富士子編 63 喰らう
シーン63 喰らう
バスルームのドアを開けた富士子はふかふかとした大判のバスタオルで身体を拭き、バスタオルを身体に巻いて、着替えとして用意されていたスポーツアンダーウエアの上下を両手で取り上げる。どちらも密封梱包して販売されている物だった。
着用する人しか直に手を触れない物を選んだ宗弥の心遣いと、自分に対して変わらない高潔さを思う。
どうして、宗弥ではなかったのだろう。律然として思う。私は愚かだ。その嘆きが矢となって富士子の傷心に刺る。もう、嫌だ。今日はやめよう。
違う。この先も・・この矢は私に刺さり続け、時が経ても私は傷を負い、気付かないフリは出来るようになるけれど無感覚にはなれず、空を見ては思い出し、季節が変わっても時に泣き、いい経験だったと笑っていても傷は傷であり続け、失くしたものを自虐的にあれこれと考えては、こうしておけば、ああ話していたら、泣いてすがって請ていたら、自尊心に負けていたらと、私はいつまでも、いつまでも、あの人を望郷するのだろうと理解した。
洗い立ての髪から普段と変わらないシャンプーとコンディショナーの香りがする。洗面台の上にあるミニサイズの基礎化粧品も普段使っているものだ。
ごめんね、宗弥。
私、馬鹿だよね。
湯船で散々流した涙が、また溢れる。鏡に写った腫れた目の縁に真紅があった。不憫が匂う色。哀れを感じさせる色、知らなかった痛みの色。琴線の細糸が震え出す。ハンドタオルを顔に押し付けてほろほろと泣く。
身支度を整えて新しいバスタオルで頭をすっぽりと覆う。髪をゴシゴシと乱暴に時間をかけて拭く。そして涙が枯れるのを待つ。
バスタオルを頭に被ったまま、富士子はプライベートルームから出た。
窓辺には丸テーブルと、その両サイドに一脚ずつ椅子が置いてあった。ベットから遠い方の椅子に座って、電話をしていた宗弥が視線を上げる。ドアを開けて出て来た富士子を見た宗弥はどうした⁇ なんでバスタオルかぶってる⁇ と思いつつ「はい。わかりました。はい。俺がついてます。承知しました。 おじさん、詳細をメッセージします。はい。心配はいりません。失礼します」と言って、左手の親指を画面に滑らせて電話を切った。
スマホをテーブルの上に置いた宗弥は「心配してると思って、おじさんに電話したんだ」と言い、富士子は「ありがとう」ポツリと返す。宗弥はニッと富士子に笑いかけ「もうすぐ、ファイターがルームサービスを届てくれる。楽しみにしていろ」歯切れ良く話題を変えた。宗弥は病室から飛び出す富士子を監視カメラ越しに見ていた。富士子がこれ以上痛まないようにする。
富士子はベットに上がりながら「宗弥、食欲ないんだけど、このまま寝ちゃダメ?」と言い、枕元の上掛けをはいで横座りすると、膝に掛けた上掛けの内で両足を伸ばした。
「食べなきゃダメだ。気力が落ち込んでいる時は特にそうだ」宗弥は若干、強く、叱るように言って立ち上がり、ベットに右手をついて、バスタオルが覆う富士子の顔を覗き込む。富士子の表情を見た宗弥は「なんか聞きたいか?」と普通に言う。
富士子が何も言わないままでいると、宗弥はバスタオルを左手で掴み取った。「やめて、返して」顔を上げずに言った富士子に、宗弥は「何があっても堂々としていろ。それが俺の富士子だ。聞きたいことはないのか?」と明快に聞く。
うなずいた富士子は「わかった」と言い、幾分、時間をかけて顔を上げ「宗弥もチームの、チーム?なんて呼ぶの⁈仲間?組?なんていうか、その一員なの?」と聞く。「ああ、一員だよ。チームでいい」椅子に腰掛けながらそう答えた宗弥に、富士子は問うように右眉を上げる。
座った宗弥はバスタオルを向いの椅子に投げ、「それがなんだ?」と言うとテーブルの上にあるスマホを左手で取りあげ、手のひらの上で手持ち無沙汰げに、指先を使ってくるくると回し始めた。
その仕草を見た富士子は「尾長さんも宗弥も、どうして、そうやってスマホを回すの?」と聞く。
宗弥は富士子が要の名前を口にした事に驚き、「なに、その顔 ?」と富士子に言われ、「いや、お前、意外と強いなと思って、ごめん」まだ、俺の知らない富士子がいた・・複雑だからな、女は・・・女⁈・・ああ、そうだ。富士子は俺の女だ。俺の初恋で、今も恋焦がれてる女で、その女が、俺の親友に失恋した。
失礼な話だ。俺の女を泣かせやがって・・・憎々しく、宗弥は「無礼な奴」と呟く。
富士子がキョトンとする。宗弥はその顔を見て「違う。お前のことじゃない。俺もあいつも右利きで、俺たちの非常時に右手にあるのは銃だ。大概そうなった時は銃で何かを狙ってる。だから左手でスマホを取り扱えた方が安全なんだ」と説明した。富士子はベトつかない声で、びっくりするようなことを平凡に言う宗弥に、妙な納得のさせられ方をしたと思う。
宗弥が「お前さ、」と言った時、隣部屋のドアが5回続けてノックされ、3拍置いててトン・トンと打たれたのを聞いた宗弥は「 おっ!ルームサービスだ、富士子」飛びきりの笑顔で立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
ドアの右側に立ち、覗きミラーを左手の人差し指で塞いだ宗弥はしばらく気配を伺っていたが、薄くドアを開けて左右を確認してから大きく開け、廊下に置いてあったルームサービスの盆を取り上げる。
ウキウキしながら富士子の部屋に戻り、宗弥はテーブルにのせた盆から自分のメニューをテーブルに移し、盆ごとベットに座る富士子の前に置く。
「ふふん」と言った宗弥に、「ありがとう」と言いながら富士子が見た盆の上には、豚骨ラーメンとチャーハンがのっていた。
「こんなに食べ切れない」と言った途端に、富士子のお腹がグッグッと鳴って、その音を聞いた宗弥は「おお!いい音だ。富士子」と笑い「食べよう、富士子」と言って椅子に座る。
豚骨ラーメンの椀とチャーハン皿に丹念に掛かったサランラップを、宗弥は器用な指先で簡単にはがしてゆき、手を合わせ「いただきます」と言うと、富士子が高校生以来、見たことが無かったガッつき方でラーメンに噛みつき、大きく頬を膨らませた。
サランラップを剥ぐのに苦戦しながらの富士子が「宗弥、成長期の食べ方だね」と言うと、 麺を飲み込んだ宗弥は「富士子、今日はいろいろありすぎだ。こういう日は本能の赴くままに食った方がいい。お前も一生に一度くらい、本能で飯を食ってみろ。美味いぞ」とBIGに笑う。
“食べる“と聞いた富士子は浮子の懐かしいフレンチトーストに始まり、甘い甘い恋のチョコレートケーキに終わった今日という日を思い出す。
心が、ジュクンとする。
その胸中を思い切り無視して富士子は歯切れ良く「わかった」 と言い、お盆の両サイドをそれぞれの手で持ち上げ、上掛けの内で胡座を組み、お盆を胡座の上に戻して、左手首にある髪ゴムを右手の指先で取り、ザクザクっと髪をまとめてお団子にした。
前屈みになり、富士子が世界で一番野蛮だと思う食べ方で、ズズズっと音を立てて麺を頬張てやる。
麺は細めんながらもお出しをしっかりと捕まえていて、コクのある甘味を含んだ塩味が口の中にパッーと広がって満たされた。富士子の脳は味という味覚に、ほだされて泣けてくる。
宗弥は富士子のブサイクに崩れてゆく顔を見てもからかわず、宗弥は宗弥でラーメンに箸を突っ込み、麺を掬い上げて口に入れ、左手で掴んだレンゲをチャーハンの中に勢いよく突っ込んで、チャーハンが皿から飛び出すのも気に留めず、てんこ盛りになってポロポロと飯粒や具が落ちるレンゲを、ラーメンがまだ残っている口の中に入れて乱暴に咀嚼する。
それを見た富士子もマネて、同じように左手でレンゲを掴み、チャーハンを掬い、口の中に入れて噛んで、噛んで、噛んで、飲み込んだ。
そうしたらまた泣けてきて、笑っていないと思ったら、また泣けてきて、結局、富士子は笑いながら泣くを繰り返して、終始、顔はブサイクで、それでも富士子は本能で食べ続け、どんどんしょっぱくなっていく豚骨ラーメンとチャーハンを、ワイルドに口の中に運んで食べ続けた。
宗弥も泣き笑いしながら食べる富士子を、食べて、食べて、食べることで放っておく。