富士子編 46 イジになる
シーン46 イジになる
お茶を出し終えたら帰ろうと思っていた。だが、父の前に両手を添えて、輝く月が漆黒の宙に浮いた紋様の湯呑みをおくと、父は前置きなしに「待っていなさい」と言った。私はハタと父の顔を見たが気づいたはずの父はそれ以上は何も言わず、「はい」と返事を返した。
藍色の濃淡で白樺のハート型の葉が、惜しみなく描かれた来客用茶器がのる茶托を、尾長さんの前に置いて「どうぞ」と言った声は掠れていて、か細く、自分を残念に思った。
「ありがとう」砕けた口調の尾長さんが頭を下げる。「いいえ」今度は夕顔の花のように静かな声で言えた。よかったと思いながら、今日も定位置の椅子に座る。綺麗な新緑色のお茶を入れる事もできた。浮子、ありがとう。どういう顔で飲むかな?見たいけど、尾長さんは父と向き合っていて、あの広い背中しか見ることができない。ちょっぴり残念だと控えめに考える。
今日に限って父はなぜ、先に浮子を帰宅させたのだろう。普段は逆だ。私を先に帰す。合点がいかない。お茶を飲み始めた父を見る。一口飲んで「うん、美味しい。浮子の入れるお茶と似ている」珍しく感想を口に出してうなずいた。ホッとして「ありがとうございます」と頭を下げる。身体を起こしながら、尾長さんの背中を見る。お茶を飲んで、息を緩めたのがわかった。やった!
口角が自然と上がる。心が和む。が、父と目が会った。何事もなかったと装って、左隣のチェアーに置いた“ 蜂蜜と遠雷“ を手に取って読み始める。が、一向に文章が奏でるピアノの音が聴こえてこない。しかも、同じ行に目がいったりもする。内心うんざりとしたが、本を読んでいなければ目の置き所に困る。
散漫な集中力に諦め半分の富士子は、それでも忍耐力をかき集めて本にしがみつく。