1947年、昭和22年、つまり日本の敗戦から2年後の中国奥地。
船上で一夜を明かした翌朝、しばらく漕ぎ進んだ所で船頭の老百姓は河岸に小船をつけ、「ここから何里か奥に依蘭の街がある。ここが依蘭に一番近い船着き場だ」と教えてくれえた。とはいえ、そこは河岸の草むらに棒杭が打ち込まれているだけの場所で、船着き場とも思えず、あたりは一面の畑と野原であった。
船から見えるところに一軒の農家らしい泥土の家があり、煙突から煙が出ているのが見えた。すると船頭が、「あの家には日本人の女の人が住んでいる。行ってみたらどうか」と教えてくれた。
とても信じられなかったが、兄嫁の小夜子とふたり、半信半疑で行ってみると、電気も何もない土の家の中は暗く、声をかけると確かに女の人がいた。
「日本の方ですか」
「ええ、そうです」
あまりに暗くて、女性の年齢はよくわからなかった。
何でも敗戦の混乱時、中国人の農夫に助けられたのだという。その農夫の妻になったのか、どうやって今、暮らしているのか。私は聞くに聞けなかった。このような日本人女性が、どれくらいいたことだろう。こんなに寂しい場所で生きている姿は何とも哀れで、慰める言葉も見つからなかった。しかし、私たち自身も流浪の身で、何か言ってあげることも、何かしてあげることもできない。それが悲しかった。
これは夏の昼間でのこと。しかし読んでいる時は、なにか寒々しい夜の荒野の一軒家での話のように感じてしまった。現実の話というより、まるで昔の幽霊話でもあるかのような寂しさを、なんなら寂寞とか幽寂だとか、これまで使った事のない漢字で描写されるイメージを。実際には荒野というわけではないがともかく一軒家ではあったわけだし、そんなにところにただ一人住む敗戦国の日本人というのは確かに悲しく寂しかったのではないか。とはいえこの後、
「身体を大切に、お元気でね」と言って別れようとした時だった。「あっ、来た」と、その女性が嬉しそうな声を上げた。見ると、中国人の男性が小さな男の子と女の子を連れて、こちらに向かって来るところだった。
その女性が言うには、彼ら三人は依蘭の街から時々ここに通ってくるそうで、男性は中国人、子どもふたりは日本人で、日本語を忘れさせないように、男性が子どもふたりをここに連れてきては、女性と日本語で会話をさせているのだという。
ということなので、どういう人間関係がそこにはあったのだろうと思ってしまうわけだけど…異国の僻地に生きる敗戦国民というのは、何を頼りに生きればいいのか想像するだけで恐ろしくなる。しかし、なんとか生きていかなければいならない。そして、そもそも敗戦だの異国だのといった大きな言葉が絡まなくとも生きていく事は大変なのだということを突きつけてくるのが、満映こと満洲映画協会で働いていた映画編集者岸富美子が語る自身の生前から昭和28年に中国から引き上げてくるまでの日々を纏めたこの本*1。その人生が濃いし、辛い。岸さんが産まれる前、アメリカでの事業が上手く行かなくなった両親が日本に帰国、しかし日本で新しく始めた事業も上手く行かなくて満洲へ。その地で生まれたのが岸さんだが、病にかかっていた父親が生まれたばかりの岸さんに会いたいがため病院を退院して亡くなってしまう。それで一旦、母親が子供たちを連れて日本に帰ってくるのだが、そこからも苦労の連続。それも当時の事なので子供が多いのだが、その子供たちが次々亡くなっていく。このあたりの事が書かれている第1章は辛くて、もう読むの止めようかと思ってしまった。
第2章から岸さんの映画業界人生が始まる。昭和10年くらい、まだ14歳の岸さんが家計を助ける為に編集助手の仕事を始める。このあたり、色々面白くもあるのだが辛い事も起こり続ける。そして昭和14年、太平洋戦争の2年前、第二次世界大戦が始まった年に満映で働くために家族で満洲へ向かう事になる。この満映は日本による満洲支配の為のプロパガンダ組織として作られたものなのでその理事長に甘粕が赴任してきたりするのだが、同時に満映では女性や日本を追い出された左翼が活躍していたというのが面白い*2。新しい組織である為に、使える人間は使おうということだったのだろうか。またプロパガンダ組織として優遇されていたので、戦争が始まっても設備や資金の面で日本国内の映画会社よりずっと恵まれていたらしい。しかし、であるが故に日本の敗戦後、映画製作の為のその設備や人員をソ連や中国共産党に狙われることになる。敗戦となり現地にいた関東軍はすでに逃亡、満映はやってくるであろうソ連軍に対する徹底抗戦による玉砕を全社員に覚悟させたり*3、来ると思っていたソ連軍がなかなかやって来ないので今度は社員の家族へ朝鮮への疎開を命じたり。しかしその疎開も実行できないうちに、ソ連軍と対決しないままトップの甘粕が自殺。そしてようやくやってきたソ連軍に一時期は支配下に置かれたが、結局は中国共産党支配下に移る。だが共産党と国民党の内戦の為、満映の人員は満映があった長春からの移動を余儀なくされ、更には映画製作能力ゆえに目をつけられたはずの満映人員なのにその一部は「精簡」と呼ばれる人員の仕分けを受けてロシア国境近くへと何度も移動させられた上に、映画作りではない肉体労働への従事を要求される。岸さんの家族もこれに含まれていた。この精簡が相当にキツく亡くなる人も多く、人間関係を酷く捻じ曲げたらしい。そのため精簡を受けた人達は後年、日本に戻れてからもこの事に触れる事が少なかったという。
ただ最終的には中国共産党支配下ではあるものの映画製作の仕事に戻ることができ*4、中国の映画産業の育成に貢献する。共産党政府が関わった、中華人民共和国の誕生を記念して作られた映画第1作の「橋」など中華人民共和国の初期の映画製作には岸さんを含めた元満映の人員が不可欠だったわけだ。これらの映画は当然ながら共産党政府のプロパガンダ映画だったわけだけど、その事に岸さんは特に抵抗感などは抱かなかったらしい。満映での日本の為のプロパガンダ映画製作から中国共産党の為のプロパガンダ映画製作への変更はあれど、映画作りとして打ち込んでいたようだ。日本であれ中国共産党であれ、何々は素晴らしいよ!と称える、いわばポジティブさを打ち出すプロパガンダにはそういうものだと抵抗がなかったという事なのかな?しかし逆方向、つまり日本軍が行った蛮行を非難するタイプのものについては、日本軍がこんな事をするなんて信じられないとなったらしい。敗戦後、関東軍に見捨てられた経験をした後とはいえ、実戦が行われていたわけではない満洲の長春にいた人はそう思ったわけなのか。こうして彼ら元満映の日本人達は中華人民共和国での中国映画の出発を支えたわけだが、にも関わらず、というかその為にこれらの映画のクレジットでは本名の日本名ではなく仮名の中国名で載せられる。ただ21世紀に入ってから中国側から岸さんらの事が公開され、公式に感謝が行われる事になった。そういった事情はあったものの、とにかく安心できる環境での映画作りに従事できる事は喜びであったらしい。そして昭和28年、ようやく岸さんは日本へ帰国出来ることになった。しかし、本国だからといって人が自分の望む人生を送れるわけではない事を簡潔に書いてこの本は終わる。
*1:一応日本に帰ってからの事も書かれているが、本人は中国にいた8年間が自分の人生の全てと語っている程なので、帰国後の部分は非常に短い。更にその短い中ですら本人ではなく、その他の関係者の話が多い。
*2:日本最初の女性映画監督坂根田鶴子が、満映では何本も映画を監督することができたのに、戦後日本に帰国してからは監督になれずスクリプターとして働いていたという。
*3:岸さん含めた女子社員には青酸カリが配られたという。
*4:その前に北朝鮮側から映画製作に協力要請があり、実際に北朝鮮まで岸さんを含めた元満映の人員が北朝鮮まで行ったが、朝鮮戦争前の南北朝鮮対立激化の中で日本人に頼る事の是非が問題となり、結局中国に戻った事が書かれている。世の中、ほんといろいろ起こる。