富士子編 41 スマホ紛失
シーン41 スマホ紛失
富士子のオフィスのデスク正面と右側の壁に設えてある黒板に、スペースを惜しむように書かれていた液体デイバイスに関する記号、数式、工程、レシピに関するヒントのあれこれは綺麗に消され、水拭きされて深緑一色になっていた。
絨毯の上に放射線状に広げてあった紙資料も、デスクの右端にまとめてある。その資料には補足が書き込んであったり、他の資料を添えてクリップ留めしてあったり、角が欠けていたり、クニャクニャと劣化していたりして、高さが元の3倍以上になっていた。
富士子は窓辺をウロウロと歩きながら、内線電話を使って浮子と話をしていた。
「そうなのよ、浮子、スマホが無いの。管理保管室に入ってから気づいたの。家に忘れていなかったかしら? えっ、そうなの!」富士子が絶望の声を上げる。なお富士子は「私の自室は⁈ そう 、洗濯物の中には? そうよね…、浮子がポケットを確認しないで洗濯するわけが無いわよね、ごめんなさい。確かに浮子の言う通り、私の確認不足だわ。えっ?ああ、今日は早めに切り上がるつもりよ、西浜先生との打ち合わせは16時30分からでよかったわよね。わかったわ。じゃあ後で、あっ、浮子が会社に来るのは15時45分でいいのよね。ありがとう」と言って受話器をおいた。
富士子は思い経って、デスクの上にある資料を絨毯の上に2回に分けて運び、机の上にのっているものを、固定電話と手元を照らすライトだけにする。特にスマホがなくても日常生活に支障なかった。だが、無ければないで落ち着かない。
椅子に置いてあるステラ マッカトーニー・ブラックトートバッグの横に立ち、まずは内側ポケットを右手で探ってみる。二度目だった。無いとわかって、さっき確認した時よりも落胆する。
トートバック中を見直し始める。内張りが黒のバックスキーンだから、黒のスマホカバーが同化して見つかり難いのだという、考えに縋ってバックの中を漁る。
保管室でもバックの中を見た。大体、個人電子端末を持ったまま、セキュリティゲートは抜けられるはずがない。わかってる。それでもカバンの中身を出して確認しなければ気が済まない。バックを右手で取り上げてオフィスチェアーに座り、バックを膝の上に置き直して、バックの中身をデスクの左端から並べていく。
CHANELのクランチバック、ハンカチ、フラットシューズ用のオレンジ色のケース、青いエナメルの長方形の筆入れ、スマホの充電器とPCの充電器が入った黒のポーチ、折り畳み式・小型卓上ライトが入ったエメラルドグリーンのケース、普段は口紅、コンパクト、 ハンドクリーム、目薬が入れているが、今日は空の真紅のポーチ、バックに入っている全てを出してみるがスマホは無かった。不安が大きくなる。
昨日、使ったままのクランチバックの中を見る。
見当たらない。
サイドにある仕切りにスマホが入るスペースはないわと思いつつも、両手で大きく広げてみる。電子マネーカードが見えた。ゆっくりと右手の人差し指と親指を差し入れて、カードを引き抜いて目の前にかざす。
心にさざなみを立てる男からのプレゼント。
オズオズと呟いて「好きなの?」と自分に聞いてみる。
口に出して初めて気づく。
その言葉は、苦く、悩ましいと。
けれど、その一言は甘露のように甘く、淡いと知る。
想いにふけっていると、ノックのないままにドアが開いた。
入室してきたBは左手にノンカフェ、右手にiPadを持ち、悪びた様子なくスタスタとデスクに歩み寄って、富士子にノンカフェを差し出し「研究所に来てもらえますか!」と大きな声で言った。富士子はその言い方に驚いてBを見るなり、何故か、反射的にノンカフェを受け取ってしまった。
立ち上がってBの感情のない目に視線を合わせた富士子は「ノンカフェ ありがとう。Bさん、前にも言いましたが、ノックをお願いします」不快さが滲む声になって内心で後悔する。
案の定、Bの瞳孔は見る見る間に拡大してゆく。
その目を見た富士子が「 何かあったんですか?」と平坦に聞くが、Bは何も言わず、しばらく三白眼の目でジィーっと富士子を見ていたが「とにかく、研究室へお願いします」と言いつつ踵を返した。「ちょっと待って」と言いながら富士子はチェアに座り、デスクの上にあるシューズケースを左手で取り上げ、脱いだハイヒールを窓辺に揃えて置くと、シューズに履き替え始めた。
それを見たBが「どうしたの?!」と珍しく人に興味を持って聞く。「研究に集中するためよ」富士子は無意識に答えていた。
「へぇー、そうなんだ。黒板も綺麗になってるし、完全体の完成間近なんだね。私もね、見つけたんだよ。突然変異種をね」口元をニヤっとさせたBは、自慢げに富士子の表情を探るように見る。
密かに分析していた特異的な抗体が・・・Bに見つかってしまった。富士子の心臓がドキリと跳ねる。