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シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

タイムラインをジャックするガンダムを観るということ

 
朝6時に起きて眠い目をこすりながらガンダムをみているうちに、「自分のタイムラインをジャックしているガンダム最新作を、リアルタイム視聴すること」について書きたくなった。『機動戦士ガンダムジークアクス』についてでなく、『ジークアクスをみんなで視聴している環境』についての感想文が書きたくなったわけだ。
 
 

覇権アニメの賑わいは大喜利の賑わい

 
今朝のジークアクスも期待どおりの面白さ……というより予想を裏切る面白さだった。ソロモンの戦いは前半にコンパクトにまとめ、後半は月面都市グラナダに舞台を移してグラナダらしい話をやってくれた。マチュの進展もわかった。それで良かった。私のタイムラインは、さっそく賑わっている。
 
そんな風に私は『機動戦士ガンダム ジークアクス』を楽しんでいる。しかし、その楽しみのすべてが作中描写に由来しているとは思えない。ジークアクスの楽しさのある部分はタイムラインの賑わいによって構成されている。
 
『機動戦士ガンダムジークアクス』という作品は、タイムラインの賑わいを大前提としてつくられていて、SNSのタイムラインを占拠してしまうことに意識的な作品になっている。事情通な人は、「そんなのは『ツインピークス』の時にも『新世紀エヴァンゲリオン』の時にも『魔法少女まどか☆マギカ』の時にもあった。大河ドラマだってそうじゃないか」と指摘するだろうし、それはそうだろう。それにしてもジークアクスの、話題の撒き餌をまいて大喜利やガンダム早押しクイズを誘発するうまさはどうだ!
 
歴史があり、古参ファンが大勢いるIPであることを最大限に利用して、ジークアクスは毎週毎週、(少なくとも私の)タイムラインをジャックしている。水曜日にはタイムラインがジークアクス色に染まり、一週間かけて徐々に色合いが薄くなってきたと思ったらまた水曜日がやってきてジークアクス色に染まりなおす。そんなことを毎週毎週やってのけているから、うちのタイムラインにおける覇権アニメっぷりはすさまじい。実際に世間の人がどれぐらいジークアクスを楽しみにしているのかは不明だが、エコチェンバーの内側ではガンダム関連のイラストがリポストされ、“識者”によるガンダムの解説や予測や考察が溢れかえっている。
 
それは、楽しいことであると同時に難しいことでもある、と私は感じる。
 
まず、楽しいことについて。
ガンダムという共通のコンテンツで繋がる者同士がこんなに集まってリアルタイムでメンションをかわせるのは、お祭りめいていると思う。三葉虫やアンモナイトの化石をなでるように20世紀のガンダム作品を懐古する日々は終わった! ジークアクスは最新のガンダム作品であると同時に、旧世紀の化石になり果てたはずのサイコガンダムやらキシリア・ザビやらに再び命を吹き込んだ。その、新旧入り混じったガンダムの話にリアルタイムで参加できるのは、ガンダムファン冥利に尽きる。
 
そのかわり、このカーニバルのようなタイムラインから逃れてジークアクスを視聴することも、また難しい。
 
タイムラインのカーニバルのなかには、見たくもないものや考えたくもないものも混じっている。褒め方にしてもピンキリで、ろくな褒め方じゃないと思うものもある。が、それはタイムライン構築の問題ではあろうし、「嫌なら見るな」が今日のSNSではある。
 
ところが最近の覇権アニメ、ひいては覇権コンテンツは、タイムライン上でリアルタイムに盛り上がることを大前提としてつくられている。次週の放送まで話題性を継続させるための撒き餌を作中にも欠かさない。そうしてタイムラインの盛り上げ、作品の知名度やファンの気持ちを高めていこうとしているのは理にかなっている。
 
だから、たとえばジークアクスをリアルタイム視聴すると言った時に、タイムラインの動向をまったく考えにいれない・まったく観測しないのは、ちょっと違う気がしてきた。作品の仕掛けや販売戦略としてSNSのタイムラインが意識され、実際、そこでの盛り上がりがリアルタイム視聴の風景の一部をなしているとしたら、そのタイムラインをわざわざシャットダウンして作品と向き合うのは、作品の全体像の一部を切り離しているのに近い、のではないだろうか。
 
 

「孤独の『ジークアクス』」は可能か、可能だとして、それは適切か?

 
本当に、アニメ作品を鑑賞するとはどういうことか。
 
「アニメを観る」と言っても色々だ。作中で描写されていることが最も重要、いわば一次情報なのは言うまでもない。アニメを正座して観たい人は、この一次情報を精確に把握、なんなら読解するリテラシーを身につける必要がある。
 
また、ある種の観賞態度を良しとする人々は、制作陣についての情報や過去の関連作品についての情報も意識しながら作品を鑑賞・分析することもあるだろう。現在のアニメの流行状況や関連技術を意識しながら視聴する人もいるかもしれない。
 
とはいえ、周辺情報に惑わされず一次情報に集中して視聴することがまずは大切なはずで、タイムラインが何を言っているのかより、自分自身が作品をとおして何を受け取ったのかが優先されるはずである。だからこそ、ネタバレを回避して作品と一対一で向かいたいファンは眠い目をこすってリアルタイムでジークアクスを視聴し、自分自身が作品から何かを受け取るプロセスに予断や先入観が入り込まないように努めてもいる。
 
ところが、ジークアクスのようにタイムラインをジャックしてしまう作品の場合は、視聴前後にさまざまな情報や憶測を吹き込まれてしまうのは避けられない。毎週の最新話と一対一で対峙するのは可能だとしても、作品全体と一対一で対峙するのは著しく難しい。もし、本当に作品全体と一対一で対峙したければ、リアルタイム視聴中はずっとSNSを遮断し続けるほかないだろう。
 
じゃあリアルタイム視聴中にずっとSNSを遮断し続けるのが最適な鑑賞態度かと言われたら……違うんじゃないかなぁ。さっき書いたように、最近の話題作はすべからくタイムラインの盛り上がりを前提とし、それが作品づくりの一部をなしている。控えめに言っても、作品の構成やセリフや予告などのうちに、タイムラインの盛り上がりや大喜利を誘発させる仕掛けを見出すことは可能だ。たとえば今日の昼頃にジークアクスのXの公式アカウントはキャラクターやメカの情報を解禁しているが、それだってタイムライン占拠率を維持するためにやっていることだろう。
 
なら、そうした仕掛けを受けてタイムラインがどのように盛り上がったのか、ファン内外でどんな反応が優勢だったのかを「場外の出来事に過ぎない」と簡単に切り捨ててしまうのはいけなくないか?
 
こう考えてしまうと、たとえばジークアクスの鑑賞態度は孤独であってはならず、タイムラインの賑やかさも込みで観測しなければならない……ような気持ちになってしまう。本来、アニメとは一対一で向き合い、楽しめるメディアであるはずだし、今まで私はそう理解してきた。だけど、タイムラインをジャックしている作品、またタイムラインをジャックするべく創られた作品ではこの限りではなく、孤独を良しとしていたら作品をなしている大きな輪の一部分を見逃してしまうのではないか、と思わずにいられない。
 
もし、ジークアクスをリアルタイム視聴せず、たとえば数か月後、数年後に視聴した場合、リアルタイム視聴勢が受け取ったのとは異なった受け取り方になるのは避けられないと思う。それこそがあるべき視聴態度だろうか?
 
「いつ観ても作品は変わらない」とか「作中で描かれた一次情報こそが正義だ」と言ってしまうのはたやすい。けれども、そうして旬の時期を外して鑑賞する覇権アニメはタイムラインの賑わいとセットの味がしないし、セットの味がしないとしたら、それは制作陣の思惑の外側の状態での鑑賞、ファンのリアクションという血潮を失った蝋人形の鑑賞になってしまわないだろうか?
 
誰にも邪魔されることなく、孤独に作品と一対一で向き合う──そういう態度は、アニメを最もプレーンに鑑賞する態度だと思うし、古強者アニメ鑑賞家なら、今でもそうした鑑賞態度を手放していないだろう。でも、それはそれとして、タイムラインをジャックするようつくられた作品の、ジャックしているさまを視野から追い出すのも、それはそれで片手落ちに思える。
 
この2つの課題を両立させるのは簡単ではないかもしれない。
なぜなら、タイムラインに目を泳がせつつ、それでいて作品と一対一で向き合う態度を維持するには、他人の意見や周りの空気に流されない芯の強さが必要だからだ。
 
 

タイムラインをジャックする作品の、「興行的性格」

 
いまどきの覇権アニメ、いやアニメに限らずタイムラインをジャックするタイプの作品は、催し物やイベントとしての性格、または「興行」的な性格の強いエンタメなのかもしれない。プロレスとか、ペナントレースとか、ツアーといったものに近い性格を帯びたアニメというか。それを私たちは、SNSのタイムラインという巨大な街角テレビをとおして共有し、あれこれ寸評したり、ヤジを飛ばしたり、誰かが即興で描いたイラストを見て歓声をあげたりしているわけだ。
 
今の時代、アニメ作品それ自体はいくらでもアーカイブ化されるし、サブスクリプションをとおして再生も可能だろう。けれども作品の興行的ストラテジーがぴたりと当たってファンを賑わせているこの状況は、今なおリアルタイム視聴の特権に近い*1。賑わいを楽しみ、作中の表現や演出がタイムラインをジャックする様子をこの目で確かめたければ、結局リアルタイムに視聴するしかない。うまくできているなあ。
 
きっと来週も、私は早起きしてジークアクスを観るのだろう。
「制作陣に乗せられている」とわかっていても乗らないわけにはいかない。
 
 
[関連]:ジークアクスが「インターネットの面白さ」のアニメすぎる・他(2025年5月21日の日記)|人間が大好き
 
 

*1:ただし、ニコニコ動画はある程度まで賑わいそのものをアーカイブ化しているとは言える

どんなにAIが利口になっても、選挙をAIに任せてはいけない

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
AIの脅威は色々あるけど、現在の私には、民主主義や個人の自由にとっての脅威が一番気になる。AIに意見を言わせる振舞いが増え、社会のなかで当たり前になったら、それってヤバいやつなんじゃないか? って意見を上掲リンク先に書いた。
 


 
それに対して、「もうSNSをとおしてアジテーターの言いなりになっている」「アメリカではトランプが当選している」といった指摘をする人が少なからずいた。多くの人は判断力を持っていない、だから現行制度も民主主義モドキでしかない、といった言葉も聞こえてきた。そうかもしれない。民主主義は建前的だ。その建前の足元では、色々なものに影響されたり扇動されたりしている私たちがいる。
 
ちなみに、冒頭リンク先のタイトルしか読まなかった人は気づかなかったかもしれないが、私は文中で「私たちはSNSにもgoogle検索にも負け続けてきた」と二回ほど書いた。マスコミやインフルエンサーや巨額の広告費用なども、私たちの判断や意見に影響を及ぼしてしまう。街頭演説だってそうだ。街頭演説で爽やかな印象を与える候補者が、爽やかにみえるという理由だけで投票されたり支持されたりすることは珍しくない。
 
私たちは、たやすく感化されてしまい、扇動されてしまう。そんな私たちにSNSという文明の利器が届いてしまった以上、インフルエンサーが跳梁するのは仕方のないことだったかもしれない。
 
 

衆愚的であることは民主主義の一面でもある

 
だけど、そもそも民主主義ってそういうものじゃなかったっけ?
 
古代から、人はカリスマ的人物やメディアに判断を委ねてきた。そもそも民主主義体制とは、投票などをとおして代表を選び、その代表者に権力を委任することで成立する体制ではなかっただろうか。だから、誰かを支持する・選択するのは民主主義にとって必要不可欠なことだ。誰を選ぶか・どう選ぶかも大切だが、第一に私たちが選ぶこと、私たちのひとりひとりが自分で選ぶことを尊び、その自己選択をとおして代表者が選出されること……が民主主義だったはずだ。
 
「衆愚政治」という言葉がある。
一般に、衆愚政治は良くないものとみなされている。SNSや巨額の選挙広告費といったものは衆愚政治を加速させるかもしれないし、だから良くないという意見は理解できる。民主主義がより良く行われるために、有権者がより良く判断しなさいってのはそのとおり。
 
でも、だからといって最も分別のある人しか投票できない……なんてことになったらそりゃ民主主義じゃない。最も分別のある人から最も分別のない人まで、それぞれが自分の支持や選択、判断や意見に基づいて行動する(たとえば投票する)のが、民主主義というものだ。と同時に、その考え方が自由主義社会における個人の主権性を支えているのではなかったか? 「分別や判断力のあるなしにかかわらず、自分の判断や意見を持つ」ことは民主主義にとって最も基礎的な大前提だ。ゆえにこそ、民主主義は多かれ少なかれ衆愚的にもなるし、衆愚的であることは民主主義の一面でもある。逆に言うと、衆愚的であるからという理由で民主主義を否定するのはたぶんおかしい。
 
 

grokに投票させるようになったら、もう民主主義じゃない

 
で、AIである。
たとえば街頭演説で見かけた候補者がどんな履歴や意見を持った人物かを理解するサポートとしてAIを活用するのは、悪いことではないはずだ。最高にうまくAIを活用できる人も、最悪にAIを使ってしまう人もいようが、ともあれ、AIを自分の判断や意見を持つためのツールとして用いたからといって民主主義という制度そのものが毀損されるわけではあるまい。それで衆愚的な一面が加速することも減速することもあり得るだろう。
 
しかし、AIに判断や意見を代行させ、それで構わないとするのは話が別だ。
例として次の参議院選挙について考えてみて欲しい。政党や候補者についてよくよく考えて投票するのが理想だが、たまたま街で見かけた候補者が弁舌さわやかだったから投票した、なんて人もあるかもしれない。しかし民主主義とはそういうものだから、そういう有権者がそういう行動をとったからといって咎められるべきではないし、それだけでは民主主義体制は動揺しない。
 
しかしもし、「grok、私のかわりに今度の参議院選挙の投票先を決めておいて」となったら、これは話が違う。それを始めたら、もう有権者ではないし、それがまかり通るようになったら国民主権や民主主義体制の建付けが動揺するだろう。
 
もしかしたら、AIのほうが非ー衆愚的に投票先を選べるかもしれない。でも有権者が判断や意見をAIに委任してしまえば、民主主義体制そのものが毀損される。そうなったらもう、衆愚政治ですらない。民主主義を支えているのは、ひとりひとりが判断や意見の主体であるという感覚だから、その感覚が失われれば失われるほど、民主主義は成立しなくなる。
 
昨今の政治状況をみて「民主主義が破壊されている」といったことをいう人は少なくないし、その心情は理解できる。しかし、SNSの普及やインフルエンサーの跳梁で民主主義体制そのものが破壊されるというより、衆愚政治の加速が問題ではないだろうか。もちろん衆愚政治の加速も問題だから、それらがノープロブレムだとは私も思わない。
 
が、AIに判断や意見を投げてしまうのはそれとは別の問題である。今はまだ、AIにSNSの返信を丸投げする行為がチラホラみられる程度で済んでいるし、いくらなんでも選挙の投票先をAIに決めさせようとする人は稀だろうが、近い将来、人間がますますAIにもたれかかり、それを支援のツールとしてではなく判断や意見の代行者として、なんなら行為の代行者として用いるようになった近未来においては、人間自身が判断や意見の主体であるという感覚が失われていくかもしれない。
 
そんな近未来のAIは、ほとんどの人間よりも合理的で、社会全体を見渡したうえで判断をくだせるようになっているだろう(ただし、AIを司る企業が"何か仕掛けてくる"可能性は否定できない)。だとしても民主主義政体を維持したければ、ひいては国民主権という大事な建前を失いたくなければ、私たちはAIを支援ツールとして用いることこそあれ、判断や意見をAIに委ねてはいけないのである。今はまだ、AIに判断や意見を委ねる人も、委ねる場面も少ないかもしれない。だけどAIがより進歩し、生活の隅々にまで普及した十数年後には、委ねたくなる人も委ねたくなる場面も爆増するはずで、そのとき多くの人が「人間が自分の頭で考えるのはもう古い」「大事なことほどAIに任せたほうが良い」とみるようになる可能性はけっこうあると思う。そうして社会常識や社会慣習が変わってしまえば、いまは杞憂のように思える民主主義の危機は杞憂ではなくなる。
 
そして民主主義が建前としてすら尊重されなくなった時は、個人の自由も建前としてすら尊重されなくなる時だろう。
 
AIがいきなり人間を不自由に突き落とすことはあるまいし、あくまで支援ツールとして利用するぶんには大丈夫じゃないか、と私は思いたい。けれども世の中の人々の大多数がAIに判断や意見の代行者としての役割を期待するようになり、しまいには行為の代行者としての役割まで期待するようになったら、それは、人間が自由を失い、民主主義や国民主権といった建前を失うに至る長期的トレンドのなかの一里塚*1ぐらいにはなるかもしれない。
 
私は、「民主主義の終わりは、私たちひとりひとりの自由の終わり」だと思っているから、たとえAIが進歩しても判断や意見の主体としての自覚と感覚を手放してはいけない、と思っている。民主主義を建前だという人もいよう。でも、建前だって大切でしょう? なぜなら、建前がなくなったらたちまち守られなくなるもの・建前のおかげでかろうじて守られているものだって世の中にはたくさんあるのだから。
 
ちなみに、
 


 
AIはあくまでツールだから、「AIが人間を甘やかして精神的に依存させる」とは、厳密にはAIの不適切使用ではないだろうか。AIをツールとしてどのように用いても構わない。しかし、それで自分自身の主体性が破壊されたり、判断や意見を投げ捨てる癖が身に付いてしまったりするなら、それは個人にも社会にも危険な事態だろう。もし、そんなことが広く起こるようだったら、AI自身の性質をどうにかしなければならないし、ユーザーである人間側もどうにかしなければならないと思う。
 
 
(この文章はここまでです。以下の有料記事は、あまり意味をなしていないつぶやきなので常連さんだけどうぞ)
 

*1: ゲーム用語で言い換えるならフラグ

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AIに判断や主体性を委ねていると、自由も民主主義も滅ぶだろう

 
blog.tinect.jp
 
上掲リンク先で、AIと付き合う際に決して忘れてはならないことを書いた。AIが進歩したからといって判断を丸投げしてはいけない。判断の主体性や責任性はこれからも人間が引き受けなければならないし、AIが普及すればするほど、AIに問いを立てる能力、ひいてはリテラシーが求められるのは避けられない。
 
しかし現実には、AIに判断を丸投げしたがる人はいようし、丸投げするしかない人、丸投げするのがコスパの良いこととみる人もいるだろう。「人間はもっと無責任な動物だ」「今までのネット社会だって、リテラシーが欠如しまくっていたじゃないか」という声も聞こえてきそうだ。
 
もっともな指摘だ。だけど、AIの進歩は人間にますます高い能力を要求するようになり、人間側がそれについていけるかどうかに関係なく社会に定着するだろう。たくさんの人間を置いてけぼりにするようにAIが進歩し続けたら社会がどうなるのかについて、少しだけ書いてみたいと思う。
 
 

1.AIが進歩しても、人間がますます厳しく問われるだけ

 
まず、AIの能力が向上したらすべて丸投げして大丈夫か、について。
 


 
上のポストに対して、「AIが人間よりも多くのことを調べてくれる」「進歩したAIは人間の専門家の判断を上回るようになる」といったコメントがいくつか寄せられた。AIの能力が向上すれば人間が判断しなくても良い・AIに任せておけば良い、といった意見はけっこう多い。
 
でも、AIがどんなに優れたツールになったとしても、そのツールを使いこなす、またはそのツールに振り回されるのは人間自身だ。
 
ファンタジーRPG風に喩えるなら、AIは「強力な魔導書」みたいなものだと思う。色々なことができるし、ユーザーにさまざまな恩恵を与えてくれる。しかしファンタジーRPGの世界では、力量不足の魔術師が強力な魔導書に振り回されて破滅する話がひとつの定番になっている。ツールの力が強くなればなるほど、それを使いこなすユーザー自身の力量が厳しく問われるーーそれは、ファンタジーRPGでも現実社会でも同じではないだろうか。
 
AIがますます進歩していくのは既定路線だろうし、やがて、その能力が専門家に匹敵する日も来るだろう。だからといって、ユーザー側が力量を問われなくなる、なんならユーザー側が主体性や責任性を手放せるようになるかと言ったら、そんなことはあるまい。むしろ逆だろう? AIが進歩すればするほど、人間の判断力やリテラシーがますます厳しく問われるようになり、主体性や責任性もますます厳しく問われるようになるだけだ。
 
AIというツールの下僕に成り下がるなら、こうしたことは考えなくて構わないのかもしれない。だがツールの使い手としてAIと対峙する限りにおいて、AIの進歩は人間にますます多くのことを要求するようになる。google検索が普及した時にも、SNSが普及した時にも言えたことだが、秀逸な情報ツールは人間の判断力やリテラシーや主体性を試す部分があり、げんに私たちは試されてきた。その結果、ある種の人々はgoogle検索にもSNSにも敗北し、乗っ取られ、たとえばだが、コピペ兵に成り下がってきた。
 
ますます賢くなったAIが遍在するようになった近未来社会において、私たちがAIの主人ではなくAIの下僕、またはコピペ兵に成り下がってしまう蓋然性は高い。そのとき私たちに問われるのは、AIの性能の良し悪し以上に、主体としての人間の力量や判断力、たぶん、リテラシーやメンタリティなども含めた総合力になるだろう。政治家が自分よりも専門分野に詳しいブレーンたちを使いこなせるかどうか問われるのと同じように、私たちは、知識や検索能力や出力性能で上回っているAIをうまく使いこなせるかどうか問われるようになる。
 
 

2.でも大半の人間がAIを使いこなせないとしたら?

 
しかし実際にはAIをチェックできる人ばかりではなく、それに頼るほかない人がいる、という指摘もある。
 


 
今、AIを使いこなせているつもりの人も、数年後には使いこなせなくなり、AIとの主従関係が逆転してしまうかもしれない。そうなったら、人間はAIの家畜になるのだろうか? 
 
「これは、人間の主体性の危機だ」と私なら思うが、そう思っていない人も多かろうし、AIに判断や主体性や責任性を投げてしまいたい人も少なくないだろう。そうした願望も含めて、すでに人間はAIというツールに負け始めている。
 
いや、これはAIに限ったことではないか。たくさんの人々が、google検索というツールにもSNSというツールにもインターネット環境というツールにも負け続けてきた。高度化する一方の情報化社会とそのツールは、すでに判断主体としての人間の能力を上回るほど複雑化・巨大化している。その、複雑化し過ぎて高度化しすぎてしまった情報環境に人間すべてがついていける・使いこなせると思うほうが間違っているのではないか。
 

アムロ「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる!」
シャア「ならば、今すぐ愚民どもすべてに英知を授けてみせろ!」
(『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』より)

 
私は、社会やテクノロジーの進歩が人間の能力を上回りはじめ、いよいよ人間がついていけなくなる様子について『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』という本にまとめたことがある。人間は、みずからの生物学的制約をこえて生きることはできない。ところが社会やテクノロジーはそうした人間側の事情などお構いなしに進歩していく。そうした、人間を凌駕しはじめた社会やテクノロジーによって私たちは大きな恩恵を受けている*1から進歩を否定し過ぎるわけにはいかない。しかし、その進歩についていけない人間がさまざまなかたちで表面化し、現代社会ならではの生きづらさをなしているのも、また事実だ。
 
私は精神科医だから、そうした個々の現代人の生きづらさを意識しがちだ。だが、社会の側から見るなら、この事態は社会やテクノロジーの進歩についていけていない構成員の増加、進歩し続ける情報化社会に妥当しない構成員の増加という風に捉えられる。それは社会自身にとっても本当は困ること、もっと言ってしまえば、社会の成立基盤を動揺させるような事態なんじゃないだろうか。
 
たとえばSNSという情報環境を思い出してみてもらいたい。人間はちゃんとSNSを使いこなせているだろうか? 使いこなせていない人も多いでしょう? 今日のSNSには、インフルエンサーやアジテーターに"ゴーストダビング"されてコピペ兵に成り下がる人なんていくらでもいるし、そうした人々が寄り集まってマスボリュームと影響力を持つことで新しい問題が起こるようになっている。
 
SNSという、本当は高度なリテラシーや判断力が期待されるツールが普及した一方で、人間側がそれについていけない事態が多発することで、SNSは便所の落書きで埋め尽くされたバベルの塔と化してしまった。これは、「進歩しつづける社会とテクノロジー」という観点から見て不十分にしか予測できていなかった事態であり、社会とテクノロジーの進歩に人間側がついていけないために生じた汚点だ。
 
こうしたことは、AIの普及に際しても起こるだろう、というかたぶん起こり始めている。それは、ユーザーそれぞれの社会適応上の問題であると同時に、進歩し続ける社会の側が人間側の制約によって足を引っ張られている事態、なんなら退歩に転じるかもしれない事態でもある。多くの人間がAIを使いこなせない事態は個人それぞれにとって生きづらいだけでなく、社会の側にとっても結構キツい状況であるはずで、問題意識をもって眺められるべきものじゃないだろうか。
 
 

3.社会と人間との間の約束事が果たされなくなったら

 
「それなら、せっかくAIが進歩し続けているのだからAIに判断を任せてしまえばいいじゃないか」、と考える人もいるかもしれない。ところが現代社会の建て付けとして、それはNGなんですよ。
 
たとえば民主主義や国民主権といった、まさに現代社会の建て付けに相当する概念を思い出していただきたい。
 
市民社会の市民や民主主義国の有権者は、どちらも自由意志に基づいて主体的に判断する個人であるべきで、それが統治システムの大前提となっている。判断の主体は、王侯貴族や独裁者であってはならないし、AIであってもいけないだろう。「個人が自由意志に基づいて主体的に判断する」とは、近代以降の社会の根幹にある、社会と人間の間の大事な約束事だ。
 
だから近代以降の市民社会において、個人は自由に判断することができると同時に、判断できる個人でなければならない
 
ところがテクノロジーや情報環境があまりにも進歩し過ぎた結果、「個人が自由意志に基づいて主体的に判断する」という社会と人間との間の約束事がだんだん怪しくなってきた。AIの性能がどんどん高くなって、そのAIに判断や主体性や責任性を委ねたいという声が高まってくれば、その約束事はいよいよ怪しくなり、実際、果たされなくもなるだろう。じゃ、社会と人間の間の約束事をやめてしまったらどうなるか?
 
そうなってしまったら、人間はもう判断の主体でなくなり、AIが判断の主体となる。人間の代わりにAIが判断し、主体性や責任性を引き受けることになる。判断しなくて済む、責任を引き受けなくて済む、というと気楽に聞こえるかもしれないが、そのとき人間は自由を剥奪されるだろう。
 
人間の自由と、人間が判断や主体性や責任を引き受けることは常に表裏一体である。後者を放擲して前者が保障される見込みはない。
 
AIの進歩に対する危機感にはいろいろなバリエーションがあろうけれども、私個人は、こういう人文学的な心配もあると思っている。というか、これってかなり重要な山ではないか? AIの進歩は止まらないし、社会の進歩も止まらない。それはまあいいだろう。しかし、社会の進歩についていけない個人が増え続け、社会と人間の間にあったはずの約束事が果たされなくなり、判断や主体性や責任性をAIに押し付け続ければ、やがて現代社会の建て付けが成立しなくなるだろう。そのとき、民主主義や国民主権といった社会の大前提が決壊する。
 
AIが社会を破壊するのに、『ターミネーター』に登場するような殺戮マシンは必要ない。ただ人間がAIについていけなくなり、AIに多くのことを委ねるようになり、委ねて構わないという気分が蔓延するだけで社会は破壊されるだろう。控えめに言っても、民主主義や国民主権に根差した社会は破壊されるし、そうなれば人間の権利は毀損され、たとえば日本国憲法の根っこにある考え方も成立困難になるだろう。
 
してみれば、市民社会を滅ぼす主犯人は、案外、「@ grok ファクトチェック」で済ませてしまうような怠惰さかもしれない。それはそれでSFっぽさのある未来かもしれない、と個人的には思う。でも、そんな怠惰な滅びを座して待っていたくないなら、もっと議論が必要だろう。
 
 

*1:たとえばこうして距離的制約を越えてメッセージを授受できるのは恩恵の最たるものだ

自分だけ若返ろうと思うより、後発世代に貢献したほうが「効率的」な気がしてきた

今週は中年シャリア・ブルについて続けて書いたが、以下がその続き、最後の文章になる。
 
私は最初の文章でで「若さがかけがえないのは語るまでもないことだが、皆で一緒に年を取っていくのも、それはそれでかけがえない」と書いた。エイジング、という現象は個人でみれば衰退が意識されようが、実際のエイジングは同級生全員、親子それぞれ、友人知人と一蓮托生で進む。中年以降にとって、エイジングは老化と限りなくイコールだが、下の世代まで含めて全員が加齢すると考える場合、子どもの成長をはじめ、老化以外のニュアンスを含まずにはいられない。
 
そのエイジングの歩みは世代それぞれによって異なり、たとえば1970年生まれと1990年生まれと2010年生まれがまったく同時に60歳になることはないし、下の世代が上の世代を追い抜いて年を取ることも決してない。
 
世の中には、世代という言葉を非常に毛嫌いする人がいる。けれどもエイジングの進行が世代によって異なり、たとえば16歳時点の境遇や体験は世代によってもかなり違う。たとえば16歳時点でコミュニケーションの主要手段としてもてはやされていたのが何だったのか──電話なのか、ポケベルなのか、写メールなのか、SNSなのか、等々──は世代によって異なり、16歳時点で世代内にかたちづくられた共通のカルチャー、共有する流行歌なども違う。年の差、というのはぬぐいがたくエスカレーター的だ。たとえ何億何十億とお金を稼ごうとも、還暦を迎えた人が40歳や20歳の立場に逆戻りできるわけではないし、平成20年の時点でできあがった感受性や記憶の人が、それを令和7年風に書き換えることもできない。
 
だから世代というエスカレーターのなかで私たちが生きている点に注目する場合、自分だけがしゃにむに若返ろうと考えてもあまり意味がない気がしてくる。もちろん、健康増進の観点からみれば、むやみに身体を老け込ませる理由はない。けれども後から生まれてきた世代よりも若々しくあろうとか、(たとえば)いつまでも40歳でいよう・いたいと願うのは、世代という社会的地層の内側にあってはナンセンスだ。たとえば私も、比較的老けていない60歳を目指すことなら可能かもしれないし有意味かもしれないが、60歳にならないで済ませる、70歳にならないで済ませることは決してできないし、目指すべきでもない。
 
また、短くなる一方の余命を考えに入れるなら、自分自身にこだわり過ぎることにもたいした意義はないのかもしれない。私も個人主義をそこそこ内面化しているから、無私になろうとか、無私になりたいと願うわけでもない。でも、私という生体ユニットの寿命がそれほど長くなく、私より若い世代がこれからもっと長く生きることを思うと、私自身にこだわること、こだわり過ぎることにどれほどの意味があるのか、わからなくなってくる。
 
意味。
そう、私がもし、意味のために生きているとしたら、私は今までどおりに私自身の欲求や活動に時間やお金やエネルギーを回すだけでなく、私よりも長く生きる人々に時間やお金やエネルギーを回すことのほうが、いわば、「効率的」ではないだろうか? とも思うことが増えた。私は我が身がかわいいので、引き続き私自身の欲求や活動にも時間やお金やエネルギーを回し続ける。けれども、私が意味のために生きたいのなら、その方法は私自身にこだわるだけでなく、これからの時間がある人々に何かを提供すること、何かを残すことのうちにもあるよう思う。でもって、それはエリクソンが中年期の発達課題として挙げた「生殖性 generativity」という概念にも合致しているように思う。
 

 
エリクソンがいう「生殖性」とは、中年期の発達課題で、「世話すること」というフレーズでまとめられることもある。自分自身の快楽や成長や達成にこだわるのでなく、上下の世代の面倒をみるとか、なんらか社会に貢献するとか、何かを授けるとか……とにかく、自分に固執しないで自分以外の誰かに資するような活動に入っていく、そういったものだ。エリクソンの言葉を杓子定規に解釈するなら、中年期を迎えてもそうした気持ちが芽生えてこないとしたら、その中年期は中年期ならではのアドバンテージが現れ出ない停滞したものになるという。
 
じゃあ中年は自分を捨てて、滅私奉公すべきなのか?
私のエリクソン理解では、そうではないと思う。
 
エリクソンの発達課題のモデルは、全体的に矛盾と折り合うことの積み重ねを重視していて、ある種の完璧主義とは一線を画している。たとえば生殖性についていえば、自分以外の誰かに資する活動に何もかも捧げてしまうようなライフスタイルが中年期の理想とは考えられない。むしろ、ある程度は自分以外の誰かに資する活動をやりながらも、生殖性っぽくない欲求、たとえば自分自身の欲や自己中心性を捨てきれず、でも、それらとも折り合いをつけて暮らしているぐらいが妥当な落としどころではないかと思う。エリクソンの古典『幼児期と社会』などを読む際には、こうした「折り合い」とか「矛盾の落としどころ」といったフレーズを時々思い出しておくのが大切です。
 
私自身の話に戻ると、私はこの「生殖性」の重要性について10年以上前から色々と言ってきたし、そのように生きようとしてきたけど、なんだかぎこちなくて、私自身の欲や自己中心性のほうがまだまだ大きく、腑に落ちた感じがしていなかった。世間一般の男性と比較して子育てに多くのリソースをなげうったつもりだけれど、それだって見よう見まねで「まず形から入ったもの」であって、私自身の自己中心性を説得して自己決定に至るにはそれなりの手間と知略を必要とした。
 
けれども生体ユニットとしての私自身が性能劣化し、他方で下の世代がどんどん成長し発展していくうちに、ああ、これこそが生殖性なのかなぁと思う場面が増えてきた。
 
アラフィフになった今、もし意味のために生きるなら、エリクソンの言った生殖性にあたるような、誰かを育てることや誰かを後押しすることや誰かに残すことのほうが、私自身にこだわるよりも有意味さが大きいように見えてきた。または「意味を生産する」という言い方をするなら、生産性や効率性が高いように思えてきた。かつての私には、それは理屈でしかなかった。でも今は実感を伴ったものに変わりつつある。
 
私自身の限界が次第に明らかになる一方で、子どもや後輩といった、後発世代の成長や躍進も明らかになってきた今、それなら私の残り時間をいくらかでも育てることや後押しすることや残すことに費やしたほうがいいのではないか、と思う頻度が増え、そのようにリソースを使うことへの抵抗感が減ってきていると感じる。
 
その、自分より若い世代にリソースを回すことへの抵抗感の減少こそが、私がやっと腑に落ちた(エリクソンのいう)生殖性なのかもしれない。
 
 

小さな祈りでしかないのだけど

とはいえ、実際には我が身はかわいいものだし劇的にライフスタイルが変わったわけでもない。日常の仕事、日常のタスクのなかにそれがはっきり現れているとも主張できない。ただ、年下の誰かと関わる時の心持ちに、何か変化が起こったとはつとに感じる。それは小さな祈りに過ぎないのかもしれないが。
 
でも、小さな祈りだからこそ、生殖性は、日常に宿り得るものだとも思う。日頃の診療や商売、モノづくりにも宿り得るだろう。大袈裟な献身や滅私奉公である必要はない。だからこそ、色々な立場の人にそれぞれの生殖性、それぞれの祈りごあっておかしくないとも思う。そうした心持ちの変化は、後発世代に何かを残し得るだろうか。いや、せめて後発世代の成長の邪魔をすることなく、その土壌を耕す肥料になり得るだろうか。そういうことを正面切って考える頻度が20代や30代の頃よりもはるかに高いわけだから、歳月が何かをもたらすのは間違いなく、そのもたらされたものを過小評価(過大評価もだが)すべきではないと思う。
 
 

シャリア・ブルが「イケオジ」じゃなくて「最年長の若者」に見える

  
www.gundam.info
 
テレビ版『ガンダムジークアクス』を、毎週楽しみにしている。
 
この年齢でアニメにかじりつく、ましてリアルタイムで見るのは結構キツいことで、でも、かけがえのない体験だ。火曜深夜はどうしても無理なので、水曜日の朝に早起きして強引に視聴する。私の場合、こうして早朝に眠い目をこすりながらガンダムを視聴するのは『ガンダムZZ』以来、約40年ぶりになる。
 
強制覚醒アニメとしてのジークアクスは、カフェイン飲料よりも効く。まるで『魔法少女まどか☆マギカ』の頃のように、正真正銘、アニメを正座して見ている。昔のガンダムを思い出させつつもそれに頼り過ぎず、新しい作品やキャラクターを一生懸命に追いかけたい気持ちも湧き上がる作品として、きれいに完走してくれることを願うばかりだ。
 
ところでこの文章は、昨日の話の続きだったりする。
ジークアクスに登場する、いわゆる大人ポジションっぽい人物たちは、実はかなり若い。アラフィフになってガンダムを眺めていると、つい、「みんな若いなー!未来あるなー!」と言いたくなる。まあ、2ちゃんねるの頃も「ランバラルは本当は若い」「ギレンやキシリアだって本当は若い」と言い合っていたわけだが、今は見た目よりも言動の若さを意識することが多い。
 
特にシャリア・ブルってさぁ……確かあんた、30代ぐらいですよね? 「今風のイケオジ」などとも言われるけれど、あんたって、まだ若いよねー! 作中ではマチュやニャアンの若さが際立っているし、エグザベ・オリベたちの上司という立場がシャリア・ブルをそう思わせるのかもしれないが、本当は彼だってかなり若い。サイド6のお偉いさんとして登場するカムラン・ブルームだって、旧作のミライ・ヤシマやブライト・ノアの年齢から想像するに若いはずだ。4話で登場したシイコも、母親となったとはいえ若そうに見えたし、若くなければあのようには行動できまい。
 
結局シイコは母親としてではなく、母親になる以前からのシイコとして行動した。すべてを手に入れたい──そういうのはアラフィフである私から見て無謀にしかみえないし、子どもを育てるにあたって、ほとんどの親はその不可能な執着を断念する*1。しかしシイコは断念せず、みずからの命を死地に曝し、あのような結末を迎えた。
 
マチュの母親は対照的だ。彼女の仕事と暮らしぶり、それからマチュの年齢から察するに、マチュの母親はおそらく40代、ひょっとしたら50代の可能性すらある。どうあれカムランやシャリア・ブルより年上だろうし、シイコよりもずっと範疇的だろうし、作中のいわゆる大人陣のなかでは最もはしゃいでいない。だからこそ、マチュには母親が退屈な世界の代弁者としてうつっているやもしれない。
 
……いやいや、そんな話がしたかったわけではなかった。とにかく、あの作品の登場人物のなかではマチュの母親がいちばん範疇的な大人の位置にあって、シャリア・ブルやその他の連中は実際にはたいして大人っぽくなく、なんだかはしゃいだ若者みたいな連中だよね、みたいなことを書いておきたかったのだった。
 
 

最年長の若者として眺めるシャリア・ブル

 
で、シャリア・ブル。

今作では軽薄になったというか若作りしたというか……見た目はおじさんっぽいけれども、なんだかフワフワした言動ですねえ。作品としては別にそれでいいし、そういう挙動をするシャリア・ブルから作品の今後を類推するのも楽しい。でも、あんた、中年の若い部類でなく若者の年老いた部類をやっていますよね? 繰り返すが、作品の都合とか色々を考えるに、それはぜんぜん構わないことだし今作のシャリア・ブルもそれはそれで好きだ。でも、この浮かれた中佐を「イケオジ」っていうのはなんか違いませんか。アラフィフから見たら、このシャリア・ブルってえ男、調子こいた最年長の若者っすよ……。
 
一年戦争後の人類圏では人手不足が想定されるので、たとえば現代日本などに比べれば、生存した20~30代が若いメンタリティのまま要職に就いていることは十分に考えられる。モビルスーツ乗りがわずか数年で市長として成功している、なんて逸話もその一端かもしれない。だから、この最年長の若者があのような立場にあること自体は、理解できる。
 
他方でシャリア・ブルはまだ若く、今作の場合、その若さが言動の端々にも現れているように思う。彼を、彼より若い場所から眺めると「イケオジ」とうつるかもしれないが、彼より年老いた場所から眺めるとそう見えない。年齢的にも作中立場から言っても、彼がこれから何事をなす人なのかはまだ確定しておらず、いずれ何者とみなされるのかも確定していない。マチュやニャアンほどではないかもしれないが、シャリア・ブルという人自身にも可能性は色々と残されている。
 
物語進行の都合として、それは好ましかろうし、赤いガンダムを追う立場とも合っているとも思う。しつこく繰り返すが、シャリア・ブルの最年長の若者っぽい挙動は作品にとってマイナスになるわけではなく、おそらくプラスになることとして計算されてもいるのだろう。
 
アニメという媒体、ひいては『ガンダム ジークアクス』という作品はユースカルチャーの作品で、若い視聴者層にリーチできなければならないから、アラフィフの身にシャリア・ブルがどう見えるのかは重要な問題ではあるまい。でも、作中では年上人物として扱われている彼や、他の幾人かの大人たちだって本当はまだ結構若く、不惑や知命といった境地にはほど遠いようにもみえるわけで、ひとつひとつの言動に出会うたび、私は若さにあてられたような気持ちになる。オープニングの曲のなかで、走り続けるマチュたちの最後尾にシャリア・ブルが混じっているのは至当なことだ。彼が本当の意味でイケオジになるのかどうか、そこにも注目しながら来週以降も楽しみに視聴します。
 
 

*1:断念しない親のもとで育った子どもは、ほとんどの場合苦労するだろう

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