5月14日、グランドプリンスホテル新高輪。
Jリーグ25周年を記念したイベントの控室に、”神様”は現れた。ブラジル代表史上に残るスーパースターにして、元日本代表監督、ジーコさんその人だ。
久保竜彦のことを取り上げたい。
そんな取材の趣旨を伝えると、深々とうなずいた。
しばらく考え込んだ後、「本当に、最後まで悩みました」と切り出す。
ちょうど12年前。同じ5月14日。
ドイツW杯の日本代表メンバー発表会見を翌日に控え、代表監督のジーコさんはなおも悩んでいた。
「あれだけの逸材を、世界に披露できなくなる。そんな結論を、自分で下さなければならなかった」
切なそうに、ため息をつく。
「大事な大会前にけが人が出て、チーム構想を練り直す必要に迫られる。そういう事態は、サッカーには付きもの。そう納得しようとしたけど、やはり残念だった。そして、あれから12年が経ちますが、いまだに残念に思います」
10日前。都内での取材対応時。
「ジーコさんの単独インタビューに同席してはどうか」。その申し出に目を輝かせた久保だったが、すぐに「いや、行かん」と首を振っていた。
「ジーコさん、オレのことなんか覚えてないやろ」
そんなことはありえないと説得されても、頑として受け付けない。
「仮に覚えてくれていたとしても、オレに会いたいと思うかは分からん。なのに一方的に押しかけるのは、ちゃうやろ」
てこでも動きそうにない。久保が広島に帰った後も、電話やメールでの説得は続いたが、応じることはなかった。
久保の「サプライズ登場」が未遂のまま、インタビュー取材は始まった。
ジーコさんは、最愛のストライカーとの「出会い」を振り返る。
「鹿島で現役を退いてからは、私は日本を離れる時間もあったので、Jリーグの選手を生で見る機会が減った時期もあります。そんな時に、鹿島で監督になったばかりのトニーニョ・セレーゾから連絡があった。『これはとんでもないFWだぞ、鹿島にもほしい』と」
それが、当時はまだ広島に在籍していた久保だった。
「それで代表監督になって、すぐに呼んでみたら、確かにすごかった。私の経験から言えば、まず左利きというだけでFWはかなり有利。DFは右利きのFWに慣れているから。加えてこれだけの身体能力、技術があれば、相手DFはどこで飛び込んだらいいか分からない」
15年以上も前の出会いについて、当時と変わらないであろう熱量で語る。
「何より、彼独特のリズムというのもある。これだけとんでもない左利きが出てくれば、相手の感覚は狂ってしまう。それだけの逸材ですから、私としては彼こそがドイツW杯のセンターFWだと考えていました」
日本代表の任期中だった当時も、ジーコさんは休暇でブラジルに帰ることはあった。母国でも英雄。休みの間も、地元メディアからの取材依頼は絶えなかった。
ブラジルの記者に、ジーコさんはこう言ったという。
「日本を見くびっちゃいけない。その理由は、タツヒコ・クボを見てもらえば分かる」
切り札は、秘密のままにしておいた方がいいという考えもある。しかし、掌中の珠があまりに美しく、放つ光も強いとなれば、他人に誇りたくなるのも人情というものかもしれない。
そして、世界的なスターだったジーコさんにそう思わせたというのが、ストライカー久保のすごさである。
「どんな相手との試合で起用しても、彼は飛び抜けたプレーをした。たとえ世界トップクラスのチェコ代表が相手だろうが、個で打開してゴールを決めてしまう。まさに逸材。それだけに、腰や足首に問題が生じたのは、ものすごく残念だった」
やれるのか?
代表合宿に呼んでは、本人を自室に招いて、話をした。
「最後は試合後のピッチサイドで話をしたと思う。率直なところどうなんだ、と。彼は『難しいかもしれない』と答えた。これは厳しいと感じたが、それでも私は諦めきれなかった。最後まで『本大会でプレーできる可能性があるなら、ドイツに連れて行きたい』と主張させてもらった」
メディカルスタッフとも、議論を重ねた。最後は「選手生命にかかわる」と制止され、諦めるしかなくなったという。
「彼のその後の人生に関わってしまうとまで言われれば、無理を通すことはできませんでした。23人の中で、私が最後に選んだのは、センターFWの巻。つまり、ギリギリまでタツを呼ぶかどうかを迷ったということです」
深く、ため息をつく。失ったものは大きかった。それでもジーコさんは「彼がいればW杯で我々は勝てたかも」とは言わない。他のメンバーも信頼していた。
純粋に、日本が誇る「才能」を、世界に披露したかった。
当時の失意がよみがえったようだった。
なんとなく、誰も口を開かなかった。
その静寂を、不意にドアの開く音が破った。
そして、ペタペタという足音が続く。
怪訝(けげん)そうに、ジーコさんが音のする方を見やる。
その目が、大きく見開かれた。
黒いジャージに、ビーチサンダル。部屋に入ってきたのは、久保竜彦その人だった。
「ご無沙汰してます。…ええすかね?」
ジーコさんのインタビュー当日、午前9時。セッティングに関わっていたJリーグ広報部スタッフにメールが届いた。
「タツです。やっぱり行こうと思います」
スタッフは、思わず天を仰いだ。
しかし、2人を会わせられるならと、すぐに気持ちを切り替えた。
飛行機嫌いの久保のために、新幹線の時刻表をチェック。午後3時開始のインタビューの時間中に、なんとか間に合うかもしれない。
メールに経路を書き込む。そこで以前、大事な会合と伝えたところ、「ビーサンでは失礼やから」とサッカー用のスパイクを履いて現れたことを思い出した。久保の履物はスパイクとビーチサンダルの2種類のみ。都市伝説ではない。
「今回はジャージとビーサンで構わない」と付け加えて、メールをまとめた。間に合ってほしい。願いを込めて、送信ボタンを押す。
タツ!いったいどうしたんだ!
迷ったんですけどね、来るかどうか。覚えていてくれてるかも分からんかったし。
誰が忘れるというんだ!(笑い)
ジーコさんは破顔し、握手した手を何度も振った。久保は照れたように笑い、小さくうなずいている。
元気にしているのか?サッカーは?
今は子どもたちを教えています。
そうか!現役はいくつまでやったんだ?
おかげさまで、36までやれました。
そうか!痛みは再発しなかったのか?
あれからしばらくは出てたんですけど、いろいろ試していたのが良かったみたいで、30過ぎたらピタッと治まりました。
それは良かった!
あの時良くなっていれば、もっと良かったんですけど…。
ジーコさんはゆっくりと、小さくうなずく。
ドイツW杯は、私個人はもちろんだけど、日本にとって残念だったんじゃないかと思う。タツがいたら、国民はW杯をどれだけ楽しめたか。
テーブルに置かれたタブレットが、オマーン戦の久保の得点シーンを映し出す。
これは忘れられないゴールだ。私たちを救ってくれた得点だったから。チェコ相手に決めた得点も素晴らしかったけど、日本代表をW杯に導いたという点では、こちらの方が重要だったかもしれない。
これはジーコさんが教えてくれんかったら、打てなかったシュート。どかんと蹴るだけだった自分にはなかった選択肢です。
懐かしいな、シュート練習!「(日本語で)キーパー、チャントミテー!」って、何度叫んだことか(笑い)
傍らで通訳の鈴木國弘さんも、懐かしそうに言う。
日本語だったけど、一応、オレもジーコと一緒に「ミテー」って言ってた。人生であんなにひとつの単語を叫び続けることってないよね(笑い)
インタビューの場が、笑いに包まれる。その輪の中で、久保が遠い目をする。
まだJリーグが開幕してない1991年に、住友金属工業蹴球団(鹿島の前身)が佐賀に試合に来たことがあった。オレはどうしても生のジーコさんを見たくて、福岡から2時間近くチャリンコこいで、会場に行ったんですよ。チケットとか持ってなかったけど、いても立ってもいられなかった。
おお、そうだったのか!
そんな憧れの人が、シュート練習に付き合ってくれたり、丁寧に教えてくれたりしたこと、本当に忘れられないです。ジーコさんとの出会いが、オレの人生を変えてくれた。だから、今度は親として、子どもにいい出会いを準備してあげたいなと思っているんです。
久保の並外れた運動能力は、子どもにも受け継がれている。
次女は14歳以下のテニス日本代表に名を連ね、年代別の世界大会でベスト8に入った実績を持つ。スペイン、フランス、ドイツ、チェコなど各国のコーチから「うちに来なさい」と誘いも受けている。
自分から好きにならないと、実にならない。そう考える久保は、テニスを始めろとも、続けろとも言ったことがない。ただ、熱心に取り組み出したころから、久保なりの「応援」をしていた。
まず、あごを鍛えさせた。おやつとして硬い干し肉やせんべいなどを与え続けた。歯の矯正もさせた。
久保は幼少時、父親から「お前はあごが細いし、歯並びも悪いから、野球をやってもサッカーをやっても、きっとケガをする」と予言されていた。その言葉通り、腰や足首のケガに泣き、W杯出場の夢も断たれた。
だから、娘には同じ轍(てつ)は踏ませまいとした。ドイツW杯直前、腰や足首を見てもらった理学療法士の元にも早くから通わせ、ケガの予防もはかった。W杯出場を阻んだケガと引き換えに、久保はその道のスペシャリストたちとの人脈を得ていた。
そして何より、偉大なアスリートとの出会いの場をつくることに奔走した。元サッカー日本女子代表の澤穂希。プロ車いすテニス選手の国枝慎吾。世界の頂点に立った第一人者たちに頭を下げ、娘を会わせに行った。
澤さんの練習を、娘はウオームアップからじーっと見ていました。やっぱり足の踏み込みがすごいって、何度も言うてましたね。そこを注意して見ろ、なんて教えたわけじゃないんですけど。
ほう。
国枝さんがラリーの中で、車いすごと吹っ飛んで、それでもすぐ立ち上がって球を打ち返す様子にも、胸を打たれた様子でした。そこからテニスの淡泊さ、なくなりましたからね。打ち合いで粘れるようになった。
娘さんが自分で気付いたということだな。
はい。それが一番いい教育なんかなと。そして、それをオレに教えてくださったのは、ジーコさんです。
目を細めて、ジーコさんがうなずく。
私も、タツと一緒に仕事ができたことを、今も誇りに思っているよ。鈴木さんは私の通訳でありながら、タツの大ファンだったから、2人きりになると「私にとって世界で一番のFWはジーコだけど、2番目はタツです」とよく言ってきた。
そうしたらジーコに「私はFWじゃないぞ。つまり、世界一のFWはタツってことだな」と返されました(笑い)
タツ、君は特別だった。違う世界のストライカーだった。
インタビューも、終わりの刻限になった。
2人は立ち上がり、もう一度握手をした。
どうか、身体には気を付けて。第二の人生が充実したものになることを期待しています。そして今度は娘さんについても、世界8位じゃなく、1位の報告をしてほしいな!
はい!ぜひ!
そうなったら、私はブラジル中に言って回るよ。「彼女は、オレの最高のセンターFWの娘なんだ」ってね。
久保が、感極まったような表情を見せる。
本当に…ありがとうございます。ジーコさんも、お元気で。
ホテルのエントランス。
余韻に浸るように無言だった久保が、ポツリと言った。
「来て良かったわ。ホンマ、ありがとう」
無精ひげの口元を、きゅっと引き締めて、遠くを見据える。
「W杯に出られんかったのは残念やったけど、ジーコさんと一緒にサッカーができたのは、本当に良かった。あらためて、そう思うよ」
手を振って、くるりときびすを返した。
久保竜彦に、W杯での出場記録はない。
しかし、W杯出場という夢を追い続けたからこそ、記憶に残るストライカーになった。
たとえ世界的な強豪が相手でも、肩を怒らせた背中が小さくなることはなかった。その姿に、日本中のファンが、そしてジーコさんが夢を抱いた。
そんな背中が、品川駅前交差点の雑踏に、静かに消えていった。
(取材協力=Jリーグ広報部、鹿島アントラーズ 取材・文=塩畑大輔 撮影=松本洸 編集=LINE NEWS編集部)
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