※本稿は、岸見一郎『「普通」につけるくすり』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
「特別」を求めて競争する子ども時代
小学生の頃、私は背が低くスポーツも得意ではありませんでした。クラスでは少しも目立ちませんでした。背が低いから認められないのだと思い込んでいた私は、せめて勉強は誰にも負けないでおこうと思いました。クラスの人気者は必ずしも勉強ができるわけではありませんでしたが、私にできることは勉強しかありませんでした。
他の人に負けたくない、他の人に認められたいために勉強するのは、勉強することについての不純な動機であるといわざるを得ません。しかし、当時の私は「特別でなければならない」と強く思っていたのです。
誰もが初めから特別であろうと思うわけではありませんが、子どもの頃に、「自分は特別である」と思うような経験をしたために、その後の人生でも特別であると思うようになることはあります。正確にいえば、そのような経験がきっかけとなって、特別であろうと決心するのです。
「性格」は自分で選び取るもの
そして、この特別であろうとする目標を達成するために、「性格」を選択します。この世界、他の人、自分自身をどう見るかが性格の一つの意味です。この世界は怖いところで、他の人は隙あらば自分を傷つけたり陥れようとしたりする怖い存在だと見ることも性格です。自分自身については能力がないと思う人がいれば、それもその人の性格です。これとは反対に、世界や他の人、自分自身について肯定的な見方をする人もいます。
また、何か問題に直面したときに、それにどう対処するかも性格です。問題への対処の仕方は大体いつも同じです。
アドラーは「ライフスタイル」という言葉を使います。「性格」というと先天的で変えられないと思われがちですが、アドラーは「自分でライフスタイルを決めた」と考えました。なぜ自分で決めたといえるのかといえば、同じ親から生まれ、ほぼ同じ家庭環境で生まれ育ったにもかかわらず、子どもの性格が違うのは、自分で選んだからとしか考えられないからです。