の大河ドラマの主人公『篤姫』(宮崎あおい)が、島津家から13代将軍・徳川家定に輿入れしたのも、もとはといえば、この浄岸院が起点となって島津家と徳川将軍家の婚姻が重ねられた結果なのだ。では、浄岸院というのは一体何者で、どういう経緯で両家の間を繋いでいったのだろう。
5代将軍綱吉の正室が京都から呼び寄せた「側室の兄の娘」
話は5代将軍・徳川綱吉(1646~1709)の時代にまで遡る。
綱吉の男子(早世)を産んだ側室・お伝の方の父親は黒鍬者といって武士の中でも最下層の出身だった。しかし、世子の母親なので、莫大な権勢を振るっていた。
綱吉の正室は五摂家・鷹司家の出身で、身分の低い女にいいようにされている状況が、がまんならない。そこで、美しい公家の姫を「綱吉の寵愛をお伝の方の独占から引き離すため京都から迎えた」(『徳川妻妾記』)。それが清閑寺煕房の娘・大典侍で、綱吉の側室となった。
大典侍は側室になった翌々年、兄が死去したので、その娘・竹姫(1705~1772)を養女とした(この竹姫なる女性が、のちの浄岸院である)。側室の養女なので、結果的に綱吉の養女ということになる。
宝永3(1708)年7月、綱吉は竹姫と会津松平正容の嫡子・松平久千代(1696~1708)との婚儀を固めた。ところが、同1708年12月に久千代が早世してしまう。次いで、宝永七(1710)年8月に有栖川宮正仁親王(1694~1716)と婚約したが、またも享保元(1716)年9月に正仁親王が死去してしまう。