フリースブームを巻き起こし、急拡大したユニクロ。ブーム終焉(しゅうえん)後の低迷期を迎え、再建に立ち向かったのが後継社長・玉塚元一(現ロッテホールディングス社長)だった。だが、その奮闘の結末は……。ノンフィクション『ユニクロ』(杉本貴司著)より抜粋・再構成し、柳井と玉塚の「師弟のドラマ」を紹介する。(文中敬称略)
「なんで澤田さんだけが……」
2002年5月に開かれた緊急役員会。駐在先のロンドンから駆けつけた玉塚元一は耳を疑った。自分をユニクロに引っ張ってきた張本人であり、20代の頃から兄貴分と慕ってきた澤田貴司が経営不振の責任を取って副社長を退任するという。
何も知らされていなかった玉塚はその場で激高した。思えば、柳井の目の前でこれほど怒りをあらわにしたのは、後にも先にもこの時だけだろう。
「おかしいじゃないですか。なんでこんなことになるんですか。こうなったのはここにいる俺たち全員のせいでしょ。それなのになんで澤田さんだけが……。澤田さんだけが責任を取るって、どういうことですか! 俺にはこんなの、到底納得できないですよ!」
一同が黙りこくる。時間が止まったかのような張り詰めた空気を破ったのは、澤田の一喝だった。視線を玉塚に向けると、大声でまくし立てた。
「おいゲン! お前、いいかげんにしろよ!」
玉塚が「澤田さん、ここで諦めちゃダメですよ。もう一回、一緒にやりましょうよ」と語りかけても澤田はうつむいたまま。ひと言だけつぶやいた。
「もういいんだ。もう、決めたことだから」
すると柳井から「澤田君、玉塚君。二人とも社長室に来てくれ」と声をかけられた。社長室に入ると、その場で告げられたのが玉塚への社長打診だった。澤田からも「お前しかいないから」と促される。
実は澤田は二度にわたって柳井から社長就任を打診されたが固辞していた。代わりに白羽の矢が立ったのが玉塚だった。まったくの予想外の展開で、心の準備ができていなかったという玉塚。
「ええ、分かりました」
勢いでこう答えたことで、柳井の後継として社長に就任することが決まった。この時、39歳。
立て直しの日々
当時、ユニクロは試練の時を迎えていた。1998年に原宿に出店して東京都心に進出する際に始まったのが「フリースブーム」だった。澤田の発案だが、これでユニクロは勢いに乗り、わずか2年で売上高は4倍に急拡大した。だが、その後に待っていたのがブームの終焉だった。
社長就任が決まった玉塚はロンドンを後にして日本に帰国した。週末にぶらりと訪れたのがユニクロ躍進のきっかけとなった原宿店だった。日曜日の午後3時ごろ。1週間の中でも買い物客の入りがピークになる時間帯だ。ところが、店に入ると不思議な錯覚を覚えた。
(あれ、開店前? そんなわけねぇよな……)
店内に人はほとんどおらず、音がしたかと思えば店のスタッフだった。きれいに並べられた服が、人の手が届かない高さにまで積み上げられている。その棚に手を伸ばす人はいない。視線を入り口の方に戻すと、ガラス張りの店の外を慌ただしく行き交う人が見える。その人の波が素通りしていく。店の扉が開くことはない。
ここから立て直しの日々が始まる。まずは愚直に現場を回り、店長やスタッフの声を聞くことから経営再建の緒に就いた。もちろん顧客の声が第一だ。ある時のこと。顧客を一室に招いてユニクロの不満をぶちまけてもらう。その様子を、玉塚を筆頭とするユニクロの役員陣がマジックミラー越しの隣室で聞き耳を立てる。そうやってユニクロが突きつけられた課題と向き合っていく。
場末のまんじゅう屋の教え
こんな改革に着手した玉塚だが、当初は柳井が採用を反対したほど評価が低かった。「彼はおぼっちゃんだろ」。祖父が証券会社を開業し資産家だったこともその理由だったのかもしれないが、柳井にとっての第一印象も悪かった。
旭硝子(現AGC)から日本IBMに転じていた玉塚に、声をかけたのが兄貴分の澤田だった。「うちがITシステムを刷新しようとしているからプレゼンに来いよ」と言われて駆けつけたのだが、その時のプレゼンが稚拙だったことを今も玉塚は反省しているという。
「しっかり準備したつもりですが、なめていました。今思い出しても恥ずかしい。上っ面のプレゼンです」
これに激怒した澤田が「お前はこの先、どうしたいんだ」と問い詰めると、玉塚から「俺は将来、経営者になりたいんです」と返ってきた。
「だったらタマさぁ、うちに来いよ」
澤田によると、それなら柳井の下で働いてみるのが近道だという。こうして澤田に導かれるように、玉塚はユニクロに転じたのだがこの時、柳井から聞かされた話は今も忘れ得ない。柳井にも経営者になる目標を打ち明けたのだが、すると柳井からはこんな言葉が返ってきた。
「いいですか。MBAで習うようなことも大事かもしれない。でも、商売なんていうのはMBAで習う理論だけでできるようなもんじゃないんですよ」
そう言って柳井はこう続けた。
「例えば、これは場末だなっていう場所にまんじゅう屋を開くじゃないですか。ところが、待てど暮らせどお客は来ない。そうなると考えるわけです。やっぱりもっと値段を下げるべきなのかな、看板が小さくて気づいてもらえないのかな……、ってね」
「そこでチラシをまいたらポツポツとお客は来る。でも、誰も買ってくれない。そうしている間にも従業員には給料を払わなくちゃならない。お金はどんどん減っていく。そうするとねぇ……、『このままじゃ倒産する』と思って胃がキリキリと痛むんですよ。経営者というのは、それでも考え続けるんです」
「いいですか。そういう経験をしないと絶対に経営者になれません」
「普通の会社にしてほしくなかった」
それから4年以上がたちユニクロの再建に奔走する玉塚は、まさに胃がキリキリと痛むような毎日と直面することになる。客が消えた原宿店は、まさに柳井が言った場末のまんじゅう屋そのものだった。
結果は悪くなかったはずだ。玉塚はブームの終焉で落ち込んだ売上高を、3年かけてブームの絶頂期に近づけるまでに回復させてみせた。だが、柳井にはもの足りない。後にこう回想している。
「ユニクロを普通の会社にしてほしくなかった」
こうして柳井は玉塚に提案する。「一緒に降格してくれ。もう一回、一緒に経営を学び直そう」。柳井自身が会長から社長に、玉塚は社長から海外事業担当役員にするという。つまり、柳井の社長復帰だ。
世間はそれを「更迭」と捉えた。玉塚はこれを固辞した。わずか3年の「柳井の後継者」は、こうしてユニクロを去った。
後日談がある。玉塚はその後、兄貴分の澤田と企業再生ファンドを立ち上げ、ローソン社長に転じた。その直後のことだ。玉塚は柳井のもとを訪れ、「今度、うちのマネジメントオーナーの会合で講演いただけないでしょうか」と頼み込んだ。話は柳井によるローソン経営論に逸(そ)れたが、最後にこう断言した。「そんなの君に頼まれちゃ、断れるわけがないだろ」
こうして柳井を特別講師に招いて開かれたローソンの会合。約700人のマネジメントオーナーを前にした講演を最前列の端で聞いていた玉塚は不覚にも、この日の柳井の話をまったく覚えていない。
「皆さん、玉塚君をどうかよろしくお願いします」
そう言って柳井が頭を下げた時に、涙腺が決壊してしまったからだ。
現在はロッテホールディングス社長に転じ、日本を代表する「プロ経営者」に名を連ねる玉塚。その原点について、こう語る。
「ユニクロを飛び出した時には『あのオヤジを超えてみせる』なんて言っていたかもしれません。でも、まだまだ俺は青いなと思わされる。今思えば、ユニクロでの経験もすべてがつながっている。柳井さんは商売の師ですから」
杉本貴司著/日本経済新聞出版/2090円(税込み)